11月 |
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「壁」の崩壊後、興奮して押し寄せる群衆の中には、ハンマーやのみを使い、自力で壁を破壊する者も現れた。東側の警察当局は放水で阻止しようとするが、変革への動きは止めようもなかった。 |
ニコライ二世即位 =1894年、ロシア= |
大津事件から3年半後の今日、父皇帝アレクサンドル三世がクリミアのリヴァディアの離宮で死去。ニコライが26歳の若さで即位し、ニコライ二世となった。父帝は享年49歳。 アレクサンドル三世の在位期間は12年間、対外的には平和政策をとっていたが、国内的にはアレクサンドル二世のブルジョワ的改革政策を逆行させる保守的政策を強めていた。チェ−ホフが書いているように、知識人には暗い時代であった。 ニコライ夫妻の戴冠式は1896年5月26日、モスクワのクレムリンで盛大に行われた。世界の主要国がモスクワに大物特使を派遣したのはいうまでもない。三国干渉の直後であったが、日本からも伏見宮貞愛(さだなる)親王と特命全権大使・山県有朋が出席した。 6月5日、親王は明治天皇からニコライへのご増進の象牙細工の『白大鷲置物』を捧呈した。この置物はモスクワのクレムリンの博物館『武器庫』に今なお、展示されている。 《ニコライ二世の日記》 |
○灯台記念日 □万聖節(総聖人の日) |
603年
秦河勝が聖徳太子から仏像を受け京都・太秦に蜂岡寺(広隆寺)を造営 |
月2日
ベートーベン、ウイ−ンに出発 =1772年、ドイツ= |
1792年11月2日、ベートーベンは早朝にボンを駅馬車で発つ。コブレンツ付近で、フランス軍とドイツ軍が砲火を交える中をようやくかいくぐり、一路ウィーンへとむかった。この年即位した神聖ローマ帝国皇帝フランツ二世は1806年、ナポレオンに敗れるまで在位し、神聖ローマ帝国最後の皇帝となった。 ⇒10月6日 《私の歴史メモ》 |
詩人、北原白秋没 =1942年、日本= |
1942年の今日、詩人の北原白秋は、温かい家族たちの見守る中で、静かに息を引き取った。52歳のとき、肝臓病と糖尿病とを併発し、眼底出血のために、視力に異常をきたして以来、57歳で死去するまでの5年間は、心眼によって詩作を行っていたということになる。 彼の象徴的で感覚的な作品が広く国民全体に知られるようになったのは、1918年、児童文学雑誌『赤い鳥』の創刊による。白秋はここで数多くの童謡を発表し、山田耕筰などの優れた作曲家にも恵まれ、白秋の作品は小・中・高の音楽教科書を通じて、童謡や歌曲として子供の頃より親しまれるようになった。 『待ちぼうけ』『ペチカ』『砂山』『この道』などはその代表的なものであろう。 特に数ある白秋の歌の中で、『からたちの花』を聞くときにかぎり、なぜか、白秋の生涯がイメージされるのも、あながち、不自然なことではないように思われる。 《歴史に選ばれた366人》 マリー・アントワネット生誕、1755年 |
1789年
フランス革命で、教会の財産を没収し国有化する法令を布告 |
月3日
日本国憲法公布 =1946年、日本= |
1946年11月3日。『憲法公布記念祝賀都民大会』が開かれた皇居・二重橋前は、「万歳」を叫ぶ10万人の歓呼の声がこだました。 「何故か涙がこぼれて声が出ない。・・・・・陛下が演壇から降りられると、ワ−ッという声が流れる。熱狂だ。涙をふきふき見送っている。何という感激であるだろう。私は生まれて初めてこんな様相を見た」。後に憲法改正に晩年の情熱を注ぐことになった芦田均は、こう日記につづった。 国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の『新憲法』は、芦田も含め多くの国民にとって新時代の到来を告げるものだった。しかし、それも束の間、50年の朝鮮戦争勃発を機に、再軍備問題が持ち上がり、憲法は『改憲』『護憲』の荒波に激しくもまれることになる。 《『日本を変えた日』読売新聞平成6年8月6日》 |
湯川秀樹博士、ノーベル物理学賞授賞 =1949年、日本= |
湯川秀樹博士にノーベル物理学賞のニュースは、昭和24年の文化の日にもたらされた。宮中では、志賀直哉らへの文化勲章授与式が行われた日でもあった。この日が、日本人とノーベル賞の初めての出合いとなった。 授賞の業績は『原子核の中の中間子』の理論。 この授賞は敗戦でうちひしがれた国民がようやく立ち上がろうとしていたときに、またとない精神的な力を与えるニュースだった。 《『日本を変えた日』読売新聞平成6年8月4日》 |
◎文化の日(National Culture Day) *天長節 |
1615年
伊達政宗の家臣・支倉常長がローマ教皇パウロ5世に謁見 |
月4日
ランラン・カンカン特別公開 =1972年、日本= |
1972年9月末、田中角栄首相一行が北京入りした。この日中国交回復という歴史的な場面で、アメリカに次いでパンダを日本にもらえると考えていた人は、ほとんどいなかった。 10月28日夕、ランランとカンカンは、日中の国旗を機首に付けた日航『専用機』で羽田に着いた。白と黒のクマ取りの妙味と愛らしい仕草。二頭のパンダの人気は、象のインディラをしのぐ勢いだった。喫茶店など『パンダ』を名乗る店が一般公開前に、都内だけで17軒を数えた。 この日行われた特別公開には、報道関係だけで千人を超える申し込みが殺到し、パンダ取材をめぐる取材協定が何度も結ばれた。一般公開の初日の5日、40人が一番乗りを目指して徹夜した。開園の9時には5千人が並び、開門とともに走り出し、パンダ舎の前はたちまち身動きできなくなった。動物園職員、ガ−ドマンだけでなく機動隊まで出動したが、混乱は収拾できず、延々と上野駅までつながる行列をよそに、公開は午後2時で中止された。この日並んだ人は5万6千人、パンダを少しでも見ることができた人は1万8千人に過ぎなかった。それからのパンダ人気は収まることなく、連日行列が続き、翌73年の10月までの1年間に、入場者は900万人を超えた。 《読売新聞 戦後50年にっぽんの軌跡》平成7年3月12日 |
