12月 |
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1804年12月2日、ナポレオンはピオ七世を招いてノートルダム寺院で戴冠式を行った。本来、帝冠は法王が授けることになっていた。だが、ナポレオンは法王が手を出さぬうちに素早く祭壇の上の帝冠を取って、自らの頭上に置いた。 |
モントゴメリ−のバス・ボイコット事件 =1955年、アメリカ= |
1955年のこの日、アラバマ州モントゴメリ−の市内バスのなかで、ロ−ザ・パ−クスという名前の勤め帰りのひとりの黒人縫女工が、運転手から白人の乗客のために席をゆずるように命令されたのに対し、「ノ−」と答えてこれを拒絶したとき、今日の黒人解放運動は開始されたといえる。 このときに端を発し、その後あらゆる暴力と挑発に耐え抜いた約1年にわたる困難な戦いの末に、翌年12月20日、ついに合衆国最高裁判所にバスの中での人種隔離は違憲であるとの判決を出させた。この輝かしい勝利を勝ち取ることに成功した黒人差別撤廃闘争は、戦いの指導者 マ−ティン・キング牧師の名前とともに、モントゴメリ−のバス・ボイコット事件として余りに有名である。 この事件からその後の黒人解放運動が始まると言えるのは、それがこのような輝かしい成功を収めたというそれだけの理由ではなく、この戦いを通じて、そこからその後の解放運動に一つの特徴的な新しい型が生み出されることになったからである。 ⇒8月28日 《アメリカ黒人の歴史》
戦局悪化し、第一回学徒兵入隊、1943年 |
○映画の日 |
BC202年
垓下の戦い。楚の項羽が漢軍に包囲される。敵の陣営から楚の国の歌が聞こえた為に絶望し自決(「四面楚歌」の故事) |
ナポレオンの戴冠式 =1804年、フランス= |
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パリに返ったナポレオンは、急速に独裁への道を急ぎ始める。不安定な革命後の政情を強力な英雄が安定させてくれることへの国民の希望も強かったのであろう。 1804年12月2日、彼は法王ピオ七世を招いてノートルダム寺院で戴冠式を行った。本来、帝冠は法王が授けることになっていた。だがナポレオンは法王が手を出さぬうちに素早く祭壇の上の帝冠を取って、自らの頭上に置いた。法王の祝福は受けるが、彼の手から帝冠を授けてもらうつもりはなかったのである。帝冠は彼が実力で獲得したものなのだ。ジョセフィーンの王冠はナポレオンが授けた。 ダビッドが不朽の名画に残したように、彼女はひざまずき両手を合わせて慎ましやかにこの王冠を受けた。ダビッドの絵は戴冠式の実況とは大分違っている。画中、法王が正面に端座しているが、本当はうしろにいてよく見えなかった。母のレチツィアの姿も見えるが、彼女は戴冠式の式次第に立腹して出席を拒否したのだから、これはダビッドが付け加えたものである。 ナポレオンはフランスが帝政を選べば欧州の君主国とも交際し易くなるだろうと考えた。だが オーストリアもイギリスも、全く違う反応を示した。もっと深刻に失望したのはベートーベンである。帝政宣言を読むと怒りに震える手で、第三シンフォニー『英雄』の第一ページを引き裂いた。革命の英雄ナポレオンに対する献辞を破り捨てた。自由の精神を体現するはずの英雄は、帝冠を戴くことによって輝かしい理想を裏切ったのだ。 ⇒10月21日 《私の添乗手帳》
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アウステルリッツの勝利 =1805年、チェコ= |
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戴冠式の翌年からふたたび中部ヨーロッパへ進撃を開始したナポレオンの『大陸軍』は、10月にウルムのオ−ストリア軍5万を降伏させ、11月にウィーンに入城。そして12月2日、フランス、オ−ストリア、ロシアの3皇帝がアウルテルリッツであいまみえた。当時名もないその西方の原野が歴史の檜舞台となったのだ。最大の勝利をあげたナポレオンは満足げにこう語る。 「兵よ!余は諸君に満足する。余の人民は諸君を歓呼をもって迎えるであろう。そして諸君がただ一言、『わたしはアウステルリッツの会戦に加わった』というだけで、『おお、勇士がここに!』と彼等は応えるであろう」。 翌1806年に着工されたカル−ゼルの凱旋門の壁面をこの会戦の絵が飾り、ヴァンド−ム広場にそびえる記念柱は、戦利品の大砲1,200門の砲身を鋳つぶして作ったものなのだ。 《ヨーロッパ歴史の旅》 |
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○原子炉の日 ○日本人宇宙飛行記念日 |
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1804年
ナポレオンの戴冠式がノートルダム寺院で行われ皇帝に即位 |
フランシスコ・ザビエル没 =1552年、中国= |
この日、スペインのイエズス会宣教師で、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが、広東沖で熱病のため没した。46歳だった。 ナバラ王国の名門貴族の生まれでバスク人の血をひくザビエルは、パリ大学で哲学を学び、そこでイグナティウス・デ・ロヨラに出会い、イエズス会創設に参加。1541年に彼はインドに派遣され、セイロン、マラッカ、マルク諸島などで布教活動を行い49年には日本開教をはたした。 さらに彼は、東洋文化の中心である中国への布教の必要性を痛感。1551年に豊後(現大分県)を立ち、いったんゴアに帰着後、中国へ向かった。その途中、まさに中国上陸を目前にしての無念の死だった。 ⇒10月27日 《クロニック世界全史》P443 |
