5月 |
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ケルントナートーア劇場 1824年5月7日の第九初演となった劇場。大入り満員で熱狂的喝采を受けた。音楽会としての大成功とは裏腹に、興行収入はベートーベンを落胆させることになった。 ⇒5月7日 |
第一回万国博覧会ロンドンで開幕 =1851年、イギリス= |
この日、第一回万国博覧会が、ロンドンのハイドパ−クで開幕した。 会場には世界各地から集められた1万3千品もの展示物が所狭しと陳列され、入場者の興味をそそった。しかし最大の目玉は、何と言っても展示会場そのものだった。造園技師ジョセフ・パクストンが設計したクリスタルパレスと呼ばれる巨大なガラス張りの殿堂で、博覧会全体の象徴となり、入場者の度肝を抜いた。この大建築物は植物園の温室を原型とし、鉄とガラスの大量生産を可能にした産業革命の所産だった。 ロンドン万国博は大成功を収め、述べ入場者は600万人にもなる。なかでも、産業革命の成果を取り入れた製品は感嘆の的となり、イギリスは改めて『世界の工場』としての自負を強める。 博覧会は、この後、欧州各地でつぎつぎと開催される。 《クロニック 世界全史》P789 |
○メーデー |
1602年
徳川家康が諸大名に二條城造営を命じる |
レオナルド・ダ・ビンチ没 =1519年、フランス= |
1503年秋、フィレンツェに帰っていたレオナルド・ダ・ビンチにフェレンツェ政府は壁画制作を依頼した。画題は『アンギアリの戦い』である。フィレンツェがミラノ軍を打ち負かした、あの1440年6月の戦いである。これを政庁(ベッキオ宮)の大会堂(五百人広間)の壁に描くという仕事である。 レオナルドは『アンギリアの戦い』の仕事の合間に、ある女性の肖像画を書いていた。常に完璧を求めるレオナルドは、1506年その絵をほぼ完成させていたにもかかわらず、ついに依頼主に渡さなかった。永遠の微笑とたたえられる傑作『モナリザ』がそれである。 『モナリザ』完成の年、レオナルドは、今はミラノの新しい支配者となったフランスの招きでミラノに再び赴いた。さらに1516年秋にはアルプスを越えてフランスに移り、二度とイタリアには戻らなかった。フランス王フランソワ一世に仕えて、3年後1519年のこの日、67才の生涯を閉じた。⇒4月15日§ 《世界史への旅》 5世紀の時を越えて、セラチーニ博士の伝説の壁画大発見
彼はノートに次のように書いた。「上手に昼間を過ごした日には幸せな眠りが来るように、上手に過ごした一生は幸せな死をもたらす」。 《the greatest artists 第4号 レオナルド・ダ・ヴィンチ》 |
☆八十八夜[はちじゅうはちや] |
1945年
第二次大戦で、ソ連軍がべルリンを占領 |
5月3日
極東国際軍事裁判開始 =1946年、日本= |
1946年(昭和21年)の今日、日本陸軍の拠点であった市ケ谷台において、A級戦犯28名を裁く極東軍事裁判が始まった。法定は、それから2年半後の、1948年11月に結審した。 昭和初期における日本の軍人どもの横暴ぶりには、目に余るものがあったが、戦争が国際的紛争解決の最終的手段であったことはすでに軍事国際法によって広く認められていたはずであった。したがって、『平和に対する罪』などというものは、本来存在しないはずである。 グル−駐日大使をして、「広田以上の首相を当時の日本に求めることは不可能であろう」と評価させたほどの広田は、死刑執行の当日、東条英機以下6名の高級軍人が『天皇陛下万歳』を唱えているのを聞き、「マンザイをやりましたね」と語りかけたのが最後の言葉となった。 広田の罪といえば軍部大臣の現役武官制を復活したことであり、これによって全ての権限を軍部に掌握させる要因を作ってしまったことであろう。広田が従容として死についたのは、国民に対し、この罪を償うためであったと思われる。 《歴史に選ばれた366人》 |
◎憲法記念日(Constitution Memorial
Day) |
1592年
豊臣秀吉の朝鮮出兵の一番隊、小西行長・加藤清正が漢城(現在のソウル)に入城 |
ワーグナー、ル−ドヴィヒ二世と謁見 =1864年、ドイツ= |
5月4日、ワーグナーはバイエルン王宮の謁見室へと参上した。さすがのワーグナーも感動を覚えたらしく、この日の拝謁のことを早速スイス時代の友人フランソワ・ヴィレの夫人エリ−ザと、マインツ在住のマティルデ・マイア−に宛てて書き送っている。 エリ−ザ宛(5月4日付)「バヴァリアの若い王が、私に会いたいと仰せられたのをご存じでしょう。今日、私は案内されて王の御前に伺候しました。ああ、王はじつに美しく、じつに気品があり、じつに才気と感情に富んだお方です。=中略=王の眼差しの魔法のような魅力を、あなたはとてもご想像になれますまい。願わくは、王がいつまでもお達者でおられますように。しかし、そんなことは信ずべからざる奇跡のような気がします」。 5月5日、ル−ドヴィヒは「私は万難を排してあなたを援助するつもりです。おお、私はこの瞬間をどれほど待ち望んでいたことでしょう。あなたに私の愛を示し得る日がこれほど早く来ようとは、夢にも思っていなかったのです」とワーグナーに宛てて最初の手紙を書き送る。 以後、ワーグナーに死の影がさす頃まで、二人の間には600通に及ぶ書簡と電報が取り交わされることとなる。 ⇒8月13日 《ル−トヴィヒU世》
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◎国民の休日(Holiday for a Nation) |
1597年
伏見城天守閣が完成し豊臣秀吉・秀頼らが移る |
5月5日
ナポレオン没 =1821年、フランス= |
