6月 |
|
1914年6月28日、フランツ・フェルディナント大公と大公妃がサラエボで撃たれた。第一次世界大戦の幕開けの一発である。 |
パリ〜コンスタンチノ−ブル、オリエント急行開通 =1889年、イスタンブール= |
1889年、6月1日、パリからコンスタンチノーブルまで陸路を一直線にオリエント急行が快走し ヨーロッパと東方世界がダイレクトに結ばれることになった。ヨーロッパの火薬庫 西暦330年、コンスタンチヌス大帝がこの地を首都に定めてからビザンチン・オスマン帝国として実に1,600年の長きにわたって世界に君臨し、今もトルコ人、ギリシャ人、ユダヤ人達が一緒に生きているこの町は、ヨーロッパともアジアとも違うダイナミックな魅力を持っている。 かつて、オリエント急行の『オリエント』という言葉の響きがヨーロッパの人々をどんなに魅了したことか・・・・。 オリエント急行は東洋を走ったわけではない。西ヨーロッパの人々の夢を乗せて『東洋へ向かって』走ったわけである。今また、ヨーロッパでもオリエント急行が人気であるが、古き良き時代のデラックス列車を偲ぶというだけではなく、この根底には変わらぬ東方世界への憧れが、今も脈々と流れているのである。 《オリエント急行の十八時間》 |
○気象記念日 ◇衣替え,衣更え,更衣 |
1884年
日本初の天気予報が出され警察所・派出所に掲示 |
エリザベス女王戴冠式 =1953年、イギリス= |
この日、午前11時15分、ロンドンのウェストミンスタ−寺院で、前年2月に即位した女王エリザベス二世の戴冠式が行われた。 世界74ヶ国の代表が居並ぶなか、白いドレスに真紅のロ−ブ姿の女王が、夫君エディンバラ公とともに入場。古式ゆかしい衣装やパイプオルガンの音色が式典に豪華さ、荘厳さを添えた。宣誓式、承認式など17の儀式で構成されたこの式典は、午後0時30分、カンタベリ大主教が女王の頭上に王冠を乗せ、クライマックスを迎えた。 このところ肌寒い日が続いており、朝から小雨のぱらつくあいにくの天気だったが、沿道には300万人にものぼる見物人がつめかけ、女王のパレ−ドを熱狂して迎えた。 《クロニック 世界全史》P1041
|
○横浜港開港記念日,長崎港記念日 |
1180年 平清盛が安徳天皇を奉じて福原(現在の神戸市兵庫区)に遷都。11月に平安京に戻す |
人類初めて八千メートルを征服 =1950年、ヒマラヤ= |
8千メ−トルを越える山は、此の世に14しかないが、アンナプルナは、このうち11番目の山である。1950年モ−リス・エルゾ−グの率いるフランス隊は、アンナプルナ(8,091M)か、ダウラギリ(8,167M)のどちらかに登る予定でヒマラヤへと旅だった。時間をかけた偵察の後、彼らはアンナプルナのほうを選んだ。 最初のうち登山は順調に進み、エルゾ−グはラシュナルと連れ立って頂上へと向かった。 彼等は酸素ボンベを持っておらず、一歩一歩高度が増すにつれて絶えず襲ってくるめまいと、集中力の減退と戦わなくてはならなかった。だが、歯をくいしばって前進を続け、あえぎあえぎ疲労の極に達しながらも、この日、ついに頂上に辿り着いたのである。 彼等はフランス国旗を立て、互いに写真を撮り合ってから、下降に移った。エルゾ−グとラシュナルの二人は凍傷のため手足の指をいくつか切断しなければならなかった。 彼等の登山は、ヒマラヤにまったく新しい時代を画すものであり、きたるべき『新黄金時代』の黎明を告げるものであった。 《探検の世界史》 |
◇ウェストン祭 |
1853年
ペリー米東インド艦隊指令長官が、大統領の親書を携え軍艦(黒船)4隻で浦賀に来航。 |
連合軍の快進撃 =1944年、イタリア= |
東部戦線では、決戦の舞台はいまワルシャワ付近に近付いていた。ソ連軍の先鋒は東プロシアの国境から20キロのところまで迫り、前の世界大戦での歴史的大勝を記念して、タンネンベルクに建てられていたヒンデンブルグ元帥の銅像は、ドイツ軍の手によって爆破された。ヒンデンブルグは大統領の時、祖国の将来を託して、ヒットラーを首相に任命したのだった。 西部戦線では、剛勇無双の名を売ったアメリカの第三軍のパットン将軍が破竹の進撃を続けていた。ローマは6月4日、連合軍の手に落ちていた。フロ−レンスにもすでに連合軍が接近し、 ヒトラーは全市の破壊を命じた。そしてアルノ河にかかる全ての橋は爆破されてしまったのである。 《帝国の死角》 |
1841年
操業中に遭難した土佐の漁師・中浜万次郎(ジョン万次郎)がアメリカの捕鯨船に救助される |
マ−シャル・プラン発表 =1947年、アメリカ= |
トル−マン・ドクトリンから3ヶ月たった6月5日、米国は矢継ぎ早にもう一つの重要政策であるマーシャル・プランを発表する。マ−シャル国務長官がハーバード大学で、ヨーロッパの経済復興のため、大規模な援助を行う用意があることを表明したのである。 トル−マン・ドクトリンが軍事援助であるのに対し、マ−シャル・プランは経済援助であり、いわば米国の政策の車の両輪であった。 《エリザベ−ト》 |
☆芒種[ぼうしゅ] ○環境の日,世界環境デー(World
Environment Day) |
1864年
池田屋騒動。新選組が京都三條小橋の旅宿・池田屋に集まっていた尊皇譲夷派の志士を襲撃。2時間の斬り合いで志士7人を殺害、23人を捕らえる |
史上最大の作戦 =1944年、フランス= |
