1月 |
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1941年10月、ポアプディル王は降伏し、12月30降伏文書に調印する。翌1492年1月2日、カトリッ両王にグラナダ市とアルハンブラ宮殿を明け渡し、イスラム教徒のアンダルシア支配は終わった。⇒1月2日 |
黒人奴隷解放 =1863年、アメリカ= |
1860年11月16日、リンカーンが大統領選挙に辛勝するや、事態はいっきに悪化した。 南北戦争はこうして始まり、それから4年間も続いたのである。 ついにリンカーンは勝利のための奴隷の解放を決心した。1862年9月22日、奴隷解放予備宣言が出され、反乱諸州がきたる1月1日までに連邦に復帰しなければ、諸州の奴隷には自由が与えられることになった。 この年の12月31日の夜ほど、黒人にとって長い夜はなかったであろう。時計が12時をまわり、400万近い黒人奴隷はこの瞬間に自由を得た。アメリカ史を画した1863年1月1日の到来の瞬間であった。だが、この自由が黒人の本当の解放を保証しなかったことを、その後のアメリカの歴史が無数の例をもって示していくのである。 その5日後、リンカーンは狙撃され、翌15日にこの世を去った。⇒7月3日 《世界史への旅》 |
◎元日(New Year's Day)
新年の幕開けの日 ◇初詣 ◇年賀 ■アメリカの休日 |
BC660年 初代天皇・神武天皇が即位 |
グラナダ陥落。アルハンブラ城開城 =1492年、スペイン= |
カスティ−リャは8世紀初頭のイスラム教徒による占領の後、キリスト教徒達が血の代償として小刻みに奪還していった土地であった。『カスティ−リャ』という名称も、奪還した土地にイスラム教徒の再襲撃に備えて要塞用の城(カスティ−リャ)をいくつも建設したことに由来するといわれる。 この異教徒達を追放して、イベリア半島を元のキリスト教統一国家として復活させるという願望は、中世を通じてイベリア半島キリスト教徒の内に燃え続け、彼等に対回教徒戦を続行させていた。グラナ−ダ(スペイン語でざくろの意)を取り戻す戦いは、スペインの中の『十字軍の戦い』であったのだ。 1491年末、孤立したグラナ−ダ市は兵糧攻めに屈し、戦闘を経ずして降伏を申し出る。 この日、アラブの正装をし、貴族達にとり巻かれた若い国王ボアブディルは、グラナ−ダ市の外に駒を進め、これまた戦闘中とは打って変わって美しく着飾ったフェルナンド王とイサベル女王を迎えた。グラナ−ダの町から地中海にぬける街道の途中に『涙の峠』と呼ばれる地点がある。旅立って行った元国王とその一行が、最後にグラナ−ダを振り返り、二度と再び見ることもないであろうこの故郷の町に向かって涙したと伝えられる場所である。 ⇒11月26日 《イサベルの栄光と悲劇》
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◇初夢 ◇皇室一般参賀 ◇箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走) |
1665年 大坂城天守閣が落雷により焼失。1931年に再建 |
ウェッジウッド没 =1795年、イギリス= |
イギリス中部スタフォ−ドシャ−のエトルリアで、製陶業者ジョザイア・ウェッジウッドが死亡した。享年64歳。35年ほど前に鉛釉(えんゆう)陶器の伝統を受け継ぐクリーム色陶器の改良に大成功を収めた彼は、財産数10万ポンドを残した。 陶工の家に生まれたウェッジウッドは、みずからも陶工として活躍したが、1767年にはシャルロッテ王妃から『王妃御用陶工』の地位を与えられるなど、企業経営者としての才能もあった。 そして、わずか10年で、古代イタリアのエトルリアから名をとった新しい工場村を建設し、事業拡大の拠点とした。ウェッジウッドは産業革命期に生き、産業界の意見を政治に反映させるようにするため工業関係者の全国的圧力団体を組織するといった活動もしている。そのような意味でも、彼の生涯は、これ以後の本格的な産業社会のあり方を予告するものであったと言えよう。 《クロニック世界全史》P674
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○戊辰戦争開戦の日 |
668年
大化改新後、皇太子として政治の実権を握っていた中大兄皇子が即位。第38代天皇・天智天皇に |