○ユネスコ憲章記念日 |
1854年 英陸相の要請でナイチンゲールら看護婦35人がクリミア戦争の戦地トルコ・ウスクダルに到着 |
月5日
ツタンカ−メン発掘 =1922年、エジプト= |
この日、エジプト『王家の谷』で幻のファラオの墓が発見されツタンカーメンは眠りを覚ました。古代エジプト王の墓が多数残されている『王家の谷』で、ツタンカーメン王の墓を捜し求め、発掘調査を続けていたイギリスの考古学者ハワ−ド・カ−タ−が手付かずの封印付きの墓を発見した。 これまでエジプト学者の間では、『王家の谷』は発掘し尽くされ、これ以上の新たな発見は有り得ないと見られていた。だが、カ−タ−は綿密な調査に基づき、ツタンカーメン王の墓とミイラが未発掘で、それは墓の入口が土砂で塞がれ、その上に後世の王の墓が築かれたためだと推理。 ジョ−ジ・カ−ナヴォン卿の資金援助を受けて、1917年秋から発掘を続けていた。 この月26日、カ−タ−はカ−ナヴォン卿の前で封印を破り、扉を開ける。そこにはまばゆいばかりに輝く黄金の財宝が眠っていたのである。 《クロニック 世界全史》P961 |
1688年
名誉革命。イギリス議会により国王に招請されたオランダ総督オレンジ公ウイリアム夫妻がイギリスに上陸 |
月6日
エジソン蓄音機発明 =1877年、アメリカ= |
発明王ト−マス・エジソンは、ニュ−ジャ−ニ−州メンロ−・パ−クにある研究所で、この数ヶ月寝食を忘れて試行錯誤の実験を繰り返してきた。そして、ついに「メアリ−は子牛を飼っている」のことばが入ったレコードと蓄音機装置の設計に成功した。
この年7月にはすでに、モ−ルス符号の実験中に偶然発見した音と、ベルが発明した電話機とを関連付けて蓄音機の原理を発見していた。
正規の教育は、3ヶ月間小学校に通っただけというエジソンは、10歳ごろから自宅の地下室でさまざまな実験を始めた。自動中継機、投票記録機、印刷電信機などの発明に熱中した。12歳のときから聴力が弱まり、音の世界から隔離されるが、実験という彼だけの小世界で自由な発想を楽しんだ。23歳のときに、機械製作工場兼発明工場を建設しつぎつぎと技術発明を発表した。
たとえば、炭素送話機、京都産の竹で作った炭素フィラメント使用の白熱電球、活動写真、謄写版など、1,300件以上の特許を取得している。 《クロニック 世界全史》P849 |
1578年
織田信長の水軍が毛利氏と海戦。毛利水軍を破る |
11月7日
トルストイ没 =1910年、ロシア= |
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1910年の10月下旬、トルストイは放浪の旅に出た。そして、アスタ−ポボ駅(今のトルストイ駅)で倒れ、11月7日、ついに息をひきとった。
その1週間後、ガンジーはトルストイの最後の手紙を受け取った。「親愛なる兄弟へ。今、私ははっきりと死が近付いたことを感じていますが、私の心にとって、最も重要なことをあなたにお伝えします。あえて申し上げれば、それは消極的抵抗と言われることについてです。この消極的抵抗とは、いかなるいつわりの解釈によっても、決して破壊されることのない愛の教えに他なりません。 ガンジーはやがて、このトルストイの遺言とも言える言葉を守って、3億の民衆と共に、インドの独立のため、非暴力・不服従運動を押し進めていくのである。 《世界史への旅》
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☆立冬[りっとう](Beginning of winter) *ロシア革命記念日 (ソビエト連邦) |
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1914年
第一次大戦で、日本陸軍がドイツ艦隊の根拠地・青島を陥落 |
月8日
第一次南極観測隊、「宗谷」出航 =1956年、日本= |
戦後と呼ばれた時代 焼け跡にひざまづく人々の姿があった しかし、焼け跡は消えても、消して振り払えない思いが残った そんな時代に夢を見た男がいた 昭和31年11月8日 《TBS開局60周年記念日曜劇場「南極大陸」第一回放送》 |
ガリバ−旅行記出版 =1726年、イギリス= |
アイルランド出身の文筆家ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァ−旅行記』が出版された。船医ガリヴァ−の旅行記の形をとったこの本は、イギリス社会を辛辣に風刺する。 スウィフトは10年ほど前までト−リ−党派のパンフレット作家としてイギリス政界で活躍していたが、その後はアイルランドに戻っていた。彼はイギリスのウォルポ−ル政権のアイルランド統治を厳しく批判する一方、数年前から『旅行記』の執筆をすすめ、この年の春に完成原稿を抱えて久しぶりにロンドンを訪れた。彼は友人の詩人アレグザンダ−・ポ−プに出版の世話を依頼し、出版前にロンドンを離れた。 『旅行記』はすぐに評判となり、間も無くフランス語にも訳される。しかし、人間社会そのものに絶望したスウィフトは、以後十数年間アイルランドで不遇な晩年を過ごす。 《クロニック 世界全史》P586 |
○レントゲンの日 |
794年
