4月 |
|
レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネサンスの生んだ偉大な天才の一人というだけでなく、万能という名がまさにふさわしい、人類誕生以来の最大級の超人である。彼の興味は当時知られていた学問のほとんどすべての分野に及んでいる。 |
六三制発足 =1947年、日本= |
戦後教育を象徴する六三制は昭和22年4月1日に発足した。 《『日本を変えた日』読売新聞平成6年8月19日》 |
海外旅行解禁 =1964年、日本= |
1964年(昭39)4月1日−この日は日本の戦後旅行界にとって最大の転機が訪れた日として記憶されている。海外渡航の自由化である。 こうして、業務渡航や留学などに限られていた海外旅行が解禁された。一人年に1回、持ち出し外貨は500ドル以内の制限付きではあったが、自由に海外へ行ける環境が整ったという点で、この年が事実上の『海外旅行元年』と言える。東京オリンピックが開催されたこの年の海外旅行者数は12万8千人であった。 《にっぽんの軌跡 読売新聞 平成6年12月14日》 ラフマニノフ生誕、1873年 |
◇エイプリルフール,万愚節 |
1904年 イギリスでロールスロイス1号車が完成 |
アメリカ合衆国がドイツに宣戦布告 =1917年、アメリカ= |
1915年5月7日、アイルランド沖でドイツ潜水艦によって撃沈された英船ルシタニア号の死者の中には、128名ほどの米国人が含まれていた。この事件により米独関係は一時緊張し、きたるべきアメリカ参戦の遠因となった。1916年、ウィルソンは中立を掲げて再選されたが、アメリカ参戦は近づきつつあったのだ。 《教養人の世界史》
|
○ローマ法王ヨハネ・パウロ2世死去 |
1744年
スコットランドで世界初のゴルフのオープン競技開催 |
4月3日
ブルゴ−ニュ公国の断絶 =1482年、ドイツ= |
1482年のこの日、ブルゴ−ニュ公国のマリアがこの世を去った。ハプスブルク家のマクシミリアンと結婚後わずか5年のことであった。 誰からも『美しき姫君』と愛されたマリアの急死は、彼女が若く幸福だっただけに、なおさら、人々の心に衝撃を与えた。4月3日に営まれた葬儀にはあらゆる階層の1万5千人もの貴族や民衆が参列して、最後のブルゴ−ニュ公女の死を悼んだ。彼女の遺体はブル−ジュのノートルダム寺院に埋葬された。今日でもこの寺院には、銅像に刻まれた優しく微笑む彼女の姿が、父シャルル突進公のそれと並んで安置されている。 《ハプスブルク家の女たち》 |
■アメリカの休日 ○日本橋開通記念日 |
604年
聖徳太子が「十七条憲法」を制定 |
キング牧師、暗殺 =1968年、アメリカ= |
||
黒人解放運動の代表的指導者マ−ティン・ル−サ−・キング牧師が、テネシー州メンフィスで暗殺された。39歳だった。この日午後6時ごろ、滞在中のモーテル2階のバルコニーで同志と談話中、突然銃弾を右あごに受けたもので、7時5分、死亡が確認された。 1960年代なかば以後、キングはアメリカ国内で貧困と人種差別が放置されたまま、巨額の戦費がベトナム戦争という最悪の暴力に費やされていることに気付き始めた。1年前にはベトナム反戦を表明。体制批判を強め、国に貧困対策を要求する非暴力運動の実現に献身してきた。 暗殺の報に黒人は怒り、全米各地で暴動が多発。一方、キングを危険分子とみて盗聴や匿名の脅迫を行ってきた連邦捜査局(FBI)が、暗殺犯の捜査を開始。2ヶ月後に単独犯として白人を逮捕する。だが1978年、事件を調査した下院の特別委員会は、単独犯行説は疑問と発表する。 ⇒12月1日§ 《クロニック 世界全史》P1072
|
||
○沖縄県誕生の日 |
||
1581年
海賊フランシス・ドレークがエリザベス女王からナイトの爵位を受ける |
長嶋茂雄、後楽園でデビュー =1958年、日本= |
一試合に二人そろって打つアベック・ホ−マ−の言葉は、ONのために生まれた。二人のそろい踏みは106回を数えた。その一翼をになった長嶋茂雄は、言葉は悪いが、プロ野球をなめていたという。東京六大学野球で8本塁打の新記録(当時)を勲章にプロ入りし、オープン戦でも快調に打ちまくった。「なんだ、こんなものか」。若気の至りとも言えるが、開幕戦に普通の新人が抱くような不安に襲われることもなかった。だが、天狗の鼻は、昭和33年のこの日、後楽園球状で、あっさりへし折られた。 国鉄のエ−ス・金田正一の前に4打席連続三振、この日は長嶋茂雄にとって「人生で最もショックだった日」として刻み込まれることになる。 金田は新人離れした思い切りのよさをたたえ、「将来、大変な選手になる」と予言したというが、長嶋の悔しい思いがいやされたわけではない。おまけに翌日、リリーフに出てきた金田に 三振を喫して対金田5打席連続三振。プロの恐ろしさを痛感させられた。この屈辱が、その後の長嶋茂雄伝説を生み出すことになる。 その数々の長嶋茂雄伝説の中でもひときわ光彩を放つ、プロ野球初めての天覧試合での サヨナラ本塁打は、デビューして1年後の6月25日に果たしている。 読売新聞『日本の軌跡』平成6年9月7日 カラヤン生誕、1908年 |