1637年
島原の乱で島原・天草の一揆勢が原城に蘢城 |
ナポレオンがマドリ−ドを占領 =1808年、スペイン= |
ナポレオンは全ヨーロッパの支配者となった。兄弟や身内を各国の王位につけ、大陸封鎖令を出してイギリスの締め出しを計った。ポルトガルがイギリスに頼ろうとするのを嫌って、イベリア半島に出兵した彼は、スペインの激しい抵抗にあって手を焼く。マドリードの市民はプエルタデルソルにて反抗した。この模様を描いたゴヤの『5月2日』『5月3日』の2枚の名画はプラド美術館に所蔵されている。これらの絵は、当時のスペイン人民のナポレオンへの怒りを雄弁に語っている。 《私の歴史メモ》 スペイン国民は侵略者に対する怒りを全国で爆発させ、各地方は一斉に武器をとって立ち上がり、ゲリラ戦を開始した。『ゲリラ』とは『小戦争』という意味のスペイン語で、この言葉のように民衆はフランス軍を至る所で何年間も苦しめ続けた。 後年、ナポレオンは「スペインの潰瘍が私を破壊した」と言っているが、この言葉どおりスペインの反抗が、やがてナポレオンを没落させる第一歩となった。⇒12月15日 《世界史こぼれ話》
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○E.T.の日 □聖バルバラの日 |
1159年
平清盛が熊野に参詣。留守中に源義朝らが挙兵を計画 |
モ−ツァルト没 =1791年、ウィーン= |
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この年の9月下旬、オペラ『魔笛』の初演が終わると、モ−ツァルトは本格的に『レクイエム』の作曲にとりかかった。しかし身体の衰弱が激しくて作曲は一向にはかどらず、11月に入ると、もはや起きて仕事を続けることすらできなくなった。自分の死が遠くないことを予感したモーツァルトは、妻のコンスタンツェに向かって、ときどきこう言ったという。「この曲はね、僕自身のために書いているんだよ」。 死の前日の12月4日の午後、弟子のジュッスマイヤ−を枕元に呼びよせた。この先をどのようにして書いていくかの指示を与え、それから数時間後の翌5日、午前0時55分、ついに神に召された。モーツァルトが死の直前に口ずさんでいたのは、この『レクイエム』の中のティンパニのパートだったという。 モーツァルトの死後、イタリア語で書かれた宛先不明の手紙が発見された。 「わたしはもう頭が混乱し、気力も尽き果ててしまいました。例の見知らぬ男の姿が目の前にちらついて、どうしても追い払えないのです。その男は絶えずわたしの前に現れ、まだかまだかと 催促し、懇願し、そして責めたてます。・・・・・ときどき、わたしは、ふと、もう自分の一生を弔う鐘が鳴っていると思うことがあります。わたしはすでに息も絶え絶えといったところです。・・・・これは、 わたしの葬送の歌となるでしょうが、なんとしてでも完成させたいと思っています」。 『レクイエム』は、『死者のためのミサ曲』ともいわれているように、亡くなった人の安息を祈るカトリック教会の儀式の際の音楽であるから、古来多くの作曲家が『レクイエム』を作曲している。その中で、モーツァルト、ケルビ−ニ、ベルリオ−ズ、ヴェルディ−、そしてフォ−レの作曲したものが特に有名で、俗に『五大レクイエム』と称されているが、実際に最も演奏されることの多いのが、このモーツァルトの曲である。 モーツァルトを弟のようにかわいがり、その才能を高く買っていたハイドンが1809年にウィーンで世を去った時、その葬儀の際にこの曲が演奏されたほか、ショパンの葬儀の際にも、この曲が演奏されたことは良く知られている。 ⇒10月13日§ 《クラシック名曲ものがたり集成》
プロ野球セントラルリーグ結成、1949年 |
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○バミューダトライアングルの日 |
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603年
聖徳太子が冠位十二階の制度を制定 |
米、原子爆弾の開発を決定 =1941年、アメリカ= |
この日、アメリカ政府は原子力研究を強力に推進する時がきたと判断し、計画と機構を拡充強化することを決めた。ハ−バ−ド大学総長ジェ−ムズ・B・コナント博士は、この日二つの重大な決定を発表した。その一つは総動員によって、あらゆる努力を結集すればいまの大戦中に原子爆弾完成の可能性はある、ということであり、もう一つは、そのために大規模な研究開発の機関が作られねばならない、とするものであった。 シカゴ大学治金研究所長ア−サ−・H・コンプトン博士は、この日のことをこう書いている。「12月6日、われわれの何人かが、ワシントンに呼ばれた。そしてウラニウム235をいかにして分離し、原爆をどのようにして作るかという研究にできる限りの力を注ぎ込むよう、大統領から訓令を受けた。会議の後で、コナントとブッシュと昼食をともにしたとき、私は核の連鎖反応によりプルトニウムを生み出すことができ、それは同位元素ウラニウムを分離するよりも、爆弾製造のためにはより早くより安いかもしれないと説明した。私達はそれにともなう途方もない多くの困難について話し合った。にもかかわらず、決して不可能ではないという点で意見の一致をみた。こうして連鎖反応をおこさせるためには物理学者、さらにプルトニウムを抽出する方法を研究する科学者、この両者の協力を一ヶ所に集めるべく私は一任された」。 アメリカでは、科学と産業と軍事は一丸となって前進しはじめた。海のものとも山のものとも分からぬものに、莫大な金と知能と人力を賭ける一大決定であったかもしれない。しかし、結果的にみて、決して早過ぎる決定ではなかったことを、歴史は直ちに証明するのである。 この翌日、日本は海軍機350機によって真珠湾を攻撃したのである。太平洋艦隊は一瞬にして壊滅し、新しい局面がアメリカに生まれた。全面的に原爆製造に乗り出した翌日、やがて地球上唯一の原爆被災国となる日本帝国が攻撃されたことは、何という歴史の皮肉であろうか。 ⇒9月18日 《原爆が落とされた日》 |