この年の6月に、悲劇の第三楽章が始まった。期せずして、ほとんど同時に行われた連合軍のノルマンジ−上陸と、アメリカ軍のサイパン上陸作戦である。連合軍の上陸地点と予想されるノルマンジ−では、砂漠の英雄ロンメル将軍が鉄壁の守りを固めていた。 名将ロンメルが、上陸作戦に対し正攻法をとるならば、連合軍上陸部隊の大半が、再び海中に追い落とされる可能性は十分だった。しかしその奇跡は実現しなかった。圧倒的な装備を持った米英連合軍の精鋭32万はわずか一日で、完全に橋頭堡を樹立した。 この運命の日6月6日に、ロンメルは休暇をとってドイツに帰っていた。ちょうどこの日が彼の妻の誕生日にあたっていたためだったという。靴一足のプレゼント、最愛の妻に対する送り物がどれほど高くついたことか。ヨーロッパの戦いの勝敗は、事実上この日に決したようなものだった。 《帝国の死角》
|
○恐怖の日 |
BC48年
ファルサルスの戦い。ユリウス・カエサルがポンペイウスを撃破 |
第一次十字軍、エルサレムに到達 =1099年、= |
西暦1099年6月7日、十字軍は十字軍はついに、イエルサレムを遠望する地に到達した。諸侯たちは馬から降り、甲冑のたてる金属音の中で、まるで教会の中にでも入ったかのように、うやうやしく片ひざをつき、兜を脱いだ。騎士たちも馬を降り、それにつづく。 兵士たちに至っては思わず両ひざをついてしまい、両手を上にあげて泣き出す者までいた。誰もが感動に震え、感涙にむせんでいた。生まれたときからくり返し聴かされてきた聖都イエルサレムが、今や彼らの眼の前にある。おりからの夕陽を浴びて静かにそこにあるのだった。ついに来たのだ、という想いが全員の胸を満たし、それがあふれてくるのを甘美な想いで受けとめていたにちがいない。 第一次十字軍の戦士たちは、この瞬間、謙虚な巡礼者になりきっていたのである。この想いの前では、諸侯と兵士の差はなくなっていた。免罪に釣られて十字軍に参加していた人殺しや盗賊と、初めから神に一生を捧げると誓約した聖職者のちがいもなくなっていた。 イエルサレムは、この種の想いを人々に感じさせる都市なのである。だが、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の別なく、同じたぐいの想いを抱かせてしまうところが、一神教間で摩擦を産む原因でもあるのだった。 ⇒7月15日《十字軍物語》塩野七生著
ゴーギャン生誕、1848年 |
ウィーン、エリザベ−ト像除幕式 =1907年、オーストリア= |
1907年6月7日、ウィーン中心街にある国民公園で、フランツ・ヨーゼフは、オーストリア皇后 エリザベトの像の除幕式を行った。いつもウィーンから逃れようとしていたその人の死後、ウィーンがあらためて敬意を表したといえる。皇后は椅子に掛け足元に大型犬が2匹いる。 皇后の瞳はホーフブルクを見つめている。像の前では、現在でも時々演奏会が催され、過ぎ去った時代へのノスタルジアをかきたてる。ハンガリーでは政変はあったが、エリザベトの思い出は今も生きていてドナウ川にかかる橋は、いまでもエリザベト橋である。 《麗しの皇妃エリザベト》
ゴーギャン生誕、1848年 |
1628年
イギリス議会の「権利の請願」を国王チャールズ1世が承認 |
マホメット没 =632年、サウジアラビア= |
7世紀始め東西貿易で栄えるアラビア半島のメッカで、マホメットが唯一神アッラ−の前に皆平等であるとするイスラム教を唱えた。 632年、マホメットは,谷底の町に集まった大衆を前に、ラクダの上から語った。 マホメットの死後もイスラム教はこの地にしっかりと根をおろし、これを迫害する大商人階級を信徒とともに破り、半島をイスラム教で統合した。1世紀後には、後継者により、中央アジアからイベリア半島におよぶイスラム帝国が建設され、首都バグダ−ドが賑わった。アッラーへの祈りは、今日も約7億人の全世界のイスラム教徒によって一日もかかすことなく続けられている。 《世界史への旅》 |
○大鳴門橋開通記念日 ○成層圏発見の日 |
1867年 オーストリアハンガリー帝国が成立 |
ウィーン会議最終議案書調印 =1815年、オーストリア= |
||
1814年、ヨーロッパの秩序の再建を目指して開かれたのがウィーン会議である。ウィーンには90の王国、53の公国の代表たちが集まってきた。だが、会議とはいうものの、正式な開会式もなく、参加国の総会も一度も開かれず、舞台裏の取引に終始し、会議は長引くばかりであった。 主人役のオーストリア皇帝は代表たちのために宴会、観劇会、舞踏会を開いて接待に努めた。皮肉なある将軍は言った。「会議は踊る。されど会議は進まず」。ところがそこに驚くべきニュ−スがもたらされた。ナポレオンがエルバ島を脱出してフランスに上陸し、あわてふためくルイ十八世を尻目に再び皇帝として迎えられたのだ。 諸国は同盟してナポレオンに対戦する。彼の『百日天下』に終止符を打ったワ−テルロ−の戦いの直前の今日、ウィーン会議最終議案書が調印され、それに基づいてウィーン体制が打ち立てられることになった。 しかし、ウィーン体制の最大の弱みは、フランス革命によってヨーロッパの各地に芽生え始めた民族意識に何らの考慮を払うことなく、正統主義の原則で割り切ってしまったことにある。
そして、事実この後のヨーロッパには革命の嵐が吹き荒れるのである。 《教養人の世界史》