☆清明[せいめい] |
1615年
徳川家康が大坂再征の為に駿府を出発 |
皇帝ナポレオンの退位 =1814年、フランス= |
この日、フランス皇帝ナポレオンは退位宣言に署名した。 そしてさらに、エルバ島へ流される日がやってきた。4月20日、ナポレオンはフォンテンブロ−宮殿の庭に集まった兵士達に向かって感動的な言葉で別れを告げる。 こうしてナポレオンはエルバ島に流されていった。同じこの年、5月29日、ジョセフィーヌは50才の人生を閉じた。⇒4月20日 《私の歴史メモ》
|
○城の日 ○北極の日 ★寒の戻りの特異日 |
1789年
ジョージ・ワシントンがアメリカ初代大統領に当選 |
戦艦『大和』撃沈 =1945年、日本= |
鈴木内閣は4月7日に成立した。親任式の行われているさなか祝うかのようにB29、90機と、初めて来襲したP51、30機が銀色燦爛と輝かして東京上空を乱舞し、日本機も少数が迎え撃った。春もやのかかる奥で、両軍飛行機の撃ち合う機銃音が長い間響いていた。そしてこの日、帝国連合艦隊に最後の晩鐘が鳴り響いた。戦艦『大和』が巡洋艦『矢矧(やはぎ)』、駆逐艦8隻を伴って沖縄へ出撃中に、米艦載機の猛攻を受け、九州南方150キロの海上で海底深く没したのである。 巨大戦艦、大和は20本の魚雷と無数の爆弾を受けて沈没。2,740人が戦死、生還できたのはわずかに276人であった。日本の『無敵海軍』は黄海の海戦、日本海海戦以来の長い勝利の伝統を、全滅の終幕をもって閉じた。 《原爆が落とされた日》 「12時32分」 敵機100機が、雲の合間から出現、急降下爆撃を開始。 元大和乗組員の著書「戦艦大和の最期」にある言葉 イエス・キリスト、十字架にかけられ処刑、30年 |
○世界保健デー(World Health Day) |
1541年
フランシスコ・ザビエルが東アジア布教の為、リスボンを出発 |
ミロのビーナス公開 =1964年、日本= |
4月8日、午前11時、上野公園にある国立西洋美術館の前庭、赤いじゅうたんの上に「ミロのビーナス」が置かれ、フランスのポンピドー夫妻と池田勇人夫妻等が並び、開会式が挙行された。金銀のテープが切られ、ファンファーレの響きとともに美神・ビーナスの展覧会がいよいよ始まった。 パリのルーヴル美術館に行かなければ見ることができないということ、フランスが初めて「ミロのビーナス」を国外に出し、公開したのが日本であったことなどが話題を呼び、多数の人々が美神を一目見ようと押し寄せ、前庭に小屋が建てられ、その中に飾られた作品を、観衆はぐるりと回りながら眺め、外へ出されるという展示方法がとられていた。なんとなくパンダが上野公園にやってきた時(1972年11月4日)の爆発的な人気と見物方法が似ていた。 常に長い列ができ、人波の中で高く飾られた「ミロのビーナス」を目にし、立ち止まることは許されず、数分後には外へ押し出されていた。国立西洋美術館と京都市美術館の二つの展示会場での入場者数は172万人以上となり、大分県の全人口に匹敵した。たった一点の彫刻の展示は美術的事件といえるほど成功したイベントとなった。同年、日本は東京オリンピックという大イベントを控えており、ミロのビーナスの来日はその一環を成したのである。 《私の歴史メモ》 ピカソ没、1973年 |
豪華王ロレンツォ・デ・メディチの死 =1492年、フィレンツェ= |
政治的手腕に恵まれていたロレンツォはフィレンツェに温和な専制政治を敷くことができ、その間フィレンツェとメディチ家は繁栄を見せた。彼ほど優れた、愛すべき専制君主をフィレンツェはほかに見つけられなかったろうと言われている。1492年のこの日、ロレンツォ・デ・メディチは死の床に就いていた。 大聖堂のド−ムを雷が打った時、ドミニコ会の狂信的な伝道師ジロラモ・サヴォナロ−ラは、「教会とこの国に恐ろしい時代が待ち受けている」と警告した。サヴォナロ−ラの終末の予言はすぐに現実のものとなった。 最も重大なことはロレンツォの死が、イタリアの政治の安定を壊したことであった。フランスの侵略が、一連のイタリア戦争を勃発させ、それ以後何年もの間、無力なイタリアは列強間の戦の舞台になった。 《THE GREATEST ARTISTS 第4号レオナルド・ダ・ヴィンチ》 |
□花祭り(潅仏会,仏生会,浴仏会) ○忠犬ハチ公の日 ○ヴィーナスの日 |
1820年
エーゲ海のメロス島で耕作中の農夫が「ミロのヴィーナス」を発掘 |
南北戦争終結 =1865年、アメリカ= |