○シンフォニー記念日 □ミラの聖ニコラウスの祝日 |
1877年
エジソンが蓄音機の試作機を完成 |
貧乏人は麦を食え発言 =1950年、日本= |
昭和25年のこの日、参院法務委員会で、池田勇人蔵相は労農党の論客、木村禧八郎の質問に答えた中で、「日本人は皆同じものを食べているが、古来の習慣に戻って所得の多いものは 米本位、所得の少ないものは麦本位というように致したい」と述べた。この発言について「金がなければ安いものを食べればよい、という経済の初歩を述べただけ」という好意的解釈もあったが、マスコミによって『貧乏人は麦を食え』という形で大きく報道され、ごうごうたる非難を浴びることになる。 《戦後史開封》 |
☆大雪[たいせつ] ○神戸開港記念日 ○クリスマスツリーの日 |
1867年
神戸港が外国船に向けて開港 |
日本軍、真珠湾を奇襲攻撃 =1941年、日本= |
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第二次大戦は、一般にドイツのポーランド侵入が行われた1939年9月に開始されたとされている。ところがアジアでは、1931年の満州事変以来、日中間の戦争が続けられており、1937年からは日中間の全面戦争が展開されていた。 日本は1941年12月8日未明、真珠湾奇襲攻撃をもってアメリカ・イギリスに宣戦し、ここに太平洋戦争が開始された。ドイツ・イタリアも三国同盟によってアメリカに宣戦した。日本軍は、マニラ・シンガポールを占領し、インドシナ・ビルマなどに戦線を拡大して、しばらくの間優勢を維持した。また、これによって、それまで地域の違う別々の戦争として戦われてきた日中戦争とヨーロッパの戦争とが、直接関連を持つようになり、第二次世界大戦は文字通り世界的な規模に拡大した。 《世界の歴史がわかる本》 それは無謀な戦争決意であった。人的、物的な国力からいって、全世界を相手に日本が長期戦を戦いうるはずはなかった。外交交渉を打ち切り戦いをすべきか否かは、およそ均衡のとれた常識がありさえすれば明らかであった。にもかかわらず、常識を無視し、現実に目をつむったところで、日本の政治家・軍部は戦いを始めることを決意したのである。それはドイツの勝利をあてにした上での空しい決断にすぎなかった。しかも、日本のそのときの時代感情というものが思い切った戦端を欲した向きがないでもない。軍も政府も、何か見えない力に引きずられた。あるいはそれが歴史というものなのかもしれない。 《原爆が落とされた日》
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ジョン・レノン、暗殺 =1980年、米国= |
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運命の日、12月8日の夕刻、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組のインタビューを受ける。この最期のインタビューで、レノンは、「死ぬならヨーコより先に死にたい」、「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている。 22時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンが自宅アパート、ダコタ・ハウスの前に到着した。2人が車から降りた時、その場に待ち構えていたチャップマンは暗闇から「レノン?」と呼び止めると同時にリボルバーを両手で構え5発を発射。4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、彼は「撃たれた!(I'm shot!)」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。 警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。警官の到着時にレノンはまだ意識があったが、既に大量出血し、一刻を争う危険な状態であった。2人の警官は彼をパトカーの後部に乗せ、近くのルーズベルト病院に搬送した。1人の警官が瀕死に陥っていたレノンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で、自分がジョン・レノンであること、背中が痛いことを訴えたというが、彼の声は次第に弱まっていった。 病院到着後、医師は心臓マッサージと輸血を行ったが、レノンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズベルト病院で23時過ぎに死亡した。伝えられるところによれば、レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったという。 ジョン・レノン |
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○対米英開戦記念日(太平洋戦争開戦記念日) |
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1934年
日米間の無線電話が開通。翌日から営業開始 |
夏目漱石没 =1916年、日本= |