英領ビルマが完全独立を達成 =1948年、ビルマ= |
イギリスの旧植民地ビルマ(現ミャンマ−)がビルマ連邦としてスタート。 第二次大戦中に、日本軍のビルマ侵略によってビルマの宗主権を失ったイギリスは、その後、回復を試みたものの、ナショナリズムに目覚めた国民の頑強な抵抗と世界情勢の推移の前に失敗。提案した自治領案も蹴られ、結局、ビルマの完全な独立を認めることになった。この1ヶ月後の2月4日、セイロン(現スリランカ)も独立。ビルマとセイロンの相次ぐ独立によって、大英帝国は終焉を迎えつつある。 《クロニック世界全史》P1030 ニュ−トン生誕、1643年 |
◇官公庁御用始め ◇取引所大発会[だいはっかい] |
1879年
明治政府が、平安時代から行われていた梟首刑(さらし首)を廃止 |
ボリビア独立 =1825年、ボリビア= |
王党派の牙城だったアルド・ペル−が、ラ・パスでスペインからの独立を宣言した。 ベネズエラ生まれのスクレ将軍は若くして独立革命軍に参加し、エクアドルの解放戦に参加し、続いて南米の革命指導者ボリバ−ルに従いペルーへ行き、1821年にペルーを独立させていた。こうして、近隣諸国がつぎつぎとボリバ−ルによって解放されていた。 ボリバ−ルは、独立革命の功労者として『アルト・ペル−の父』の称号を与えられ、国名も彼の名にちなんでボリビアと名付けられる。翌年、ボリバ−ルが起草してボリビア共和国の憲法が制定され、スクレが終身初代大統領に任命される。しかし、2年後の内乱で追放される。 《クロニック世界全史》P737 |
☆小寒[しょうかん] *新年宴会 |
1348年
楠木正成の子・楠木正行が高師直軍との激戦の末に敗れ自刃 |
ヴェ−ゲナ−、大陸移動説を発表 =1912年、ドイツ= |
この日、地球物理学者のアルフレ−ド・ヴェ−ゲナ−が、フランクフルト・アム・マインで開催された地質学会で大陸移動説を発表した。 この学説の骨子は、約3億年前には単一の超大陸だった南北アメリカ、ユ−ラシア、アフリカ、インド、南極の各大陸は、その後分裂して移動し、現在の形になったもので、しかもその移動はいまなお進行中だというもの。その証拠として彼は、大西洋を挟んで向かい合う南アメリカとアフリカの化石分布の類似性、氷河の跡や地層の共通性などを指摘した。また彼によれば、ヒマラヤ山脈はインドとユーラシア大陸との衝突によって形成されたものという。 ヴェ−ゲナ−の学説は3年後、『大陸と大洋の起源』として出版され、賛否両論の大論争をまきおこす。彼の学説の最大の弱点は、大陸移動説の起因力を物理的に証明できなかったことだった。 《クロニック世界全史》P930 ジャンヌ・ダルク生誕、1412年 |
◇東京消防庁出初め式 |
1887年
コナン・ドイルの『緋色の研究』が刊行。名探偵シャーロック・ホームズが初登場 |
昭和天皇崩御 =1989年、日本= |
1989年1月7日、昭和天皇が崩御した。 我々は今、深い悲しみと無量の感慨を持って天皇陛下の崩御を悼み、『昭和』の去り行くのを見送る。「一つの時代が終わった」との思いは、天皇制に対する支持・愛着の度合いとは関係なく国民全てに共通するものであろう。 日本の現代史の中で、天皇の存在感は他に比べるものがない程大きかったからだ。 《読売新聞》 |
◇七種[ななくさ],七種粥 「春の七種」とは以下の7種類である。 名前 現在の名前 科名 |
1868年
鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破った新政府が「将軍慶喜追討令」を出す |
ルネサンス絵画の先駆者、ジョット没 =1337年、イタリア= |
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この日、絵画において数々の革新を行ったジョットが70歳で没した。惜しいことに、3年前に建築監督に任命されたフィレンツェ大聖堂の鐘楼の建設が始まったばかりだった。 ジョットは、若くしてチマブエに弟子入りし、まずアッシジのサン・フランシスコ教会で聖フランチェスコの生涯の優れた絵物語を完成させた。しかし、彼の技法が完全に開花したのは、パドヴァのスクロヴェ−ル礼拝堂のフレスコ画『東方三博士の礼拝』である。中世絵画では、題材の背後にある神の意思が重視され、写実的要素が軽視されていた。 《クロニック世界全史》P333