フィリピンのピナトゥボ火山、今世紀最大の噴火、1991年 |
||
1815年
ウィーン会議最終議定書が調印。ナポレオン戦争後のヨーロッパの国際秩序(ウィーン体制)の骨子が定まる |
ガウディ没 =1926年、スペイン= |
スペインを代表する建築家アントニオ・ガウディが、この日、73年の生涯を閉じた。 バルセロナ近郊の小さな町レウスに銅器職人の子として生まれた彼は、バルセロナの建築学校に入学。卒業後は、ギリシャ・ローマの古典様式、スペインで展開したイスラム建築、バロック様式の建築などの研究を土台にした歴史主義と称される第一期、自然をモデルにした自然主義の第二期、晩年のサグラダ・ファミリアに専念した第三期を通じて数多くの作品を残した。 1882年に着工したこの教会はいまなお建築中である。 《クロニック 世界全史》P973 |
ケネディ、生涯最高の演説 =1963年、アメリカ= |
この日ケネディは、彼が生涯に行ったなかで最も素晴らしいものだと言われる演説をアメリカン大学の卒業式で行って、自らの平和に対する信念と希望を表明した。 「どのような平和をわれわれは求めているのであろうか。それは、この地球上での生活を生き甲斐のあるものにする平和、人類と国家とが成長し希望を持ち、子孫のためによりよい社会を築くことのできる平和である。単にアメリカ人のための平和ではなく、全人類のための平和である。単にわれわれの時代だけの平和ではなく、永遠の平和である」。 「まず第一に、平和そのものに対するわれわれの態度を再検討してみようではないか。あまりにも多くの人間が、平和は不可能であると考えている。しかしそれは、危険な、敗北主義的な考え方である。こうした考え方を受け入れる必要はない。われわれの問題は、人間が生んだものである。それゆえ、人間はそれを解決することができる。人間は、自らが望むだけ大きくなることができる。人間の運命に関するどんな問題も、人間の力の限界を越えたものはない。人間の理性と精神は、これまでにもしばしば解決不可能に見える問題を解決してきた。そしてわれわれは、いままたこの問題を解決できると信じている」−中略−「世界が知っているように、アメリカは決して戦争を始めない。われわれは戦争を欲していない。われわれは、弱い国が安全であり、弱い国が公正である平和な世界を築き上げるために、われわれにできることをするつもりである。自信を持ち、恐れることなく、人類滅亡の戦略に向かってではなく、平和のための戦略に向かって、われわれは努力を続けるのである」 ケネディのこの演説をフルシチョフは、「ルーズベルト以来の、アメリカの大統領による最高の演説」と激賞した。この演説はソ連の新聞にも全文が掲載され、ラジオを通してもソ連の人々に聞かれた。ソ連はそれまで15年間にわたって、3千を越す発信機と年間7億ドルの費用を費やして西側の放送を妨害してきたが、このケネディのアメリカン大学での演説以後、いっさいの妨害を停止した。 フルシチョフは7月2日、大気圏内での核実験停止条約を結ぶことに賛成した。これはケネディ政権が歴史に残した最も大きな成果だった。相変わらず共産主義との対決を唱える政治家が多かったなかで、ケネディが正しい歴史認識を持っていたからこそ成し遂げることができた成果だった。 ⇒11月22日 《ケネディ−その実像を求めて》 |
○時の記念日 □聖体祭(Corpus Christi)
<イースター(今年は4月11日)の60日後> |
1913年 森永製菓がミルクキャラメルを発売 |
メッテルニヒ死去 =1859年、オーストリア= |
フランス皇帝ナポレオン三世にとってオーストリアがミラノ、ベネチアを支配しているのは我慢できないことであった。この年の5月3日、フランスはオーストリアに対し宣戦布告する。フランス・ピエモンテ連合軍は、ミラノ近郊のマジェンタという村落での戦闘で始めての勝利を手にした。 オーストリアはこの戦いでロンバルディアを失い、3日後、ナポレオン三世はミラノに進駐した。 この戦いに忙殺されるフランツ・ヨ−ゼフのもとに、追いうちをかけるように悪い知らせが届いた。6月11日午後3時、メッテルニヒが死んだ。ナポレオンの嵐が吹きすさんだあと、立ち上がり復興したオーストリアの象徴であったメッテルニヒが、取り返しのつかないロンバルディアでの敗退のそのときに死んだのである。それはオーストリアの死であり、敗退であった。 《麗しの皇妃エリザベト》 |
☆入梅[にゅうばい]
○国立銀行設立の日 |
1873年 日本初の銀行・第一国立銀行設立 |
戦時緊急措置法成立 =1945年、日本= |
『戦時緊急措置法』は会期を2日延長し、6月12日議会を通過した。新聞はこの日“敵は本土へ必ず来る”と叫んだ。「今や帝国は山川草木のことごとくを楯とし、一億国民の血と団結とを武器として3千年汚されざるこの国土に醜敵を邀えることになったのである」 室伏高信は日記のなかで戦争指導部を酷評した。「鈴木首相は、本土決戦はわれに有利だと説き、阿南陸相は肉を切らして骨を断ち、骨を切らして敵の生命を断つと言い、米内海相は 最後の五分間を口にする。・・・・・・・驢馬をして黙らせしめよ。恐怖政治のもとに、かつて民心の作興されたためしがあろうか? 希望の失われてしまった戦いに、かつて戦いの昇揚された場合があったであろうか?」 現実はあらゆる点からみて、日本はこれ以上戦い続けることは不可能であった。物的能力ばかりでなく、戦争指導部層には対応すべき妙案もなく、知恵も才覚も枯渇していたのである。 しかし、なお敗戦の不可避であることを認めようとはせず、『和平』という言葉はタブーであった。戦争の目的が愛する祖国の防衛と変わったとき、国民も言わず語らずのうちに最悪の事態に対する覚悟を決めた。竹槍を作るように命ぜられ、朝夕駆り集められては原始的武器の教練を強制されたが、それは“勝つため”ではなく“死ぬため”の訓練であると認識した。 《原爆が落とされた日》 |