1916年のこの日、夏目漱石は静養先の伊豆修禅寺において49歳の生涯を閉じた。8月24日の夕方、胃潰瘍による大出血をおこして以来、未完の大作といわれた『明暗』を朝日新聞に連載中のことである。葬儀は三日後の12日、青山斎場で行われた。新聞では葬儀の日時を誤って報道したにもかかわらず、千名を越える会葬者によって、会場は溢れんばかりであったという。 夏目漱石は東大文学部を卒業し、英語教師となり、四国松山中学に赴任した時のことをもとに小説『坊ちゃん』を書いている。イギリスに留学後、東大の英語講師をするかたわら文学の創作活動に熱中した。後に朝日新聞社に入社し、ここでも、『三四郎』『それから』『門』といった話題作を同紙に連載し、新聞小説を定着させた。 《歴史に選ばれた366日》 |
1867年
倒幕派によって朝廷から「王政復古の大号令」が発せられる。新政府が発足 |
ルターの焚書事件 =1520年、ドイツ= |
1520年、教皇レオ十世は、60日以内にルターが自説を撤回しなければ破門する、という威嚇状=教皇告書を発表した。この年も暮れようとする12月10日の朝、教授・学生・市民達がウィッテンベルク市東門の外側に薪に火を付けて、教会法規集やエックの著書などを次々に火の中に投げ込んだ。最後にルターがガウンの下から教皇告書の写しを取り出して、焼き捨てた。この事件のニュースはすばやく各地に伝わり、全ドイツが反ローマ熱で湧き立った。 カール五世は、皇帝になったばかりでこの騒然たる情勢に出会い狼狽した。大小300余りの国がばらばらなドイツを支配していくためには、ローマ教皇としっかり手を結ばなければならない。そう判断したカールは、1521年1月、ライン川沿いの古都ウォルムスで開いた帝国議会に、ルターを呼び出し、主張を撤回させようとした。 ⇒1月27日 《世界史への旅》 |
◇ノーベル賞授賞式 |
1520年
破門状焼却事件。ルターが教会からの破門状などを焼く |
『モナ・リザ』四百年ぶりにイタリアに帰郷 =1913年、イタリア= |
『モナ・リザ』盗難事件の首謀者は、アルゼンチンの詐欺師マルケス・ヴァルフィエルノであった。彼の狙いは実物の『モナ・リザ』にはなく、かねて用意の何点も『モナ・リザ』の贋作をル−ヴルよりの盗品と称して秘密裡に売りさばくことにあった。 実際に『モナ・リザ』を盗み出した哀れなペル−ジアは、自分が利用されたことも知らず、その後2年にわたって、貧乏暮らしのなかでヴァルフィエルノの連絡を待ち続ける。しかし、いくら待ってもヴァルフィエルノから連絡のないことにしびれを切らしたペル−ジアはついに『モナ・リザ』の処分を決意した。ペル−ジアのぼろトランクの底に隠されて、列車で国境を越えた『モナ・リザ』は、じつに400年ぶりにイタリアに帰郷することになった。 1913年12月11日、ウフィッツィ美術館館長ジョヴァンニ・ポッジとフィレンツェの画商アルフレッド・ジュリはペル−ジアの滞在する安宿『トリポリ・イタリア』の一室で、トランクのなかから、まさかと思った『モナ・リザ』が取り出されるのを目の当りにする。あまりの衝撃に二人は、しばし口もきけなかったという。そんな二人を見るペル−ジアは、あたかもその絵の作者のごとく満足げに微笑んでいたという。 この時、討議された報酬の額は10万ドルといわれる。が、公共の美術館が、盗品の買い入れに応じるはずはなく、鑑定のためにと『モナ・リザ』を無事預かった時点で、ポッジ館長が警察に通報。ペル−ジアは逮捕され、『モナ・リザ』発見の大ニュースが全世界に打電される。こうして、パリを絶望させた『モナ・リザ』の盗難劇は、フィレンツェを熱狂させる『モナ・リザ』帰還のニュースで、その幕を閉じたのである。 ウフィッツィ美術館はル−ヴル美術館に『モナ・リザ』の無事を報告し、返還を申し出ると同時に、イタリア国内での公開の許可を求め、快諾を得る。フィレンツェに帰還した『モナ・リザ』の公開は1913年12月14日。午前9時から午後1時までの間に三万人の群集がウフィッツィに押し寄せた。 ⇒8月21日§ 《2時間のモナ・リザ》
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1941年 日本軍がグアム島を占領 |
無敵のドイツ軍、モスクワを目前に敗退 =1941年、モスクワ= |
10月末にモスクワへ数十キロの地点にまで達したドイツ軍にソ連のモスクワ防衛軍はこの月5日朝、反撃を開始。そしてついにこの日、撃退に成功した。ドイツ軍の侵略の手が差し迫る。10月14日、スターリンは非戦闘員の疎開を決定、これをきっかけにモスクワはパニックに陥った。しかし、ラジオ放送はスターリンがモスクワに留まっていることを告げ、「モスクワを守るため、われわれは頑強に、粘り強く血の最後の一滴まで闘うだろう」と、あくまでも首都を防衛することを市民に訴えた。 シベリアから到着した精鋭の救援部隊を中心としたソ連軍は、急遽レニングラード(現サンクト・ペテルブルク)から呼び戻されたゲオルギ−・ジュ−コフ参謀総長の指揮下に作戦を展開。ロシアの厳しい冬に対する準備もなく攻撃を繰り返し、疲れ切っていたドイツ軍は、戦車も火砲も捨て、距離にして100〜300キロも撤退したのである。このモスクワ攻防戦は、これまで無敵を誇ってきたドイツ軍の最初の大敗北となる。 《クロニック世界全史》P1013 |
1568年
武田信玄が駿府の今川氏眞を攻撃 |
カスティーリャ女王イサベル一世、戴冠式 =1474年、スペイン= |
