8月番変ロ長調 |
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ポンペイの中央広場(フォルム)の跡。 |
ヒトラ−、生涯最も偉大な時 =1914年、ドイツ= |
1914年8月1日、ミュンヘンのオデオン広場は、ロシアに対するドイツの宣戦布告を熱狂して支持する群集でうずまっていた。その群集の中に混じって、燃えるような目付きで、演説する人を見つめている青年がいた。髪を右から左へきちんと分け、高いカラーのシャツにネクタイをつけた、身なりに気を使った青年である。その青年の名はアドルフ・ヒトラ−。 後年の独裁者の、第一次世界大戦勃発の日のアリバイである。 ヒトラーは、この日の感情を、のちに『わが闘争』(1925年)の中でこう書く。「私自身には、この数時間は、さながら腹立たしい青年時代からの救いのように思われた。嵐のような感激に圧倒されて、思わずひざをつき、溢れんばかりの心で天に感謝した。今日でもそれを言うのを恥じない」 ヒトラーが「わが生涯におけるもっとも忘れがたい、もっとも偉大な時」と名付ける1914年8月がこうして始まった。 《世界史への旅》 |
BC29年
クレオパトラが毒蛇に胸を噛ませて自殺。プトレマイオス王朝が滅亡 |
月2日
ベトナム戦争でアメリカ、北ベトナムを爆撃 =1964年、ベトナム= |
ホ−・チ・ミン政権下に国力の充実に努める北ベトナム民主共和国に対し、南のベトナム共和国ではゴ・ディン・ジエム政権の圧政を巡って反対運動が激化していた。64年には北ベトナム軍も南下し、解放戦線の活動はますますさかんとなった。そしてアメリカの軍事干渉が始まった。 1964年8月2日、アメリカ海軍の駆逐艦がトンキン湾で、北ベトナムの魚雷攻撃を受けたというニュースが朝の静寂を破った。米軍はただちに報復処置として北の海軍基地を爆撃し、議会も国民もこれを支持した。この爆撃は朝鮮戦争以来、初めて米軍が共産側領土を直接攻撃したものである。 この時、その後何年も続いた介入を予測した者はなかったであろう。 1973年3月末、最後のアメリカ将兵がサイゴンを飛び立ち30数万の死傷者を出した米軍の介入は一応終止符を打った。 《教養人の世界史》 |
○学制発布記念日 |
BC215年 南イタリア・カンナエで、8万人のカルタゴ軍が8万人のローマ軍を破る |
月3日
ミラノ、スカラ座落成 =1778年、イタリア= |
1778年8月3日、スカラ座が二年の歳月を経て完成。・落成した。 《ウィキペディア》 |
コロンブス、サンタ・マリア号でパロス港を出帆 =1492年、スペイン= |
1492年8月3日、3隻のスペインの大型船が大西洋岸のパロスの港からカナリア諸島に向けて大洋に船出した。3隻の名はサンタ・マリア号、ニ−ニャ号、ピンタ号であった。 《THE GREATEST ARTISTS 第4号レオナルド・ダ・ヴィンチ》 |
701年
藤原不比等らによる「大宝律令」の編纂が完了 |
月4日
イギリスがドイツに宣戦布告 =1914年、イギリス= |
数日の間、ドイツのいたるところで、路上といわず広場といわず集まった人々は、興奮しながら一つの歌を歌った。「ドイツよ、世界の全てに冠たるドイツよ」。ハイドンの弦楽四重奏曲『皇帝』の中の旋律に合わせて歌われるこの歌は、勝利への幻想に酔うドイツ国民の斉唱を通して、本当の国歌となったといえるだろう。この時はまだ、誰も知らずにいた。戦争が4年以上も続き、やがて革命と敗北とが、ドイツ帝国の国民を、あるものには新生に、あるものには奈落の底に向かわせることになるということを。 8月4日、イギリスもまた、ドイツが中立国ベルギーをおかしてフランスに侵入する行動をとったことを理由に、ドイツに宣戦した。イギリス外相グレーがその前日、友人に語った次の言葉は一つの時代の終わりの象徴でもあった。「光がヨーロッパから消え去ってゆく。もはや我々の生涯の間、輝くことはないだろう。西欧は夜の中に沈んだ」 《帝国の死角》 |
1914年 第一次大戦で、ドイツがベルギーに侵攻 |
月5日
浅間山大噴火 =1783年、日本= |
4月から噴火を繰り返していた信州の浅間山が、この朝、大音響とともに噴火した。爆発とともに高さ千メートルにまで上がった噴煙は成層圏に達し、東日本一帯を暗く襲った。 4、5日前から噴火による降灰のため碓氷峠は通行止めになっていた。この日、浅間山の火口から流れ出た溶岩は火砕流を引き起こし、吾妻川にまで流れ落ちた。鎌原村(現、嬬恋村)は全滅し、住民の大部分の466人が即死した。火山灰による低温、降雨などの異常気象は前年からの冷夏により凶作に拍車をかけた。冬が来ると、寒冷地にはより大きな飢饉の被害が続出し、道々には行き倒れた死者が折り重なり、人肉を食べる者まで出るありさまとなる。 やがて日本中で米騒動が起き寛政の改革へと進む。 《クロニック 世界全史》P640
モーパッサン生誕、1850年 |
630年 犬上御田鍬・藥師惠日を第1回遣唐使として唐に派遣 |
月6日
広島に原爆投下 =1945年、広島= |