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1821年4月5日、ナポレオンは51歳8ヶ月と20日の生涯を閉じた。胃癌であった。 =遺言= 「遺骸はセーヌ河畔に安置されたい。セーヌこそは国民の中心にあって、私が心から愛したものだから」 波乱万丈の人生であった。滅び行く者の姿は何故か美しい。フランスに栄光の日々を与えた 英雄の姿は、人々の心に深く影を落とし、没後19年の1840年、ナポレオン遺骸帰還の祈りの フランス人の熱狂の迎えとなった。現在遺言通り、セーヌ河畔のアンバリッド廃兵院に眠るのである。 =息子、ローマ王への遺訓= 「もし、1812年に、私がロシアで勝利を収めていたら、平和は100年間保たれたに違いない。私は諸国民の難題を断ち切ったが、いまや、これを結び合わす時が来ている。諸国の君主をして理性の声に耳を傾けせしめよ。欧州には国際的憎悪を生む原因はもはやない。偏見は消え、共通の利益は拡大融合しつつある」 これが、この卓見こそが、ナポレオンの不朽の真価である。だが、死のベッドで書く語るナポレオンは、未完成の状態で粉砕された傑作を痛恨の念を持って眺める偉大な彫刻家に似ている。 ⇒8月15日§ 《私の添乗手帳》
アンヴァリッド・ドーム教会(左)と、ナポレオンの棺 |
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☆立夏[りっか](Beginning of
Summer) ◎こどもの日(Children's Day) ◇端午の節句,菖蒲の節句 ▽ナチス犠牲者の日 (オーストリア) □キリスト昇天祭(Ascension Day,Holy
Thursday) |
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1260年
チンギス・ハンの孫フビライがモンゴル帝国第5代皇帝に即位 |
5月6日
サッコ・ディ・ローマ =1527年、イタリア= |
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1527年5月6日の早朝、ドイツの農民兵とスペインの歩兵部隊を主とするカ−ル五世軍は、軍は、軍は、 縄ばしごをかけてローマの城壁をよじ登り、これを阻止しようとする市民軍の砲撃をものともせずに、市内にどっと乱入した。閉ざされていた城門をこじ開け、群れをなして城門内に入り込んだ彼等は、もはや理性も正気もなく、ただがむしゃらに金目のものをあさる暴徒でしかなかった。 荒れ狂ったカール兵たちはまず広大な貴族の屋敷に侵入し、金銀財宝のめぼしい物をかっさらった。キリスト教徒の聖なる都、数世紀にわたって平和を享受してきた芸術の都は、いまや生き地獄と化したかのようだった。『ローマ帝国衰亡史』によって雄大なローマ帝国の歴史を叙述した18世紀のイギリスの歴史家ギボンは、その第31章で、かつてのゲルマン民族の狼藉ぶりについて説明しつつも、「その将アラリックらによるローマに対する蛮行など、カール五世の皇帝軍のそれに比較すれば、なきにも等しいものだった」と言っている。たしかに前者は乱入後、わずか6日ほどで撤退したのに対し、16世紀のカール軍は実に9ヶ月近くも、強奪の限りを尽くしたのである。 ⇒6月20日 《カール五世》
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ユ−ロトンネル開通 =1994年、フランス= |
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1994年5月6日にヨーロッパの歴史に大きな変化が起きた。英国とフランスを結ぶドーバー海峡の海底に完成した『ユ−ロトンネル』の開通である。開通式は英国のエリザベス女王とフランスのミッテラン大統領が出席して行われた。大英帝国時代を通じてヨーロッパ大陸に属さない=栄光ある孤立主義=を貫いてきた英国は、ユ−ロトンネルの開通によって、否応なしにヨーロッパ大陸の一部になったという事実は世界史における新たな発展として注目に値する。 このトンネル計画は1753年に地質学者N・デマレがルイ十五世に進言したことに始まり、 ナポレオン一世時代には鉱山技師M・ファビエが、海底に道路、ロ−ソク照明、換気パイプを備えたトンネル計画に馬車が往来するデッサンを添えて提案するほどまでに具体化したが、その後の英仏関係の悪化で立ち消えとなった。 今世紀に入ってからも計画は何回となく浮上したが、その都度英国側の反対で挫折した。しかし、1972年、英国がECに加盟したことで、英仏両国の間でユ−ロトンネル建設計画が具体化し、実現に向かって動き出した。 《ANA 翼の王国 1994年5月号》 |
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1527年
イタリア支配をめぐる独仏間の戦争でドイツのカール5世軍がローマに侵入。 |
5月7日
ベートーベン「第九交響曲」初演 =1824年、ドイツ= |
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いよいよベートーベンの57年の生涯で、最も感動的な日がやってくる。『第九』の初演は、1824年5月7日、金曜日、午後7時から、ウィーンのケルントナ−ト−ア劇場で行われた。 『第九』が演奏される時には正指揮者のウムラウフのほかにベ−ト−ベン自身も、指揮棒をとって指揮台に立った。しかし、耳の不自由なベートーベンに、オーケストラや合唱が聴こえるはずがない。演奏者たちは、ウムラウフの棒を見つめ、ベートーベンの指揮棒は、いたずらに空間に弧を描くのみであった。それでも演奏は無事に終わった。この交響曲の最後の音符が鳴り終わった時、聴衆は熱狂的な拍手で、巨匠の新作を誉めたたえた。しかし当のベートーベンにはその拍手が聴こえなかった。 聴衆に背を向けたままの彼は、茫然と立ちすくんでいた。まさに悲劇である。人々はその姿に涙した。気の毒に思ったアルト歌手が、彼の手を取って聴衆の方に向かわせた。その時になって、初めて彼は聴衆が熱狂していることを知ったのだ。聴衆の感動は彼の身体に伝わる。ベートーベンは、震える身体で勝利を感じとったのであった。 拍手はなおも続いた。彼は5回もステージに呼び出された。当時、宮廷の人たちに対する拍手ですら、3回だったことを思えば、いかに聴衆がこの新作を熱狂して迎えたかが良くわかろう。こうして彼は、すべてのものに勝利したのである。 この曲は、プロイセン王、フリ−ドリヒ・ヴィルヘルム三世に献呈された。リツラ−は述べた。「大音楽家のたった一つの作品によって、全世界が、それもその同時代の世界だけではなく、その後代の世界までが、すでに百年以上も興奮状態におかれたということは、この『第九』以外には決してなかった」 ⇒3月26日 《クラシック名曲ものがたり集成》