桓武天皇が、山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布 |
11月9日
冷戦の象徴、ベルリンの壁崩壊 =1989年、ドイツ= |
この日の夕刻、東ドイツ社会主義統一党指導部は、新たな国外旅行法案による、全東ドイツ国民の西側諸国への旅行・出国・移住の完全自由化を公表した。 この直後から、ベルリンのブランデンブルク門付近をはじめとする各国境検問所には、国境の解放を知った市民が続々と押しかけ、深夜には東西の自由通行が実現した。分断のなかで長年会えずにいた親類や旧友との再開を果たし、抱き会って涙を流す者、壁によじ登って踊り出す者など、壁の周囲は翌朝まで歓喜の嵐に包まれた。 ここに1961年以来28年間にわたり東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」は崩壊し、東ドイツ自体も西側への統合・国家消滅という運命をたどっていく。 《クロニック 世界全史》P1123 東ドイツ政府は、少しでも国民の不満を和らげようと、パスポートをすみやかに発給するという規制緩和を決定した。その会議に遅刻した報道官のシャボウスキー氏は会議内容を十分に把握しないままに記者会見に臨んだ。 一説には500人以上の人が命を落としたといわれるベルリンの壁。28年間、たくさんの悲劇を生んだ東西分断の象徴は、こうして一人の報道官の「歴史上もっともすばらしい勘違い」で、一滴の血を流すこともなく、あっけなく崩れ去ったのだった。
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○太陽暦採用記念日 |
1872年 明治政府が、太陰太陽暦を廃止し、12月2日の翌日から太陽暦を採用することを決定 |
月10日
トルコの父、ケマル・アタチュルク没 =1938年、トルコ= |
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トルコを旅していると、あちこちで一人の紳士の肖像画と出会う。 彼の名はケマル・アタチュルク、トルコ共和国初代大統領である。 20世紀初めオスマン・トルコ帝国は既に弱体化し、国内では近代化、民主化の機運が高まっていた。1918年年の第一次世界大戦に敗北すると、スルタン・マホメット六世は我が身の安全と引き換えにトルコを連合軍に割譲するセーブル条約に調印した。これに対し軍人として名を馳せていたケマルはアンカラでトルコ大国民会議を開催し、革命政権を樹立した。1921年のサカリャの海戦でギリシャ軍を打ち破り、セーブル条約を破棄。新たに結ばれたローザンヌ条約でトルコの独立は守られた。 2年後にはトルコ共和国が誕生し、彼は初代大統領に選ばれた。政教分離、婦人解放、一夫多妻制の廃止、法制の改革、ローマ字表記の導入など、大統領としての彼の業績を数え上げればきりがない。トルコは近代的な民主国家へと生まれ変わったのである。1934年、国会はケマルにアタチュルク(建国の父)の称号を贈った。 1938年11月10日、生涯を母国の近代化に捧げたケマル・アタチュルクはイスタンブールのドルマバフチェ宮殿で57年の生涯を閉じた。そこはブルー・サロンからピンク・サロンに行く途中の71号室で、死亡時刻は9時5分であった。現在、ドルマバフチェに置かれているありとあらゆる時計は、9時5分を指したまま止められている。 ⇒11月15日§ 《JTBのポケットガイド トルコ》
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○エレベーターの日 |
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1890年 浅草に12階建ての凌雲閣が完成し、日本初のエレベーターが一般公開 |
月11日
第一次世界大戦に終止符 =1918年、フランス= |
この日午前5時、パリ北方のコンピエ−ニュの森に設置された鉄道列車の中で、ドイツ代表の中央党議員マティアス・エルツベルガ−と連合軍総司令官フェルディナン・フォッシュが会見し、ドイツは屈辱の休戦協定に調印した。調印を終えたエルツベルガ−は苦渋の色をにじませて、フォッシュに語り掛けた。「ドイツの7千万国民は苦しんでいる。しかし国民は死なない」と。これに対してフォッシュは冷たく「たいへん結構」とひと言述べたたけで握手もせずに列車から出ていった。ドイツは、無条件降伏にも等しい過酷で屈辱的な休戦協定を条件で受け入れざるを得なかった。 休戦協定が、この日正午に布告されると、全戦線は静けさを取り戻し、4年余りにわたった大戦は終わりを告げた。休戦を知った連合国の国民は、平和の再来を心から喜び、街に繰り出して狂喜乱舞した。ロンドンのトラファルガ−広場ではネルソン像の台座で夜通しかがり火が炊かれた。第一次世界大戦はヨーロッパの戦勝国にも敗戦国にも膨大な人的・物的損害をもたらした。 ⇒11月13日 《クロニック 世界全史》P951 次の日曜日、パリのノートル・ダム大聖堂で、戦勝祝いのミサが執り行われた。式が終了し参会者が帰り支度を始めた時、突然頭上の大オルガンが『ラ・マルセイエ−ズ』を鳴らし始めた。続いて参会者の大合唱が起こった。心の昂まりに身は震え、涙が溢れた。希望と感謝の念が、声を途切れさせた。「それは、勝利の女神が飛翔しているかの如く、反響する高い穹窿の下で、長かった不安から、なお鳴咽で震える歓喜の叫びのうちに解放されたフランス人の魂であった」(ジョルジュ・ルコント) 《ラ・マルセイエ−ズ物語》 |
○世界平和記念日
■アメリカの休日 |
1942年 第二次大戦で、独軍が全フランス領土を占領 |