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○平成スタートの日 |
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1918年
ウィルソン米大統領が議会で第一次大戦和平と戦後世界についての14か条を発表 |
東京、白昼の大空襲 =1945年、日本= |
この日、東京は白昼の大空襲に見舞われた。連合軍爆撃機と、日本軍戦闘機による空中戦が雲一つない無風の空で展開された。そして、東京上空での一瞬の信じられないような出来事=体当り=が都民の心に深く刻み込まれた。衝突した、と見るより早く、戦闘機は白煙と火炎に包まれ、炎は八つ手型に拡がり、次の瞬間には一筋の白煙となって、黒点は一直線に地上に向かって墜落。悲しい最後も空の意地悪いまでの青にたちまち呑み込まれた。攻撃を受けたB29はそのまま東進したが、やがて左翼のエンジンよりゆるゆると濃い白煙の尾を引き、わずかに編隊より遅れ始めた。地上から見ると「爆撃機が翼に小さな白いリボンを付けたようにも見えた」と、作家・大屋典一の手記は模写する。 人々の見たのはそれだけのことである。都民は眼のあたりに戦争の空しさを感じた。 《原爆が落とされた日》 ナポレオン三世没、1808年 |
○クイズの日,とんちの日 |
1905年
血の日曜日。ロシアの首都ペテルブルクで軍隊が労働者のデモ隊に発砲。死者千人以上。ロシア革命の契機に(新暦01/22) |
世界初の地下鉄 、ロンドンに登場 =1863年、イギリス= |
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メトロポリタン鉄道会社は、3年間に及ぶ工事の末、世界で初めての地下鉄を開通させた。 走行区間は、パディントン〜ファリンドン街のおよそ6キロ。ロンドンは新しい都市の様相をますます強めることになった。 産業革命を経て、ここ数10年来の都市の膨張と、蒸気自動車をはじめ交通・運輸機関の発達で、ロンドンはたいへんな混雑をみせていた。そこで、地下に目が向けられた。 この後、地下鉄は改良が重ねられ、19世紀末から20世紀初頭にかけて、パリ、ベルリン、ニューヨークといった大都市で導入される。日本では1927年(昭和2年)に、上野〜浅草間に最初の地下鉄が開通する。 《クロニック世界全史》P814
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◎成人の日(Coming of Age Day) <1月第2月曜日> |
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BC49年
ユリウス・カエサルが、元老院の命令を無視してルビコン川を渡りイタリアに侵入。「賽は投げられた」 |
徳川昭武、パリ万博に参列 =1867年、日本= |
1867年のこの日、水戸藩主徳川昭武は日本代表としてパリ万国博覧会に参列のため、多数の幕臣を従えて横浜港を出発した。当時の徳川幕府は、経済、外交面において、 万博の歴史は、1851年ロンドンのハイドパークのクリスタル・パレスで行われた博覧会が始まりといわれている。これに対抗意識を燃やしたのが、フランスのナポレオン三世であった。 1855年には、早くもシャンゼリゼ通りにおいて、産業宮殿を設け、フランスで最初の万博を手掛けている。さらにそれに続いて行われた大規模なパリ万博に、日本もナポレオン三世による出品参加と、代表者出席の依頼を受けたのであった。衆知を集めた陳列品はほとんど無視されたが、貴重な「出品」物を破損から防ぐために利用した包装用の浮世絵が、モネ−やゴッホなどフランス印象派たちの画家の注目するところとなり、その後の画風に大きな影響を与えることになったというのであるから、これ以上の皮肉はない。 《歴史に選ばれた366人》 |
◇鏡開き |
630年 ムハンマド(マホメット)がメッカに無血入城 |
カール5世の祖父、皇帝マクシミリアン没 =1519年、ドイツ= |