チャイコフスキー生誕、1840年 |
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1251年
品川沖でかかった鮫の腹から観音像が出る。「鮫頭観音」として安置し後に一帯が鮫洲と呼ばれる |
5月8日
ジャンヌ・ダルク、フランスの救世主に =1429年、フランス= |
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前年の10月以来、オルレアンの町を包囲していたイングランド軍が、この日の朝、ジャンヌ・ダルクを先頭にしたフランス軍によって撤退を余儀なくされた。ジャンヌ・ダルクを先頭にしたフランス軍によって撤退を余儀なくされた。ブルゴ−ニュ派と組むイングランド軍の攻勢の前に、フランス国王シャルル七世にとってロア−ル川沿いにあるオルレアンの町は、最後の防波堤であった。にもかかわらず、イングランド軍がオルレアンの攻撃を始めても、シャルルは何ら手を打つことができなかった。 この窮地を救ったのが、この年2月、突如としてシャルルの前に現れた少女ジャンヌ・ダルクである。ジャンヌは、フランスのために『神のお告げ』を聞き、故郷であるロレ−ヌ国境地方のドンレミ・ラ・ピュセル村からやってきたのだった。彼女はフランス軍の士気を高め連戦連勝。みずから国王軍とともにオルレアンへ向かい、町を解放したのである。 その後シャルルは、北フランスのランスで正式に戴冠する。ここに百年戦争は転機を迎え、以後フランス側が攻勢へと転じることになる。 ⇒5月30日 《クロニック 世界全史》P358
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ドイツの無条件降伏 =1945年、ドイツ= |
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アイゼンハワ−の司令部では、ドイツの無条件降伏の文書に署名が行われた。ヨーロッパの戦いはいま終わったのだ。ニューヨークで、ロンドンで、モスクワで、パリで、そして重慶で、歓呼の声が爆発した。 この日、ザカリアス大佐は内務省スタジオのなかのマイクの前に立った。大佐は日本語で放送を始めた。「あらゆる敵対行為を中止なさること。これこそ、あなた方の家族を、建物を、経済を、ひいてはあなた方の祖国そのものを破壊から救う唯一の方法なのです。無益な抵抗をこれ以上長引かせると、あなた方の故国は、必然的に無意味な荒廃を招き、ドイツにおけるよりもなお大きな規模の破壊を受けることになりそうです。あなた方の将来は、ご自身の手に握られているのです。あなた方の大勢の軍隊が犬死にするか、それとも栄ある平和をあなた方が掴むか、その選択はあなた方ができるのです」 放送は、大佐にとって、一生で最も長く感ぜられた15分間であったという。録音された日本語放送は、サンフランシスコ放送局へ中継され、そこから日本に向けて短波で送られていった。 《原爆が落とされた日》 |
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■アメリカの休日 ○母の日 <5月第2日曜日> |
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1429年
百年戦争でジャンヌ・ダルクに率いられたフランス軍が大勝利。 |
5月9日
ナポレオン、ロシア遠征に出発 =1812年、フランス= |
1812年5月9日、ナポレオンはロシア遠征のためサン・クルー宮殿を出発した。6月23日、彼がニェーメン河をわたる時軍隊は70万に膨れ上がっていた。このうち実際にロシアに侵入したのは42万人であるが、その中の30万がフランス兵で、あとはオーストリア、プロイセン、スイス、ポーランド、イタリアの兵からなる混成部隊であった。だから、フランス兵がいかに『ラ・マルセエーズ』を高らかに歌おうとも、全軍の士気は上がらなかったわけである。 ここに、まず第一のつまずきがあった。しかし、ナポレオン軍は破竹の勢いであった。9月の上旬、ボロディンの大激戦の結果、ロシア軍は敗走、そして16日、ナポレオンは意気揚々とモスクワのクレムリン宮殿に入った。 10月19日、冬将軍の猛攻を恐れたナポレオン軍はモスクワから総退却をはじめた。ナポレオン軍は冬服もなければ食糧も無かったからである。 《一八一二年の雪》 |
1876年
明治天皇行幸で上野公園の開園式が行われ、日本初の公園に指定 |
米、大陸横断鉄道完成 =1869年、アメリカ= |
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セントラル・パシフィック鉄道がカリフォルニア州サクラメントを起点に西方から、ユニオン・パシフィック鉄道がネブラスカ州オマハを起点に東方からと、それぞれの工事が進められてきたが、両鉄道はユタ州プロモントリ−・ポイントで結ばれ、大陸横断鉄道が完成した。全長約2,860キロである。 横断鉄道完成祝賀式典では、セントラル・パシフィック社社長リ−ランド・スタンフォ−ドが、カリフォルニアの金で作られた最後の犬釘を枕木に打ち込んだ。この日、シカゴでは10キロにも及ぶパレード行進が行われ、ニューヨークでは百発の祝砲が発射され、フィラデルフィアでは 自由の鐘が打ち鳴らされるなど、国中が喜びに包まれた。 《クロニック 世界全史》P828