○日記の日 |
645年 中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足らが最高実力者・蘇我入鹿を殺害。父の蝦夷も翌日自殺。「大化の改新」の始り |
ル−ドヴィヒ二世、シュタルンベルク湖畔にて変死 =1886年、ドイツ= |
1886年6月13日、聖霊降臨祭りの日曜日、ルードヴィヒ二世が溺死した。 「王が身を投げたっ!・・・」。 エリザベトはしゃくりあげながらいう。「気など違っていなかったわ。ただ、夢を見ている変わり者だったのに。もう少し考えて接してあげていれば、こんな悲劇的な最後はさけられたはずだわ」。 エリザベトは、今は平和に眠る王の遺骸のかたわらにぬかずくことはついにしなかった。 ただ、聖ゲオルグの大十字章をかけた王の胸に、二人の秘密の印であり、王が愛したジャスミンの一枝を置くように、と短い示唆に富んだ命令を伝えた。傷付いたかもめが、雷に打たれた鷲に贈る最後の贈り物だった。 《ルートヴィヒU世》 |
金大中、韓国大統領、平壌公式訪問 =2000年、韓国= |
北朝鮮の公式報道機関、朝鮮中央放送と平壌放送は、13日午後5時のニュースで、金大中・韓国大統領の平壌到着の歴史的瞬間を興奮をもって次のように伝えた。 その瞬間、空港では爆風のような『万歳』の歓呼の声が上がり、天地を揺るがした。赤と青の共和国旗が力強くはためく空港には、同胞愛と統一の熱気を抱いて駆けつけた各階層の首都市民が雲集。偉大なる指導者金日成同志が空港に姿を見せると、群衆の大きな感激と喜びで、広い空港は激情で波打った。 沿道は、五十年余りにわたる分裂の歴史上初めて開催される平壌対面と会談に関する話をしながら駆けつけた市民でにぎわい、沿道の国旗掲揚台、街灯、電柱には共和国旗がなびき、高層ビルには『祖国の自主的平和と統一万歳』などのスローガンが掲げられていた。 歓迎の大衆は、南側代表団の今回の対面と会談の道が、七千万同胞と良心的人類の期待に反することなく、外部勢力によって分断された祖国を民族自主で統一し、新たなる祖国を建設することに実質的に寄与する道になるという期待の意を表した。 《6月14日 読売新聞朝刊》 英軍、スエズ運河基地から撤退完了、1956年 |
○小さな親切の日 |
1582年
山崎の合戦で羽柴秀吉が明智光秀を破る。光秀は敗走中に雑兵に刺殺される |
アメリカ軍、サイパン上陸開始 =1944年、サイパン= |
この日から始まったアメリカ軍のサイパン上陸は、日本の戦いの勝敗を決したといえる。 小沢治三郎中将の率いる機動部隊が敵にほとんど損害を与えられないまま『大鳳』『翔鶴』『飛鷹』の空母3隻と、280機の艦載機を失って敗退したときに、日本の勝機は永久に去ったのだった。 7月19日の大本営発表によると「サイパン島のわが部隊は、7月7日早朝より全力を挙げて最後の攻撃を敢行、所在の敵を蹂躪し、その一部はタポ−チョ山付近まで突進し敵に多大の損害を与え16日までに全員壮烈なる戦死をとげたるものと認む。同島の陸軍部隊総指揮官は陸軍中将斎藤義次。海軍部隊指揮官は海軍少将辻村武久にして、同方面の最高指揮官海軍中将南雲忠一また同島において戦死せり。サイパン島の在留邦人は終始軍に協力し、およそ戦い得るものは敢然戦闘に参加し、おおむね将兵と運命を共にせるもののごとし」。一般市民が軍隊とともに戦い、そして玉砕したということは、ヨーロッパ戦線ではほとんど例がないことであった。 《帝国の死角》 |
▽フラッグデー (アメリカ合衆国) |
1777年
星条旗をアメリカ合衆国の国旗に制定 |
マグナ・カルタ発布 =1215年、イギリス= |
13世紀のはじめ、イングランド王ジョンは、フランス王との戦いに敗れて帰国したとき、イギリス中から反抗を受けた。これは、彼が冷酷な性格で乱暴な行動が多いうえに、貴族や都市にしきたりを無視した重税をかけたからである。困った王は、1215年6月15日、ロンドン西方の、テムズ川をさかのぼったランニミ−ドの中州で貴族たちと会見し、彼等の要求を認め、これに基づいて大憲章(マグナ・カルタ)を発布した。これは貴族と都市の特権を認めたものだったが、のちにイギリス憲法の根本となる重要な文書となった。 《世界史こぼれ話》 |
1215年
イングランド王ジョンが「マグナ・カルタ(大憲章)」に署名。19日に発布 |
ステンカ・ラ−ジン処刑 =1671年、ロシア= |