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原子の火が人類史上初めて灯されたのはアメリカのシカゴ大学の競技場である。 今、その競技場の記念碑には「1942年12月2日人類はここで最初の持続性連鎖反応に成功した。それによって人類は原子核エネルギーを解放し、使い慣らすことを始めた」と刻まれている。 1945年7月17日、ベルリンのポツダム宮での会議中、チャーチルはアメリカ側から1枚の紙片を渡された。それには、「赤ん坊たちは満足に生まれた」と書いてあった。これは原子爆弾の実験に成功したという意味である。 8月6日午前8時15分、それはよく晴れ渡り、風もなく、むしろ暑い広島の朝であった。続いて9日午前11時1分、長崎が2発目の原爆の洗礼を受けた。これら2発が当時使用できた原爆の全てであったという。 《教養人の世界史》 《鏡の中の顔》 それが戦争の論理というものであった。ヒュ−マニズムとか道徳とかがそこに入る余地はなかった。人類始まって以来、およそ戦争というものはそういうものであると、誰もがそう思うことで自分の心を納得させたのである。
《原爆が落とされた日》
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○広島平和記念日,広島原爆忌 関聯サイト 広島市 http://www.city.hiroshima.jp |
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1806年 最後の皇帝フランツ2世が退位し神聖ローマ帝国が解体 |
月7日
屍の町 =1945年、広島= |
8月7日。広島市は真夏の太陽の下で一個の巨大な死骸だった。直径8キロの円を描いた範囲で、端から端までが見渡せた。火はさすがに消えつつあったが、町にはものすごい熱気と臭気が立ち込めていた。そのなかで、無数の死体が散乱していた。また、おびただしい数の瀕死の人々が倒れていた。酷暑の夏に不意に出現した異様に冷たい一夜が、重傷者の命を容赦なく奪っていったあとで、かろうじて生き残った者の苦痛が続いていた。 日赤病院は建物の外枠こそ崩れていなかったが、内部はがらんどうであった。がらんどうの屋内に、足の踏み場もないほど、負傷者が寝ていた。重藤文夫副院長は、この火傷が普通のものでないことに気付いた。重藤文夫の専門は放射線医学である。ある予感がひらめいた。彼はレントゲン室に焼け残ったフィルムを現像させてみた。鉛の箱のなかに密封しておいたフィルムは皆感光していた。重藤副院長は広島が放射性の爆弾にやられたことをこのとき確信した。彼はさっき見た光景を思い浮かべた。 片腕が黒褐色に焼けただれて棒のようになった母親の死体があった。火傷が腕からあらわな乳房のほうへ拡がっていた。その乳房をまさぐって、乳呑児がまつわりつき、ヒイヒイとかすれが声をあげていた。放射能にこれらの人々が全部犯されているならば・・・・・・・重藤文夫は鉛を呑んだような思いであった。この時から彼の永い戦い−−−−原爆病との戦いが始まった。 《原爆が落とされた日》 |
☆立秋[りっしゅう] |
1830年
七月革命の終結によりオルレアン家のルイ・フィリップがフランス国王に就任(七月王政) |
月8日
スペイン無敵艦隊の敗北 =1588年、スペイン= |
スペイン王フェリペ二世によりイギリス制圧のために派遣された大艦隊が、緒戦以来の不利を挽回できず、ド−ヴァ−海峡、カレ−沖で火船の奇襲を受けて敗走を余儀なくされた。スペインとイギリスは、16世紀前半までは比較的良好な関係にあったが、それもメアリ一世の時代までで、1558年にエリザベス一世が即位すると、関係は急速に悪化した。 イギリスの海賊船がスペイン支配下のカリブ海域に進出し、アメリカ大陸におけるスペインの覇権を揺るがした。また、イギリスはスペイン領ネ−デルランドの独立運動にも加担したため、世界の覇者でカトリック世界の擁護者として君臨するフェリペ二世は、これを黙認できなかった。 130隻からなるスペインの大艦隊には戦艦68隻が含まれ、イギリス本土攻撃のための陸軍も乗り込んでいた。1方のイギリス艦隊は機動力を重視し、射程の長い軽砲を備えた小型船を主力としていた。狭いド−ヴァ−海峡では、この違いは決定的だった。7月30日の緒戦からスペイン艦隊は北へと追われる立場となり、この日の戦いを境に屈辱的な敗走の姿をさらした。 この海戦の後も、スペイン艦隊は再建・増強され、その後40年間にわたって大西洋を支配する。しかし、帝国維持のコストはボディ−・ブロウのように効き始め、1596年には、王室はみずから破産宣言をすることになる。世界帝国は傾き始めたのである。 《クロニック 世界全史》P473 |
1931年 ダット自動車(日産自動車の前身)が小型乗用車を発売。翌年ダットサンと命名 |
月9日
フルトン、蒸気船航行実験成功 =1803年、フランス= |
アメリカ人の発明家ロバ−ト・フルトンは、セーヌ川で多くの見物人が見守るなか、蒸気機関を取り付けた船の航行実験を行い見事に成功した。 フルトンはアメリカのペンシルヴェニア州の生まれで、子供時代から芸術的才能を発揮し、 成人に達する頃には画家として身を立てていた。ところが、1780年に絵画の勉強のためにイギリスに渡ると、産業革命たけなわで、新しい技術に魅せられるとともに、発明に熱中するようになった。94年には早くも、蒸気で船を動かすことに注目していた。フルトンはフランスの援助を得て、蒸気船の開発に全力を傾け、この年の春には最初の実験船を完成させた。これもセーヌ川で試運転を行ったが、船は沈没し失敗に終わっていた。 二度目になるこの日の実験は大成功だったが、フランス政府が関心を示さないため、フルトンはアメリカに帰国。帰国後、彼はイギリスのボ−ルトン・ワット商会から蒸気機関を取り寄せ、再度蒸気船の建造に取り組む。4年後の1807年、ついにハドソン川にクラモント号を就航させ、蒸気船の実用化に成功する。 《クロニック世界全史》P693 |