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○日本気象協会創立記念日 |
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1869年
アメリカ大陸横断鉄道が完成。ユタ州の大平原で東西のレールが接続される |
5月11日
ローマ帝国、ビザンチンに遷都 =330年、イスタンブ−ル= |
黒海から流れ出た水は、ボスポラス海峡を通って一旦マルマラ海に入り、また細長いダーダネルス海峡を流れてエーゲ海の水と合流する。この二つの海峡と一つの海が、アジアとヨーロッパを分ける境界線であった。 皇帝はこの町の最初の呼び名であるビザンチンを抹消して、ここに自らの名をとって『第二のローマ』を築いたのであった。ビザンチンに変わったコンスタンティノープルは、中世の『東ローマ帝国』(あるいは『ビザンチン帝国』とも呼ばれる)の首都として、15世紀のなかば、1453年にトルコ軍に攻略されるまで、1123年も続いた。勝利のマホメッド二世はこの町に三つ目の名を与えた。それが現在のイスタンブ−ルである。 《世界史への旅》 |
大津事件 =1891年、日本= |
ニコライ二世は、皇太子時代、1890年11月4日から翌91年8月16日にかけて9ヶ月半の間、東方旅行をした。東方諸国とシベリア各地を旅行した最初で最後のロシア皇帝であった。 ニコライは私的資格で訪日したのだが、明治天皇のご意思で国賓として扱われた。長崎港に到着した皇太子は各地で大歓迎を受け京都に入った。そして一行が京都見物のあと、大津に出掛けた5月11日、歴史的にも重要な意味を持つ、あの大津事件がおこるのである。 皇太子ニコライが、元武士の巡査・津田三蔵によって、右こめかみに切り付けられて負傷した。この暗殺未遂事件は、ただちに全世界に報道され、琵琶湖畔の小さな町大津は世界中に知れ渡ったのである。 《ニコライ二世の日記》 ダリ生誕、1904年 |
330年
コンスタンチノープルがローマ帝国の首都になる。 |
スメタナ没 =1884年、チェコ= |
スメタナとドヴォルザ−クの二人を生んだチェコ・スロヴァキアは大変不幸な国である。 1968年の8月、ソビエトの戦車によって国土を蹂躪されたが、過去にも、数百年にわたってドイツやオーストリアの領土となり、その圧政に苦しんできたし、1918年に独立したあとも、第二次大戦では、ポーランドとともに、真っ先にドイツ軍の侵略を受けている。 チェコは、日本よりもずっと高緯度にあるので、春の来るのは遅い。5月の声を聞くと、待ちかねたように、野山が美しい色彩で装われる。うまさではヨーロッパ一と言われているピルゼン・ビ−ルと同様、チェコの春もヨーロッパ一と言われる。 毎年、この頃に、首都プラハで行われる音楽祭が『プラハの春』で、スメタナの命日に当る5月12日に開幕され、6月上旬まで繰り広げられる。そして、その開幕の音楽として、必ず演奏されるのがスメタナの代表作、交響詩『わが祖国』なのである。 スメタナは、『わが祖国』の完成から5年後の1884年の今日、精神錯乱に陥って世を去った。壮絶な最後であった。 《クラシック名曲ものがたり集成》 |
○海上保安の日 |
1898年 キュリー夫人がラジウムを発見 |
5月13日
大鵬引退 =1971年、日本= |
ドルショックが起きた昭和46年の5月13日に行われた大相撲五月場所5日目で、貴ノ花(先代)に負けた横綱・大鵬が翌14日、引退を表明した。大鵬は昭和31年、初土俵。35年に入幕した後メキメキ力をつけ、36年9月場所後、ライバルの柏戸とともに横綱になった。21歳3ヶ月と、後に北の湖に抜かれるまで史上最年少の横綱だった。途中45連勝を挟んで計32回の優勝と、記録ずくめの実績を残し、双葉山と並び『昭和の名横綱』と言われた。 《戦後史開封》 |
○カクテルの日 |
1866年 日本初の洋式燈台が観音崎に建設 |
独軍、ロッテルダムを爆撃 =1939年、オランダ= |
開戦5日目、5月14日には、ヘ−グとロッテルダムは完全に包囲されてしまった。オランダ政府はロッテルダムの無防備都市宣言を行ったが、ドイツ軍は完全にこれを無視した。徹底的なわずか一日の無差別爆撃で、ロッテルダム市民のうち5万人が死亡した。5日間の短い戦闘で、オランダ軍の損害は、戦死者だけでも10万人を越えたのだった。 ウイルヘルミナ老女王は、かろうじてイギリス駆逐艦に救われ文字通り着のみ着のままでロンドンに亡命した。バッキンガム宮殿の賓客となったとき、60歳のこの女王は80を越えた老女のように見えたという。「わたしはこれで、一生に二度祖国を失いました。あの人狼たちにも二度祖国の滅亡を味わわせてやりましょう」。 ヨーロッパの各王室でも、一番温厚な女王といわれたこの女王も、さすがにこういう呪いの言葉を吐き出したということだった。 《帝国の死角》 |
○種痘記念日
○温度計の日 |
1610年
「ナントの勅令」でユグノー戦争を終結させた仏国王アンリ4世が旧教徒により刺殺 |
ヴェルヴェデ−レ宮殿にて国家条約調印 =1955年、オーストリア= |
ラジオは臨時ニュースで、新聞は号外で国家条約調印のニュースを報じ、ヨーロッパ諸国、米国のマスコミも、『冷戦の中の奇跡』として大々的に報じた。町中に歓声があがり、興奮がうずまいた。ヒットラーによる併合以来、長く暗かった戦前、戦中、戦後の17年間にわたる占領時代が終わる喜びが、人々の胸に溢れていた。 この夜、シェ−ンブルン宮殿で開かれた四国外相歓迎祝賀パーティーで米国のダレス国務長官はこう言った。「ソ連が戦後初めて我々に譲歩したのは、西側の結束と力の政策が実を結び始めたしるしでもある。オーストリア国家条約は西側よりも、東欧のハンガリーやチェコ・スロヴァキアの方に大きな影響を及ぼすことになるだろう」。 ダレスの予言どおり、オーストリア中立の モデルはブーメランのように東欧に跳ね返っていった。1年後の1956年のハンガリー動乱、12年後1968年のチェコ・スロヴァキアの『人間の顔をした社会主義』の改革路線をソ連が弾圧したのは、両国にオーストリア型中立を望む声が公然と起こり、東側の結束の危機を感じたからである。 《エリザベ−ト》 メッテルニヒ生誕、1773年 |
