10月 |
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レパント沖の海戦。
連合艦隊が視界に入ったとき、オスマン側はまだ錨を下ろしていた。 |
東海道新幹線開業 =1964年、日本= |
昭和39年のこの日、開業した東海道新幹線は鉄道の歴史を大きく塗り替え、国民の夢を乗せて鉄道高速時代の幕を開けた。その日は、新幹線の出発を祝うかのように晴れあがった。午前6時すぎ、新幹線の『生みの親』と言われる元国鉄技師長の島秀雄は、東京都品川区の自宅マンション6階から、数キロ先に延びる軌道に目を凝らした。アイボリ−ホワイトの車体が見えてきた時、指さしながら「ほら、走ったじゃないか」と妻豊子に胸を張った。当時、列車の最高速度は210キロ。200キロを超える未知のスピードに、「危険だ」「先頭車両には乗りたくない」などとささやいた世間に対する気持ちが、思わず「ほら」という言葉となって口をついた。 島は開業の前年、新幹線建設に伴う予算超過の責任を取る形で十河(そごう)総裁とともに国鉄を去った。開業日にはセレモニーに招待されなかった。「華やかな場に辞めた者が出ていくのもどうか」と思い、自宅から眺めることにしたのだった。 これから29年後の1993年3月には東京−大阪間で最高時速270キロの『のぞみ』がデビューした。 《戦後50年にっぽんの軌跡》読売新聞平成6年10月5日 |
○日本酒の日 ◇衣替え,衣更え,更衣 ▽国慶節 (中華人民共和国) ○赤い羽根共同募金運動 <10月1日〜12月31日> |
BC331年
ガウガメラの戦い。アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)とダレイオス3世がガウガメラの平原で激突。アレクサンドロスが勝利しペルシアの支配権を握る |
月2日
ダーウィン、南半球周航 =1836年、イギリス= |
イギリス海軍の測量船ビ−グル号が、南アメリカ、南太平洋諸島、オ−ストラリアなど南半球各地を巡る5年間の周航を終えてファルマス港に帰着した。同船には若き博物学者チャ−ルズ・ ダ−ウィンが乗船して数多くの貴重な観察・調査を行っていた。 ダ−ウィンは、父方の祖父が進化論の先駆者エラスムスで、母方の祖父がイギリス陶芸界の大御所ウェッジウッドという名門の裕福な家に生まれ育った。父親と同じ医師を志したが挫折し、ケンブリッジ大学神学部に学んだ。しかし、幼年時代から動植物に関心があり、探検旅行の夢を抱いていた彼は、この5年前に大学を卒業すると、無給の身でビ−グル号に乗り込んだのだった。帰国の翌年からは周航記の執筆に取り組み、1839年には『ビ−グル号航海記』としてまとめ、出版する。特に東太平洋のガラパゴス諸島とココス諸島に生息するフィンチの嘴や体形、色彩の微妙な相違に注目。それが彼の進化論の基礎となる。 こうして、生物学界に大きな衝撃を与えて、ダーウィンは新進の博物学者として世に出る。さらに5年後には次の大作となる『種の起源』の草稿を完成する。自然淘汰による進化論が展開されるが、宗教的な問題も含んでいて進化思想を公にすることは、尚はばかられたため、ようやく1859年になって出版される。 ⇒11月30日 《クロニック 世界全史》P757 |
○望遠鏡の日 |
1187年
アイユーブ朝初代君主サラディンがエルサレムを占領し十字軍の王国を降伏させる |
月3日
統一ドイツ誕生 =1990年、ドイツ= |
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この日午前0時、統一ドイツが誕生。戦後41年にわたる分断の歴史に終止符が打たれた。前夜から、それまで東西ベルリンの境界の象徴だったブランデンブルク門の周囲には、シャンパンや新国旗を手にした約百万人の市民が集い、統一国家誕生の時を待ち受けた。午前0時を期して、門の脇に立つ旧帝国議会前の広場で開催された統一記念式典の壇上に立ったリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカ−大統領が「われわれは、みずからの意思に基づいて統一を自由のうちに完了する」と宣言。 この瞬間、人々の頭上には花火がきらめき、ライトアップされたブランデンブルク門をバックにいくつもの国旗が振られ、歓声の渦が巻き起こった。この光景は世界各国に報道された。 前年11月の劇的な『ベルリンの壁』崩壊からわずか一年足らずのあいだに、東ドイツでは官僚機構の腐敗ぶりと経済政策の破綻がつぎつぎに暴かれ、西側の経済援助を期待して、より早い統一を望む市民の声が急速に高まった。 新生ドイツは、人口約8千万人の経済大国として欧州の中央に位置する。また、その正式名称、国旗、国歌ともにドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)のものを引き継ぎ、初代大統領、首相も旧西ドイツの顔触れのままである。まさに東が西に政治的にも経済的にも統合されるかたちで統一がなったといえる。 《クロニック 世界全史》P1125
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○ドイツ統一の日 |
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1629年
江戸幕府が山田長政に朱印状を交付しシャムとの貿易を許可 |
月4日
マルガレ−テの不運 =1497年、スペイン= |