○長崎原爆の日,長崎原爆忌 |
870年
「メルセン条約」により中部フランクのロートリンゲンが東西フランクに分割。現在のドイツ・フランス・イタリアの原型が成立 |
フランス、王政の廃止 =1792年、フランス= |
6月初め頃から、フランス国王ルイ十六世は、議会の法令に対し拒否権を発動し、ジロンド派閣僚を更送してフイヤン派の人物を新たに大臣に任命するなど、『反国民的』とみられる態度を示してきた。このため、パリの民衆は6月20日、国王に対する抗議のデモを組織し、チュイルリ−宮に侵入して国王に圧力をかけた。しかし、国王はこれに応じなかった。 10日未明、民衆は蜂起コミューンを結成し、連盟兵とともにチュイルリ−宮に到着、護衛兵と銃撃戦となる。国王は議会に避難していたが、蜂起軍の勝利が伝わると、議会は国王の権利停止を宣言し、普通選挙による国民公会の招集を布告した。ここに王政は廃止され、革命の路線は大きく変化していくことになる。 《クロニック 世界全史》P663 フランスの歴史の一大転換点となったこの日以来、4ヶ月前にストラスブ−ルで生まれた ルジェ・ド・リ−ルの『ライン軍のための軍歌』は『ラ・マルセイエ−ズ』と呼ばれ、革命の象徴となった。 ⇒1月21日 《ラ・マルセイエ−ズ物語》 |
○道の日 ○宿の日 |
708年 銅銭「和同開珎」を発行 |
月11日
ロドリゴ・ボルジア、ローマ法王に選出 =1492年、イタリア= |
ロドリゴ・デ・ボルハはスペインのバレンシア地方に1431年に生まれた。その後イタリアに渡った彼はその名をイタリア風に替え、ロドリゴ・ボルジアと名乗った。彼の叔父、法王カリクストス三世は、彼を枢機卿にしたため、聖職売買で告訴されているにもかかわらず、彼がアレクサンデル六世としてサン・ピエトロの鍵を握る地位に着いた時、ボルジア家は巨大な富を築いていた。 彼は一族の富や権力を拡大するために情け容赦なく軍事的手段を取った。 《THE GREATEST ARTISTS 第4号レオナルド・ダ・ヴィンチ》 カーネギー没、1919年 |
○ガンバレの日,スポーツ中継の日 |
1158年 後白河天皇が上皇となって院政を開始 |
月12日
日航ジャンボ機墜落 =1985年、御巣鷹山= |
午後6時56分26秒、羽田発大阪行きの日本航空ジャンボ機123便(高浜雅己機長)が、群馬県多野郡上野村の御巣鷹山に墜落・炎上するという大惨事が発生した。 同機には乗員15人、乗客509人、合計524人が搭乗していたが、そのうち520人が死亡。単独機の事故としては史上最大のものとなった。 現場は機体の残骸や遺体が散乱し、地獄絵のような惨状であった。 《クロニック 世界全史》P1113 |
○航空安全の日,茜雲忌 |
1642年 英国王チャールズ1世が議会派に宣戦。清教徒革命の始り |
バイロイト祝典劇場落成 =1876年、ドイツ= |
バイロイト祝典劇場は、ワーグナーが自分の楽劇を上演するために建築した大劇場で、1876年8月13日から17日までの4夜にわたり、落成記念に舞台祝典劇『ニーベルンゲンの指環』の全曲が初めて通し上演された。 それ以来この劇場ではワーグナーの作品以外の音楽は演奏されていない。言うなればバイロイトはワーグネリアンにとっては聖地であり、熱烈なワーグネリアンであった独裁者ヒットラーも、毎年ナチスの首脳達と共にこの音楽堂に臨席していたに違いないのである。 そして今、バイロイトは1年前から予約しなければ席が取れないほど多数の人々を世界各地から引きつけるほどの町になり、ルードヴィヒ二世の偉業は、目先の利かない卑俗な人間どもへの強烈な仕返しとなっている。1975年、世界最大の音楽イベントの一つであり、洗練された好みの最後の砦であるバイロイトの祝祭に、席が取れなかった人が10万人いたという。 《私の添乗手帳》
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東ドイツ、ベルリンの壁を構築 =1961年、ドイツ= |
1949年以降、西ベルリン当局に届け出た東からの難民は150万人以上に達した。東独側にしてみれば、これはゆゆしき大事である。国家の体面と共に労働力の減少、社会主義建設に対する意欲減退は大きな悩みであった。 1952年5月、東ベルリン当局は東西ベルリンの電話線を切断した。翌53年1月には、東西ベルリンを貫いて走る市内電車網も停止。さらには東独国民が国を離れる場合は、政府の特別許可が要るという旅券法を発布した。 1961年8月13日の早朝、東西ベルリンの境にあわただしい作業の音が聞こえてきた。 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》 表向きは西側の脅威から東ドイツ市民を守るため。しかし東ドイツの人たちが逃げ出さないようにするために築かれたのは明らかでした。終戦から16年目に築かれた全長155`のベルリンの壁は、それから1989年までの30年近く、愛する家族や恋人を引き裂く分断の象徴として、人々の前に立ちはだかります。
《下垣真希著 ベルリンの壁倒壊物語》 |
1716年 紀州藩主・徳川吉宗が江戸幕府8代将軍に |
月14日
大東亜戦争終戦ノ詔書 =1945年、日本= |