○沖縄本土復帰記念日,沖縄復帰記念日
○5.15事件記念日 |
1923年
白木屋神戸出張所が、百貨店で初めて土足で入店できるようにする |
5月16日
ルイ十六世とマリー・アントワネットの結婚式 =1770年、フランス= |
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5月14日、フランスの皇太子ルイ、未来のルイ十六世は、灰色の日記帳に、小さな字で、たった5語だけしるした。「マダム・ラ・ドフィ−ヌと会見」。
この日は、皇太子妃となるために、はるばるウィーンから23日間かけてやって来たオーストリアの女帝マリア・テレジアの娘マリ−・アントワネットにルイがパリで初めて会った日である。15歳のルイは、色白の、愛くるしいアントワネットに、何の興味も湧かなかったのであろうか。2日後の今日、ベルサイユ宮殿で、ふたりの盛大な結婚式がおこなわれた。翌日になってルイの日記帳に書き込まれた5月16日付けの記事は、ただ一語、「リャン(何も無し)」であった。
《世界史への旅》
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○旅の日 |
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1897年
高島屋が東京・日本橋に独立店舗を開く |
戊辰戦争終結 =1869年、日本= |
1869年5月17日早朝、旧幕臣最後の司令官であった榎本武揚は、箱館戦争における最後の砦となった五稜郭を出て、亀田八幡神社へと赴いた。八幡社には、すでに西軍の司令官黒田清隆が、増田明道参謀を伴って、その到着を待っていた。黒田は戦局の決定してしまった後は、 無益な戦闘はすべきでないとの信念から、榎本に降伏を勧めたに降伏を勧めたのである。 これに対し榎本は、多数の部下を死なせ、司令官としていまさら軍門に下るわけにはいかぬ。だが、ここに今後の日本の発展のためには欠かすことのできない貴重な書物がある。 自分が仙台湾の奇襲攻撃を行ったのも、オランダで学んだこの『万国海律全書』にのっとったものであった。自分は死すとも、この書物だけは役立てて欲しいと、『万国海律全書』二巻を、黒田宛に贈ったのである。 自分の身に代えて、日本の将来のために『万国海律全書』を贈ってよこした榎本の態度には、黒田を感服させるのに十分なものがあった。黒田は是が非でも榎本を新政府に起用すべきとの感を強くし、ついに榎本をして亀田和議に持ち込み、戊辰戦争は終結したのである。 以来、黒田が北海道開拓の長官となるや、榎本はこれを助け、日本最初の伊藤内閣においては黒田の身代わりとして、逓信大臣のポストに就任している。彼は1908年10月、72年間にわたる波乱に富んだ人生に終止符を打った。 《歴史に選ばれた366人》 伊能忠敬没、1818年 |
○パック旅行の日 |
1620年
トルコの博覧会で世界初のメリーゴーランド設置 |
5月18日
セント・ヘレンズ山大噴火 =1980年、アメリカ= |
午前8時32分、ワシントン州南部のセント・ヘレンズ山(2,975m)が大噴火を起こした。 セント・ヘレンズ山は、さる3月28日から火山活動を再開。北側山腹が膨張していたが、この日朝、マグニチュ−ド5,0の地震とともに大爆発。山腹の異常隆起部分が崩れ、土石流が時速160キロメ−トルという猛スピードで木々をなぎたおしながら落下。爆発音は3百キロメ−トル離れたカナダのバンクーバーでも聞かれ、火山灰は上空1万5千mに達した。死者・行方不明者は70人あまり、森林資源や鮭・鱒などの漁業、家屋や作物への被害総額は27億ドルと推定される。 猛烈な爆風で成層圏まで噴き上げられた膨大な量の火山灰は、長期間にわたって浮遊し、太陽光線を遮断し続けるために、気象に影響を及ぼすのではないかと懸念される。 《クロニック 世界全史》P1100 |
○国際親善デー |
1498年
ヴァスコ・ダ・ガマがインド西岸のカリカットに到着 |
英王ヘンリ−八世、王妃アンを処刑 =1536年、イギリス= |
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ヘンリ−七世の長男ア−サ−は若くして死に、王位は次男のヘンリ−八世に受け継がれた。王は兄の死後未亡人となっていたスペイン王家フェルディナントとイサベラの娘、キャサリンを正室に迎えた。しかし二人の間に生まれた7人の子供はメアリを除いて皆早死にし、男子を得る望みがなかったところへ、美しい侍女アン・ボ−リンと不倫の恋に落ちた王は、王妃を離婚してアンを王室に迎え入れようと計った。 時のローマ法王クレメンス七世は王妃キャサリンが神聖ローマ帝国皇帝カ−ル五世の伯母にあたっているために、自分の国際的地位が危うくなるのを恐れ、王から提出された離婚認可書の申請を却下した。王は議会の力を借りてこの問題を解決しようとし、ローマ法王から分離する法律を次々と公布し、イングランド教会の首長は英国王が兼ねることに定めた。 これが後の英国国教を形成するもととなるのであるが、そのうちにアンが妊娠したことを知って王は急遽カンタベリ−大司教に頼んで王妃キャサリンとの離婚、アンとの正式結婚を認めさせ、どうやら所期の目的を果たした。9ヵ月後、一人の女の子が生まれた。 しかし待てど暮らせど待望の男の子を生まないアンに愛想をつかした王は、1536年5月19日、非道にも、不義の名目でロンドン塔内の小さな広場で首をはね、処刑してしまうのである。 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》