15世紀も終わりに近い頃、スペインは地中海の権益を守るために、強力な同盟相手を求めていた。通商上でフランスと利害の対立するスペインは、神聖ローマ帝国との同盟を選んだ。両国で交誼を結ぶという場合には、結婚によって一層の和合を図るのが慣例である。 ここにマクシミリアンの長男フィリップ美公はスペイン王女ファナと、長女マルガレ−テは王子ファンと、それぞれ兄妹が二重結婚することになった。スペインはアラゴン王国とカスティリア王国が、フェルナンドとイサベラの結婚によって国家として統一されてから、 その国家の次代を担うのがファンであり、マルガレ−テは彼の妃として重要な役割を果たすべく期待されていた。こうして二人は、1497年4月にブルゴスの荘厳な大聖堂で結婚式を挙げた。やがてマルガレ−テが懐妊したことが知れると、カトリック両王の喜びはひとしおだった。 しかしそれからまもなくの10月4日、期待の星ファンは19歳という若さでこの世を去ってしまった。息子に先立たれたカトリック両王は、マルガレ−テの胎内に宿る子に期待を寄せるしかなかった。スペイン王国の将来は、すべて彼女にかかっていた。だが、その期待のマルガレ−テは分娩が近付いた頃に、激痛に見舞われた。そして生まれた子は、なんと死児だった。スペイン王国最後の期待も、これで失われてしまったのである。傷心のマルガレ−テは、イサベラ女王の慰留も断って、故郷ブルゴ−ニュへ帰る決意を固めた。 《ハプスブルク家の女たち》 |
○天使の日 ○宇宙開発記念日 |
632年 第1回遣唐使が帰国 |
月5日
ヴェルサイユ行進事件 =1789年、フランス= |
この日早朝、中央市場に集まった主婦を中心とする数千人の群集は、まず市庁舎へ向かい、ここからバスティ−ユ占領の英雄の一人であるマイヤ−ルに率いられて、国王ルイ十六世にパンを要求するために、ヴェルサイユへの行進を始めた。雨と泥にまみれたデモ隊は、ヴェルサイユに到着し、国王にパンの供出を約束させた。 翌早朝、民衆の一部が王宮に進入して流血の騒ぎとなり、高揚した民衆の要求で国王はパリへの帰還を承諾する。ルイ十六世、王妃マリ−・アントワネット等国王一家は、パリへと連れ戻され、チュイルリ−宮に入る。ヴェルサイユ行進、または10月事件と呼ばれる事件である。 行進の直接の発端は、またしても食料危機にあった。バスティ−ユ襲撃以来パンの価格は依然として高く、パリの下層民衆の生活を圧迫し続けていた。この事件の後、国民議会もパリへと移る。政治の中心は名実ともにパリに移り、国王一家は二度とヴェルサイユに戻ることはなかった。 ⇒8月10日 《クロニック 世界全史》P651 |
○時刻表記念日 ※達磨忌 |
1274年
元軍が対馬・壱岐に初来襲。文永の役が始る |
月6日
ベートーベン、ハイリゲンシュタットの遺書 =1802年、ドイツ= |
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ロマン・ロランは、「ベートーベンの一生は、嵐の一日に似ている」と言っているが、彼の一生は激しい苦難の連続であった。彼は不幸の星の下に生まれ、若くして母親を失い、飲んだくれの父親と弟たちを抱えて苦闘した。せっかく実りかけたジュリエッタ・グィッチャルディとの恋も破れ、26歳から始まった忌むべき耳疾は、ついに彼に自殺まで決意させたのである。 「私は、君たち(弟)に別れを告げる。ある程度治るものと信じていたのに、その希望も失ってしまった。秋の木の葉が落ちてしぼむように・・・・」 。 俗にハイリゲンシュタットの遺書として知られる二通(10月6日付けと)の手紙のうちの1802年10月10日の日付を持つ、弟たちに宛てた手紙の一節である。実に涙なしには読めない悲痛な遺書である。 しかし、このように一時は死に神に魅入られたベートーベンを立ち直らせたのも、音楽の偉大な力であった。ベートーベンは立ち上がった。そして運命の咽喉笛を締め上げた。いや、思い切り噛み切った。いまや彼の前途には、仄かな光明が輝き、新しい路が開けた。生きようとする彼の雄々しい力は、ついに死に神を追い払ったのである。 第二の人生は、彼が創造の鬼となった時代である。彼は社交界から足を洗い、大自然と自分の心のみを友とした。1年ごとに脂が乗り」、1年ごとに名作を生んだ。交響曲でいえば、第三番『英雄』から第八番までが書かれるのである。 ⇒12月22日 《クラシック名曲ものがたり集成》
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1614年
大坂冬の陣で、真田幸村ら豊臣方の武将・重臣が大坂城に入る |
月7日
レパントの海戦 =1571年、イタリア= |
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海軍史上、ガレ−船同士の海戦としては最大の規模で闘われ、かつ最後の戦闘となる『レパントの海戦』。この日の夕刻、レパントの海は、敵味方の戦士たちの死体で埋めつくされていた。そのあちこちで燃え上がる船の間を、生き延びようと泳ぎあえぐトルコ兵が、動く唯一の物体だった。青く深かった海も男たちの流した多量の血で、赤葡萄酒を流しこんだような色に変わっている。その海を西の方角からすこしずつ、夕日が金色に染め始めていた。 それにしても、人々の喜びは天井を知らなかった。無敵と思われていたトルコ軍が、無敵でないことを実証したのである。それも1453年のコンスタンティノープル陥落から始まったトルコの攻勢に次ぐ攻勢の前に、全力を投ずる抵抗となるとほとんど一度としてしなかったキリスト教勢が、実に118年後にして初めて獲得した本物の勝利であったのだ。 ヴェネツィア政府はこのたぐいまれな戦勝を記念するために、10月7日を国の祭日を決め、毎年この日は、国をあげて祝うと決めた。そして共和国最高の画家とされていたティツィア−ノに戦闘を描いた大壁画の制作を依頼した。だが、ティツィア−ノは、スペイン王フェリペ二世より同じ題材の絵を頼まれている、と言って断ってきた。 その年83歳のヴェネツィア最高の画家は、当時では全ヨーロッパでも最高の画家とされていたのである。やむなく代わりに選ばれたのは53歳で働き盛りの、ティントレットであった。ティントレットは早速制作を開始した。 バルバリ−ゴが重傷を負った瞬間も描かれていたといわれるこの大絵画は、3年後の1574年に完成する。元首官邸(パラッツォ・ドュカ−レ)内の一室に飾られた。だが、1577年に起こった 火災で焼失してしまう。 《レパントの海戦》