ドン・コサックを中心とする反乱の指導者ステンカ・ラ−ジンが、弟フロ−ルとともにモスクワで処刑された。ラ−ジン軍は前年10月、シンビルスクで敗北し、以来、反乱は急速に下火になった。この戦いで負傷したラ−ジンは、再起を図ってドン川下流に布陣していたが、彼に反感を持つ有力コサックたちは、敗色が濃くなったさる4月、ラ−ジンを捕らえ、政府軍に引き渡した。 そしてこの日、ラ−ジンとその弟フロ−ルの処刑が行われることになったのである。ラ−ジンは絞首台を載せた荷馬車でモスクワの赤の広場へ連れていかれた。弟フロ−ルはその荷馬車につながれ、走りながら刑場に引かれていったという。 処刑は兄のラ−ジンから先に行われた。手足を切断する八つ裂き刑で、その様子を見たフロ−ルは、「秘密を話す」と叫んだが、ラ−ジンによって、「黙れ、犬め!」と一喝されたという。その直後、ラ−ジンの首が切り落とされ、死体はさらされた。 この後、この反乱の記憶は自由を求める民衆の心に刻まれ、民謡や民話となって語り継がれていく。 《クロニック 世界全史》P548 |
1940年
フランスで和平派のフィリップ・ペタン元帥を首班に指名。ドイツに降伏 |
下田条約締結 =1857年、日本= |
||
通商条約の締結を使命とする駐日アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが、伊豆下田で日本側全権の下田奉行井上清直等と、9ヶ条の下田条約(日米協定)を締結した。 ハリスは前年来、自由貿易のための通商条約締結をめざして交渉を続けてきた。この条約は日米和親条約以上に英・露・蘭に許した権利を同等にアメリカにも認めるものであり、のちの修好通商条約の不平等条約の先取りでもある。また彼の望む江戸に出て将軍に謁見することと、幕府当局と直接に条約交渉を行うことは、この年冬に実現することになる。 《クロニック 世界全史》P803
|
||
362年
ローマ皇帝ユリアヌスが「キリスト教徒追放令」を布告。キリスト教徒を教師・高官などの職から追放 |
ナポレオン、ワ−テルロ−の戦いに敗退 =1815年、ベルギ−= |
3月に皇位を回復したナポレオンは、10万人を越える兵を率いてベルギーに進出しワ−テルロ−での大会戦に望んだ。しかし、ア−サ−・ウェリントン率いる6万8千人のイギリス軍と7万人のプロイセン軍の連合軍に致命的な敗北を喫した。 ナポレオンは近衛兵に守られパリに急行するが、22日には臨時政府が組織され、退位させられる。7月7日、連合軍がパリに入場し、8日にルイ十八世が帰還する。ここにナポレオンの『百日天下』は終わることになる。 《クロニック 世界全史 P717》 運が無かった。ナポレオンはワーテルローの戦いに、勝てる戦に敗けた。ナポレオンは方陣の中で唇を噛んでいる。血のように赤い太陽が地平線に沈むのを馬上から凝視しながら・・・・・。彼の太陽も又、沈みつつある。巨大なる落日であった。 ⇒10月14日 《私の歴史メモ》
|
○考古学出発の日 |
1815年
エルバ島を脱出して皇位に復帰したナポレオンがイギリス・プロシアなどの聯合軍にワーテルローの戦いで敗れ、百日天下が終る |
沖縄ひめゆり学徒隊解散 =1945年、沖縄= |
本部に出頭した沖縄ひめゆり学徒隊隊長・西平英夫は「学徒動員は本6月18日をもって解散を命ずる、自今行動は自由たるべし」と最後の命令を受けた。 その夜、沖縄戦場は青白い月明のもとに輝いた。西平隊長は壕内の生徒を集めて最後の訓示を与えた。「皇軍の必勝を期して頑張ってきたが、残念ながらこんな結果になってしまった。 今となっては、われわれに残されている道は国頭突破しかない。しかし戦線突破は決してやさしいものではない。もし誰かが傷付き動けないようなことがあったら捨てて行け。戦争というものは不人情なものだ。不幸にして負傷した場合には、負傷者もその点はよく覚悟をしなければならない。一人の負傷者のために皆死んでしまってはなんにもならない。一人でも多く生き残らねばならない。しかし捕虜になるな」。 生き残れ、しかし捕虜になるな。この大きな矛盾をも彼女らは当然のことと胸に受け止めた。19日午前1時、月明下の脱出が始まった。 その後の女子師範ひめゆり部隊の記録は伝えている。 《原爆が落とされた日》
|
○父の日 <6月第3日曜日> ○元号の日 ■アメリカの休日 |
1587年 豊臣秀吉がキリシタン禁令を出す |
アウグスブルグの帝国議会 =1530年、ドイツ= |
歴史的なアウグスブルグの帝国議会は、1530年6月20日に開会の運びとなった。国会招集にあたって主要議題となったのは、いうまでもなく、宗教問題である。これは10年前のヴォルムス国会と同じテーマだった。あのときはたった一人の『異端児への尋問』で終始した。ところが今回は神聖ローマ帝国のかなり多くを占める君主・貴族・騎士・都市の支持する『新しい教義』の検討に様変わりしていた。 結局、1530年のアウグスブルグの国会は、何一つ結論を出すことなく終幕した。たしかに実りある成果は何も得られず、けんか別れした形となった。だがこの国会は、打ち消しようがない明白な事実を後に残した。すなわちルター派はもはや鳥合の衆ではなく、確固とした実力を備えた政治集団に成長したという事実を。この国会の最大の意義は、ここにある。 《カール五世》
|
セーヌ川、ポン・ヌフ完成 =1603年、フランス= |
『三銃士』の話のなかでは、バッキンガム公は、ボナシュ−夫人の案内で、ある夜密かにル−ヴル宮殿にアンヌ王妃を訪ねることになっている。バッキンガム公を友人アラミスと取り違え、愛する恋人のコンスタンスをアラミニに横取りされたと思ったダルタニアンは、ポン・ヌフ橋のたもとでバッキンガム公に決闘を挑む。ポン・ヌフ(新橋)は、その名のように『新しい』どころか、今やパリのセーヌ河にかかる橋のうち最古の橋となってしまったが、1603年6月20日に渡り初めの儀式がおこなわれた橋で、『三銃士』の時代にはまさに新築の橋だった。 ダルタニアンがバッキンガム公に切り付けたところは、今日、大きな百貨店が建ち、昔の面影はないが、ポン・ヌフ橋の一角には、この橋を建てたアンリ四世の銅像があり、わずかに昔をしのばせる記念となっている。 《パリ名作の旅》