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○ボクシング記念日,チャンピオンの日 |
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1560年
桶狭間の戦い。織田信長が桶狭間山附近の田楽狭間で休憩中の今川義元を急襲し討ち取る |
5月20日
リンドバ−グ、大西洋無着陸飛行に出発 =1927年、アメリカ= |
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アメリカ人の飛行士チャ−ルズ・リンドバ−グ(25)は、この日朝7時52分、ニューヨーク郊外のル−ズベルト飛行場をパリに向け飛び立った。ようやく大西洋を越え、イギリス海峡を通過したとき、彼は「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだという。翌、5月21日午後10時24分、彼の操縦する単葉機スピリット・オブ・セントルイス号は、パリのル・ブ−ルジュ空港に着陸した。 33時間半に及ぶ大西洋横断無着陸単独飛行成功の瞬間である。飛行場には10万人もの群集が押し寄せ、リンドバ−グの帽子を脱がせたり、記念に機体の一部をはぎ取ったりする者まで現れる熱狂ぶりだった。長身でハンサムな青年リンドバーグはこうして繁栄の20年代の英雄となった。 《クロニック 世界全史》P974
ヴァスコ・ダ・ガマ、インドのカルカッタに到着、1498年 |
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○世界計量記念日(World Metrology
Day) ○ローマ字の日 ○東京港開港記念日 ○新東京国際空港開港記念日 |
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1882年
独・伊・オーストリアが三国同盟を締結。フランスの孤立化を図る |
パリ・コンミュ−ンの死 =1871年、フランス= |
ベルサイユに拠って機を狙っていたフランス共和政府は、5月21日、スパイの誘導でサン・クル−門よりパリ城内に殺到、一週間にわたる激しい市街戦をみるのである。血の一週間と呼ばれるこの間に、パリは放火虐殺の巷と化し、多くの市民は街角で、広場で次々と銃殺されていった。 コミュ−ンが死んで、パリは流された血を忘れようと努力した。1874年オペラ座が完成し、75年には第三共和制の憲法が公布された。画家コロ−、音楽家ビゼ−が死んだあと、翌年にはジュルジュ・サンドも亡くなったが、モンマルトルの丘には戦いの血を忘れまいという市民の願いによって集められた基金で白亜のサクレ・ク−ル寺院が建ち始めていた。(完成は1919年) ⇒7月19日§ 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》 |
☆小満[しょうまん] ○小学校開校の日 ○リンドバーグ翼の日 |
720年 舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上 |
5月22日
ライプチッヒにてリヒアルト・ワ−グナ−誕生 =1812年、ドイツ= |
ロシアの冬将軍に敗れたフランス大陸軍は翌、1813年の3月にプロイセンがフランスに宣戦すると彼は20万の兵を集めて攻撃に出た。そして5月21日、バウツエンでロシア・プロイセン同盟軍に決定的な打撃を与えた。ライプチッヒはこの激戦地からわずか160キロの所にある。 リヒアルト・ワーグナーがそのライプチッヒで産声を上げたのはその翌日、5月22日の事であった。その頃、日本はまだ鎖国中で国民は泰平の夢をむさぼっていたが,その夢も間もなく破られる時が迫っていた。ロシアはシベリアを横断して千島や樺太にまでその勢力を伸ばして来ていたし、東からはアメリカが、南からはイギリスやフランスが鎖国日本の扉を叩いて開国を要求しつつあった。 ⇒5月4日 《私の歴史メモ》 |
山本五十六没 =1943年、日本= |
昭和18年5月22日、海軍記念日に先立つ数日前の大本営発表。「連合艦隊指令長官、海軍大将山本五十六は本年4月前線において全般作戦指導中、敵と交戦、飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げた山本五十六は本年4月前線において全般作戦指導中、敵と交戦、飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げたり」。 《私の歴史メモ》 |
□三位一体の主日(Trinity Sunday) |
BC334年 アレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)がグラニコス川での戦いでペルシア軍を破る |
サヴォナロ−ラ火刑 =1498年、イタリア= |
この日、マキャベリはフィレンツェの市庁舎の窓から恐るべき光景を眺めていた。3人の聖ドミニコ僧を火刑にする烈火が燃えはぜる音を耳にし、あざ笑い、泣き叫び、罵言を浴びせる熱狂した民衆の頭が波打つ光景を目撃し、樹脂とこげた人肉の恐ろしい匂いをかいだのだ。しかもこれはフィレンツェの書記官として初登庁した日の事件であった。 現在シニョ−リア広場の中央に、サヴォナロ−ラ火刑火刑の跡を示す銅板が埋め込まれている。またサンマルコ広場の修道院は、フラ・アンジェリコの『受胎告知』があることで有名だが、サヴォナロ−ラが院長であった当時の部屋が残り、火刑の図も掲げてある。 《ヨーロッパ歴史の旅》
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○キスの日 |
1543年
コペルニクスが『天体の回転』を出版。地動説を発表 |
5月24日
ドイツ、東西に分断 =1949年、ドイツ= |