月12日
岩倉遣外使節、米船にて横浜を出発 =1871年、日本= |
1871年11月12日、岩倉具視は、明治新政府の近代化を推進するには、西欧諸国に学ぶべきことを痛感し、自ら特命全権大使として、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文などを引き連れて、西欧視察の途に着いた。日本の将来を考えた岩倉は、同時に5人の少女をアメリカに留学させるべく同行させた。その中に、当時8歳になったばかりの津田梅子がいた。 アメリカに着いた梅子は、視察団一行と別れ、ワシントンのランメン夫妻の好意により、11年間にわたる留学生活を無事に終えることができた。「そのご恩のほど、海山よりも深く、まわらぬ筆には尽くしかね候」といった梅子の母の感謝の手紙はいまでも残されている。 帰国後、女性といえども、外国語、とりわけ英語の素養が必要であることを痛感した梅子は、1900年女子英学塾を誕生させた。後に津田英学塾となり、現在では津田塾大学となっている。 《歴史に選ばれた366人》 |
1907年
横綱・常陸山が訪米し、セオドア・ルーズヴェルト大統領に土俵入りを披露 |
月13日
オ−ストリア帝国の崩壊 =1918年、オーストリア= |
破局はやってきた。戦争は終結し、カ−ル一世は退位を余儀なくされ、ここにハプスブルク王朝は、13世紀の始祖ルドルフ一世以来6世紀半の歴史を閉じることになった。 すでにプラハでは革命が勃発し、その余波はウィーンに迫りつつあった。もはや帝国も国家も存在しなかった。カールに残された道は退位しかなかった。そして彼はついに1918年の今日、退位声明に署名させられることになったのである。 オ−ストリア帝国最後の皇帝カ−ル一世と皇后ツィタは、家族とともにひとまずウィーン北方のエッカルツアウの館に難を避けそれから半年後に英国軍の護衛のもと、スイスへ亡命した。臨時に樹立されたオーストリア共和国政府は、ハプスブルク=ロ−トリンゲン家の統治権をいっさい剥奪した。 ハンガリーやチェコスロバキアなどが独立したため、新生オーストリア共和国は欧州の大国から一挙に、手足も身体ももぎとられた頭脳だけの小国に転落した。領土は旧帝国の8分の1に、 5千万を数えた人口は9分の1の650万人になってしまった。 ⇒6月28日 《エリザベ−ト》
ロッシーニ没、1868年 |
クロード・モネ生誕 =1840年、フランス= |
モネといえば・・・セザンヌやルノワールらと共に印象派の画家で、別名「光の画家」とも呼ばれています。同じ対象物を異なった時間、異なった光線の下で、連作を描いていますが、その中でも有名なのが「ルーアン大聖堂」です。ジャンヌ・ダルクで知られるノルマンディー地方の町ルーアンの大聖堂は圧巻。 【た〜びメイツ】元添乗員のメルマガより |
ジョアキーノ・ロッシーニ没 =1868年、フランス= |
この日、作曲家ロッシーニはパシーで亡くなった。亡骸は2日後の16日にパシーからパリのマドレーヌ教会に運ばれ安置されたが、この教会の規模が小さいことから正式葬儀は同月正午、ショセ・ダンタンに近い聖トリニテ教会で執り行われた。
【日本ロッシーニ教会会長】水谷彰良 |
1873年 明治政府が火あぶり・はりつけの刑を廃止 |
月14日
イギリス、スエズ運河会社の株購入 =1875年、イギリス= |
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イギリスはスエズ運河の建設計画に激しく反対していた。1858年に国際スエズ運河会社が設立され、40万株が公募された際にも、イギリスからは1株の申込もなかった。 しかし、スエズ運河が完成し、希望峰回りの半分の距離でインドに達することが出来るようになった今、これまでのような態度を取り続けるわけにはいかなくなった。実際にスエズ運河を利用する船舶も、毎年一番多いのはイギリス船であった。そこで、イギリスは運河会社の株を買い入れるチャンスを虎視耽々と狙っていたが、そのチャンスは劇的なかたちでやってきた。エジプトのパシャが持株を売りに出したのである。 1875年の11月14日、日曜日の夕刻、ロンドンのピカデリ−148番地のライオネル・ロスチャイルド邸では、保守党のディズレリ−が、ライオネルと夕食を共にしていた。ちょうど食事にさしかかった時、トレーに電報を乗せて執事が入ってきた。 「−−−エジプト・パシャはフランス政府に運河会社の株の売却を申し込んだが、フランス側はその条件を呑むに至っていない」 首相は間をおいてからひとこと、「いくら?」と聞く。ライオネルはすぐパリ宛に問い合わせの電報を打った。パリからの返事は、1億フラン(400万ポンド)と記されてあった。「よし、買おう」と首相は言った。ライオネルは「そう・・・」とだけつぶやいた。 48時間後には、パシャ所有のスエズ運河会社の株は、イギリス政府の所有に移った。 《世界史への旅》
フルトン生誕、1765年 |
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1280年 鎌倉で火災。鶴岡八幡宮が焼失 |
月15日
オスマン・トルコ帝国の滅亡 =1922年、トルコ= |