私は深く世界の大勢と日本の現状とを考えて非常の手段で、この事態を収拾しようと思い、忠義で善良な国民に通告する。私は日本政府に米国、英国、中国、ソ連に対してポツダム宣言を受け入れることを通告させた。 −中略− 戦争における状況は芳しくなく、世界の情勢も日本には不利に働いている。それだけではない。敵は新たに残虐な原子爆弾を利用して、何の罪もない非戦闘員を多く殺傷し、その惨害は図り知れない。それでもなお戦争を継続すれば、最終的には日本民族は滅亡し、人類文明も破壊されることになってしまうだろう。そうなれば私はどうしてわが子とも言える多くの国民を保って、先祖の霊に謝罪することができようか。これが政府にポツダム宣言に応じるよう命令した理由である。−中略− 思うにこれから日本の受けるであろう苦難は、いうまでもなく大変なものになる。国民の負けたくないという気持ちも私はよく知っている。しかし、私はこれから耐え難いことを耐え、忍び難いことを忍んで将来のために平和を実現しようと思う。−中略− どうか国民は団結して子孫ともども固く、神の国である日本の不滅を信じ、道は遠いが責任の重大さを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、道義心や志・操を固くして、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように努力しなければならない。 あなた方国民はどうか私の気持ちを酌んで理解して欲しい。 天皇の署名と印 昭和20年8月14日 《平成7年8月15日 サンケイ新聞−現代語訳》
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□聖マクシミリアン・コルベ神父の祝日 |
1765年
ボストンで印紙税法反対運動。各地に拡大しアメリカ独立戦争に発展 |
月15日
コルシカ島にナポレオン・ボナパルト誕生 =1769年、フランス= |
ナポレオン・ボナパルトがもしフランス国籍を有していなかったら。私はいつもこう考えるたびに新たな感慨を持つ。ヨーロッパを中心とする世界史は、確実に変わっていた筈だからである。ヨーロッパを中心とする世界史は、確実に変わっていた筈だからである。 ナポレオンが生まれたのは、1769年8月15日のことだ。この日は聖母の昇天した日として知られる。 このころ彼の生誕前後、生地コルシカ島は大きく揺れていた。その前年の68年、ジェノヴァ共和国がフランスに、島全体を200万リ−ヴルで売却してしまったのだ。奇しくもナポレオン生誕の1年前、68年の8月15日に、フランスはコルシカ島の領有を宣言する。だからこれ以降に生まれた者は、無条件でフランスの国籍を有することになったわけである。 《ナポレオンの戦場》 ナポレオンはこの日、地中海のコルシカ島でボナパルト家の次男として生まれた。コルシカは長い間イタリアのジェノア共和国の領土だったが独立運動がこの頃激しく、ジェノア元老院は手を焼いて、前年にこの島をフランスへ売り渡してしまっている。 ヨーロッパを旅行していて必ずぶつかる三つのものがあるといわれる。古代ローマとキリスト教と、そしてナポレオンだ。それほどにこの三つのものは全欧州に大きな影響を及ぼした。だからこの三つを正しく理解するとしないとではヨーロッパの観賞や評価に大きな差が出てくる。⇒12月19日 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》
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太平洋戦争終結 =1945年、日本= |
原爆の投下とソ連の参戦は、日本にとって最後のとどめであった。このときに及んで日本の支配者層の関心は天皇制の護持にあり、その点に希望が持てそうなことが分かると、 《教養人の世界史》 毎年8月15日が来る度に、日本人は玉音放送の中の「耐え難きを耐え忍び難きを忍び以て万世のために太平を開かむと欲す」という1節を胸によみがえらせてきた。この言葉は、戦後の国民と天皇を結ぶ絆だったように思える。戦没者は310万人にのぼったが、残された国民は悲しみを胸に秘め復興のためにひたすら働いた。 昭和天皇は在位を続け、1989年の崩御までついに自らの戦争責任を口にすることはなかった。しかし8月15日に全国戦没者追悼式が行われるようになった1963年以来、一度かぜで欠席した以外は毎年出席を続け、亡くなる前年にはがんにもかかわらず那須からヘリコプターで帰京、黙祷をささげた。その8キロもやせた87歳のモーニング姿は国民への強烈なメッセージだった。言葉ではなく態度で「すまない」と詫びたのだと思う。 《「日本を変えた日」読売新聞平成6年8月15日》 |
○終戦記念日,敗戦記念日 ◇全国戦没者追悼式 ▽光復節 (韓国) □聖母マリア被昇天祭(Assumption) |
1543年
フランシスコ・ザビエルらがパリでイエズス会を発足 |
月16日
ニクソンショック、固定相場制度崩壊 =1971年、日本= |