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○ミステリー記念日 |
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110年
日本武尊が伊勢神宮で倭姫命から天叢雲(後の草薙剣)を賜る |
月8日
佐藤栄作、ノーベル平和賞授賞 =1974年、日本= |
1974年の今日、佐藤栄作元首相は、アイルランドのマクブライト元外相とともにノーベル平和賞を授賞した。佐藤の授賞の最大の理由は、いうまでもなく、『沖縄返還』を実現した功績が高く評価されたためであろう。だが、この『沖縄返還』に関しては、多大の犠牲が払われた。アメリカのニクソンが沖縄返還を条件として、繊維輸出の譲歩を迫ったのである。また大規模な米軍基地の存続をめぐる問題では革新勢力の了解を取りつけるために、当時の国鉄の再建政策において、革新側に対し大幅な譲歩を行った。この結果、国鉄の経営は乱脈を極め、国民に対し、過大な負担を強いることとなった。幸い、土光臨調の行財政改革による国鉄の分割民営化で、どうにか破局を免れることができたが、そのためのコストは膨大なものだった。 1964年から1972年にいたる、満7年8ヶ月もの長きにわたって総理のポストにあったが、兄の岸とは異なり、これといった功罪もなかったというのも珍しいことである。それというのも、『人事の佐藤』と言われるほどに、バランス感覚だけは、人一倍優れていたことが、「和をもって尊しとなす」日本ならではの特殊事情の故であろうか。 《歴史に選ばれた366人》 |
☆寒露[かんろ] ○国立公園制定記念日 |
1946年 文部省が「教育勅語」の奉読廃止を通告 |
月9日
ジョン・レノン生まれる =1940年、イギリス= |
ジョン・ウィンストン・レノンは、この日、リヴァプ−ルのオックスフォードで生まれた。父フレディはそのとき船の給仕をしていて、母子から遠く離れていたらしい。この彼が生まれたその日、リヴァプ−ルは、ドイツの戦闘機によって最大級の爆撃を受けていた。彼は人生の開始において、非常に落ち着きのない環境に囲まれてこの世に生まれ落ちたのである。そして、この落ち着きのなさは、一生どこにも落ち着くことのなかった彼の人生の基調となる。 母親ジュリアは育児を姉のミミに任せっぱなしにしており、父親は行方不明のような状態で、この不幸な子供は、出生の時に事実上両親を亡くしたことになる。1970年、ジョンはロスアンゼルスで精神科医の治療を受けた。それは患者を発達早期にまで人工的に退行させ、両親に対する憎しみなどの感情を吐き出させようというものである。その成果が、彼の最初のソロ・アルバム 『ジョンの魂』であり、その中で彼は、「母よあなたは私のものではなかった」(マザ−)と歌う。 《ビ−トルズ》
英の航海者クック、ニュージーランド上陸、1769年 |
○世界郵便デー,万国郵便連合記念日 |
1799年 ナポレオンがエジプト遠征からパリに帰還 |
月10日
東京オリンピック開幕 =1964年、日本= |
午後2時、秋空のもと、東京の国立競技場を埋め尽くした7万5千人の観衆が見守る中で、94ヶ国、7千4百95人の選手団が入場行進を始めた。なかには、色鮮やかな民族衣装を着た新興アフリカ諸国の選手団もいる。18回目、そしてアジアでは初のオリンピック東京大会の開幕である。 東京大会は15日間、20競技百163種目にわたって競技が繰り広げられ、エチオピアのアベベ・ビキラがオリンピック史上初のマラソン二連覇を達成するなど、数多くのドラマが演じられる。日本勢も善戦し、女子バレー、体操、柔道などで、史上最多16個の金メダルを獲得する。大会直前まで大会施設、ホテル、地下鉄、高速道路、モノレ−ルなどの建設が続けられ、去る一日には東海道新幹線も開業。東京は、オリンピックを境に大きく変貌する。 ⇒9月7日§ 《クロニック 世界全史》P1065 |
◎体育の日 <10月第2月曜日> ○目の愛護デー 10月10日(月)Columbus Day(コロンバス・ディ) |
1944年 米軍が沖縄初空襲。那覇市の9割が焼失。死者548人 |
シュリ−マン、トロイアの遺跡発掘 =1871年、ドイツ= |
1871年の今日、シュリーマンはトロイアの遺跡を発掘した。
ドイツの考古学者ハインリヒ・シュリ−マンはアナトリア(アジア)の北西端、はるかにダ−ダネルス海峡を望見するヒッサルリクの丘に立った。少年時代にホメロスの神話物語に感動し、トロイアの都の実在を信じて発掘を決意し、そのため若年から転職を重ね巨万の富を得た彼は、今まさに長年の夢を実現しようとしていた。 ここは東西100メートル、南北115メートル、高さ36メートルほどの小丘で、紀元前3千年から ローマ時代までの住居跡が重なっている場所だった。直ちに発掘を始めたシュリーマンは宮殿、城壁、さまざまの財宝を発見し、ここが伝説の都トロイアの遺跡であることを確信する。 翌年その成果を発表し、さらに、1876年にはミュケナイの発掘にも成功する。シュリーマンは学界からの批判にも屈せず、ギリシャ先史時代研究の先駆者と称えられる。 《クロニック 世界全史》P837 |
1871年
ハインリッヒ・シュリーマンが古代都市トロイアの発掘に着手 |
月12日