ケマルがサムスンに着いたのは1919年5月19日の事だった。革命はこの日から始まった。身の危険を感じた第37代スルタンのメフメット六世は、保身だけを考えて国を売ったのだった。1920年3月16日、10万のイギリス兵がイスタンブールのガラタに上陸し、新たに当選した議員150余名を逮捕してマルタ島に投獄した。 憤慨した国民はケマルをトルコ大国民議会の議長に選出し、解放戦争を始めた。 1922年のこの日、オスマン・トルコ最後の皇帝メフメット二世は、イスタンブールのイギリス高等弁務官に亡命の意思を伝えた。17日、イギリス赤十字の救急車が、ユルドゥズ宮殿の裏宮に止まった。メフメット二世はその車に乗って埠頭に向かった。そこに1隻のモーターボートが待機していた。沖にはイギリス地中海艦隊の巡洋艦が停泊している。こうしてオスマン・トルコ帝国は623年の王朝の歴史を閉じたのである。 ローザンヌ講和会議は翌年の7月24日に調印された。列強に分割されかかったアナトリアはトルコに戻った。トルコにおけるギリシャ系住民と、ギリシャにおけるトルコ系住民との交換が決められたのはこの時である。後に世界の海運王となったギリシャ人ソクラテス・オナシスも、この時の住民交換で、トルコから去ったギリシャ人の中の一少年だったのである。⇒10月29日 《世界の都市の物語 イスタンブール》 |
□七五三 |
1614年 大坂冬の陣で徳川家康軍が大坂城攻撃に出陣 |
月16日
スウェ−デン王グスタヴ・アドルフ没 =1632年、ドイツ= |
スウェーデン軍と神聖ローマ帝国軍が、ライプツィヒ近くのリュッツェンで激突した。戦いはスウェーデン軍の優勢のうちに終わるが、国王グスタヴ二世アドルフがこの日重傷を負った後、戦死した。37歳だった。 1611年に16歳で即位したグスタヴ二世は、王国の改革・近代化に力を尽くし、スウェ−デンを ヨーロッパの列強の一つに押し上げた。 2年前に三十年戦争に介入し、北ドイツに侵攻して以来、スウェーデン軍は破竹の勢いで各地を転戦し、さる4月14日のレヒ河畔の戦いでは、皇帝軍を率いる将軍ティリに致命傷を与えた。 形勢不利とみた皇帝フェルディナント二世は、2年前に罷免した ヴァレンシュタインを総司令官に再起用し、両軍はこの日、リュッツェンで戦闘に突入したのである。スウェーデン軍は皇帝軍を敗退させたものの、国王グスタヴ二世アドルフは帰らぬ人となった。 《クロニック世界全史P514》 |
1632年 30年戦争・リュッツェンの戦い。スウェーデン王グスタフ2世がワレンシュタインの皇帝軍と衝突。グスタフ2世が戦死するもスウェーデン軍が勝利 |
月17日
スエズ運河開通式 =1869年、エジプト= |
ディッチ・ディガーとは、『溝堀り人夫』のことである。スエズ運河の開発は、基本的にみれば、そこに格別新しい土木技術上の冒険はなかった。ただひたすらに掘り続ける人間のエネルギーだけが必要だったのである。それゆえ、スエズ運河は「溝掘り人夫の壮大な夢」と呼ばれた。 フランスの外交官レセップスによって1859年に着工された同運河は、着工後10年の歳月を経て1869年に完成した。地中海と紅海をつなぐ全長168キロ、幅22メ−トル、深さ8メートルのスエズ運河の建設工事には、エジプトの大守サイド・パシャの尽力によって、月々2万5千人のエジプト人労働者が提供されたという。それは過酷なエジプトの太陽のもとで繰り広げられた、希にみる人海工事であった。 このようにして開発されたスエズ運河が、人類の輸送史上いかに画期的な出来事であったかは、世界地図を広げてみれば明らかである。巨大なアフリカ大陸を迂回せざるを得なかったヨーロッパとアジアの通商航路はスエズ運河によって一挙に短縮された。あのナポレオンも夢見て果たせなかったスエズ運河は、一人のフランス人と無数のエジプト人が作った。 この日の栄えある開通式に、イスマイル・パシャは、オーストリア皇帝やナポレオン三世の皇后ユ−ジェニ−をはじめヨーロッパ諸国の元首と名士を招待した。イスマイル・パジャとレセップス、そしてフランスはこの日、栄光の絶頂にあった。 ⇒11月14日 《世界史への旅》 |
○将棋の日 ◇ボージョレヌーボー解禁 <11月第3木曜日> |
1659年
「ピレネー条約」によりスペインとフランスの国境がピレネー山脈に画定 |
月18日
プリュメ−ル(霜月)18日のク−デター =1799年、フランス= |
ナポレオンは第一統領となり「市民諸君、革命は当初の原理にもどった。革命は終わった」と宣言する。ナポレオンは、総裁政府の不人気と、内外政策の行き詰まり乗じてク−デタ−を断行し、政権を掌握した。この日は共和国歴第八年のプリュメ−ル(11月18日)にあたる。 エジプト遠征を敗北と判断したナポレオンは、エジプトを脱出し、10月16日パリに戻った。パリは彼を熱狂的に迎えた。ナポレオンは、弟リュシアン・ボナパルト等とクーデターの準備を始め、この日実行に移したのである。 しかし、クーデターは500人議会の強い抵抗に会い、「独裁者を打倒せよ」といった叫びがナポレオンに発せられた。このため翌日の夕方には軍隊が議場に入り、議会を屈服させる。そして元老院は、ナポレオンを臨時統領に任命する。 こうしてこのクーデターは革命に終止符を打つ。民衆の圧力による体制の変革の道は閉ざされ、政権は軍事的独裁に委ねられることになる。 《クロニック 世界全史》P683 |
※ミッキーマウスの誕生日 |
1832年
シチリア島のエトナ火山が噴火。麓の村落が全滅し死者数千人 |
11月19日
メイフラワ−号、アメリカへ到着 =1620年、アメリカ= |
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この日、イギリスのピルグリム(分離派教徒)30人を含む102人を乗せた帆船メイフラワ−号が、マサチュ−セッツのコッド岬に到着した。乗務員の中にはピルグリム以外の農民や奉公人も含まれていたが、後に移住者全員がピルグリム・ファ−ザ−ズと呼ばれるようになる。 イギリス国教会からの分離を求めるピルグリムは、信仰の自由を求めて同じ新教国のオランダのレイデンに亡命したが、生活苦から新大陸への移住を決意した。彼等を乗せたわずか180トンの帆船メイフラワー号は、去る9月16日、イギリスのプリマス港を出航。当初、ヴァ−ジニアをめざしたが、嵐に遭い、予定よりもはるか北方に漂着した。 ⇒4月19日 《クロニック 世界全史》P505