この日、ヴァ−ジニア州アポマトックス・コ−トハウスの村の民家で、南軍のロバ−ト・リ−将軍が北軍のユリシ−ズ・グラント将軍と会見し、降伏を示す文書に署名した。 4月3日には、ついに南部連合の首都リッチモンドも陥落し、食糧も武器もない状態に追い込まれた南軍は、戦闘不能となった。リ−将軍は、ゲリラ戦であくまで抵抗を続行しようという部下の将校を説得して、この日の会見に臨んだのだった。 リ−降伏の知らせは、ただちに南部各地に伝えられ、まだ戦闘態勢にあった南軍部隊もつぎつぎと武器を捨て帰郷の途に就く。23、24日には、首都ワシントンで北軍の勝利パレードが開催され、足掛け5年にわたる南北戦争が、北軍兵士36万人、南軍兵士26万人を犠牲にして、その幕を閉じることとなる。 ⇒4月14日 《クロニック 世界全史》P821 4/15 ボードレール生誕、1821年 |
1865年
南軍のリー将軍が降伏宣言し、アメリカ南北戦争が終結 |
マクシミリアン大公、メキシコ皇帝に即位 =1864年、オ−ストリア= |
1867年6月19日、マクシミリアン皇帝は哀れにも銃殺された。35歳だった。彼は当時オーストリア・ハンガリ−帝国を支配して、欧州に盛強を誇ったハプスブルク王朝のフランツ・ヨ−ゼフ皇帝の実弟である。本来なら、兄に次いで王位継承権を持つはずの彼が、何故に未開国メキシコの定位に着いたのか。 マクシミリアンと結婚成ったシャ−ロットは父のベルギ−王レオポルド一世に、「私は山頂の城から毎日同じ海面を眺める怠惰な生活を、70の老女になるまで続けたくはありません。たとえ多くの困難が伴っても、充実した活動的人生を送り、義務と責任を立派に果たしたいのです」と書き送っている。マックスとしては、僅か4年前には敵国だったフランスから王座を授けられることに強い抵抗を感じながら、他方ではハプスブルク家の大公として、歴史に残る偉大な業績を成就したいと念じていた。 1864年のこの日、ハムレットのように揺れ動くマックスの退路は断たれ、シャ−ロットは熱望する王冠を入手した。前日、フランツ・ヨ−ゼフ皇帝はミラマ−城に到着し、王族会議の席でマックスは兄帝の要求通りに王位継承権を放棄する文書に署名した。 4月10日、マックスはスペイン語でメキシコの王冠を受諾する旨を答え、メキシコの自由・独立・安寧・繁栄のために最善を尽くす決意であると述べた。すると一同は、マクシミリアン一世皇帝万歳!シャ−ロット皇后万歳!を唱和した。それを合図にミラマ−城の塔の上にメキシコ国旗が上がった。 その夜の祝宴にはマックスは不快を訴え欠席し、シャ−ロットだけ出席した。彼女は明るい 微笑を振り撒くと、「皆様、これからはカルロタ(皇后)と呼んで下さい」と言って喝采を受けるのだった。皇帝は31歳、皇后は23歳である。こうして、冒険への長い航海が始まった。 ⇒5月28日 《ハプスブルク宮廷の恋人たち》 |
○瀬戸大橋開通記念日 |
1302年 仏国王フィリップ4世が僧侶、貴族、市民からなる「三部会」を初めて開催。三部会の支持により教皇支配と王権を強化 |
マッカーサーの解任 =1951年、アメリカ= |
||
前年義勇軍の形で参戦しつつあった中共軍により、形勢はまた変転、朝鮮戦争は世界大戦の危機感を漂わせていた。年が変わった1951年4月11日、当時の国連軍総指令官で、5年数ヶ月にわたり日本に君臨したマッカーサーが急に解任された。中国との全面戦争もやむなしという元帥の方針が、トル−マン大統領に受け入れられなかったのだ。 帰米したマッカーサーは、「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」という言葉を残して公的生活から去った。 ⇒10月20日§ 《教養人の世界史》
|
||
○メートル法公布記念日 |
||
1713年
「ユトレヒト条約」調印によりスペイン継承・アン女王戦争が終結 1814年 フォンテンブロー宮殿でナポレオンがフランス皇帝からの退位宣言に署名。エルバ島への流刑が決まる 1951年 トルーマン米大統領がマッカーサー元帥の極東全指揮権を解任。16日に帰国 1952年 1948年から実施されていたサマータイムを廃止する法律が公布・施行 1952年 憲法よりもGHQの命令を優先すると定めた「ポツダム政令」を廃止 1999年 東京都知事選挙で石原慎太郎が当選 |
ゼンマ−リンクトンネル開通式 =1854年、オーストリア= |
||
1841年以来、オーストリアはヨーロッパ大陸の旅行開拓の先端をいっていた。ドナウ汽船は 23隻の蒸気線を就航させ、鉄道網は総延長575キロに達して、オーストリアは名実ともにヨーロッパ大陸の交流の中心地であった。ペレ−ル兄弟などフランスの銀行家が、オーストリア鉄道網の整備に多額の出資をして援助していた。鉄道は早くから、領土相互の連絡強化の手段として、また人的、物的資源の交流手段として認識されていた。 フランツ・ヨ−ゼフも鉄道に対しては深い関心を抱き、結婚の12日前の1854年4月12日水曜日には、ウィーン・トリエステ線のゼンマ−リンク・トンネルの開通式に臨席している。ウィーン・トリエステ線は、アルプスを越えて敷設された最初の路線で、鉄橋16、トンネル15、そして死者750名という記録ずくめの鉄道路線である。 《麗しの皇妃エリザベト》
|
||
ル−ズベルト大統領、没 =1945年、アメリカ= |