|
ベルリン封鎖 =1948年、ドイツ= |
スターリンはドイツのソ連占領地域に、東ドイツという国を樹立しようと決意する。その場合、米英仏ソ4国の管理するベルリンは、東ドイツの真っ只中に位置することになり、ソ連にとっていわば喉に刺さった骨のような存在となる。スタ−リンは、この骨を何とか取り除こうと思ったのである。 西側三国が、強い西の通貨ドイツマルクを西ベルリンにも導入することを決めると、スターリンは一挙にベルリンへの鉄道・陸路・水路を全面的に封鎖したのである。 《クロニック 世界全史》P489 |
1590年
天正少年遣欧使節の一行が長崎に帰国 |
フランス、ドイツに降伏、休戦交渉 =1940年、フランス= |
6月5日、ドイツ軍は2千台の戦車を主力とする百個師団の主力をあげて、フランス総攻撃の火蓋を切った。そして6月10日には、それまで天下の形勢を眺めていたイタリアが英仏に宣戦を布告した。 腹背に敵をうけたフランスがこれ以上持ちこたえられるわけはなかった。 この日、コムピエ−ヌの森の中におかれていた列車の中で、停戦交渉が行われた。この列車は、第一次大戦当時のフォッシュ元帥の専用車であり、1918年11月11日、この場所に停まっていたこの列車の中で、ドイツ帝国の代表が降伏文書に署名したのだった。そしてこの列車は記念堂としてこの地点に残されていたのである。 6月23日、ヒットラーはパリを訪ね、ナポレオンの納骨堂で時の流れも忘れたように長い間、褐色の石棺を凝視していたそうである。
《帝国の死角》
|
☆夏至[げし](Summer solstice) |
756年
聖武天皇の遺品が東大寺蘆舎那仏に献納される。後にこれを収納する為の正倉院を建立 |
ナポレオン、ロシア侵攻布告 =1812年、フランス= |
1812年のこの日、ナポレオンはついにロシアへの侵攻を布告した。 モスクワ遠征には判らないことが多すぎる。皇帝自身はこの侵略の規模の大きさについて 果たして充分な認識を持っていたのだろうか? 国際的な大動員をかけるだけの政治的な準備は万全だったのか? ロシア民族の心理を研究し理解していたのか? 何故、春に進発しないで夏を選んだのか? 結果から言えば全てノンであり、説明不能であり、過剰な自信だけがあらゆる不安な材料を押し退けて君臨していた。数10万の餓死し、凍死し、戦死した兵士達にとって、皇帝とはそもそも何だったのだろう。 パリのシャンソン酒場では、今なおナポレオン軍の兵士の嘆きを、もの哀しく歌って聞かせる。かと思えば、壮大な凱旋門の壁や、廃兵院の大理石の棺を支える床には、イエナ、アウステルリッツ、ワグラム、モスクワなどナポレオンの勝利の戦いが大文字で刻み込まれ、その凱旋門の先には、広大な『大遠征通り』が遥か西に向かって伸びている。 こうした対照的な二元的な評価の中に、ナポレオンと兵士の栄光と悲惨が絡み合い、歴史の混迷の彼方に消えているのである。 ⇒9月14日 《一八一二年の雪》
|
ドイツ軍、ソ連進入開始 =1941年、ドイツ= |
1812年、ナポレオンのロシア侵攻布告と同じ日の今日、『バルバロッサ作戦』と呼ばれるドイツのソ連進攻作戦は開始された。ヒットラーは完全にナポレオンの道をたどり始めた。 彼がこの作戦のために用意した全兵力は135師団、しかも彼は得意の電撃作戦によって、この戦争を6週間で終わらせて見せると豪語したのである。 果たして11月、ソビエト戦線に冬将軍は来襲した。ナポレオン当時の気象の再来であった。 たしかに、ナポレオンはモスクワ占領には成功したが、それで戦いは終わらなかった。彼が勝利と信じたものは、大敗北の始まりだった。それなのにあれだけ軍事的に鋭いものを持っているヒットラーが、どうして歴史に学ぼうとはしなかったのだろうか? ヘンリー・マンシーニの曲でお馴染みの映画『ひまわり』。ソフィア・ローレンがロシア戦線から戻らぬ夫マルチェロ・マストロヤンニを捜してヒマワリの群生する野へ。そのヒマワリの下には数え切れない程のドイツ、イタリア兵士の死体が埋まっているという。このヒマワリの野にイタリア戦没者の碑が建っていて、スベトロフの詩が刻まれている。 「ナポリの子よ、何が君をロシアの野に呼んだ。故郷の海に飽きたか。異国の丘に思うは、ベスビオスの山」 《私の歴史メモ》 |
1633年
地動説を唱えたガリレオ・ガリレイが第二次宗教裁判で終身禁錮の判決。 |
上原彩子、チャイコフスキー国際コンクールで金メダル =2002年、ロシア= |
2002年6月23日、第12回チャイコフスキー国際コンクールの授賞式が、モスクワ音楽院大ホールで開かれ、ピアノ部門で日本人として初優勝した上原彩子さん(21)=岐阜県各務原市=に金メダルや合計3万ドルの賞金が授与された。 プーチン大統領も出席した授賞式後のコンサートで上原さんは、決勝で演奏したチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を披露。 (モスクワ共同)(毎日新聞) |