既にこの月8日に憲法制定会議で可決、前日公布されていた西のドイツ=ドイツ連邦共和国の『基本法』が、この日発効した。この基本法はドイツ統一までの暫定憲法にあたり、米英仏の占領下にあった西のドイツは、新たな国家となったのである。 この年8月14日には初の連邦議会選挙が行われ、9月15日元憲法制定会議議長コンラ−ト・アデナウア−が初代首相となり9月20日に最初の西ドイツ政府を組閣。また9月12日にはテオド−ル・ホイスが、初代大統領に選出される。 ソ連占領下の東のドイツでも、この年10月7日、ドイツ民主共和国憲法の発効により新国家が成立。初代大統領にヴィルヘルム・ピ−ク、初代首相にはオット−・グロ−テヴォ−ルが就任する。こうしてドイツの分断は確定し、1990年10月3日の再統一まで分断は続く。 《クロニック 世界全史》P1032 |
○ゴルフ場記念日 |
1844年
モースがワシントン〜ボルティモアでモールス符号を使用した世界初の長距離通信電信に成功 |
ウィーン、オペラ劇場完成 =1869年、オ−ストリア= |
5月25日、リンク(環状道路)に建設された最初の建造物であるオペラ劇場の開場式が行われた。新しい劇場は、パリのオペラ座とシャトレ劇場の設計を参考に、600万フロ−リンを投じて建設された。音楽に巨額の投資をするのはハプスブルク家の伝統であり、歴代の君主は数多くの名作を上演させ、なかには作曲を手掛けた君主もいる。 1653年、初めてドイツ語でオペラを製作したのは、フェルディナント一世であった。 5月25日夜7時、ハプスブルクの伝統の後継者としてのフランツ・ヨ−ゼフは、2,700人の観客とともに、新装なったオペラ座でモーツァルトの『ドン・ジョバンニ』の公演に臨席した。 ⇒1月30日 《麗しの皇妃エリザベト》
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○食堂車の日 |
1336年
湊川の戦い。足利尊氏が楠木正成を破る。正成は一族とともに自害 |
西部戦線=犬死か、それとも降伏か? =1940年、ドイツ= |
5月26日、西部戦線は連合軍にとって断末魔の形相を呈し始めてきた。ゲッペルス宣伝相はベルリン放送で、勝利の歌を歌い始めた。 「総統はわれらの期待を裏切られなかった。親愛なるドイツ国民諸君、諸君のうちの一人でも、イギリス、フランス両国に対して、我が国がこのような短期間に、このような欠く赫々たる大勝利を収めることを予想していた御方があったろうか」「犬死にか、それとも降伏か? 百万に一つの奇跡が起こらないかぎり、彼等に残された最後の道は、この二つのうちの一つしかあり得ないのだ。あえて私はおたずねしたい。この栄光に輝くドイツの歴史の中で、これほど栄光に輝いた数日は、かつて前例があったろうか?」 「今や祖国は25年前、第一次大戦の雪辱をとげつつある。ここに、ドイツは千年の繁栄への道を踏み出した。ヨーロッパ近代史に空前の力を誇るこの第三帝国は、我等から諸君へ、その 子供たち、孫たちに永久に継承されてゆくだろう」 《帝国の死角》 |
○東名高速全線開通記念日 ○ル・マンの日 □聖体祭(Corpus Christi)
<イースター(今年は3月27日)の60日後> |
1857年
下田奉行とハリスが貨幣交換・領事裁判権など9か条の「下田条約」を締結 |
ロシア、バルチック艦隊、日本海海戦で壊滅 =1905年、ロシア= |
バルチック艦隊はリヴァウ軍港と出発してから、対馬沖の戦場に到着するまでに7ヵ月半もかかっている。日本と同盟関係にあるイギリスが、ロシア艦隊のスエズ運河の通過を認めなかったために、アフリカのケ−プタウンを回り、インド洋を経由したからである。 この艦隊は混成軍で、訓練が不十分な乗組員が多く、その上航海中も軍事演習をすることなく、燃料のことばかり心配していたという。こういう艦隊が、士気旺盛で猛訓練によって鍛えられていた日本海軍に勝てるわけはなかった。 それに旅順港はすでに正月に陥落していた。それにしても日本海海戦であれほどの大敗を喫するとは、ロシア側では誰も予想していなかった。 ⇒3月15日 《ニコライ二世の日記》 |
○百人一首の日
*海軍記念日 |
1846年
アメリカの東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航し通商を要求。幕府は拒否 |
皇帝マクシミリアン、ヴェラ・クルス港に到着 =1864年、メキシコ= |
1964年4月10日、オーストリアのハプスブルク家のマクシミリアン大公が、メキシコ皇帝に即位した。代表団が国民の名においてメキシコの王冠を提供すると、マックスはスペイン語で受諾する旨を答え、メキシコの自由・独立・安寧・繁栄のために最善を尽くす決意であると述べた。 数日後、彼等は壮途についた。マックスがメキシコ国旗をかかげる戦艦ノヴァラに乗り込むと、乗員は百発の礼砲を撃ち、あるいは汽笛を鳴らし、あるいは合唱して敬意を表した。彼等が出港すると、期せずして、パリもウィーンも安堵した。 彼等がヴェラ・クルス港に到着したのは、1864年5月28日の午後2時だった。だが、同じこの時、共和派の最高首脳ベニト・ファレス大統領はマックスに宛て、「貴下は王位継承権・家族・友人・財産の総てを投げ棄て、メキシコ国民の自由意思に基づく招請に応じて、この遠隔の地にきて帝冠を戴いた由だが、自由意思なるものは裏切り者たちの陰謀に過ぎない。私は貴下がそれを見抜く明察を欠いたことに呆れはてている。貴下は私が首都に赴いて和平会談に参加するよう要請し、私の生命の安全を保証したが、私はフランス軍も、その傀儡である貴下も全く信頼せぬから、堅く拒否する。それに、私は合法的な大統領なのである。私と貴下のどちらが正しいかは歴史の審判に委せる」という断固たる挑戦状に署名していたのである。 過酷な運命に翻弄されたマクシミリアン皇帝は1867年6月19日、メキシコの小都ケレタロの『鐘の丘』に急造された刑場において、哀れにも銃殺された。35歳だった。本来なら兄フランツ・ヨ−ゼフ皇帝に次いで、欧州に盛強を誇ったハプスブルク王朝の王位継承権を持つはずの男であった。 ⇒4月10日§ 《ハプスブクル宮廷の恋人たち》