コロンブス、新大陸発見 =1492年、スペイン= |
15世紀は航海の時代であった。それまでイタリアの諸都市が独占していた香料や絹を中心としたアジアとの貿易に、国家としての実力をつけてきた他のヨーロッパの国々も加わろうとし、それに国家間の領土拡張欲がからまり、航海術は年を追う毎に改善されていた。 グラナ−ダ陥落数日後、コロンブスは余裕のできたイサベル女王と、サンタ・フェで何度目かの会談をする機会を与えられる。彼が新航路で得る東洋との貿易の利益を、聖都エルサレム奪回の費用に当てるとの発案、及び東洋人にキリスト教を伝えるという大義名文は、イサベルの心をかなり揺り動かした。 こうして望み通り3隻の帆船と90人の乗組員とを獲得したコロンブスは、試練の末その年の10月12日、大西洋の果てに一つの島影を発見する。現在のバハマ諸島の一部といわれる。そこからキューバにかけての一帯を探検した一隊は、そこにカスティ−リャ王国の旗を立てた。カスティ−リャはこの実績によってその後、広大なアメリカ大陸を支配し、イサベル女王の孫のカルロス五世の頃にはスペインには日のかげる時がないといわれる程の大帝国を築き上げるに至る。 ⇒12月17日 《イサベルの栄光と悲劇》 |
▽大陸発見記念日(Columbus Day),新大陸発見の日 ▽ナショナルデー,イスパニアの日 (スペイン) ※芭蕉忌.時雨忌,桃青忌,翁忌[おきなき/をきなき] |
1492年
コロンブス率いるスペイン船隊が西インド諸島に初上陸。新大陸アメリカ発見 |
月13日
六才のモ−ツァルト、御前演奏 =1761年、オーストリア= |
シェ−ンブルン宮殿はマリア・テレジアの祖父にあたる皇帝レオポルド一世の手によって、本格的な夏の宮殿として再建された宮殿である。工事はマリア・テレジアの手に受け継がれ、優美なロコ様式に仕上げて完成した。大変な美人だったマリア・テレジアは善良な夫、ロ−トリンゲン侯フランツとの間に18人もの子供を作ったが、その中の11人目の子供が、のちにフランス王ルイ十六世の王妃になり、コンコルド広場で断頭台の露と消えたマリ−・アントワネットである。 1761年10月13日、6才のモ−ツァルトは女帝に召されてシェ−ンブルン宮殿で御前演奏をすることになる。その時、床に滑って転んだモーツァルトを助け起こしてやった1才上の王女がマリー・アントワネットであったという話しは有名である。彼は彼女にこう言った。「あなたは良い子だね。大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」 ⇒12月5日 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》
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○引越しの日 |
97年 景行天皇が小碓[をうす]皇子(後の日本武尊)に熊襲[くまそ]討伐を命じる |
月14日
ナポレオン、セント・ヘレナへ流刑 =1815年、フランス= |
この日、イギリス領のセント・ヘレナ島にナポレオンを乗せたイギリス船が到着した。6月22日に退位し、パリからフランス西海岸のロシュフォ−ルに逃れてきたナポレオンは、イギリス海軍に投降した。イギリスが示した流刑地は、西アフリカ沖約1,930キロの南大西洋の孤島だった。セント・ヘレナには将軍や侍医、秘書など15名の従者が同行した。彼は自伝の口述を日課とする。栄光の日々を回想するとともに、イギリスの待遇に抗議もする。そして、このセント・ヘレナ文学とも呼ばれる回想録が、後にナポレオン伝説となり、ヨーロッパの政治や思想に大きな影響を与える。ナポレオンはこの島で次第に肉体を蝕まれる。 《クロニック 世界全史》P717キング牧師、ノーベル平和賞、1964年 |
○鉄道の日 |
1066年
ヘースティングズの戦い。ノルマンディー公ウィリアムがイングランド王ハロルド2世を撃破。ウィリアム1世として即位しノルマン朝を樹立 |
月15日
ケルン大聖堂完成 =1880年、ドイツ= |
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1248年の着工から632年の時を超えてケルン大聖堂(正式名はザンクト・ペ−タ−・ウント・マリア)が完成し、この日、献堂式典が皇帝ヴィルヘルム一世臨席のもとに盛大に挙行された。 このドイツ・ゴシック建築の記念碑的建造物は、1322年に内陣が完成したが、その後、工事はしばしば中断された。特に16世紀に入るとルネサンス期のロマネスク様式が主流となり、ゴシック様式の不人気を招いたことも災いして、大聖堂建築は19世紀まで長いあいだ中断されたままであった。工事再開の気運は、1841年に大聖堂建築中央連盟が設立され、プロイセン国王フリ−ドリッヒ・ヴィルヘルム四世が資金援助を申し出たことから急速に昂まり、その翌年に工事は再開された。この背景には、大聖堂建築をドイツの国民的統一のシンボルとみなす時代の雰囲気が強く 存在していた。 《クロニック 世界全史》P857
ニーチェ生誕、1844年 |
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○グレゴリオ暦制定記念日 |
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743年
聖武天皇が東大寺大仏建立の詔を発する |
月16日
マリーアントワネットの処刑 =1793年、フランス= |