||
この日、ルーズベルトが急逝した。チャーチルはロンドン放送でこう述べた。「大統領の死は、英国民の損失であり、人類の損失であり、自由主義にとって最大の損失である。世界の鼓動はいま永久に止まったのだ」
。 |
||
ガガーリン少佐、地球一周 =1961年、アメリカ= |
||
27歳のガガーリン少佐を乗せた人工衛星船ボストーク第一号は、1961年4月12日午前9時7分、カザフ共和国のバイコヌ−ル宇宙基地から打ち上げられ地球を一周した。 この世界初の有人宇宙飛行の成功によって、本格的な宇宙時代が到来する。またも先を越されたアメリカは、ケネディ大統領が祝賀メッセージを送ったが、強い衝撃を隠しきれなかった。 《クロニック 世界全史》P1058
武田信玄没、1573年 |
||
○世界宇宙飛行の日 ○東京大学創立記念日 |
||
1204年 第4回十字軍がコンスタンチノープルを占領 |
カチンの森で数千の死体発見 =1943年、ロシア= |
この日、ベルリン放送はソ連領内スモレンスク近郊のカチンの森で、ドイツ軍がソ連の秘密警察に殺害されたとみられる数千の遺体を発見したと報じた。 1939年9月、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、ソ連はポーランド東部を占領、後に併合した。その際、ソ連占領地域にいた1万数千人のポーランド人将校がソ連軍に逮捕され、その消息は途絶えたままだった。 だが、1941年6月、独ソ戦が始まると、ポーランド亡命政府とソ連政府は関係改善に乗り出した。その時、捕虜となったポーランド人将校の処遇問題が、最重要懸案の一つとなった。捕虜の釈放を要求するポーランド亡命政府に対し、ソ連政府はすでに釈放済みと返答。実際の捕虜の行方は分からないままだった。 そこに、このポーランド人将校の虐殺現場発見という報が、ドイツから飛び込んできたのである。ソ連政府はこれをナチス・ドイツの仕業を言明するが、ポーランド側の不信の念は拭いきれず、これを機に両国の外交関係は断絶する。 第二次世界大戦後のポーランドでは、『カチンの森』は長く政治的タブーとされる。 だがペレストロイカの新風の中、ゴルバチョフが発足させたポ−ランド・ソ連両国の歴史家委員会は、つぎつぎと事実を暴露。1990年4月、ソ連政府は『カチンの森』に対する責任を認め、 ポ−ランド政府に正式に謝罪する。 《クロニック 世界全史》P1016 |
○決闘の日 ※啄木忌 |
1592年
豊臣秀吉による朝鮮出兵第一陣の小西行長らが釜山に上陸。文禄の役が始る |
リンカ−ン暗殺 =1865年、アメリカ= |
|||
=1865年、南北戦争終結時のリンカーンの言葉= 「この戦いにおける私の最高の目的は、連邦を救うことであって、奴隷制度を救うことでもなければ、それを破壊することでもない。もしも、私が、一人の奴隷を解放しなくても、連邦を救えるものなら、私はそうするだろう」 また、ゲティスバーグの古戦場を訪れて戦死者の霊を慰めた時の、彼の演説の最後の一句、「人民の人民による人民のための政治(government of the people, by the people, for the people)」という言葉こそは、デモクラシーの最良の表現として不滅の意義をもっている。その劇的な生涯と人間的な高貴さのゆえに、彼はまさしくアメリカ史上最大の英雄であろう。アメリカ合衆国大統領で、黒人奴隷解放に偉大な足跡を残したリンカーンが凶弾に倒れたのは、南北戦争が集結したわずか5日後、すなわち1865年4月14日のことであった。その日は霧の深い、うすら寒い晩だった。リンカーン夫妻はワシントンのフォ−ド劇場の二階特別ボックスで、折から上演されていた喜劇を見ていた。 午後10時過ぎ、一人の男が廊下の扉を開け、ボックスの中に忍び込んできた。男は至近距離のリンカーンの後頭部めがけてピストルを発射した。劇場近くの民家に運ばれたリンカーンが息を引き取ったのは、翌15日の朝だった。 ⇒9月22日§ 《世界史こぼれ話》
|
|||
○タイタニック号の日 |
|||
1849年
ハンガリーがオーストリアからの独立を宣言する。オーストリア軍に敗れて失敗 |
レオナルド・ダ・ヴィンチ誕生 =1452年、イタリア= |
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年4月15日に、アルバ−ノ山の麓の丘陵に抱かれた小さな町ヴィンチの近くで生まれた。ヴィンチの町は、きらびやかなフィレンツェから一日の旅程である。 レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネサンスが生んだ偉大な天才の一人というだけでなく、万能という名がまさにふさわしい、人類誕生以来の最大級の超人である。彼の興味は当時知られていた学問のほとんどすべての分野に及んでいる。その大いなる夢は人力で空を飛ぶことだった。絵画にも才能を発揮したが、彼の完全主義のため、完成された大作はほとんどなかった。 レオナルドはフィレンツェ近郊で生まれたが、芸術家として最も野心的に活躍したのはミラノだった。晩年には国王フランソワ一世に客人としてフランスへ招かれ、芸術家として異例の尊敬を一身に集めた。彼の多くの計画は実現されなかったが、その素晴らしい素描の数々は、比類のないほど強い精神力に裏打ちされた豊かな想像力を雄弁に物語っている。 ⇒5月2日 《THE GREAT ARTISTS 第4号 レオナルド・ダ・ヴィンチ》 |