1519年1月12日、マクシミリアン皇帝の死去により、神聖ローマ帝国皇帝位の座は空白になった。マクシミリアン皇帝は、ハプスブルグ家の勢力を頂点にまで高めた功労者であった。 自身は勇胆王シャルルの一人娘であるマリ−・ド・ブルゴ−ニュと結婚することで、広大なブルゴ−ニュ公領とネ−デルランドを手に入れ、次には息子のフィリップ美男王を、スペイン王女で未来のカスティ−リャ女王であるファナと結ばせることによって、スペイン王位を我がものとした。 孫たちをラスディアス二世の子たちと結ばせることによって、ボヘミアとハンガリ−の王位を獲得した。 その上1516年、ファナの父であるアラゴン王フェルディナンドの死により、サルディニアと ヨーロッパ中にハプスブルグ家の超大勢力を定着させ、『ハプスブルグ帝国』を形成するには、あとは孫のカルロスを『ローマ人たちの王』に即位させ、次の皇帝位の継承者とすることしか残ってはいなかった。 ⇒10月22日 《公妃ディアヌ・ド・ポワチエ》 |
1574年
織田信長が瀬戸の焼物窯を免許し他所の窯の停止を命令 |
スターリングラ−ド守備軍の全滅 =1943年、ドイツ= |
この日、ベルリン放送はスターリングラ−ド守備軍の全滅を伝え、ベートーベンの運命交響曲を葬送の調べとして放送した。そしてアフリカ戦線でも、ドイツの至宝といわれたロンメル元帥がモントゴメリ−に敗北してから、形勢は日に日に不利となっていた。 スタ−リングラ−ドの敗戦、ガダルカナルの撤退ではじまった昭和18年は、日独伊三国同盟側にとっては悲劇の第一楽章だった。 《帝国の死角》 |
1876年 東京でマイナス9.2度を記録。東京の最低気温記録 |
ピュ−リタン革命始まる =1642年、イギリス= |
イギリスの議会内では、国王チャールズ一世の専制政治に対して批判の声を上げていた。 しかし、1641年秋に『大抗議文』の審議が始まると、これまで圧倒的多数の支持で改革を進めてきた議会が二つに分裂した。大抗議文はチャールズ一世の失政に対する204条の文書で、ピムやオリヴァ−・クロムウェルらにより提案された。 この大抗議文がわずか11票差で採択されると、議会内には国王支持派に回る者も現れ、議会は国教会を守ろうとする王党派とピューリタンが指導する議会派の二大陣営に分裂した。 この日、この機に議会派を一掃しようと、国王チャールズ一世は議会に乗り込み、議会派指導者6人の逮捕に踏み切ったが、失敗に終わった。この事件により、議会派と王との武力対決は避けられないものとなり、国王は身の危険を感じて、ロンドンを退去しヨ−クへ向かう。 一方、市内に逃れていたピムらはロンドンの民衆に守られて議場に戻り、国民的英雄として迎えられる。こうして、ピューリタン革命に向けて6年に及ぶ内戦が始まり、10月にエッジヒルで最初の本格的な戦いが行われる。 ⇒2月9日 《クロニック世界全史》P522 シュバイツァー生誕、1875年 |
○愛と希望と勇気の日,タロとジロの日 |
1526年
イタリア戦争で神聖ローマ皇帝カルル5世と捕虜となった仏王フランソア1世が「マドリード条約」を締結。フランソア1世は釈放後、条約不履行を表明し戦争を継続 |
双葉山連勝記録ストップ =1939年、日本= |
1939年1月15日、両国の国技館では、予想せぬ出来事に観衆は全員総立ちとなった。無敵を誇っていた双葉山が、初顔の新関脇・安芸の海の外掛けによって、横転したからである。 1936年1月16日の春場所7日目からこの前日の春場所3日目まで、実に69連勝という前人未到の記録を作っていた双葉山は、身長178センチ、体重122キログラムと、小柄な横綱であった。しかし、双葉山がひとたび土俵に上がると、仕切る相手が思わず目を背けるほどの強烈な迫力の前に、すでに相手は戦わずして敗れたも同然であったという。まさに不世出の大横綱で、双葉山が69連勝を果たした段階においては、百連勝を疑う者は、なきに等しかったといわれる。 この時、双葉山は友人に「ワレ、イマダ、モツケイ、ナラズ」と電報を打つ。木鶏とは木で作られた鶏のことである。生きているニワトリは、とかく物音に心を動かすものである。 双葉山は戦後、引退して時津風親方となり、相撲協会の理事長として、相撲界の近代化、民主化に努力し、今日の隆盛を築きあげた功労者でもあった。 1968年11月、激症肝炎のため絶対安静のなかにあったにもかかわらず、大鵬に優勝賜杯を渡すと、そのまま東大病院へ入院し、2週間後の12月16日に死去した。59歳の生涯であった。 《歴史に選ばれた366人》 |
1772年 田沼意次が老中に就任 |
イヴァン四世、全ロシアのツァ−リに =1547年、モスクワ= |