1793年10月16日、コンシェルジュリを出た白い囚人服のアントワネットが処刑場の革命広場へ向かう。その最後の様子を、ツヴァイクの筆はこう模写している。 「平然と誰の手も借りないで、獄舎を出るときよりか、さらに石のような顔つきをして、王后はすべての助けをしりぞけながら断頭台の木の階段を登って行く。刑執行人たちは彼女を後ろざまにひき掴んで、首を刃の下に身体を板の上にさっと投げる。縄を引く。閃光一閃、刃は落下し、にぶい音を立てる。何万という人々の息を殺していた恐怖は一撃で解放され、凶暴な絶叫に変わる」。 この処刑場と化した広場が、まだ『ルイ十五世広場』と呼ばれていたころ、14歳で王太子妃としてウィーンから迎えられた彼女と、若き王太子との結婚を祝う祭典が行われたのは、10年あまり前の同じこの広場においてであった。この『革命広場』が『コンコルド(融和)広場』と改められる1795年10月の国民公会解散まで、なお多くの血がこの広場に流されてゆく。 ⇒4月21日§ 《ヨーロッパ歴史の旅》 |
○スウィーテスト・デー <10月第3土曜日> |
1321年 後醍醐天皇が「建武新政」を始める |
月17日
ショパン没 =1849年、フランス= |
この日、ヴァンド−ム広場のアパートの朝日に包まれた部屋で『ピアノの詩人』フレデリク・ショパンが39歳の生涯を終えた。 幼少の頃より、音楽的才能を認められたショパンは、1830年の11月初め、音楽家としての大成を志してポーランドを後にした。ウィーンで、祖国の11月蜂起の報に接した彼は、祖国への愛と音楽家としての使命感とのはざまで苦悶する。翌31年9月、祖国の運命を気遣いつつパリへ。その道中でワルシャワ陥落を知った彼は、言い様のない怒りを曲にしたためた。それが『革命エチュード』だと言われる。 軽妙で甘美な曲調の裏に秘められた憂愁、あるいは熱情、パリでショパンの音楽は見事に開花する。豊かな才能とロマンスに彩られた生涯。しかし女流作家ジョルジュ・サンドと別れ病に冒された孤独の晩年は、決して幸福なものではなかった。 《クロニック 世界全史》P784 |
1859年 江戸城本丸が炎上 |
10月18日
ライプチッヒの会戦、ナポレオン体制崩壊へ =1813年、ドイツ= |
プロイセン、オーストリア、ロシアが攻守同盟を結成し、ナポレオン軍に対して解放戦争を戦ってきたが、この月16日からザクセンのライプツィヒで両軍が激突して、同盟軍が勝利した。前年、ナポレオン軍は冬のロシア遠征に失敗した。このとき、かつてのプロイセンの首相でロシア皇帝の顧問のカ−ル・シュタインは、ドイツ人の決起を促してロシア・ドイツ軍団を結成させ、さらにプロイセン国王に建言しロシアとの同盟を成立させた。 この年の3月にプロイセンがフランスに宣戦。5月の戦いではロシア・プロイセン同盟軍が敗れ、オ−ストリア外相メッテルニヒの仲介で停戦となった。しかし、6月にイギリスとオーストリアが同盟軍に参加して第六次対仏大同盟を結成。8月12日、オーストリアが対仏宣戦布告を行って戦闘が再開された。 ドレスデンでのフランスの勝利の後、10月16日、解放戦争最大の決戦がライプツィヒで始まった。同盟軍33万、フランス軍20万。ザクセン軍が寝返り、同盟軍についたため、雌雄は決した。 この日、ライン同盟は解体し、オランダにはウィレム六世が復帰、スイス、スペイン、ナポリも解放され、ナポレオン体制は崩壊する。翌年1月に同盟軍はライン川を越え、3月31日にパリは落城する。 ⇒4月6日 《クロニック 世界全史》P713
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1568年
織田信長に支援された足利義昭が室町幕府第15代将軍に就任 |
月19日
ナポレオン軍 、モスクワからの総退却 =1812年、ロシア= |
1812年、ナポレオンは50万の兵を率いて6月末にニーメン河を渡りモスクワへと侵攻した。9月にモスクワを占領するもののロシアの反撃を受け10月に撤退して、ニーメン河に帰還できた兵士はわずか2万人足らずでしかなかった。 このボロディノの戦いについてトルストイは『戦争と平和』の中で、「致命傷を負った野獣が猟師の銃口に向かって突進するように、ナポレオンはモスクワという名の死地に、ほとんど宿命的に行軍したのだ」と書いている。 10月13日、モスクワに初雪が降り、10月19日ナポレオンはモスクワを離れた。クトゥ−ゾフはこうつぶやいた。 「神よ! 今よりロシアは救われたり」 ⇒12月18日 《私の歴史メモ》 イサベル、アラゴン王子と結婚、1469年 |
○日ソ国交回復の日 |
1781年
ヨークタウンでイギリス軍が降伏し、アメリカ独立戦争が終結 |
月20日
マッカ−サ−の復帰 =1944年、フィリピン= |
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10月17日、アメリカ軍はフィリピン群島の中央部にあるレイテ島に上陸作戦を開始した。 30万の上陸部隊を指揮するのは2年7ヵ月前の昭和17年3月11日、「I shall return.」の一言を残して、コレヒド−ル島を脱出したマッカ−サ−大将である。彼は10月20日午後2時、『自由の声』放送を通じて世界に声明した。「私はジェネラル・マッカ−サ−。私はいまや帰って来た。フィリピン市民諸君、私はいま誓いを果たしてここに帰って来た」。「I have returned. 」という一言がいかに誇りに満ちていたことか。 日本のフィリピン方面軍指令官は『マレ−の虎』とうたわれた山下奉文大将であったが、将軍がいかに名将軍であっても、このアメリカ軍の全力を挙げての総攻撃に対して、大小数千の島から成るフィリピン群島を一年守り通せる筈はなかった。そして、10月20日から25日にわたって続いたレイテ沖海戦こそ、帝国連合艦隊最後の大決戦に違いなかったが、連合艦隊は、戦艦『武蔵』、空母『瑞鶴』『瑞鳳』を始め多くの軍艦を失った。⇒4月11日 《私の歴史メモ》
吉田 茂没、1967年 |