1912年 英国豪華客船タイタニック号が処女航海で氷山と衝突し沈没 |
ゴヤ没(82才) =1828年、スペイン= |
||
1792年から93年にかけて、ゴヤは奇妙な病気にかかった。体がマヒ状態になり手足を動かすことができず、頭のなかでは蜂が飛ぶような音がし、激しいめまいがする。
やがてこの病気が治ったとき、ゴヤの聴力は完全に失われていた。全聾の身になったのでる。 この病気はいまでは髄膜性脳炎だと考えられているが、あるいは性病による脳炎だったのかもしれない。しばらくは意気消沈したゴヤだったが、やがて悟りの境地に達し、つぎつぎと作品を製作する。あの傑作『裸のマハ』も、全聾になってからの作品である。 1828年に入るとゴヤは急速に衰えだした。「ちょっと具合が悪くなって床についている。早く会いに来てくれ」と彼は息子ハビエ−ルに書いている。4月1日のことだ。そしてついにこの日、息を引き取った。82歳だった。 《画家と名画》
|
||
○ボーイズビーアンビシャスデー |
||
1397年 金閣寺の上棟式 |
日清戦争終結 =1895年、日本= |
この日、下関海峡をのぞむ春帆楼で、伊藤博文、陸奥宗光、清朝の李鴻章、李経方が会談し、日本側が示した日清戦争講和条約最終案に対し清朝側が合意。講和条約(下関条約)が成立した。 この条約交渉は、清朝の北洋艦隊の全滅後アメリカが仲介し、李鴻章が全権として来日して前月20日から続けられていた。条約は朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾全島・澎湖諸島の割譲、賠償金の支払、通商航海条約締結と最恵国待遇の承認など、日本側の要求がほとんど 貫徹された内容であった。 しかし遼東半島の割譲についてはロシアが強硬に反対し、この月の23日フランス、ドイツとともに清朝への返還を勧告する(三国干渉)。 日本はこれを受け入れ、遼東半島を返還するが、国内では『臥薪嘗胆』(がしんしょうたん)のスローガンのもとに反露感情が高まる。 《クロニック 世界全史》P890 |
○ハローワークの日,職安記念日 |
1895年
日清戦争講和の為の「下関条約」に調印 |
アインシュタイン死去 =1955年、アメリカ= |
理論物理学者で平和主義者でもあったアルバ−ト・アインシュタインが、ニュ−ジャ−ジ−州プリンストンで死去した。死因は胆嚢炎、76歳だった。 アインシュタインはドイツ生まれのユダヤ人で、1916年に一般相対性理論を完成。
1939年8月、原爆開発を勧告する書簡をフランクリン・ルーズベルト大統領に送付。 《クロニック 世界全史》P1044 |
1917年 沢田正二郎らが新国劇を結成 |
アメリカ独立戦争勃発 =1775年、アメリカ= |
この年3月、イギリス本国の圧迫に反抗した植民地人パトリック・ヘンリは、植民地協議会で次の有名な文句をはいた。 「鉄鎖と奴隷化の代価であがなわれるほど生命は高価であり、また平和は甘美なものでしょうか。全能の神よ、かかることをやめさせてください。私は、他の人がいかなる道をとるかは知りません。しかし、私に関するかぎり、私に自由を与えてください。そうでなかったら私に死を与えてください。 Give me liberty, or death」。 翌月、独立戦争の火の手がマサチュセッツで挙がった。 4月19日、イギリス軍ボストン守備隊は、植民地側の武器弾薬を押収するため、郊外のコンコ−ドに向かった。その途中で、民兵および農民ゲリラと衝突し多くの死傷者をだした。これが、その後8年間も続く独立戦争の発端であった。 ⇒7月4日 《世界史への旅》 バイロン没、1824年 |
○地図の日,最初の一歩の日 |
1701年
赤穂城が幕府に明け渡し。赤穂藩主浅野内匠頭の刃傷による浅野家断絶の為 |
ナポレオン、エルバ島へ =1814年、フランス= |
||
1814年のこの日、ナポレオンのエルバ島への出発の朝がやってきた。
それに先立ちナポレオンは将校たちを集め、フォンテンブロ−の広間で別れを告げた。続いてバルコニーに出た。 兵たちが整列している。この20年間、ヨーロッパ各地を転戦してきた兵士たちだ。告別の辞を静かに述べる。司令官のプティ将軍が軍旗を奉じ一歩前へと出る。 やがて別れの時がきた。将校も下士官も兵も一人残らず泣いていた。馬車に乗り込んだナポレオンは、窓からフォンテンブロ−宮殿を見渡す。石畳の上を馬車が動き始め、音をたてながら門へと向かった。