弱冠17歳のイヴァン四世がウスペンスキ−聖堂で荘重な『加冠の儀』を受け、初めて公式に全ロシアのツァ−リと称した。モスクワ大公ヴァシ−リ−三世の息子で、3歳で即位したイヴァンは、少年時代を側近や親族の打ち続く権力闘争のなかで過ごしたためか、 イヴァン四世の猜疑心は政治を牛耳っていた名門の大貴族たちに向けられ、その多くが処刑され、専制権力が強化されていく。彼はのちにイヴァン雷帝と呼ばれるようになる。 《クロニック世界全史》P437 |
○禁酒の日 ◇籔入り[やぶいり] □念仏の口開け |
BC27年
オクタウィアヌスが元老院からアウグスツス(尊厳な者)の尊号を受け、事実上のローマ帝国初代皇帝に |
米国、禁酒法スタ−ト =1920年、アメリカ= |
前年10月28日に成立した憲法修正案第18条(禁酒法)がこの日発効した。同法は、飲酒行為は禁止しないが、酒類の製造、販売、輸送、輸出入はいっさい禁止するというもの。禁酒法の制定にあたっては、飲酒による社会的な弊害や健康上の害が説かれているが、その背景には、 さきの大戦中に穀類の節約や作業効率の面から禁酒の必要性が痛感されたという事情があった。この日、午前0時1分から同法が施行されるとあって、前日は可能なかぎり酒類を自宅に持ち帰ろうとする市民の車が道路に溢れた。 この後、絶えることのない酒の需要に目をつけたギャングたちが、密造、密売、密輸を一手に引き受け巨利をむさぼり、暗黒街の組織が急成長する。道徳的なはずの政策が不法行為を生み出すという皮肉な事態に禁酒法に対する批判が高まり、1933年に同法は撤廃される。 《クロニック世界全史》P956
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○阪神・淡路大震災記念日 ○今月今夜の月の日 ○湾岸戦争開戦記念日 ■アメリカの休日 |
1181年
平家により幽閉されていた後白河法皇が、平清盛の死去に伴い院政を再開 |
ドイツ帝国の成立 =1871年、ドイツ= |
19世紀の後半に入って、ホ−エンツォルレン家には一大英君が出た。ヴィルヘルム一世がその人である。ドイツ統一は鉄と血、すなわち武力でのみ達成できると放言したビスマルクは、普墺戦争1866年)と普仏戦争(1870年)という二つの戦争を通じてドイツ統一を完成した。この普仏戦争におけるドイツの勝利がその後独仏両国の関係を長い間険悪なものにする遠因となったのである。 1871年1月18日、パリ陥落を目前にしてプロシア王ヴィルヘルム一世は、パリ郊外ベルサイユ宮殿の『鏡の間』においてドイツ皇帝の戴冠式を挙行し 、ドイツの統一はここに実現した。 日本の明治3年のことである。ドイツ新帝国はベルリンをその首都と定めた。ベルサイユ平和条約によりドイツ軍はパリに入城し、フランス政府はベルサイユに移動した。パリの誇りは深く傷ついたが、パリ市民は国民軍の名のもとに武装を解かなかった。⇒3月28日 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》
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1486年 86年間続いたイギリス王位争奪戦「薔薇戦争」が終結 |
新安保条約、ワシントンで調印 =1960年、アメリカ= |
この日、日本とアメリカが新安全保障条約に調印した。調印式は、午後2時30分過ぎから、ホワイトハウスのイーストルームで行われ、日本側は岸信介首相が首席全権として ソ連と中国は、これを日米軍事同盟だとして厳しく批判した。日本国内でも、安保反対運動が国民的規模で盛り上がる。5月19日の衆院本会議は、条約採択を巡って紛糾。 条約自然承認直前の6月15日から18日にかけては、全学連や労働組合のデモ隊が国会を取り囲み、構内に突入したデモ隊と警官隊が衝突。流血の惨事となり、22歳の東大生樺美智子が死亡する。 《クロニック世界全史》P1056 |
1860年
勝海舟らが乗った咸臨丸が「日米修好通商条約」批准の為アメリカへ向けて品川を出港 |
ヒットラー最後の公式演説 =1945年、ドイツ= |
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この日、政権を得て13年目の記念日に、東プロシア『狼の穴』の大本営を捨ててベルリンの総統官邸に帰って来ていたヒットラーは、その生涯で最後の公式演説となったラジオ放送を行った。彼の絶叫も今は悲鳴と呼ぶほかはなかった。 「今年この戦争は終わりはせぬ。明年こそ、ドイツは戦局を盛り返し、勝利のうちに戦いを終えるであろう。ドイツは断じて降伏しないからである」。「全能の神は私を見捨てるわけはない。私は一生を通じ、 《帝国の死角》 |