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1193年
曾我十郎・五郎兄弟が父・河津三郎祐泰の仇・工藤祐經を討つ |
5月29日
コンスタンティノープル陥落 =1453年、イスタンブール= |
1453年5月29日、ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルはトルコ軍の猛攻によって陥落した。この事は、ヨーロッパ人にとって、言葉にならないほどの衝撃であった。たとえ東のローマ帝国が、数百年の間にゆるやかに衰えつつあったにせよ、ビザンチン帝国がついに地上から姿を消してしまったのだ。 西欧でも、古代のローマ皇帝がいなくなって以来、皇帝を名乗る君主にはこと欠かなかったが、彼等のある者は古代ローマ人がガリア人と呼んだフランク人であり、その他の者も、ガリア人よりももっと野蛮の地とされていたゲルマニアの出身者だった。彼等は神聖ローマ帝国という名称は持っていても、黒い双頭の鷲を紋章にしていても、かつてのローマ帝国皇帝の権威も権力も持たなかったのである。古代のローマ人が創設した帝国を伝えるのは、いかに中身がギリシャであっても、ビザンチン帝国だけしかなかったのである。それが今、消え失せてしまったのだ。西欧の人々は、ビザンチン帝国の滅亡によって初めて、古代ローマという母胎から切り離された痛みを感じたのであった。偶然にも創立者と同じ名のコンスタンティヌス十一世、西欧の人々にとってローマ帝国最後の皇帝は、紅の大マントを風になびかせながら、白馬を駆って、天空の彼方に永遠に去ってしまったのだ。 聖ソフィア大聖堂の前まできた時、征服王マホメッド二世は馬を降りた。それからさらに中に入った彼は、壁面を埋める見事なモザイクの色彩の洪水を、愛でるかのようにしばらく眺めていたが、やがて大臣たちを振り返り、この教会をただちにモスクに改造するように、と言った。 ビザンチン帝国は地上から姿を消滅し、代わって、トルコ帝国が出現したのだった。 《コンスタンティノープルの陥落》
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○エベレスト登頂記念日 |
1453年
ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の首都コンスタンティノープルがオスマントルコにより陥落 |
5月30日
ジャンヌ・ダルク火刑 =1431年、フランス= |
この日、フランス北部ル−アンで、群集の見守る中、ジャンヌ・ダルクがイングランド側の代官の手によって火刑に処された。ジャンヌ・ダルクがイングランド側の代官の手によって火刑に処された。19歳の最期としては、あまりにも悲惨な死であった。 2年前、フランス国王シャルル七世を助け、オルレアンを解放したのちも、ジャンヌはシャルルのために戦っていた。しかし前年5月、彼女はブルゴ−ニュ派ジャン・ド・リュクサンブ−ルの軍勢に捕らえられ、イングランド側に引き渡されル−アン城に幽閉されていた。 この年に入って、イングランド派のボ−ヴェ司教ピエ−ル・コ−ションの監督下に置かれ、異端審問が開始された。ジャンヌは『神のお告げ』を偽る異端者として裁かれることになったのである。しかし、ジャンヌは、自分の信念・信仰のために『神のお告げ』の正しさを主張した。コ−ションは民衆の前で、ジャンヌを『戻り異端』と宣告し、刑の執行のためイングランド側へ引き渡したのである。 ⇒5月8日§ 《クロニック 世界全史》P360
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■アメリカの休日 |
1431年
フランス百年戦争の英雄的少女ジャンヌ・ダルクがイギリス軍により火刑 |
ウイ−ンにて老巨匠ハイドン没 =1809年、オーストリア= |
ハイドンの生まれ故郷は、ウィーンの東方30数キロの片田舎ロ−ラウである。生家は博物館として、当時のままに再現されている。ハイドンは少年時代と晩年の2回、ウィーンに住んだ。 ウィーン少年合唱団のメンバーをやめさせられてから、苦しい一時期を過ごした家は、コル−ルマルクトのハイドンの家である。 また、彼が幸福な晩年を過ごした家は、西駅から近いハイドンガッセ通りにあり、博物館となっている。この家は広い中庭を持った立派な家で、ベートーベンをはじめ多くの音楽家の訪問を受けた。死の4ヵ月も前から、自分の最後を予感して遺書をしたため、この家で77歳の天寿を全うした。 現在、日本大使館のあるノイアマルクトも、かつてハイドンが住み、オ−ストリア国歌を作曲した所だが、建物は19世紀の終わり頃に取り壊されてしまった。 ⇒2月12日§ 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》 |
○世界禁煙デー(World No-Tabacco
Day) *郵政省設置記念日 *総理府設置記念日 |
1793年
パリの民衆が国民公会にジロンド派議員の追放・パンの値下げなどを求めて蜂起 1911年 イギリスの豪華客船タイタニック号が進水 1913年 ドイツ人ホフマンが上智学院(現在の上智大学)を開講。日本初のカトリック系教育機関 1915年 ロンドンのオペラハウスに三浦環が『蝶々夫人』のプリマドンナとして出演 1942年 関門海底国道トンネルが貫通 1949年 「国立学校設置法」公布。各都道府県に新制国立大学69校を設置。東京商科大を一橋大に、東京女子高等師範をお茶の水女子大に改編 1952年 ロシアでボルガ川とドン川を結ぶ101kmのボルガ・ドン運河が開通 1970年 ペルー北部でM7.5の大地震。アンデスのダムが決潰するなどで死者7万1千人 1986年 森繁久彌の『屋根の上のヴァイオリン弾き』が900回で幕 1987年 劇団四季のミュージカル『キャッツ』が最終公演。1224回の上演記録 2002年 日韓共同開催のサッカーワールドカップが開幕 |