高度成長の波に乗っていた日本列島に突然、冷水が浴びせられた。昭和46年8月15日(日本時間16日、月曜日午前10時)、ドルと金との交換を一時停止するという米国のニクソン大統領声明だった。これを機に、戦後日本の憲法だった1ドル=360円の固定相場は崩れ、変動相場制に移行していく。政界・官界・産業界は一様に戸惑い、混乱した。26回目終戦記念日は、現在まで続く円・ドル戦争の火蓋が切って落とされた日でもあった。 戦後の西側経済は米国の圧倒的な経済力と金保有量に頼ってきた。1944年、連合国軍側は国際通貨基金(IMF)・世界銀行中心の世界国際金融体制(ブレントンウッズ体制)の骨格を決め、各国に外国為替市場での通貨変動幅を金価格の上下1%以内に抑えることを義務付け、ドルだけを金と交換できることにした。このため、ドルは貿易や金融取引の決済に使われる基軸通貨となり、各国通貨の対ドル価格を固定する固定相場制度ができた。 『金・ドル交換停止』は「米国はもう単独で西側経済を支え切れない」という宣言であり、固定相場制度の基盤の崩壊を意味した。欧州各国は何度か通貨調整を経験していたが、日本は1ドル=360円を守り続けたため、衝撃度は大きかった。 《戦後史開封》
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エルヴィス・プレスリー死去 =1977年、アメリカ= |
1977年8月16日、エルヴィス・プレスリーはテネシー州メンフィスの自宅、グレースランドで死去した。享年42であった。 1977年にカーター大統領は「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。」と語った。彼の音楽とその個性は白人の国家と、黒人特有のリズム、ブルースのスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった。ジェームズ・ブラウンは「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」という言葉を書き残している。 アメリカ内務省長官のゲイル・ノートンは2006年3月27日にエルヴィスが約20年間を過ごした、アメリカ合衆国テネシー州メンフィスの邸宅「グレースランド」を国の国定史跡に認定した。 出典:
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日本列島、最高気温更新 =2007年、日本= |
日本列島の猛暑は16日も衰える気配を見せず、岐阜県の多治見で午後2時20分に、埼玉県の熊谷では同2時42分に、それぞれ気温40・9度を観測。国内の最高気温の記録を74年ぶりに更新した。これまでの記録は1933(昭和8)年に山形で観測された40・8度。16日は多治見と熊谷を含め福島、茨城、栃木、群馬、埼玉、長野、愛知、岐阜、京都の9府県の計25地点で、その地点での気温の過去最高を記録した。 気象庁は高温の原因について、南米ペルー沖で海面水温が下がり異常気象をもたらすとされる「ラニーニャ現象」などにより太平洋高気圧の勢力が増し、ピークを迎えている上、熊谷では暖かい空気が北西の風に乗って、秩父の山を吹き下りる「フェーン現象」が加わったと分析している。 《WEB埼玉》 |
1943年
聯合軍の爆撃でイタリア・ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂修道院が崩潰。壁画『最後の晩餐』の部分だけが残る |
月17日
古橋、世界新記録で3種目制覇 =1949年、アメリカ= |
昭和24年8月17日、ロサンゼルスで行われた全米水泳選手権大会の1,500メートル決勝は、日本の古橋広之進と橋爪四郎の一騎打ちになり、予選の18分19秒0の更新こそならなかったが、当時としては驚異的な記録で古橋が優勝した。 「イモを食べている日本が、豊かなアメリカに勝った」という喜びと興奮は日本中を駆けめぐった。地元の新聞がつけたフジヤマの飛び魚の呼称はアメリカの驚きと賛辞を雄弁に語っていた。この日は、日本のスポーツの復活を世界に、そして国内に宣言した日となった。 《『日本を変えた日』読売新聞平成6年8月5日》 |
○プロ野球ナイター記念日 |
1180年
伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が、以仁王の平家追討令旨を受けて挙兵 1252年 鎌倉・長谷大仏が木像から金銅像に鋳直して完成 1945年 インフレの進行により千円紙幣を発行。肖像は日本武尊 1949年 松川事件。東北本線松川駅附近で線路の破壊工作により列車が脱線転覆。機関士ら3人死亡。国鉄労組等の組合員20人を逮捕するが、1963年全員に無罪判決 1951年 GHQが日本政府にパスポートの自主発給を認める 1988年 パキスタン大統領機が墜落。パク大統領ら37人全員が死亡 1999年 トルコ西部でM7.4の大地震。死者1万7千人以上 |
月18日
豊臣秀吉、没 =1598年、日本= |
1598年のこの日、ようやく夜が白々と明け始める頃、太閤秀吉は伏見城内において、その波乱に満ちた62年間にわたる生涯の幕を閉じた。この秀吉の末期の瞬間までその枕辺にあったのは、秀吉の家臣の中で石田三成ただ一人であったという。 秀吉は三成に向かい「三成、わしはな、15歳になった秀頼に政治を譲り、その後見として、 今日のような諸大名を謁見する様を見るのが夢であった。しかし、自分の余命も、もはやいくばくもない。自分の亡きあとでも、この夢だけは実現できるよう、くれぐれも頼む」と涙ながらに訴えたと伝えられる。 名もなく、生まれもはっきりとしない一農民の子が、戦国の世を統1し、位人臣を極めたという事は、世界史上でも希有の事に属するであろう。だが、秀吉もその晩年は、我が子秀頼の事で心は一杯であった。 「露と落ち、露と消えぬる我が身かな