ナポレオンの老近衞兵たちは競ってエルバ島への同行を志願した。彼らはそれを権利だとすら主張した。結局のところ400名の予定が600名にまで増えてしまったのだ。1ヶ月以上の行軍の末、エルバ島の船着場に船が着いたとき、彼等は長旅の苦労をたちどころに忘れた。感動の嵐が彼等を襲った。そこには出迎えに駆けつけたナポレオンがいたからである。 《ナポレオンの戦場》
|
||
ソ連軍、ベルリン市に突入 =1945年、ドイツ= |
||
ヒットラー56歳の誕生日の今日、連合軍は実に皮肉な贈物を彼に対して送り届けた。
第一に、アメリカ軍はナチス運動発祥の地ニュ−ルンベルクを占領した。 《帝国の死角》 |
||
☆穀雨[こくう] ○郵政記念日 ○青年海外協力隊の日 |
||
1796年
モンドヴィルの戦い。ナポレオンが「余の辞書に不可能の文字はない」と兵士を叱咤しイタリアに勝利 |
マリ−アントワネット、ウイ−ンを出発 =1770年、オーストリア= |
マリア・テレジア女帝の子供達の中で、まず初めに結婚相手が決まったのは末娘マリア・アント−ニア、すなわちマリー・アントワネットだった。
マリア・テレジアはオ−ストリア継承戦争での苦戦に鑑み、宿敵プロイセンに打ち勝つためには、フランスとの同盟が必要であると痛感するようになっていた。そこで宰相カウニッツと密かに図って、ルイ十五世の愛妾ポンパド−ル夫人およびロシアのエリザベ−タ女帝と秘密同盟を結ぶに至った。 オーストリアとフランスとの間の同盟の証として、女帝の生まれたばかりの末娘アント−ニアとフランス王の孫ルイ・ド・ベリ−公、後のルイ十六世との婚約が定められた。 1770年の今日、14歳の花嫁アント−ニアはベルサイユに輿入れするためにウィーンを旅立った。 ⇒5月16日 《ハプスブルク家》
|
1854年
伊豆代官・江川太郎佐衛門が伊豆韮山に大砲鋳造の為の反射炉を完成させる |
コンスタンティノ−プルの攻防 =1453年、トルコ= |
4月21日の早朝、ミハイロヴィッチはガラタに集合せよという命令を受けた。作業は道を整備することから始まった。ミハイロヴィッチは、作業を監督しながら大砲でも移動するのだろうと思っていた。翌22日は、まったく違う作業が待っていた。ミハイロヴィッチは、やっと自分たちを待っていた仕事が何であるかを察したのである。
彼より幾つか年下であるあのトルコの若者は、大砲などではなく、艦隊の陸越えをしようとしているのだ。セルビアの騎士は、驚きよりも、恐怖で身が震えそうだった。
人にも物にも不足しなかったマホメッド二世は、それらをまったく惜しみなくつぎこんだ。木製の軌道には、動物の脂がまんべんなく塗られる。車輪付きの荷台の上には、海中から引きずりあげた船が乗せられた。4月22日の、正午にはまだ間があるという時刻だった。金角湾側の城壁の上にいた監視兵の 一人が、突然叫び声を挙げた。同僚たちが何事かと声を掛けたが、その男は説明の言葉が見つからないとでもいうように、ただ手で前方を指してわめくだけだ。声もなく立ち尽くす人々の視線の向こうに、赤地に白の半月の旗を掲げた船が、次々と滑り込んできたのである。「まるで、滑り台を降りてくる玩具の船のようだった」。 《コンスタンティノ−プルの陥落》 イサベル女王生誕、1451年 |
1500年
ポルトガル人がブラジルに到達。以来1882年まで植民地に |
シェ−クスピア生まれる =1564年、イギリス= |
『ロミオとジュリエット』の大成功で、再びロンドン演劇界きっての花形作家となったウイリアム・シェークスピアは、次々と話題作を生み出していった。『リチャ−ド二世』、『夏の夜の夢』、『ヴェニスの商人』。そして1601年『ハムレット』が完成。 「生きるか、死ぬか、それが問題だ」、「凶暴な運命の石と矢を耐え忍ぶのが尊いのか、 それとも苦難の荒海と戦う方が・・・」。「消えろ、消えろ、つかのまの燈火!人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ。」−『マクベス』 世界も変わり始めていた。1603年、一つの時代が幕を閉じる。ヴァ−ジン・クイ−ン、エリザベス一世死去。イギリスを支え続けた大きな柱が倒れた。 「この地上に在る一切のものは、結局は溶け去って、いま消え失せた幻影と同様にあとには一片の浮雲も残しはしない。我々人間は、夢と同じもので織りなされている。はかない一生の仕上げをするのは、眠りなのだ。・・・・」
1611年、最後の作品、『テンペスト』 自分自身の中にある苦しみや矛盾を正面から見つめ、人間とは何か、人生とは何かという謎を追い続けたウイリアム・シェ−クスピア。その優れた観察眼と深い洞察力によって人間の根源を見極めようとした彼の作品は、400年の時を越え、今尚生き生きと語り継がれています。それは私達誰もが自分の中にハムレットと同じ矛盾に満ちた存在を抱えているからに違いありません。
彼は今も問い続けているのです。 《知ってるつもり》1996年3月5日 放送 シュークスピア没、1616年 |