レセップス生誕、1805年 |
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1335年
新田義貞らが足利尊氏追討の為、京都を出発 |
月20日
ニュ−ルンベルク裁判開廷 =1945年、ドイツ= |
ナチス・ドイツの主要戦争犯罪人に対する国際軍事裁判が、党大会開催地で知られるナチスゆかりの地、ニュルンベルクで開廷した。 占領国の米英仏ソの4ヶ国で構成された国際軍事法廷では、23名の被告が平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪、共同謀議のかどで、また7つの組織が犯罪組織の容疑で裁かれる。第一次大戦では実現しなかった戦犯裁判が、史上初めてここに実現したのである。 裁判は、この年8月8日のロンドンでの4ヶ国合意(ロンドン協定)により403回の公判ののち、翌年9月30日と10月1日に判決が出される。空相ゲ−リング、外相リッベントロップら12名に絞首刑、総統代理ヘスら3名に終身刑、軍需相シュペ−ア、ヒトラーの後継首班デ−ニッツら4名に10〜20年の禁固刑の判決が下り、元蔵相シャハトら3名が無罪となる。 《クロニック 世界全史》P1023 |
○ピザの日 |
1890年 帝国ホテルが開業。煉瓦造り3階建てで70室 |
11月21日
皇帝フランツ・ヨ−ゼフ死去 =1916年、オーストリア= |
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不死身とも思われた皇帝もついに天寿を全うする日がやってきた。大戦勃発から2年後、 1916年のことだった。 数日前から高熱を発し、咳がひどくなっていた老帝は、それでも書類に署名する義務を果たし続けた。彼は死ぬ直前まで、5千万人のオ−ストリア帝国の君主であり、国家の唯一の支柱であり続けた。この86歳の皇帝は、この日の夜9時に、末娘マリ−・ヴァレリ−やカ−ル夫妻に見取られながら永眠した。 「人間はどんなに苦しいことがあっても、耐えてゆかねばならないのだ。私の人生は悲しみの連続だったが、放り出すわけにはいかなかった」。 皇帝の死は、国民に大きな衝撃を与えた。68年間という長い在位のため、その死を信じない国民も少なくなかった。フランツ・ヨ−ゼフ皇帝はビスマルクのような天才的な外交手腕は持たなかったが、誠実な人柄で、多民族国家のかすがいである国父のような存在だった。オーストリア帝国の象徴の死によって多民族国家はその絆がゆるみ、大きく崩壊への一歩を踏み出した。 《エリザベ−ト》
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○インターネット記念日 |
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1806年 ナポレオンが「ベルリン勅令」(大陸封鎖令)を発布。大陸諸国とイギリスとの通商を全面禁止 |
月22日
ケネディ−大統領暗殺 =1963年、アメリカ= |
この日、アメリカの第35代大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディが、テキサス州ダラス市内を車でパレード中に狙撃され、午後1時、病院で死亡した。その運命の瞬間を、地元で洋裁店を営むエイブラハム・ザプルーダーという人物が、8ミリ・フィルムに収めていた。 ケネディとジャクリ−ン夫人を乗せた車が、ヒューストン通りを左折してエルム通りに入ってくる。大統領夫妻は笑顔で群集に手を振っている。車が数秒間、道路標識のかげに隠れる。そして、そこから出てきたときには、ケネディ大統領はもう狙撃されていた。彼は両手を喉に当てた。ケネディの身体が左側にいるジャクリ−ン夫人のほうに傾く。彼女が心配そうにケネディのほうをのぞきこむ。そのとき突然にケネディの頭部から血が吹き出して、大統領の上半身が左後方に大きくのけぞった。ジャクリ−ン夫人が、その修羅場から逃げ出そうとしてオープンカーの後部のボンネットの上によじ登る。車はそのままスピードを上げてその場を走り去った。 暗殺の当日、アメリカ大統領暗殺のニュースは瞬く間に世界中に伝わった。ケネディ暗殺事件がアメリカ人に与えた衝撃は計り知れないものだった。いまでも多くのアメリカ人は、ケネディが撃たれた日に、自分がどこで何をしていたかを覚えているといわれている。 この事件を目の前に突きつけられて、アメリカ人は、古き良き時代が終わりかけていることをはっきりと認めざるをえなくなった。自分たちの生活にも、そして自分たちの国にも、不幸が起こりうることを認めざるをえなかった。南部を中心にすでに激しくなりつつあった公民権運動やベトナム戦争に、真正面から向き合わざるをえないことを覚悟させられることになった。そういう意味で、ケネディ大統領の暗殺事件は、それ以前の純粋で無垢なアメリカ人と、それ以後の傷付いたアメリカ人を分かつ決定的な出来事だったのである。 ⇒1月20日§ 《ケネディ−その実像を求めて》 |
☆小雪[しょうせつ] |
1497年
ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸の南端・喜望峰を通過 |
月23日
ライフ創刊 =1936年、アメリカ= |