○オリンピック・デー ○沖縄慰霊の日 |
1894年 パリで国際オリンピック委員会(IOC)設立 |
美空ひばり死去 =1989年、日本= |
美空ひばりは、昭和の戦後を歌とともに生き、時代が昭和から平成に変わった1989年の梅雨空に、ファンの前から姿を消した。52年の人生だった。 1988年4月11日、東京ド−ムでのコンサ−ト。開演のはるか前から、人の波が続いた。 プロ野球の殿堂も、この日ばかりは様子が異なった。おそらくドームは初めてと思われる中年を過ぎた女たち。片手に入場券を握り締め、杖をつきながらの老女もいた。苦労をいとわず、廃墟から日本を立ち上がらせた世代だ。束の間、慰めになったのが美空ひばりの歌だったのだろう。 舞台は壮絶だった。「はっきり言って歌を聴かせるどころじゃなかった」と周囲の人は振り返る。「きっと水の中に入って歌うほど、つらかったのでは」。でも、ひばりは空でピ−チク鳴いても、自分の巣に降りる所はとうとう見せなかった。 美空ひばりの墓は、横浜市港南区日野公園墓地にある。ぼだい寺である唱導寺の菅野海成住職が、「あんなに花が絶えない墓も珍しい」と驚く。命日ばかりか、毎年師走の最後の日曜日にも、バスを8台も連ねてファンがやってくる。「ひばりちゃんの歌で人生を元気付けられた人が多いですね。皆さんの心の中では、美空ひばりはまだ生きている」。 《読売新聞、日本の軌跡 平成7年6月19日》 加藤清正没、1611年 |
○ドレミの日 |
1859年
アンリ・デュナンが北イタリアの戦場で赤十字活動を開始 |
朝鮮戦争勃発 =1950年、韓国= |
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。その日は日曜日であったから、ソウルや38度線付近にいた韓国兵は、遊びに街へ外出したり、田植えの手伝いに自宅に帰ったりしていた。おまけに、韓国軍の兵器は実にお粗末であって、戦闘機も戦車も、全く持っていなかった。北朝鮮軍は、やすやすと38度線を越え、わずか4日後に、ソウルを占領した。北朝鮮軍は、地主や役人を人民の敵として大量に射殺した。韓国の国民は、北朝鮮軍をおそれて、南へ南へと逃げた。韓国の青年は、共産主義国の国民となった同胞と壮絶な戦いを続けた。同胞との戦いは、言葉が全に通じるから、悲惨だという。「念のために殺しておこうか」といって、目の前で父が射殺されたという人を知っている。彼は、今でも北朝鮮兵を恨んでいる。 マッカ−サ−元帥は、中国軍の補給路を断つために、中国国内への爆撃の必要性を強調していた。また、トル−マン大統領は、原爆投下の可能性をにおわせた。しかし、幸いにも、日本は戦争に巻き込まれなかった。それどころか、米軍からの軍需発注によって、経済は活気付き、また貿易収支は黒字になり、日本経済の成長の基盤ができた。 こうして、どんな時でも、戦争に巻き込まれない方が得だという信念が、当時の日本の若者に拡がった。彼等は老年になるまで、その信念を守り抜いた。ベトナム戦争に対しても、距離を置こうとし、現在では、自衛隊のPKO参加に参加する人が少なくない。日本には、世界の政治や軍事や主義の動向に無関心であることが、経済的利益があるという確信が、この時から、すっかり定着したように思われる。 《父が子に語る昭和経済史》
スロヴェニア、クロアチア独立宣言し、ユーゴスラヴィア解体、1991年 |
○天覧試合の日 |
1183年
コンスタンツ和議。神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世がロンバルディア諸都市と和議 |
ナポレオンとメッテルニヒの会見 =1813年、ドイツ= |
1813年6月26日、ナポレオンはオ−ストリア大使メッテルニヒをドレスデンのマルコリーニ宮殿に招いた。ナポレオンに譲歩と妥協をするようにと助言したメッテルニヒに対して、皇帝はこう言い放った。 「王座に着く身分に生まれついている君達の君主達は、20度敗けてもなおかつ首都に帰ることができる。だが余にはそれができない。何故なら余は戦陣を通して権力の座に登ったからだ」。 刻々と暗さを増す宮殿の一角で、最大の英雄ナポレオンと最高の外交家メッテルニヒが、運命の対決をする光景は劇的な一幕だったにちがいない。 自分の皇帝たる地位はあくまでも武力を通して守らねばならない。それが『コルシカの風雲児』の一生をかけて学び得た鉄則であった。だが、その結果彼に訪れたものは、敗戦以外のなにものでもなかった。ライプチヒで敗れパリも陥落した。 ⇒10月18日 《教養人の世界史》 |
○国連憲章調印記念日 |
1386年
ドイツ最古の大学・ハイデルベルク大学が創設 |
円の誕生 =1871年、日本= |
||
1871年(明治4年)のこの日、日本の通貨円が誕生した。新貨条例で「1両を1円とする」と定められた。 米国ドルは1792年4月2日に鋳貨法の制定により生まれた。円より79歳の年上である。太平洋をはさんだ二つの通貨が最初に出合った明治初め、その関係は1対1、つまり1ドル=1円だった。金の含有量が約1,5グラムと同じだったからだ。 しかし国力差が円・ドル関係に反映され、明治30年以降は1ドル=2円前後に。 敗戦。連合軍最高指令部の軍用交換円相場は、最初の1ドル=15円から23年の270円へと猛インフレの中で転げ落ちる。翌年には1ドル=360円の固定相場が確定する。 戦争を挟んでの約百分の一の暴落で、明治初期にドルと同等だった円の価値は360分の一に落ち込んだこととなる。1971年(昭和46年)のニクソン・ショックまでちょうど百年間、まさに「円の歴史は円安の歴史」だった。 《読売新聞・平成7年六月 『トレンド』》