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1180年
富士川の戦い。平維盛と源頼朝の軍が富士川で合戦。水鳥が一斉に飛び立った音を源氏の夜襲と勘違いし平氏が敗走 |
月21日
仏・英、トラファルガ−の海戦 =1805年、フランス= |
スペインのカディスに逃げ込んでいたド・ヴィルヌ−ブ提督率いるフランス・スペイン連合艦隊が、ナポレオンの命を受けついに出撃した。1805年の今日、海戦史に名高いトラファルガ−の海戦である。 連合艦隊が33隻、イギリス艦隊が27隻と、数の上ではフランス軍が有利だった。にもかかわらずド・ヴィルヌ−ブ提督は、決戦を挑むことを避けた。ネルソン提督は狙撃され戦死したものの、18隻の軍艦を失ったフランス側は完全に敗れた。 しかし、陸上ではアウステルリッツでオーストリア、ロシアの二大帝国連合軍を破り、大いに気勢をあげた。この時の勝利を記念するモニュメントが二つパリに現存する。ルーブルの前のカル−ゼルの凱旋門とヴァンド−ム広場の巨大な戦勝塔だ。これは、ぶんどった大砲を鋳つぶして作ったものという。 ⇒12月2日 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》
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カ−ル大公とツィタの結婚式 =1911年、オーストリア= |
フランツ・ヨ−ゼフ帝にとっては、身内の不祥事が相次いだ。せめてはハプスブルク家の継承者になりそうな甥オット−の子カ−ルにだけは、身分相応な王女と結婚してもらいたかった。皇帝はツィタ・フォン・ブルボン=パルマの名を聞いて、満悦の様子だった。もはやブルボン家は落ちぶれ果てたとはいえ、かつてのフランス王家の末裔と聞くだけで皇帝は晴れやかな気分になった。 二人の結婚式は1911年の今日、ウィ−ン南方のシュヴァルツアウ城館で挙行された。これはいわば『古き良き時代』最後の華やかな式典だったであろう。フランツ・ヨ−ゼフ帝が直々に祝賀に列席するという念の入れようだった。皇帝がこれほど楽しそうに笑ったのは、これが最後だった。 《ハプスブルク家の女たち》 |
1520年
マゼランが南米大陸とフェゴ島の間に海峡を発見。後にマゼラン海峡と命名 |
月22日
カ−ル五世、帝国司教都市ア−ヘンにて戴冠式 =1520年、ドイツ= |
1519年1月に、マクシミリアン帝が死ぬと次期皇帝候補として仏王フランソワ一世、英王ヘンリー八世、それにスペイン王カルロス一世等の名が挙がっていたが、結局、1520年の今日、カルロス一世が神聖ローマ帝国皇帝カール五世として戴冠した。 「皇帝とはキリスト教徒最高の君主であり、現世における一切を司る者である。彼岸における 平安の責を負うローマ法王とあい携 えて、世界の平和を維持してゆかねばならない」。 これこそ、中世以来の皇帝理念であり、ヨーロッパ文化の核をなす原形はここにある。カール五世が、旧来のキリスト教すなわちカトリックを死守しようと苦闘するのも、そのためであった。⇒5月6日 《ハプスブルク家》 |
キューバ危機 =1962年、キューバ= |
ベルリン危機の翌年の10月、今度はキューバ・ミサイル危機がやってきた。キューバ上空を偵察飛行していたアメリカの最新型偵察機U2型機が、キューバにソ連の地対地ミサイル基地があることを発見したのである。この日、ケネディー大統領はキューバの海上を封鎖する最終決断を下した。ケネディーはアメリカ国民に対して、こう語りかけて理解を求めた。 「すべての道がそうであるように、われわれが現在選んだ道も危険に満ちている。しかし、 それは国民としてのわれわれの気質と勇気、そして世界に対するわれわれの公約にもっともよく合致するものである。自由の対価は常に高い。だが、アメリカ人はこれまでいつもそれを支払ってきた。われわれの決して選ぶことのない道、それは、降伏ないしは屈服の道である。われわれの目標は、力の勝利ではなく、正義の擁護である。自由を犠牲にした平和ではなく、この西半球における、ひいては世界における平和と自由の両方である。神のご加護があれば、この目標は達成されるであろう」。 この演説の終了とともに、危機は公式に始まった。それは、最悪の場合には、第三次世界大戦につながるはずの危機だった。ケネディーは、1960年、リデル・ハ−トという著者の『抑止か防衛か』という本の書評のなかで、著者のつぎのような信条を賞賛したことがある。 「もしできることならば強くあれ。もしそれができなくとも、とにかく冷静であれ。無限の忍耐を持て。けっして敵を窮地に追い込まず、つねに彼の面子を救うようにせよ。相手の立場に身を置き、相手の目で物事を見るようにせよ。悪魔のような独善を避けよ。これほど自らの目を曇らせるものはない」 。 《ケネディ−その実像を求めて》 |
○平安遷都の日 |
794年
平安遷都。桓武天皇が長岡京から山背国の新都(平安京)に入京 |
月23日
ハンガリー動乱勃発 =1956年、ハンガリー= |
この日はハンガリー動乱の発端の日である。この日、ブダペスト市内は、何十万人ものデモ隊で身動きできなくなった。スタ−リン型共産政権の圧政に対する不満の爆発であった。 11月3日、ブダペストはソ連軍の大部隊に包囲されていた。6千台の戦車を装備した15個師団のソ連機甲部隊は、ハンガリーの主要都市攻略の準備を完了し、翌4日の午前四時、市民がまだ寝ているうちに総攻撃の火蓋を切った。ハンガリー国民の死者は女性や子供を含め約3万人、短期間の戦闘で3万人もの市民が犠牲になることは前代未聞で、ハンガリー動乱がいかに激しいものだったかを物語って余りある。 ハンガリーからの難民が洪水のようにオーストリアに押し寄せた。オーストリアは官民あげて、この難民に暖かい手を差し延べた。オーストリア国民にとって、ハンガリー国民は身内という意識があった。数百年前、同じ帝国で共に暮らした民族として、苦難の時に、心から暖かい手を差し延べるのは当然という永い歴史の繋がりが、『鉄のカーテン』で遮られていても、脈々と流れていたのである。 33年後の1989年、ハンガリーがオーストリア国境の『鉄のカーテン』をいち早く開け、東欧市民革命の口火を切ったのもこういう背景があった。 《エリザベ−ト》 |