12月13日早朝、喪を意味する純白の衣に身を包んだイサベルは、兄の霊に祈りを捧げた後、セゴービア城の門を出た。いよいよこれから、カスティーリャ女王イサベル一世の戴冠式が始まるのである。威厳のある美しさ、中肉中背、金髪で色白、青緑の瞳、快活できびきびした動き、整った目鼻立ち、そして暖かみのある堂々たる雰囲気を備えた女王は、時に23歳7ヵ月と20日であった。 イサベルが王座に着くと同時に、それまで押し殺していた興奮を一時に爆発させた人々の歓声が広場を埋めつくした。城とライオンをかたちどったカスティーリャ・レオン王国の旗が澄み切った大空にひるかえり、セゴービア中の鐘という鐘が高らかに打ち鳴らされた。 後の歴史家達は、この日をスペイン近代史の始まりの日とする。長かった中世はここで終わりを告げたのである。王の去就をも左右する程の権力と富とを抱えた中世の大貴族は、一人としてこの戴冠式に参列しなかった。街の代表と小貴族の手による簡素な戴冠式は新しい時代の到来を象徴していた。 ⇒1月2日 《イサベルの栄光と悲劇》 |
◇正月事始め,煤払い,松迎え □聖ルチアの日 |
1577年
イギリスの軍人ドレークが艦隊を率いて世界周航に出発。1580年に帰着しイギリス人として初の世界就航者に |
アムンゼン南極点に一番乗り =1911年、南極= |
この日、ノルウェ−の探検家ロアロド・アムンゼンが4人の隊員とともに前人未到の南極点に到達、ノルウェ−国旗を掲げた。さる10月20日、アムンゼンの一行は南緯79度付近のホエ−ル湾に設営された基地を出発。以来、猛烈な吹雪や凍傷など幾多の困難を克服して、出発から二ヶ月足らずでこの快挙を成し遂げた。 一方、10月31日にロス島基地を出発し、アムンゼン隊とは別のルートで南極点一番乗りをめざしていたイギリス人、ロバ−ト・スコットが隊員4人とともに極点に立つのは、アムンゼン隊から 約一ヶ月後の翌年1月17日のことである。彼はそこに翻るノルウェ−国旗を見て、無念の思いを噛み締める。アムンゼン隊は年が明けた1月25日、無事に基地に帰還するが、スコット隊は帰途で猛吹雪に遭遇。基地を目前にして全員死亡という悲劇的な結末を迎えた。 《クロニック世界全史》P929 |
○四十七士討ち入りの日,忠臣蔵の日 ○南極の日 |
1171年 平清盛の子・徳子(後の建礼門院)が後白河法皇の養女として入内。翌年2月、高倉天皇の中宮に |
ナポレオン、ジョセフィ−ヌと離婚 =1809年、フランス= |
ナポレオンは、子供に恵まれない原因を、自分自身にあると考えていた。だからポーランドの人妻マリア・ヴァレフスカがナポレオンの子供を宿したとき、離婚して新しい皇后を迎えるという案は、にわかに現実のものとなった。「離婚」を告げられたとき、ジョセフィ−ヌは失神したと伝えられる。この日、ポナパルト家の一族が集まり、二人の離婚が正式に決まった。だが運命を知る人々のあいだでは、ナポレオンの今日の隆盛をつくったのが、ジョセフィ−ヌとの相性のよさだと噂された。自らの『幸運の女神』を手離す愚挙との声も一部にあった。 ナポレオンとオ−ストリア皇女マリア・ルイゼの結婚は、1810年2月7日に発表された。そして4月2日、二人の結婚式はル−ヴル宮殿で行われた。ナポレオンは満足している。だが不吉なジンクスも存在していた。つまりオーストリアがフランスの依頼で皇族を出すと不幸な結果を生じるというものだ。すでにフランス大革命のマリ−・アントワネットが、コンコルド広場で処刑されていた。果たして、このマリア・ルイゼはナポレオンの没落の引金となる。そんな運命を知らず、ナポレオンは17歳という新婦に没頭した。やがて1811年3月20日、パリの空に101発の砲声が響いた。それが皇太子誕生を告げる合図だった。生まれながらに『ローマ王』の称号を持つ皇太子である。人々はフランスがこれで安泰だと考えた。 《ナポレオンの戦場》 |
ディズニー死去 =1966年、アメリカ= |
この日、ミッキー・マウスやドナルド・ダックなど数々のアニメーション映画の製作で知られるウォルト・ディズニ−が、悪性腫瘍のため死去した。65歳だった。 彼は、22歳のときにアニメーション製作会社を設立したが失敗。だが、1928年に初のト−キ−・アニメ−ション映画『蒸気船ウィリ−』で再起。37年には世界初の長編カラ−アニメーション映画『白雪姫』を完成させ、大当りをとった。 第二次世界大戦後も『シンデレラ』などのアニメーション映画を初め、劇映画『宝島』やSF映画『海底二万マイル』など多くの名作を世に送り出した。まさにアメリカン・ドリ−ムの体現者の一人だった。 《クロニック 世界全史》P1069 |
1793年
革命軍がツーロンの反革命蜂起を攻撃し占領。砲兵中尉ナポレオン・ボナパルトが参加 |
ル−ドヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン生誕 =1770年、ドイツ= |
1770年の今日、ベートーベンはボンに生まれた。ベートーベンの少年時代がどんなに物悲しいものであったにせよ、彼は常にその少年時代に対して、また、少年時代を過ごした場所に対して、優しいメランコリックな思い出を抱いていた。ボンを離れてほとんどその全生涯をウィーンで暮らした彼は決して父なるラインを忘れたことはなかった。この土地に対して、彼の心は永久に愛情を持ち続けた。生涯 の最後の日まで彼は、ついに帰ることのできなかったこの地を再び見ることを夢見ていた。 「僕の故郷、僕がこの世の光を初めて見た美しい国、それは僕がそこを去った時と同じように、いつも僕の目の前に美しくはっきり見える」。 《私の添乗手帳》 富士山噴火、1033年 |
1689年
イギリスで「権利章典」制定 |
コロンブスの弁明 =1500年、スペイン= |