○サンジョルディの日,世界本の日 ○地ビールの日 ○国際マルコーニデー |
1854年
門人・吉田松陰がアメリカに密航しようとした事件に連坐して、佐久間象山が逮捕 |
フランツ・ヨ−ゼフとエリザベ−トの結婚 =1854年、オーストリア= |
||
4月24日、月曜日。明るく輝く日差しが、慶事に湧き立つ宮殿にさんさんと降り注ぎ、御成婚を祝うウィーンの町は、祭りの日の装いだった。ウィーンの町にこれほどの賑わいと興奮があるのは、ウィーン会議以来のことである。 行列は王室の結婚場に定められているアウグスティン教会に向かう。マリア・テレジアとフランツ・ロ−トリンゲン公の婚儀が1736年に、そして1810年にはマリア・ルイザとナポレオンの代理結婚式が、この教会の細長い内陣で行われた。ゴチック様式の天井には1万5千本の蝋燭が灯され、壁面には真紅のビロードの幕が張り巡らされて、教会はさながら聖なる宝石箱のようであった。 ウィーン司教で王制の強力な支持者であるラウシャー枢機卿はこう説教した。「男が裕福であるからといって、その男を愛する女は不純である。それはこの女が夫でなく夫の富を愛しているからである。女が夫を愛するとき、女は夫が貧乏であっても、不運であっても、人間としての夫を愛するものだ」 口づけ、涙。二人は結ばれた。オーストリアに新しい皇后が誕生したのである。 《麗しの皇妃エリザベト》
|
||
○日本ダービー記念日 |
||
1651年 江戸城大奥を改新。女中3700人以上を解雇し、不要な建物を取壊す。徳川家光の死後4日目 |
エルベの邂逅 =1945年、ドイツ= |
ベルリンの南約120キロの地点、エルベ河畔のトルガウではこの日、アメリカ軍とソ連軍が初めて戦場で顔を合わせた。彼等はヒムラ−の観測とは正反対に、盃を挙げてこの巡り合いを祝ったのだ。ドイツは完全に南北両地域に分断された。モスクワではこの『エルベの邂逅』を記念して324門の大砲から24発の祝砲を打ち鳴らしたそうである。 《帝国の死角》 |
○ギロチンの日 |
紀元前405年アテネがスパルタに降伏しペロポネソス戦争が終結 |
ゲルニカ炎上 =1937年、スペイン= |
この日、午後4時半から数時間にわたり、ドイツ空軍コンドル兵団を主力にイタリア機も加わって、バスクの古都ゲルニカが爆撃された。この猛爆撃により街の大半が破壊炎上、多数の市民が死傷した。 前年7月に始まったスペイン内乱は、共和国政府側をソ連とメキシコが反乱軍側をドイツと イタリア両ファシスト国家が支援するなど、列強の介入によって戦闘は長期化。とくにドイツは、武器・弾薬ばかりでなく、空軍部隊コンドル兵団を送り込み、積極的に戦闘に参加、その深刻さを増していた。 そのようななかで行われたゲルニカ爆撃は、激しく抵抗するマドリードの戦線に手を焼く反乱軍にとっては、北部のバスク地方に鉾先を変える作戦の一環であり、ドイツにとっては来たるべき大戦に備えるという思惑があった。ドイツ軍は、最新の250キロ爆弾と焼夷弾の投下や、機銃掃射を行うなど、スペインを軍事訓練の場としたのである。 このゲルニカの破壊・殺戮のニュースは、ただちに世界に伝えられ、非難の声が湧き起こる。これに驚いた反乱軍側は、共和国軍が退却の時に焼き払ったものだと強弁し、報道を否定する。 ⇒10月25日 《クロニック 世界全史》P998
画家、ドラクロワ誕生=フランス=、1798年 |
1792年
後にフランス国歌となる『ラ・マルセイエーズ』が作曲される |
レンナ−によるオーストリア臨時政府樹立 =1945年、オ−ストリア= |
3月29日、ソ連軍はハンガリー国境を越えウィーンの市街戦は目前に迫った。 米英連合軍が来る前に、自国の息のかかった臨時政府を早急に作って主導権を握りたかったソ連軍は4月27日に早々と、レンナ−を首相とする臨時政府を承認した。 レンナ−は、27年前の1918年11月13日、第一次世界大戦直後に第一共和国が成立したとき、首相として立った同じ国会議事堂の前で、今度はソ連軍将校達に取り囲まれながら、第二共和国の発足を宣言する運命的役割を担ったのである。 《エリザベ−ト》 |
○哲学の日 ○婦人警官記念日 |
1180年
伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が、叔父の行家から以仁王の平家追討令旨を伝えられる |
ムッソリーニ、射殺 =1945年、イタリア= |
||
連合軍はイタリアのミラノに突入を始めていた。ムッソリーニはスイスへ亡命を企て、10数人の部下達と自動車数台に分乗して北に向かった。4月28日、彼等はコモ湖畔のギラノ・テイ・メゼツゲ−レで、イタリア国民解放委員会のパルチザン達に発見された。ムッソリーニは愛人のペタッチとともに射殺された。その遺体はミラノに運ばれ、ロレット広場のガソリンスタンドの梁から逆さ吊りに吊るされた。 善きにせよ、悪しきにせよ、敵にせよ、味方にせよ、こうして巨星はつぎつぎに堕ちて行った。 《帝国の死角》
初のブラジル移民783人出発、1908年 |