。浪速のことは夢のまた夢」という辞世の歌は、 《歴史に選ばれた366人》 |
フランツ・ヨ−ゼフ誕生 =1830年、オーストリア= |
マリア・テレジアの次男フランツ・カ−ルもやはり覇気のない青年だったが、身体だけはまずまず丈夫で、すでに1824年にはバイエルン王マクシミリアン・ヨ−ゼフの王女ゾフィ−と結婚していた。 なかなか懐妊しなかったゾフィ−だったが、結婚して7年目の1830年8月18日、ついに玉のような男の子を出産した。この王子は祖父フランツ一世と、偉大な皇帝ヨ−ゼフ二世に因んでフランツ・ヨ−ゼフと命名された。 ⇒12月24日 《ハプスブルク家の女たち》 |
○高校野球記念日 |
1909年 東京市がワシントンへ桜の苗木2000本の寄贈を決定。ポトマック河畔に植樹される |
月19日
マクシミリアン、ブルゴ−ニュのマリアと結婚 =1477年、ドイツ= |
ブルゴ−ニュ公の一粒種マリアは、良人となるマクシミリアンをガンの王宮で待ち受けていた。やがて馬上の王子が、宮殿に現れた。銀の甲冑に身を固め、愛用の白馬にさっそうとまたがった若者は、伝説上のブラバンドの姫君を救出にきた白馬の騎士ロ−エングリンさながらだった。 1477年8月19日、ガンの聖バボ教会で華燭の典が挙行された。マリアの父シャルル突進公の喪中ということで、儀式はひっそりと執行されたがロ−マ法王使節は若い二人の手を結び合わせ、神の祝福を与えた。この二人は、後のマリア・テレジアとフランツ・シュテファンと並んで、6世紀半に及ぶハプスブルク家の歴史上でも有名なおしどり夫婦になるのである。 《ハプスブルク家の女たち》
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○俳句の日 |
1868年
江戸幕府海軍副総裁・榎本武揚が幕府全艦隊8隻を率いて江戸から函館に向けて出航 |
月20日
踏みにじられた「プラハの春」 =1968年、チェコ= |
この日深夜11時頃、ソ連軍を主力とするワルシャワ条約機構加盟5か国軍が、チェコスロバキアに侵攻を開始し、翌日には全土を占領下に置いた。チェコスロバキアでは、この年1月にアレスサンデル・ドプチェクが、共産党第1書記に就任して以来、『人間の顔をした社会主義』のスローガンを掲げ、自由化政策を推し進めてきた。社会主義陣営内でも独自路線をとるル−マニアとユーゴスラビアは、この改革の進展に理解を示したが、ソ連は社会主義陣営の結束を損なうとして、憂慮の目をもって眺めていた。 とりわけ、6月21日に知識人を中心に市民7万人もの署名を集めて改革の支持と促進をうたった『2千語宣言』が発表されると、ソ連は警戒の念を一気に強める。7月には東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアとともにチェコスロバキア共産党に共同書簡を送って強く警告を発し、 国境周辺ではワルシャワ条約機構軍の演習を行い、圧力を強化した。そしてついにこの日、これら5ヶ国軍は軍事介入に踏み切ったのである。 翌日、ドプチェク等改革派の指導者はソ連軍に逮捕。モスクワに連行された。 《クロニック 世界全史》P1073 |
○交通信号の日,三色信号設置の日 |
1124年 藤原清衡が奥州平泉に中尊寺金色堂を建立 |
世紀の名画『モナ・リザ』盗難事件 =1911年、フランス= |
当時のル−ヴルでは贋作の防止のためオリジナルと同サイズの模写のみが禁じられていた以外は制限らしい制限もなく、模写の道具を預かる倉庫までが完備されていた。犯人のイタリア人大工ヴィチェンチオ・ペル−ジアは、この倉庫に潜んで『モナ・リザ』盗み出しの機をうかがっていた。 ペル−ジアは、『モナ・リザ』のケースの取付け工事を請け負った大工のひとりであり、館内の様子は熟知していた。 まず日曜日の閉館直前に見学者を装って館内に入り、共犯の仕事仲間二人と倉庫に忍び込み、中で一夜を明かし、翌月曜日を待つ。明けた月曜日8月21日の朝、休館日に館内に入る清掃業者を装って倉庫から出た三人は、壁から『モナ・リザ』をケースごと外し、休日のル−ヴルから逃走する。館内の様子と警備陣の行動パターンを熟知していたペル−ジアにとって、この強奪はさほどの難事業ではなかったようである。 8月23日水曜日の朝、フランスを代表する新聞『ル・マタン』の第一面は、全段ヌキでただ一語「想像を絶する!」と報じ、『ニューヨーク・タイムズ』のトップも、「ラ・ジョコンダ、パリで盗まる」の大見出しを掲げる。ジョコンダはこの時から2年半の間、完全に行方不明となる。 盗難から1年後、ついに作品の帰還を絶望視したル−ヴル当局は、事件後空いたままになっていた壁に、レオナルドの後輩にあたるラファエロの晩年の肖像画『バルダッサ−レ・カスティリオ−ネの肖像』を掛けた。 ⇒12月11日 《2時間のモナ・リザ》
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○献血記念日 |
1862年
生麦事件。薩摩藩主・島津久光の行列を乱したイギリス商人が斬られ、1人死亡。薩英戦争の原因に |
月22日
ラジオの天気予報復活 =1945年、日本= |