アルハンブラは、711年から約8世紀のあいだ、ほとんどスペイン全土を支配した回教徒モ−ロ人の手になる絢爛豪華な城と宮殿だ。大小さまざまの庭には池と噴水と花壇が設けられ、糸杉・しゅろ・オレンジなどの樹木が並び、巧みに利用された豊富な水が、あるいは宮殿の魅力的な姿を映し、あるいは色とりどりの草花のなかで美しいメロディーを奏でている。 アラビア風のアーチと大理石の円柱、彩色タイルの輝きと透かし模様の精緻をきわめた細工。それらで飾られた回廊と通路と扉の連続。『アルハンブラ物語』の作者で知られるア−ヴィングの言うように、この夢のような一風変わった魅力は、「人間を幻想の世界へ誘い込んで、遠い過去のなかに息付いていると思わせる不思議な力」であろう。 宮殿の中央に広がる『池の中庭』の北に、22メートルのドームをいただいたコマレスの塔が聳えている。その内部にある『大使の広間』は、当時謁見の間として使用されていた。第三回の航海で監査官により逮捕され、鉄鎖につながれたまま帰国したコロンブスが、1500年12月17日、両王の面前で涙ながらに弁明した場所がここなのだ。 ⇒8月3日§ 《ヨーロッパ歴史の旅》 |
○飛行機の日 |
1892年
マリインスキー劇場でバレエ『くるみ割り人形』の初演 |
ナポレオン軍の消滅 =1812年、フランス= |
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1812年のこの日、ニェ−メン河を渡り切り、やっと悪夢のようなロシアの地を離れることができたナポレオンは、パリに帰還した。思えば47万の大遠征軍が華々しく国境を越えて出撃したのは、わずか半年前のことである。45万の人間は一体どこへ消えてしまったのであろうか。 冷たい雪があらゆる悲嘆と痛恨を埋め尽くして、1812年は過ぎ去った。モスクワから歩み出したナポレオンの破滅の道は、どこまでも続いてゆく。 「余は、何か、抗し難い力に押されて、未知の目標に向かってゆく。目標に達しない間こそ無敵ではあろうが、ひとたび余が無用となれば、蟻1匹にでも倒されてしまうだろう」と自分自身について語った時、1812年を境に歴史の坂道を果てしなく転がり落ちてゆく己の運命を暗示したもかも知れない。⇒6月26日 《1812年の雪》
マリー・ルイズ没、1847年 |
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1874年
東京の京橋〜銀座〜芝金杉橋の街路の両側に85基のガス燈が点火 |
トゥ−ロンの勝利 =1793年、フランス= |
イギリス軍と王党派の手中にあったトゥ−ロンをフランス共和国が奪回した。トゥ−ロンは、フランスにとって重要な軍港だったが、1793年7月、共和国に反旗を翻し、王党派が支配下に置いた。8月末、王党派がトゥ−ロンをイギリス・スペイン連合艦隊に引き渡したため、奪回のために フランス共和国が派遣され、港湾の砲撃作戦が展開された。 この時目覚ましい働きを見せたのが、若き陸軍大尉ナポレオン・ボナパルトである。ナポレオンは精密に地形を調査し、トゥ−ロン港を見下ろすエギレット岬を占領して、そこから港湾を砲撃する作戦を立てた。この作戦はしばらく実施されなかったが、司令官の交替にともなってナポレオンが副官に任命されると、実行に移された。ナポレオンが戦闘を指揮し、12月19日、敵艦隊に大損害を与えて、撃退に成功する。コルシカ生まれのナポレオンは無名の一将校であったが、トゥ−ロン奪回で初めて軍事的才能を認められ、1794年春にはイタリア遠征軍砲兵司令官に任命される。 ⇒3月9日 《クロニック世界全史》P669 |
1586年
関白秀吉が太政大臣に任ぜられ、朝廷から豊臣姓を賜る |
ロ−ドス島の攻略 =1522年、地中海= |
イスラム教徒に敵対して海賊行為を行っていたキリスト教徒のヨハネ騎士団が、オスマン朝による6ヶ月の包囲攻撃の末、根拠地のロ−ドス島を明け渡した。ロ−ドス島は地中海の海上路の 要衝で、オスマン朝のアナトリアの西南端に近接しているため、スレイマン一世はみずから兵を率いてこの島の攻略に乗り出した。そして、ついにこの日、ヨハネ騎士団が降伏勧告を受け入れ、安全を保証されたうえでロ−ドス島を退去したのである。 この後、ロ−ドス島がアナトリア州の一県に編入されることにより、首都イスタンブ−ルをはさんで黒海と地中海が結ばれ、さらに遠く紅海・インド洋にもつながる海上交易路の安全が確保されるようになり、イスタンブールには世界各地の産物が集中し繁栄をきわめる。一方、ヨハネ騎士団は1530年にマルタ島を新根拠地とし、65年に再びスレイマン一世と対決する。 《クロニック世界全史》P412 米、ルイジアナをフランスから僅か1,500万ドルで購入、1803年 |
○デパート開業の日 ○シーラカンスの日 |
1546年
足利義輝が室町幕府13代将軍に就任 |
ソ連邦の消滅 =1991年、ロシア= |
この日午前6時、モスクワのテレビは、ゴルバチョフ大統領が病気のためヤナ−エフ副大統領が職務を代行し、あわせて国家非常事態委員会が設置されたことを伝えた。世界を釘付けにした『8月クーデター』の発生であるエリツィンらロシア共和国首脳は、この事態を不法なク−デタ−と宣言し国民に決起を呼びかける。 クーデターは事実上失敗し、ゴルバチョフも軟禁状態を解かれモスクワに帰還する。エリツィンはロシア共和国内での共産党の活動を禁止すると発表。24日、ゴルバチョフは書記長を辞任し、ソ連共産党は解散の時を迎えたのである。同日、ウクライナも独立を宣言。12月21日、バルト三国とグルジアを除く11共和国首脳がカザフスタンのアルマ・アタで独立国家共同体(CIS)の創設を宣言。連邦存続の道を断たれたゴルバチョフは25日に大統領を辞任する。ソ連邦69年の歴史はここに幕を閉じた。 《クロニック世界全史P1129》 |
934年
紀貫之が土佐国守の任務を終え都へ向かう。『土左日記(土佐日記)』を起筆 |
ベートーベンの『運命』『田園』の二大交響曲初演 =1808年、ウィーン= |