この日タイム社社長ヘンリ・ル−スが『タイム』を創刊した。マ−ガレット・バ−ク・ホワイトが撮った力強い表紙など、時代を切り取った多数の写真を収録した創刊号は、46万6千部を完売。やがてこの10セントの週刊誌の専属になるため、世界中から一流カメラマンが馳せ参じ、傑作がつぎつぎと登場、大衆フォト・ジャ−ナリズムの時代をつくる。1972年に廃刊となるまで通算1,864号が刊行された。 《クロニック 世界全史》P995 |
◎勤労感謝の日(Labor Thanksgiving Day) *新嘗祭[にいなめさい] ※一葉忌 |
1707年
富士山が最後の大噴火。東側に新山が出現し宝永山と命名 |
11月24日
B29による東京空襲始まる =1944年、日本= |
10回余にわたる十分な写真偵察の後で、B29による本格的な東京空襲が始まったのは11月24日である。午後1時、編隊は8機、12機、23機という風に波をなして東京上空に侵入した。 マリアナ基地の第21空軍司令官ヘイウッド・ハンセル准将は、中島飛行隊・武蔵野工場を爆撃目標に指示したが、上空が雲に覆われていたため、総機数110機の大部分は東京都内に目標を替えた。晴れた冬の空に、小さく銀色に輝く編隊が、並行した白い雲の糸を後ろに長く引きながら、東京の空を真っ直に横切った。奇妙なほどの美しさに見とれる都民の頭上に、高空から精密な照準で2,700トンの爆弾が投下された。地上からは迎撃の日本戦闘機が飛び立ち、東京を護る24門の全高射砲の弾幕が張られた。戦闘機の1機はすがるようにB29の尾部に体当りし、海上に墜落させた。 町には『欲しがりません勝つまでは』とか『進め一億火の玉だ』などというスローガンが氾濫し、新聞やラジオの大半は、神風機の体当り攻撃の記事で占められた。 陸軍と海軍が競争で特攻隊の宣伝をしているかの印象を与えた。 《原爆が落とされた日》 |
○オペラ記念日 ○東京天文台設置記念日 ■アメリカの休日 |
1859年
ダーヴィンの『種の起源』がイギリスで出版 |
月25日
三島由紀夫、割腹自殺 =1970年、日本= |
この日、作家、三島由紀夫が『盾の会』の会員とともに東京・市ケ谷の自衛隊で割腹、自決した。午後零時20分のことであった。この日、東京地方は朝から快晴、初冬の訪れを感じさせるやや冷たい風の吹く日だった。 陸上自衛隊二等陸佐だった中村董正は、東部方面総監室を占領した作家、三島由紀夫に名刀、関の孫六で切られ、6ヶ月の重傷を負うはめになった。中村らを切った三島はバルコニーに出て演説を始めた。1千人近い自衛官が集まっていた。三島は叫んだ。「日本を守るとは何だ。 日本を守るとは、天皇を中心とした歴史と文化の伝統を守ることなのである」 「お前ら聞け。静かにせい。話しを聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ」「諸君は武士だろう。武士ならばだ、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」 「日本は経済的繁栄にうつつを抜かして、精神的にはカラッポになってしまってるんだぞ。君たちそれがわかるか」だが、自衛官たちの反応は冷ややかだった。三島めがけてやじが飛んだ。「そのためにわれわれの総監を傷つけたのはどういうわけだ」 「総監を解放しろ」。三島が言い返す。「生命より大切なものを教えてやる」。よく通る声だった。 この後、三島は再び総監室に入った。縛られた益田は、さるぐつわがゆるんだすきに「なぜこんなことをするのか」と問い詰めた。三島は「自分は仕方がなくなったのだ」と答えた。 この後、三島は「えい」と気合いを入れて腹を切った。 《戦後史開封》 |
※憂国忌 ▽感謝祭(Thanksgiving Day) (アメリカ合衆国) <11月第4木曜日> |
1253年
鎌倉幕府執権・北條時頼が建長寺を建立し落慶法要 |
月26日
イサベル女王死去 =1504年、スペイン= |
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1504年11月26日、スペイン女王イサベルは息を引き取った。 「世界は最も高貴な装飾を失ったのです。それは女王がその栄光に導いたスペインにとっての損失だけでなく、キリスト教圏の総ての国々にとっての損失と言えましょう。古代、現代を通じて、私はこの女王と肩を並べられる女性を知りません」 。 女王の傍らで30年間働いてきた忠実な側近デ・アングレリ−アはその日、グラナ−ダ大司教に女王の死をこう伝える。 フランドル、ポルトガル、イギリスと散った娘達は、母の死の床にはこられなかった。栄光と悲哀、歓喜と絶望の間を激しく揺さぶられつつも、常に自分の道を歩き続け、女王として母として最後まで運命と戦ったイサベルは、しかし、変わらぬ愛情の対象であった夫や友や側近達に見守られつつ、大往生を遂げた。時に53歳。 死はその人の人生が一時に集積されたもの、との言い廻しを、身をもって証明した死。「キリスト教徒としてスペイン女王としてまた母として、女として、非の打ちどころなく生きる」との執念に近い願望に日々支えられていた生の、非の打ちどころない終焉であった。イサベル女王の次の時代に、スペインは最大の領土と最強の兵力と最高の富とを掌中にするに至る。しかし心ある人々は既に、この『輝けるスペイン大伽藍』の柱に走る亀裂を見る。 この時代の歴史家デ・オビエドはイサベル女王時代を振り返り、「あの頃こそ真の黄金時代で、正義の時代であった」と述懐する。⇒12月13日§ 《イサベルの栄光と悲劇》
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1180年 平清盛が都を福原から平安京に戻す |