昭和20年8月22日、ラジオの天気予報が復活した。気象報道は、16年12月8日午後6時を持って軍の管理下に入り、軍事機密となっていた。天気予報の復活は平和の証だった。 9月1日、逓信院は放送電波管制を解除。9月3日、平和を迎えて初の放送劇『五重塔』がラジオから流れた。12月31日、紅白歌合戦の前身『紅白音楽試合』が放送された。 こうして終戦とともに、メディアとしての電波の主体は、国から国民へと変わり始めた。 25年、民間ラジオ放送誕生。28年2月、NHKのテレビ放送と同時に始まった『ジェスチャー』。同年8月28日には、NHKに続いて日本テレビが開局。テレビ時代の幕開けとなる。 34年4月の皇太子ご成婚がテレビの普及に拍車をかけ、39年10月の東京オリンピックがカラー時代を招いた。 《『日本を変えた日』読売新聞平成6年8月16日》 |
806年 804年に遣唐使とともに唐に渡った空海が帰国。真言宗を伝える |
月23日
人間の鎖 ラトヴィアの独立運動 =1989年、リーガ= |
1989年(平成元年)のこの日、バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)の独立運動が頂点に達し、タリン(エストニア)〜リーガ(ラトヴィア)〜リトアニア(ヴィリニュス)の間を200万人もの人々が一斉に手をつなぐという画期的なデモンストレーションが行われた。 永らくソビエト連邦の支配下にあったバルト三国の人々は、自らの手で独立を勝ち取ろうと、それぞれにソ連の支配に対する抗議行動を起こしてはいたものの、立ち上がる度に警察当局により解散させられ、多数の逮捕者を出しては制圧されていた。 この日、バルト三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約の締結50周年を契機に、バルト三国が共通の歴史的運命を共有していることを国際社会に訴えようと、前人未到の延べ600キロ以上にもわたる長大な「人間の鎖」による大規模抗議行動が、初めて当局の許可を得て、平和裏に実現したのだ。その時に人々が手にしたのは人を殺傷する武器ではなくて、祖国への思いを歌った歌であった。 人が両腕を広げれば2bの長さになる。600`を人の手でむすぶには200万人が必要と周到に準備された行動だった。インターネットも携帯電話も無かった時代のことである。各都市や町には担当の場所が割り当てられ、他の交通手段を持たない参加者には無料バスを提供するよう指示された。夜7時、タリンからリーガ、そしてヴィリュニスまでの600`を、バルト三国のおよそ200万人が手をつなぎ、歌い、思いを共にした。 こうして8月23日はバルト三国の人々にとって「忘れられない日」となり、「人間の鎖」は非暴力による抗議行動として世界史にきざまれた。「人間の鎖」の後に、ベルリンの壁が壊れ、チェコのビロード革命が起こり、東欧諸国は押し付けられたくびきから平和的に解き放たれた。 1873年6月に1003名の合唱団と30名の演奏家によって始まったラトビアの合唱祭は、通常5年に一回行われている。合唱祭は2003年にUNESCO世界無形遺産に選定された。 《ラトヴィアの蒼い風》 |
独ソ不可侵条約正式調印 =1939年、モスクワ= |
1939年のこの日、モスクワの空港に降り立ったドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップは、夕方からクレムリンでスターリンと協議に入り、夜遅く独ソ不可侵条約を締結した。 《クロニック 世界全史》P1003 8月28日、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇な情勢を生じた」という声明を発して総辞職した。後任の首相は陸軍大将、阿部信行。そして米内海相は吉田善吾中将にバトンを渡し、山本五十六次官は連合艦隊指令長官として和歌浦沖に浮かぶ旗艦『長門』の艦橋に立つようになったのである。 《帝国の死角》
ルイ十六世生誕、1754年 |
☆処暑[しょしょ] ○白虎隊の日 |
1854年
「日英和親条約」調印。イギリスに対し長崎・箱館を開港 |
月24日
ベスビオ山、大噴火 =79年、ナポリ= |
噴火は紀元79年8月24日の昼ごろに始まった。当初、多くの住民は、噴火によって町がなくなってしまうどころか、噴火で命が危険にさらされるなどとも思っていなかったらしい。それまでベスビオは、肥沃な土地を提供し、ポンペイの繁栄を支える恵みの山だった。ポンペイは『最後の日』の印象が強いためか、つい全滅を連想してしまうが、死者は人口の1、2割の2千〜3千人だったと推定されている。この時までに逃げ出した人の多くは生き延びたらしい。これを裏付けるように、死んだ人は積もった火山灰の一番下からではなく、火山灰の中ほどにサンドイッチになって見つかっている。 1900と何年という時が流れた。あの日、生と死を分けたものは何だったのだろうか。死者のそばには多く、宝石類が見つかっている。身体に宝石類をまとった死体がたくさん出た。財産への執着でポンペイにとどまった人達が命を落とした。執着の原因はもちろん金目のものとは限らない。火の中に残された家族の命、大切な記念の品なども人を吸い付ける。 《世界名画の旅 3 イタリア編》
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聖バルテルミ−の虐殺 =1572年、フランス= |