☆霜降[そうこう] |
1956年
ハンガリー動乱。ハンガリーの首都ブタペストでソ連軍の撤退などを求める20万人のデモ隊が治安警察と衝突 |
月24日
世界大恐慌勃発 =1929年、アメリカ= |
1921年10月21日月曜日、世界資本主義の中枢、ニューヨークのウォール街の株式取引所で 株価の暴落が始まった。一時的なことであろうという投資家たちの楽観を尻目に、23日事態はさらに悪化し、大金融家たちの買い支えも効果がなかった。 そして『暗黒の木曜日』24日がやってきた。取引所では人々が押し合い、わめき合い、ひっきりなしにかかってくる電話はことごとく『売り』である。この日一日で約1,300万株が売られ、中にはいくら値を下げても、買い手が付かない株も少なくなかった。こうして株式恐慌に始まり、たくさんの銀行が破産し、29年から4年ほどの間に工業生産は半分以下に減り、失業者は1,200万を越えた。いかにアメリカの国民生活が豊かになったといっても、生産の激しいテンポについてゆくだけの購買力もなく、また海外市場も不足したのだ。 《教養人の世界史》
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▽トリコロール記念日 (フランス) |
1790年 三色旗(トリコロール)をフランス海軍旗として制定。後に国旗に |
月25日
ゲルニカ、スペインで一般公開 =1981年、スペイン= |
ゲルニカは、マドリッドのソフィア王妃芸術センターに展示されているピカソの作品『ゲルニカ』で世界的に有名になった。市民戦争中の1937年4月26日の午後に、古都ゲルニカがフランコ側に加担したドイツの爆撃を受けた。死者2千人以上という惨事に、当時パリに住んでいたピカソが抗議して『ゲルニカ』を描き上げパリ万博のスペイン共和国政府館に展示した。 1939年、スペイン内戦がフランコ側の勝利に終わったときフランコはピカソと『ゲルニカ』を故国に入れることを許さなかった。作品は北欧や英国で展示された後、ニューヨーク近代美術館で保管。1975年のフランコ没後、1973年に亡くなったピカソの、「スペインに民主的な政治が復活した日にはゲルニカを戻して」という遺志に従い、返還交渉が進められた。 この作品がスペインで一般公開されたのは完成から40年以上の歳月を経た1981年10月25日。ピカソ生誕100年の記念日だった。 ⇒4月26日§ 《ワールドJOYスペイン》 島原のキリシタン蜂起(島原の乱)、1637年 |
○民間航空記念日 |
1415年
百年戦争・アザンクールの戦い。ノルマンディーに上陸した英軍が仏軍を破る |
月26日
伊藤博文、満州ハルピン駅にて暗殺 =1909年、中国= |
10月26日午前9時、伊藤の乗った特別列車がハルピンに到着した。出迎えたココ−フツォフが貴賓車に入ると、伊藤はテーブルのそばに立って待っていて歓迎の挨拶をした。 「伊藤公は背が低く、疲れている様子だったが、目はきらきらしていた」と、ココ−フツォフは回想録に書いている。 ココ−フツォフが伊藤に東清鉄道の幹部や随行員を紹介し、鉄道防衛軍の儀仗衛兵の閲兵をすませた。そして伊藤を待つハルピンの日本人居留民のところへ進もうとしたとき、伊藤はピストルで狙撃されたのである。犯人は安重根という朝鮮人であった。 11時40分、伊藤公の遺骸を乗せた特別列車は軍楽隊の演奏する葬送曲に送られて長春に向かって出発した。沿線のロシア軍隊は全て整列して伊藤公に対して弔意を表した。伊藤がハルピンに到着してから遭難に合い、遺体になってハルピンを出発するまで、僅か2時間40分間の出来事であった。 《ニコライ二世の日記》 第二次ポエニ戦争でハンニバルのカルタゴ軍、ローマ軍に敗退、BC202年 |
◇十三夜(豆名月,栗名月) <旧暦9月13日> |
BC202年
ザマの戦い。スキピオ率いるローマ軍がハンニバル率いるカルダゴ軍を破り第二ポエニ戦争が終結 |
月27日
イエナ会戦 =1806年、ドイツ= |
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1806年の前半は、フランスの周辺諸国を固める動きが中心となった。ナポレオンは連邦を形勢し、そうした連邦諸国の頂点に自分の一族の者たちや功績のあった将軍たちを配した。オランダ王には弟ルイ、ナポリ王に兄ジョゼフ。ジョセフィ−ヌの先夫との間の息子ウジェ−ヌは、バイエルン王国の王女と結婚させた。 かくして神聖ロ−マ帝国は解体され、神聖ローマ帝国皇帝フランツ二世は、オーストリア皇帝 フランツ一世となる。8月1日のことであった。このような情勢の下で、プロイセンの立場は微妙なものとなる。 10月10日、ザ−レ河を挟んで、フランス陸軍がフリ−ドリヒ大王以来の伝統を誇る、プロイセン陸軍と対峙していた。10月14日、フリ−ドリヒ大王の時代にヨーロッパを制した密集隊形により攻撃は、フランス軍の散兵線に阻まれた。戦争の形態がもう古典では通用しなくなっていたのである。プロイセン王国は崩壊した。各地の要塞に立て篭もったプロイセン軍も、戦うことなく開城するところが続出したのだ。 10月27日、ナポレオンはブランデンブルク門を通過する。彼はこの地で何より訪れたいところがあった。それこそフリ−ドリヒ大王の墓だったのである。ポツダムのサン・ス−・シ−城にある大王の墓所で、ナポレオンは無言のままかなり長く、物思いにふけっていた。大王こそナポレオンから見た君主の理想像だったのである。 イエナ会戦に勝利したナポレオンは、イギリスに対する大陸封鎖令を発表する。この年の11月21日のことである。 ⇒12月4日 《ナポレオンの戦場》