今日ではあまりにポピュラーな『運命』は、種々の側面で交響曲史上に画期的異彩を放っている。楽器編成ひとつを見ても、管楽部にピッコロ、コントラファゴット、トロンボ−ンを加えた初めての作品となっている。また、まったく旋律的でないソナタ主題を設定し、それを徹底的に統一素材として、楽章を貫いて使用するなどは従来のどの作品にも見られなかった新しい展開技法であった。 1808年のこの日、この『運命』『田園』の二大交響曲の初演を含む大演奏会が開かれたのは ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場でのことである。本来この劇場は舞台作品上演のために建てられていた。事実、1805年11月にナポレオン占領下で失敗に終わった『レオノ−レ』初演もこの会場で行われた。しかし、やがて慈善や福祉を目的とするコンサートでも使われるようになり、有能な音楽家の自主公演にも解放されるようになった。 1805年といい、1808年といい、ベートーベンにとっての重要な作品の初演がいずれも、それぞれ理由があったとはいえ失敗しているのは、何か因縁的だ。 《ベ−ト−ヴェン》 |
☆冬至[とうじ](Winter solstice) |
1216年
教皇ホノリウス3世がドミニコ修道会を承認 |
東京タワー完工式 =1958年、日本= |
昭和33年12月の今日、東京・芝公園に東京タワーが完成、完工式が行われた。タワーは本体が高さ257メートル、アンテナを含めると約333メートルとなり、パリのエッフェル塔の317メートルを抜き、当時としては世界一のノッポ塔となった。内藤多仲氏の設計で、32年6月に着工。総工費 28億円。使われた鋼材は4千トン近くに上った。 東京地区の電波発信中継基地として、本格的なテレビ時代の到来を前にテレビの電波のほか、パトカ−など官庁用電波にも利用されており、東京名所のひとつとなっている。 《戦後史開封》 |
◎天皇誕生日(Emperor's Birthday) ○東京タワー完成の日 |
1613年
江戸幕府2代将軍徳川秀忠が2回目の「キリシタン禁令」を全国に布告 |
エリザベト誕生 =1837年、ドイツ= |
バイエルン公爵マクシミリアンのお気に入りの子供は第三子、つまり、次女のエリザベトである。彼女がミュンヘンで誕生したのは、1837年12月24日、日曜日、クリスマス・イブのことであった。 そのころ、ミュンヘンの町はエリザベトの叔父にあたるバイエルン王ル−ドヴィヒ一世の指示で、あちこちで大がかりな建築工事が行われていた。 ル−ドヴィヒ一世は、この町を流れるイザ−ル川に名を取って『イザ−ルのアテネ』を建設したいとも考えてえた。新古典様式のミュンヘンの町はこうして地中海文明への賛歌となり、町は壮大な模型博物館と化した。エリザベトが生まれたル−ドヴィヒ街は、ル−ドヴィヒ一世が、即位以前の1816年に自分の名を付けて建設した街路である。 ⇒4月24日 《麗しの皇妃エリザベト》
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□クリスマス・イヴ |
1777年
イギリスの探検家クックが太平洋の小島に到着。クリスマス島と命名 |
ウィーンの首都改造開始 =1857年、ウィーン= |
当時、ヨーロッパ諸国の首都では、パリの町を大きく変えたセーヌ県知事オスマンの話題で持ちきりだった。第二帝政下のパリは魅力的な都として変貌しつつあった。 1857年12月25日金曜日、オーストリア皇帝フランツ・ヨ−ゼフは、壮大な首都改造計画の勅令に署名した。彼は「ナポレオン三世に遅れを取ってはならない、帝国の首都にふさわしい外観と規模が必要だ」と考えた。 彼はさらに、城壁外の地区の整備計画の懸賞募集を発表した。この地区にリンク(環状道路)を建設し、道路沿いに劇場、市庁舎、議事堂、美術館などを建てるという計画である。懸賞に当選したのは、クリスチャン・フォルスタ−であった。リンクはさまざまな建築様式を集めて、さながら建築史の教科書のような外観となった。 《麗しの皇妃エリザベト》 この頃、画家になりたくてウィーンにやってきた青年アドルフ・ヒットラーは、後に書いた『わが闘争』の中で、リングシュトラ−セの美しさを称賛している。 「私は国立美術史博物館の絵画室を見に行ったのだが、目はほとんど美術館そのものだけに集中していた。毎日、朝早くから夜遅くまで名所を走り回ったが、私を引き付けるのはいつも建物ばかりであった。私は何時間もオペラ劇場の前に立ち、議事堂の建物に目を見張っていた。リングシュトラ−セは千一夜物語の魔法のように私に働きかけた」 ⇒5月25日 《エリザベ−ト》
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□クリスマス(キリスト降誕祭) ○昭和の日 ■アメリカの休日 |
800年
フランク王シャルルマーニュ(カール1世)がローマ皇帝として教皇レオ3世から戴冠される |
アメリカでビ−トルズのレコード発売 =1963年、アメリカ= |
ビ−トルズのレコードが、この日、アメリカで発売になった。ビ−トルズのアメリカにおける成功は、この時アメリカで何が起きていたのかということと無関係ではない。『ニュ−・フロンティア』の掛け声で、若く力強いアメリカを指し示した第35代大統領、ジョン・F・ケネディーは前月の11月22日に暗殺された。 すでにアメリカはロックの世界でも、エルヴィスの入隊やバディ・ホリイの飛行機による事故死、チャック・ベリイの入獄と、不幸な喪失を経験していた。また、ベビ−・ブ−ム世代を育てた甘い歌の歌手たちはすでに、思春期に達したファンの期待に応えられるアイドルではなくなり、物足りなくなっていた。 こうした大国の喪失感を埋めるためにやって来たのが、『地方出』のビ−トルズだった。 《ビ−トルズ》 |
1800年
伊能忠敬が蝦夷南東海岸と奥州街道の略測図を幕府に上呈。日本初の実測地図 |
聖ソフィア寺院の再建 =537年、トルコ= |