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アメリカ第35代大統領、ケネディ就任 =1961年、アメリカ= |
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ケネディは、新雪の光り輝くワシントンで行われたこの日の大統領就任演説で、「たいまつは新しい世代の手に受け継がれた」と宣言した。そして彼は、「弱みを見せて相手に手を出させるような誘惑を決して与えない十分な軍事力を備えたうえで、新しく平和への探求を始めようではないか」と提案した。さらに「くびきをひもとき、虐げられる者を放ち去らせ、というイザヤの言葉を地球上のあらゆる人々の心に留めさせるために、力を合わせようではないか」と語りかけた。そしてそのために、「アメリカが自分のために何をしてくれるかを問う前に、自分がアメリカのために何を成し得るかを説いたまえ」と訴えた。ケネディのこの就任演説は、熱狂的な興奮のうちに迎えられた。 ⇒6月10日 《ケネディ−その実像を求めて》
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☆大寒[だいかん] ◇アメリカ大統領就任式 |
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1184年 源義仲(木曾義仲)が、頼朝の命をうけた範頼・義經の軍と戦い近江・粟津原で敗死 |
ルイ十六世、断頭台にて処刑 =1793年、フランス= |
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タンブル獄に幽閉されていた国王は、この日コンコルドのギロチンに39年の短い生涯を閉じた。1793年1月21日日曜の朝、人影のない街を広場に運ばれ、毅然とした態度を保った王は、手を縛ろうとする執行人に抗う。「苦い盃を最後の一滴まで飲み干そう」と言い断頭台の露と消えた。 一方、かつて宮廷の華であった王妃は、幽閉生活を通して人間愛に目覚め、妻として母として最善を尽くし、最後まで尊厳を保つ。同年10月16日、王と同じ広場で処刑された彼女の髪は真白であったという。 ⇒9月17日 《私の歴史メモ》
ロシア革命の指導者、レーニン没、1924年 |
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○ライバルが手を結ぶ日 □聖アグネスの祝日 |
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1793年 フランス国王ルイ16世が断頭台で処刑 |
血の日曜日事件 =1905年、サンクト・ペテルブルク= |
東アジアの戦場ではロシア軍は連戦連敗を重ねていたが、1904年には皇帝一家にもまだ安らかな生活があった。しかし、1905年1月22日、第一次ロシア革命の狼煙になる有名な『血の日曜日』事件が起こり、国内情勢は緊迫の度を深めてゆく。 この事件は、かねて労働者のあいだで組織活動をしていた正教会の司祭ガポンが、 ニコライは、27日にはウィッテと蔵相ココ−フツォフを呼んで労働問題について討議し、 《ニコライ二世の日記》 |
○ジャズの日 □聖ビンセンチウスの祝日 |
1887年
東京電燈会社が営業開始。移動式発電機により鹿鳴館に日本初の電燈が燈る |
青森歩兵第五連隊、八甲田山麓で遭難 =1902年、日本= |