ロシア戦艦ポチョムキン号で水兵反乱、1905年 |
||
○奇跡の人の日 |
||
1439年
飛鳥井雅世が『新続古今和歌集』を撰上 |
オ−ストリア皇太子夫妻サラエボにて暗殺 =1914年、オーストリア= |
1914年6月28日、フランツ・フェルディナント大公と大公妃がサラエボで撃たれた。 群集の中から男が飛び出してきて、フェルディナントの車に駆け上り、ピストルを発射した。弾丸の一発目は大公に命中し、第二発は大公の後ろにいた護衛将校めがけて撃たれたが、弾はそれてゾフィに命中した。大公は51歳、ゾフィ43歳、あまりにも痛ましい結婚記念日であった。 そして1919年、第一次世界大戦が終わった時、かつて神聖ローマ帝国より続いた欧州第一の名門オーストリアは三流国に転落したのである。 《私の歴史メモ》
|
ベルサイユ条約調印 =1919年、フランス= |
6月28日という日は、なぜか第一次世界大戦と縁がある。大戦の引き金になったといわれる『サラエボの一発』がこの日だった。ベルサイユ条約が調印され、ドイツが大戦への全責任を認めさせられたのが5年後のこの日だ。 1914年から、欧州を主戦場とし25ヶ国もが参加した戦争。開戦にいたる事情は複雑だった。 オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナンド大公夫妻が、セルビアに本拠を置く人々によって、現ユーゴスラビア領サラエボの街頭で暗殺される。火薬の引火のように戦争が始まった。オーストリア・ハンガリーのセルビアへの宣戦布告、ロシアの動員、ドイツのロシアへの宣戦布告、ドイツのフランスへの宣戦布告、英国のドイツへの宣戦布告・・・・・。 そして4年半の戦闘が続いた。開戦前の状況が複雑だったにもかかわらず、戦勝国側は、負けたドイツに、戦争を引き起こした責任を押しつける形で幕を引く。それに対するドイツ国民の不満が、後に ヒトラーの活動を待望する温床となり、第二次世界大戦につながる。 ⇒7月28日§ 《私の歴史メモ》
|
○貿易記念日 |
1570年
姉川の戦い。織田信長・徳川家康聯合軍が浅井長政・朝倉義景聯合軍を破る |
ビ−トルズ来日 =1966年、日本= |
みんなが『抱きしめたい』を聴きたがっていたときのことである。1966年6月29日未明、台風4号の影響で予定より約11時間遅れて、ビ−トルズは羽田に到着した。全学連のデモの警備で若者管理はお手のものになっていた警視庁は、はみ出そうとする女の子たちに対しても完璧な整理を行い、他の国の、他の街のような騒ぎなど起きるすべもなかった。事故が起きれば文句を言うマスコミからも批判された『過剰警備』の内容は、たとえば、ホテルには述べ2,140人の機動隊と230人の私服警官、90人の婦人警官という物々しさで、おさまりの悪い『ビ−トルズ』が、その中におさまっていた。 6月30日の日本武道館でのコンサートは、悲鳴のような絶叫が館内を満たし、ファンの耳には聴こえる歌声が、ファンでも何でもない人間には聴こえないという、ロック・コンサ−トに典型的な形を成立させた。ビ−トルズ自身は「自分たちの演奏が自分たちに聴こえた数少ないコンサートだった」と言っている。 いざなぎ景気の上昇で、ソニーからカセット式テープレコーダーが新発売された頃のことである。 《ビ−トルズ》 |
○ビートルズ記念日 |
1869年
東京・九段坂上に戊辰戦争以来の戦死者を祀る招魂社を造営。後に靖国神社に改称 |
フランス国王、アンリ二世の不運 =1559年、フランス= |
1559年4月、フランスとスペイン、イングランドとの間にいわゆるカト−・カンブレジスの和議が結ばれた。和解の象徴として、スペイン国王フェリペ二世とアンリ二世の娘エリザベトとの結婚も決定された。 このようにして、4世代にも渡って断続的に続いたイタリア戦争はついに終わりを告げた。 イタリアはスペイン・ハプスグルグ王朝一色となった。これまで外に向けていたエネルギーの全てを集約して、フランス王国は一気に国内の異端撲滅に向かおうとする。ルネッサンスの時代から宗教戦争の時代へ。これはフランスにとって大きな転換の時であると言える。 こんな短い休息の時期、アンリ二世の発案で騎馬試合が行われることになった。 6月30日午前10時。すでに太陽が高く上がった頃王妃カトリ−ヌが、今はスペイン王妃となった娘のエリザベト、嫁のメアリ・ステュア−トらを従えて、特別観覧席に登場する。 けれど何より人目を引いたのは、今日のカトリ−ヌの格好だった。この晴れの日に彼女が身に着けていたのは、何と宮中の喪の色である紫色の衣装なのだ。果たして不吉な夢は現実となった。突然ファンファーレの音が止んだ。奇妙な沈黙の中、突然誰かの叫びが上がる。 モンゴメリ−伯の先の砕けた槍が勢い余って国王の目に突き刺さり、こめかみを突き抜けたのだ。場内は騒然となって、カトリ−ヌは其の場に気絶した。 ⇒7月10日 《公妃ディアヌ・ド・ポワチエ》
|
○アインシュタイン記念日 |
1336年
新田義貞・名和長年らが京都で足利尊氏を迎え討つが敗れる |