月27日
クレルモンの町にて教皇ウルバヌス二世の演説 =1095年、フランス= |
1095年の晩秋、パリの南々東388キロの地にあるクレルモンの町は、いつもの年には見られないざわめきに包まれていた。この日、クレルモン市東城門の外に特設された野外集会場には、数千人の人々が集まった。教皇ウルバヌス二世の演説を聞くためである。 フランス出身のこの教皇は、この群集を前に、草稿も持たずよく通る声で語りだした。「エルサレムとコンスタンチノープルの兄弟から、しきりに訴えが届いています。ペルシャからきた侵入者 トルコ人が、武力でキリスト教徒を追放し、略奪を働き、町を焼き払っているのです。神の教会は滅ぼされ、信仰はふみにじられています。このような悪を正し、かの地を回復することは、皆さんの義務であります。エルサレムの『乳と蜜の流れる国』は、神が皆さんに与えたもうた土地であります」。ヨ−ロッパ人同士の喧嘩はやめて、イスラム教徒をやっつけようと教皇はすすめたのだった。 教皇が予定している出陣の日は、1096年8月15日の聖母被昇天祭の日となっていた。しかし、費用が整った諸侯は、それより早く出発した。これが13世紀の末まで7回も繰り返された十字軍の遠征の始まりであった。 ⇒7月29日 《世界史への旅》 |
○更生保護記念日 関聯記念日 司法保護記念日 <9月13日> 更生保護制度施行記念日 <7月1日> ○ノーベル賞制定記念日 関聯サイト ノーベル財団(Nobel
e-museum) http://www.nobel.se |
1095年 ローマ教皇ウルバヌス2世が、イスラム教徒から聖地エルサレムを奪還する為の「十字軍」を提唱 |
月28日
国民皆兵、『徴兵』の詔書発布 =1872年、日本= |
1872年の今日、国民皆兵を内容とする『徴兵』に関する詔書が発せられた。以来、1945年8月の太平洋戦争の終結にいたる73年間にわたって、本人の意志とは無関係に、いわゆる一銭五厘の赤紙と称せられた招集令状一枚によって、数多くの生命が失われた。 この徴兵制度の導入を強力に主張したのは山縣有朋であった。山縣は長州の出身で、吉田松陰の松下村塾に学び、熱狂的な尊皇攘夷論者となった。生来、頭脳のほうは平凡なわりに、権力に対する執念は異常に強く、学問がだめなら武力で圧倒しようという性格の持ち主であった。 山縣、伊藤博文らとともに、長州閥を強固のものとし、明治新政府を実質的に動かしていた。 まず山縣の地盤である軍事面では、徴兵制度を導入すると同時に、軍人勅論を公布させ、天皇による総帥権なるものを確立し、国政の上位に位置付けることに成功した。 俗に維新の志士とか、明治の元勲と呼ばれる人物の中では、人物、資質、ともに二流以下の山縣が、1921年、84歳で死去するまで、元老としての権力を保持し続けたことは、歴史の皮肉とはいえ、日本国民にとっては大いなる不幸であった。肥大化する官僚機構、政界をはじめとする各界にはびこる派閥とムラ意識などは、いまだに山縣の権勢力の落とし子として、はびこっている。 《歴史に選ばれた366人》 |
○太平洋記念日 |
1520年 マゼランが南米最南端の海峡(マゼラン海峡)を通過。「太平洋」を命名 |
月29日
国連総会、パレスティナ分割案可決 =1947年、ニューヨーク= |
国連総会はこの日、パレスティナ特別委員会の提出したパレスティナ分割案を賛成33、反対13、棄権10で可決した。その内容は、パレスティナをアラブとユダヤの二つの国に分割し、エルサレムとその周辺を国連信託統治下に置くというものである。 パレスティナを委任統治してきたイギリスは、パレスティナ内部のアラブとユダヤの対立抗争や、欧米諸国の強い非難のために、さる2月国連に問題の解決を一任した。そのため国連は、パレスティナ特別委員会を設置。委員会は現地調査を経て、パレスティナ分割案とアラブ・ユダヤ連邦国家案を併記した報告を提出していた。だが、アメリカの強引な多数派工作もあって、この日、分割案が可決されたのである。 これを不服とするアラブ側は、ゼネストを打つなど抵抗の姿勢を示し、アラブとユダヤの衝突は激化。多くの死傷者が続出する事態となる。 《クロニック 世界全史》P1029 |
○議会開設記念日 ○パレスチナ人民連帯国際デー |
1910年 白瀬矗中尉ら南極探検隊28人が開南丸で東京・芝浦を出港 |
ダ−ウィン、種の起源出版 =1859年、ロンドン= |
著名な博物学者チャ−ルズ・ダーウィンが、『自然淘汰の方途 による種の起源』と題する書物を出版した。この本は、彼の20年来の着想をまとめたもので、生物が自然淘汰・生存競争・適者生存という過程を経て進化していくことを唱えた画期的な理論を提示した。 ダ−ウィンは、1839年の『ビ−グル号航海記』で生物学者として認められ、53年には王立協会から権威ある賞を授与されていた。その出世作の原動力となったビ−グル号での航海の際にすでに『進化論』の構想を抱いていて、44年には35枚程度の覚書として記していた。 『種の起源』発行による進化論の提唱は、生物学界だけではなく,社会的にも大変な反響をもたらした。神が人間や動物を創造したとする聖書のことばが信じられていたため、ダ−ウィン説は熱心な信者や教会から強い非難を浴びた。しかし、一方ではトマス・ハクスリ−、エルンスト・ヘッケルといった当代一流の学者からは強い支持を受け、進化論は19世紀最大の理論として広く認められることとなる。 ⇒10月2日§ 《クロニック 世界全史》P807 チャーチル生誕、1874年 |
○カメラの日 |
1872年
イングランド対スコットランドのサッカー公式国際試合開催。初のサッカー公式国際試合 |