1902年のこの日午前6時55分、青森歩兵第五連隊は山口大隊長以下合計220名の部隊編成を組み、雪の八甲田山に向けて屯営を後にした。これより3日前の1月20日には、 弘前第31連隊のほうは、各区間ごとに、それぞれの土地や気象にくわしい村人数名を案内人とし、途中、猛吹雪に見舞われはしたものの、25日には全員無事三本木に到達していた。だが、本来ならばすでにこの地で落ち合うはずの青森第五連隊は、影も形も見えなかった。 一方の青森第五連隊は村人の案内もつけず、猛吹雪で視界の効かない難所で立ち往生していた。さすがの山口少佐も、将校たちを集めて協議を行った。分別のある将校たちは、こぞって後退を主張したが、強気な山口少佐におもねる特務曹長は、夏期の経験から、なんとかなるという気分だけで、断固前進を主張した。山口少佐はここに、無知と無謀な雪中行軍を敢行し、 実に197名の遭難者を出し、山口少佐ら13名が、かろうじて救出されるという大惨事を招くことになったのである。 弘前第31連隊の雪中行軍成功の陰には、福島大尉の用意周到な事前の調査と、綿密な計画に加えて、福島大尉にすべて権限を一任した児玉連隊長の英断によるものであった。 この点、独断と精神のみで、知性のカケラのなく、197名の犠牲者を出した山口少佐の責任は重く、また、現地の住民を無視した態度は、国民の非難を二重に浴びることになり、後にピストル自殺によって、リーダーとして最後のけじめだけはつけたことで本件は落着した。 《歴史に選ばれた366人》 |
○八甲田山の日 |
1866年
寺田屋事件。伏見・寺田屋に宿泊していた坂本龍馬らが伏見町奉行配下の捕り方に急襲され負傷 |
カリフォルニアにて「金」発見 =1848年、アメリカ= |
「だ、だんなさま、放水路の底にこんな光ったものがありましたんで...」。どしゃぶりの雨の中を走ってきた大工のマ−シャルは、息を弾ませてそう言いながら、しっかり握った片手をひろげた。製材所の主人ヨハン・オ−ガスト・サタ−は、マーシャルの手のひらで、鈍く光る数個の豆粒のような物体をじっと見ていたが、急いでドアに鍵をかけた。そして、薬剤師用の小さな秤とアメリカ百科辞典を持ち出しその物体を調べ始めた。あることを予測する4つの目の色は、次第に確信に変わっていった。この豆粒のような物体は、間違いなく金であった。これが1848年1月24日の朝、カリフォルニアはシェラネバダ山脈の麓での黄金の発見の瞬間であった。 明けて1849年はカリフォルニアめがけてのゴールドラッシュの年となった。この年だけで約10万人の人が一獲千金を夢見て殺到した。この人々のことを「フォーティー・ナイナ−ズ」とアメリカ史は呼んでいる。 《世界史への旅》 |
○金の日,ゴールドラッシュデー |
1848年
カリフォルニアの川底で砂金を発見。ゴールドラッシュの始り |
カノッサの屈辱 =1077年、イタリア= |
1077年、神聖ローマ皇帝がローマ教皇に「お詫び」をした。 アペニンの岩山の上に立つカノッサ城。城には博物館がある。ハインリヒ四世は教皇から破門を解いてもらう為に密かにアルプスを越え、教皇グレゴリウス七世が滞在しているトスカナのこの城を訪れた。しかし、グレゴリウスはなかなか会おうとせず、カノッサ城外で悔恨の心を示すことを要求した。ハイリンヒは1月25日から3日間、雪の中、裸足に粗末な修道衣だけの姿で城の前に裸足で雪中に立ち続け、ようやく教皇の赦免を受けることができた。 《クロニック世界全史》 モジリアニ没、1920年 |
○日本最低気温の日 ○左遷の日 ○お詫びの日 |
901年
左大臣・藤原時平の讒言により、醍醐天皇が右大臣・菅原道眞を太宰権師に左遷 |
オーストラリア始まりの日 =1788年、オ−ストラリア= |
この日、イギリス海軍大佐ア−サ−・フィリップは、自分の船団でイギリスから連れてきた人々をオ−ストラリア東南部の小さな入江に上陸させた。この地に植民地を建設する事業を開始するためである。新しい植民地は、本国の内務大臣の名にちなんでシドニーと名付けられた。 この船団には、植民地を統治する要員と、イギリスで罪を犯して流刑を宣言された囚人が700人以上乗せられており、彼等が新しい植民地の建設事業に従事することになった。 《クロニック 世界全史》P646 |
○文化財防火デー ▽建国記念日 (オーストラリア) |
1184年
源頼朝が後白河法皇からの平氏追討の令を受ける |
ヴォルムスの帝国議会にてカ−ル五世ルタ−を釈放 =1521年、ドイツ= |