||
○サンフランシスコ講和記念日 |
||
711年
イスラム教徒がジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵入。アルハンブラの丘を占領し定住 |
ロス黒人暴動 =1992年、アメリカ= |
この日、ロサンゼルスで黒人等による大暴動が発生。市庁舎や警察本部への襲撃、韓国人街など各所で強奪や放火が行われた。前年4月、交通違反で捕まった黒人のロドニ−・キングに白人警官は集団暴行を加える事件が発生。警官4人は起訴されたが、この日、カリフォルニア州地裁陪審が無罪評決を下した。これが暴動の引き金となった。 だがその根底に、経済的・社会的な人種格差がある。さらに近年の景気後退で黒人極貧層が増加、黒人社会の階層化がすすむなかで、増加する韓国系など移入者に仕事を奪われ、黒人たちの不満は高まっていた。 暴動は全米各地に波及し、当局発表によれば、死者55人、負傷者2,383人、逮捕者1万3千人にのぼる。 《クロニック 世界全史》P1131 |
◎みどりの日(Greenery Day) *天皇誕生日(Emperor's Birthday) *天長節 |
1851年
アメリカのワシントン〜ボルチモアで世界初の電車が開通 |
キリスト、ゴルゴタの丘で十字架磔刑に =30年、エルサレム= |
||
神の子イエス・キリストは、12弟子の一人ユダに裏切られ、ユダヤ人の祭司長、長老等に捕らえられた。イエスは翌日、ユダヤの最高法院で裁判を受け、自分を神の子だと称する冒涜の罪と判断される。祭司長をはじめとするユダヤ人の激しい要求によりイエスの磔刑が確定する。 イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのち、ガリラヤで伝道を始めた。多くの弟子が付いてきたが、イエスの言動の意味、目的、イエスの存在の意味ははっきりとは分からなかった。12弟子の筆頭のペテロにしてもイエスを『神からのメシア、生ける神の子』と理解していたが、 磔刑を甘受するイエスの態度には納得がいかず、見捨ててしまった。数々の奇跡を実現してきたイエスも、自分にふりかかった災難に対しては全く無力で、悲惨な死を迎える。ユダヤ民族の解放実現をイエスに期待していた人々の落胆は激しかった。 イエスの死後、散り散りばらばらになっていた弟子たちがエルサレムに帰ってきた。しかも、 彼等は別人のような確信に満ちた布教活動を開始し始めた。イエスの遺体をひきとることもせず、埋葬も行わなかった弟子たちに大きな心境の変化があったようだ。ペテロは、死んだイエスが復活したと説教している。12弟子等はイエスと生活をともにし、イエスの復活を証明する使徒となっていた。12使徒のなかには、イエスを裏切り自殺したユダのかわりに、マティアが選ばれている。 《クロニック 世界全史》P150
|
||
ヒトラ−自殺 =1945年、ドイツ= |
||
4月29日午前1時、ヒットラーは防空壕の中で長年隠れた愛人だったエバ・ブラウンと正式に結婚した。そして直ちに遺書の口述にかかったという。 「我等の総統アドルフ・ヒットラーは最後の息を引き取るまで共産主義を敵として戦い、本日午後ベルリン総統官邸の大本営において戦死されました」。アナウンサーの声もぶるぶるふるえていた。いかに冷静を守ろうとしても、一人のドイツ国民としては祖国をこの破滅へ追い込んだヒットラーの最後に対しては、怒り、悔恨、絶望、そして悲壮な虚脱感・・・・・。ありとあらゆる複雑な感情が胸に渦巻いていたのだろう。その声には隠そうとしても隠しきれない呪いの調子さえ感じられたのだった。 《帝国の死角》 |
||
サイゴン陥落 =1975年、ベトナム= |
||
1975年4月30日、サイゴンが陥落しベトナム戦争が終わった。 陥落した日のサイゴンの街は朝から陰気な雨にぬれていた。ラジオから南ベトナムの最後の大統領ズオン・バン・ミンの重苦しい声が流れたのは午前10時すぎだった。 「ベトナム共和国軍すべての将兵に一切の戦闘行為を停止し、現地点に留まることを命令する。革命政府側にもすべての攻撃をやめることを要求する。私たちはいま政府の実権移譲を討議するため革命政府代表との会見を待っています…」 サイゴンとは中国語の西貢がベトナム語化した呼称。クメール人の勢力圏だったが、中国南部から南下を開始したベトナム人が1689年に進出。その後清朝から逃れた中国人が多数移住し、ショロンなどの中国人街をつくった。フランス軍がサイゴン周辺部を占領。阮王朝から1862年に割譲を受けて湿地に排水工事を行い、鉄道やゴム輸出港を作るなど植民地経営の根拠地とした。フランス風の街路から「東洋のパリ」と呼ばれた。人口は第2次大戦前に50万人だったが、ベトナム戦争末期には地方からの難民の集中で350万人に達した。ベトナム戦争の最後に陥落し、76年ホーチミン市と改称された。 《ミッキーマウスクラブサイトより転載》 |
||
670年 法隆寺が落雷により全焼 |