532年1月、真冬のコンスタンチノ−プルで『ニカの反乱』が起こった。反乱で官庁や教会が焼け落ちたのを機会に、コンスタンチヌスは、首都の大々的な改造にのりだした。なかでも壮大な建築事業となったのが、聖ソフィア聖堂の再建であった。 当時の第一級の建築家であるミレトスのイシドロスと、トラロスのアンティミオスとの設計に基づき、高さ55メ−トル、直径31メ−トルの巨大なドームをもつ聖堂の建築が、反乱鎮圧後まもなく着工された。まわりの民家は立ちのかされ、大理石など大量の石材が、アテネやローマ、さらにアジア・アフリカから集められた。 工事は5年と10ヶ月を費やしてほぼ完成した。537年12月27日、皇帝みずからが主催する献堂式が行われた。ド−ムの天井には、赤と黒と金を基調としたフレスコ画で描かれた主イエス・聖母・聖者・聖書物語などが、天空にある神の御座として、堂内を荘厳と神秘で包んだ。冬の弱い日差しが、ド−ムの明かり窓からこぼれていた。 コンスタンチヌス帝によって、コンスタンチノ−プルは、6世紀の世界では、ほかに比べるものがない世界の都となった。 《世界史への旅》
パスツール生誕、1822年 |
○ピーターパンの日 |
1831年
ダーウィンの乗った英海軍海洋測量艦ビーグル号が世界一周に出発 |
シネマグラフ上映 =1895年、パリ= |
この日、リュミエ−ル兄弟が、初のシネマトグラフをグラン・カフェの地下で上映した。 活動写真機は2年前すでに、ト−マス・エジソンが発明していた。これは、一人1台の覗きからくりだった。写真家だった兄弟はこれを発展させ、この年2月に、毎秒20コマの映像を投影できる シネマトグラフを完成、この日の一般公開となった。 世界最初の映画「列車の到着」は、駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる情景を湾ショットで撮った10分ほどの短編だったが、動く蒸気機関車が自分たちの方向に走ってくる映像に、当時の観客は驚愕し、悲鳴をあげる人や、逃げ回る人まで出たと言われている。 ギャグが織り込まれた『水をかけられた散水夫』や、カメラのアングルが効果的な『到着する列車』など、公開された作品は、活動写真を越える完成度で観客の心をとらえた。 《クロニック世界全史》P891 |
◇官公庁御用納め □チャイルドマス(無辜[むこ]嬰児殉教の日)(Childmas,Innocents'
Day) |
1065年
ウェストミンスター修道院が建設される |
イギリス、名誉革命 =1688年、イギリス= |
オランダ軍を率いイギリスに上陸していたオラニエ公ウィレムが、妻メアリとともにロンドンに入城し、無血の名誉革命に成功した。 イングランド王ジェ−ムス二世の娘で、1677年にオランダに嫁いだメアリは、男子のなかった ジェ−ムス二世の後継者とされていた。しかし、さる6月、ジェ−ムス二世のカトリックの王妃に男子が誕生すると、メアリの王位継承は危うくなり、旧教徒が次の国王になる可能性が強まった。 ジェ−ムス二世は1685年に即位して以来、大権を濫用し、親カトリック政策をとり、フランスに 同調するなど国民の支持を失っていた。そこへ後継者の男子誕生とあって、反国王・反カトリック感情はさらに高まった。これまで国王派だった議会勢力のト−リ−党も反対派のホイッグ党と和解し、この7月、ホイッグの指導者がオランダのウィレムに武力援助を求める招請状を出した。 ウィレムは、11月15日、約1万5千のオランダ軍を率いてイギリス南部に上陸。抵抗を受けずにロンドンに入り、名誉革命が達成された。以後、親密だった英仏両国は対立する関係となり、神聖ローマ皇帝も加えた反仏同盟が成立する。 《クロニック世界全史》P564 |
○清水トンネル貫通記念日 ○シャンソンの日 |
1891年
エジソンがラジオの特許を取得 |
文部省、六三三四教育制度を発表 =1946年、日本= |
戦後教育を象徴する六三制はこの日、文部省により発表され、翌、昭和22年4月1日に発足した。呼び名も国民学校から小学校に変わり、1万5千700余の新制中学校が生まれた。六三制を盛り込んだ学校教育法が公布されたのは、前日の3月31日。小・中・高校から大学まで、すべての人に進学の機会がひらかれた『単線型』という点でも画期的な改革だった。 《『日本を変えた日』読売新聞平成6年8月19日》 |
◇取引所大納会 |
1368年
足利義滿が室町幕府第3代将軍に就任 |
フランス国王シャルル八世がローマに入城 =1494年、ローマ= |
フランス国王シャルル八世が、4万の軍隊を連れローマに到着した。ナポリへ向かう途中の出来事である。あわてた教皇アレクサンデル六世はすぐに和約を結び、シャルルをローマから追い払うことにする。シャルルの遠征は、ミラノ公ロドヴィコ・イル・モ−ロの画策によるものである。 フランス王家よりミラノ公国の継承権を要求されていたロドヴィコは、鉾先をそらすためにナポリ王国の征服をそそのかしたのである。ナポリ王国は、かつてフランス王家の血をひくアンジュ−家が支配していたが、1442年にシチリア王アルフォンソ五世に征服されていた。シャルルは、アンジュ−家最後の王レナ−テが王位をフランス王家に譲渡したとし、王位継承を主張し、イタリアに侵入したのである。 ローマから南下したシャルルは、ナポリ王国を手に入れる。しかし、アレクサンデル六世を中心に、ヴェネツィア、ミラノ、スペインや神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世との間に同盟が成立し、翌年7月パヴィア近郊フォルノ−ヴォでの同盟軍との戦いに敗北し、フランスへ撤退することになる。 《クロニック世界全史》P386 |
◇大晦日[おおみそか],大晦[おおつごもり]
1年の終りの日。 |
1600年
イギリスのアジア進出の要となるイギリス東インド会社を設立。1858年に解散 |