カ−ル五世が帝国の司教都市ア−ヘンで戴冠式を挙行したのは、1520年10月22日のことである。華やかな戴冠式の余韻がいまだ消えやらぬころ、はやくもカ−ルはア−ヘンを出発して、ケルンからライン河をさかのぼり、ヴォルムスに向かった。この司教座のある都市で、皇帝として彼が初めて臨席する帝国議会が開催されることになっていたからである。 しかし、1521年1月27日に開催されたヴォルムスの帝国議会を世界史上名高くしたのが 帝国議会における尋問の次第は、あまりにも有名である。ルターは並みいる諸侯を前にして、皇帝に自己弁明を行い、自説の撤回を頑としてつっぱね、「私は教会や公会議の決定に従うのではなく、ひたすら聖書だけを依り所とする。ただ神に助けを求めるしかない」と、毅然として言い放ったのだった。 討論の次第を見守っていたカール五世は、固い信念に貫かれたこの修道僧を翻意させるのはとても無理と判断せざるをえなかった。そのため、彼をそのまま釈放したのである。矛盾は初めからあった。その矛盾を背負いながら、カ−ルはなんとかして新教・旧教の対立を和らげようと苦闘する。 《カ−ル五世》 モ−ツァルト生誕、1756年 |
○国旗制定記念日 ○ハワイ移民出発の日 ▽ナチス犠牲者記念日 (ドイツ) |
1219年
鎌倉・鶴岡八幡宮で源實朝が甥の公暁により暗殺される。源氏の正統が断絶 |
天正の遣欧使節団、長崎を出帆 =1582年、日本= |
天正10年正月28日、長崎を出帆した九州三大名の共同の遣欧使節は、途中いたるところで大歓迎を受け、法王グレゴリオ13世に会って祝福を受け、ヨーロッパ人の日本理解と日本へのヨーロッパ文化導入に大きな役割を果たして帰国した。彼等は伊東マンショほかいずれも13才から15才の少年ばかり4名で、8年の長きにわたってこの大旅行を敢行し、1590年7月22日、無事長崎に帰国した。 ⇒7月22日 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》 ドフトエフスキ−没、1881年 |
712年
稗田阿礼が誦習していた帝記などを太安万侶が筆録した『古事記』が完成し、元明天皇に献上 |
南極、昭和基地命名 =1957年、南極= |
気温マイナス10度。南極としては暖かい季節だが、二列に整列した41人の男たちは防寒服に身を固めていた。淡青色の空に日の丸がひるがえる。 初代隊長の永田武が宣言する、「昭和32年1月29日20時57分をもって、この地域を日本の南極観測隊の主基地とし、昭和基地と命名する」。 3月17日、登山歴を買われて,産経新聞時代に第三次観測隊に参加した外交評論家の澤英武はこう振り返る。「日本の南極観測は学者の探求心と政府の先進国入りの悲願を核に、敗戦国の肩身の狭さを晴らそうとする国民の心に灯った希望の火だった」。 《戦後史開封》 ラッフルズ、シンガポールに上陸、1819年 |
○南極の日,昭和基地開設記念日 |
1845年
米作家、エドガー・アラン・ポーがデビュー |
マイヤ−リンクの悲劇 =1889年、オ−ストリア= |
1889年1月30日、30歳のオーストリア皇太子ルドルフは、ウィーンの森のはずれにある ルドルフは政治的外交的に鋭い洞察力を持ち、いち早く20世紀を視野に入れていた有能な皇太子であった。先見の明があり過ぎたために、保守的なフランツ・ヨ−ゼフ皇帝と衝突し、父との戦いに敗れての自殺であった。 《エリザベ−ト》 |
1649年
絶対王政を強行し議会と対立した英国王チャールズ1世が、清教徒革命で処刑 |
スターリングラード攻防戦 =1943年、ドイツ= |
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この日、ソ連軍に包囲されていたフォン・パウルス将軍率いるドイツ第六軍が降伏した。前年11月19日、ドイツの猛攻に守勢だったソ連軍は,東部戦線で反撃を開始。翌20日にスタ−リングラ−ド(現ヴォルゴグラ−ド)市の北西と南方から攻撃を始め、ドイツ軍33万人を包囲した。ドイツ軍は航空機での物資補給を試みるが、ロシアの厳しい冬には勝てず飢えと寒さに襲われていた。とうとう弾薬も尽き、フォン・パウルスは9万1千人の残兵と降伏、2日後に戦闘が終結した。 残されたドイツ軍の死体は14万7千を数え、投降した将兵の多くが強制労働と疾病で死亡し、本国に帰還できたのは5千人のみであった。この敗北はドイツ国民の間にヒトラ−への不信を募らせる。2ヶ月半続いたスタ−リングラ−ド攻防戦は、第二次大戦の大きな転換点となる。 《クロニック世界全史》P1016
シューベルト生誕、1797年 |
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○生命保険の日 |
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1882年
前年設立の日本初の生命保険会社・明治生命が初の保険金支払い |