吉田松陰処刑される(安政の大獄)、1859年 |
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○テディベアズ・デー |
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1806年
ナポレオン軍がベルリンを占領 |
月28日
支倉常長、ローマ法王に会見 =1613年、日本= |
バチカン美術館の中に法王パウロ五世に宛てた東北の雄伊達正宗の書状が陳列されている。 陸奥の月の浦を伊達藩の帆船に乗って出帆した政宗の家臣支倉常長等はまず、太平洋を横断。ついでスペインに渡って国王フェリ−ペ三世と会見した後ローマに入り、この日、法王にこの書状を提出したのであった。彼は法王に政宗の意向として日本への宣教師の派遣とスペイン領の国々との貿易についての斡旋を依頼している。 ローマを去って彼は再びスペインに国王を訪ねたが、徳川家康の露骨な通商政策が露見するに至り、次第に各地で冷遇され、スペイン国王からも先の要求を拒絶された。前後7年を費やしたこの大旅行も、何ら具体的な成果を挙げることなく、常長一行は1620年ルソン島を経由して空しく帰国した。悲しいかな帰国した常長等を待っていたものは、うって変わったキリスト教の弾圧政策で、高山右近ほか有名なキリシタン大名らは、国外に追放され、常長は帰国後、官を辞して生国に隠居し、余生をさびしく送ったという。 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》 |
○群馬県民の日 |
1392年
南北朝合一により、南朝の後亀山天皇が吉野から京都へ出発 |
月29日
トルコ共和国の誕生 =1923年、トルコ= |
1923年のこの日、ムスタファ・ケマルの共和制移行法案がトルコ大国民議会と人民党大会で 可決され、トルコ共和国が成立した。 すでにアンカラ政府は1921年1月20日に臨時憲法を制定し、新国家の主権はオスマン王家ではなくトルコ国民にあることを宣言していた。前年10月に祖国解放戦争に勝利し、連合国とムダニヤ休戦協定を締結すると、11月にはスルタン制とカリフ制を分離し、まずスルタン制を廃止した (トルコ革命)。第36代君主メフメト六世はマルタ島に亡命し、オスマン朝は名実ともに滅亡した。 こうしてアンカラ政府は、領土の保全と民族の独立を獲得し、民族解放と反帝国主義の二大目標を達成。この成功を受けてケマルは、ついにこの日、共和制移行に踏み切ると同時に、彼は初代大統領となった。 さらに翌年3月3日には、カリフ制も廃止し、オスマン王家全員の国外追放を決定。4月20日には全105条からなる共和国憲法が発布される。 ⇒11月10日 《クロニック世界全史》P953 |
1720年
水戸藩が『大日本史』250巻を幕府へ献上 |
月30日
チェコスロバキア独立 =1918年、チェコ= |
米英仏などの連合軍は始め、敵はドイツであり、オーストリア=ハンガリー帝国はドイツの同盟国だから戦うという程度で、帝国の解体などは考えていなかった。ところが1918年春頃から連合軍は強敵ドイツを倒すためにウィルソンの民族自決の原則をテコにして、その同盟国のハプスグルク帝国を解体する作戦に転じた。連合国のマスコミや政府は、帝国内の諸民族に独立や革命を訴える宣伝を声高に展開し始めた。 これにもっとも喜んで呼応したのがチェコ民族であった。10月初め、ドイツが休戦を申し出て間もなく、18日に皇帝カールは帝国内の諸民族に自治国家を許し、連邦制によってハプスブルク帝国の統一を保持しようとしたが時すでに遅かった。 チェコは10月28日に独立を宣言する。30日にはハンガリ−の支配下にいたスロバキア人も反旗を翻し、チェコ人と共に単一国家チェコスロバキア共和国を形成することになった。 共に戦ってきたハンガリーも11月1日、独立を宣言した。バルカンの諸民族も、後にユ−ゴスラビアといわれる『セルビア人、クロアチア人、スロバニア人の王国』を樹立する。 こうして、ほぼ650年間、中欧に君臨したハプスブルク帝国は1918年秋、あっけなく崩れ去ってしまったのである。 《エリザベ−ト》 |
○初恋の日 ■アメリカの休日 |
1890年 「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)発布 |
月31日
ルター、「95ヶ条の意見書」発表 =1517年、ドイツ= |
この日、ウィッテンベルクの教会の扉に、ラテン語で書いたルターの『95ヶ条の意見書』が張り出された。その第36条には「真に悔い改めているならば、キリスト信者は、完全に罪と罰から救われており、それは免罪符なしに彼に与えられる」とある。この意見書は免罪符の効力に関して教会内部で公開論争をするのが目的で発表されたものであったが、原文はドイツ語に訳され、発明されて間もない活版印刷機で印刷され、たちまちドイツ中に広まった。 渦を巻いて流れ出した歴史の激流は、ルターを、ドイツを、そしてキリスト教全体を、思いもかけぬ方向へ押し流していくのである。 ⇒12月10日 《世界史への旅》 インド首相インディラ・ガンディー暗殺される、1984年 |
□ハロウィン □宗教改革記念日 ■アメリカの休日 |
1517年
ルターが、ローマ教会の贖宥状(免罪符)発行を攻撃する「95か条の提題」を教会の壁に貼り出す |