アンリ二世の死後、カトリ−ヌ・ド・メディシスが政権を握ると、新旧両派の争いは宮廷にまで及び宗教戦争が引き起こされることとなった。1560年フランソワ二世の死はこの形勢に一瞬変化を与えるかに見えた。しかし、新王シャルル九世はわずか10歳だったので、依然カトリ−ヌの摂政が続き、宮廷をめぐる闘争の解決にはならなかった。 1572年8月24日は聖バルテルミ−の日であった。この日新教徒の首領たちは、アンリ・ド・ナヴァ−ルとマルグリット(カトリ−ヌの娘)の結婚のためにパリに集まってきた。この晩の教会の鐘を合図に虐殺が開始された。新教徒の家々にはあらかじめ目印がつけられ、多くが寝込みを襲われて虐殺された。パリだけで数千人、リヨンその他を合わせると、実に1万の新教徒が一夜のうちに不幸な犠牲者となった。 《フランス史》 |
○大噴火の日,ポンペイ最後の日 ○ラグビーの日 □聖バルトロマイの祝日 |
79年
イタリアのヴェスビアス火山が大噴火。ポンペイ市街が火山灰に埋没(ポンペイ最期の日) |
月25日
パリ解放記念日 =1944年、フランス= |
8月24日、午後9時22分。かつてナポレオンがエルバ島から脱出し、パリへ帰還した歴史的な道をたどって、フランス軍戦車部隊の先鋒は「イタリ−門」からパリ市内へ入城した。 ドイツ軍がパリに進入してから実に1,532日3時間52分後と、ロンドン放送は細かく歴史の時を刻んで見せた。4年間、抵抗の沈黙を続けていたノ−トルダム寺院の鐘はこの瞬間殷々と鳴り始め、間もなくパリ全教会がこれに和した。この鐘の響きに合わせて、夜空に沸き上がる全バリ市民の国家『ラ・マルセイエ−ズ』の大合唱・・・・・・・。 「いざ祖国の子らよ
栄光の日は来た 残忍な、兵士達の野原で 怒号する声が聞こえるか? 彼等は我等の腕の中まで来た 我が子、我が妻を殺そうとして 武器をとれ、みなよ 隊を作れ、進まん、進まん 汚れた血で 我等が畑をひたしてやろう」 この歌のとおり、血に染むドイツの旗ハ−ケン・クロイツは地に落ちた。その代わりに8月25日の正午、エッフェル塔の頂上には栄光のフランス国旗、大三色旗が翻った。そしてこの日の午後2時過ぎ、ドイツ軍大パリ地区指令官コルティッツ中将は、ドゴール将軍のつかわした軍使の前に正式に降伏したのである。 午後1時、コルティッツの降伏に先立つ1時間前、ヒットラーはそばのヨ−ドル元帥にむかって、「パリは燃えているのか?今この瞬間に、パリはどうなっているのだ? ヨ−ドル、答えろ。燃えているのか? いないのか? コルティッツはどうしたのだ?」と拳でテーブルをなぐりつけながら問い詰めた。 《帝国の死角》 |
▽独立記念日 (ウルグアイ) |
1498年 東海道全域でM8.6の大地震。津波により浜名湖が外海とつながる |
月26日
ベ−リング海峡発見 =1728年、ロシア= |
ピョ−トル一世の在命中に命を受け、シベリア東海岸を探検していたデンマ−ク生まれのロシアの探検家ヴァイタス・ベ−リングがアジア大陸とアメリカ大陸が陸続きでないことを発見した。 ベ−リング以下44名の隊員を乗せた聖ガブリ−ル号はカムチャッカから北に向けて出航し、8月9日、二つの大陸のあいだを通り抜けることで理論通り海峡(ベ−リング海峡)が存在することを確認した。しかし、濃霧のため彼自身はアメリカ大陸を見ることができなかった。 そこでペテルブルク帰還後、最確認が必要と考えたベ−リングは、1733年に再び10年を要する大探検に出発する。そしてこの二度目の探検の途中、無人島(ベ−リング島)で越冬中に病没する。 《クロニック 世界全史》P588 |
○人権宣言記念日 ○シルマンデー,ユースホステルの日 ○レインボーブリッジの日 |
BC54年
ユリウス・カエサルが、当時は未開の地のイギリスに初上陸 |
8月27日
ピルニッツ宣言 =1791年、ドイツ= |
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神聖ローマ皇帝レオポルト二世とプロイセン国王フリ−ドリヒ・ウィルヘルム二世はピルニッツ(ドレスデン近郊)で会談し、フランス王家の支援を確認。ヨーロッパ諸列強の武力干渉も有りうるとの共同宣言を発した。 この夏までは、革命思想の波及は、ヨーロッパ各国にとって脅威とは考えられていなかった。そのため、マリ−・アントワネットは武力干渉を懇願する手紙を兄のレオポルト二世に送ったが、皇帝の慎重な態度は変わらなかった。 レオポルト二世自身はこのピルニッツ宣言を外交辞令と考えていた。イギリスも共同行動に参加しない旨を表明していた。だが、結果的にはピルニッツ宣言は欧州に、革命戦争を引き起こす第一歩となる。自身はこのピルニッツ宣言を外交辞令と考えていた。 イギリスも共同行動に参加しない旨を表明していた。だが、結果的にはピルニッツ宣言は欧州に、革命戦争を引き起こす第一歩となる。 《クロニック 世界全史》P657
ティツィア−ノ没、1576年 茨城県東海村の日本原子力研究所で原子炉実験に成功し、日本はインドについで、アジアで2番目の原子炉稼働国となる。 |
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1573年
織田信長が、妹・お市の方の嫁ぎ先である浅井長政の近江・小谷城を攻撃。長政は妻と娘を逃がした後に自刃 |
月28日
フランクフルトにゲーテ誕生 =1749年、ドイツ= |
ゲ−テ・ハウスは、マイン川のフランクフルト(フランクフルト・アム・マイン)の、グロッサ−・ ヒルシュグラ−ベン23番地にある。ゲーテの父親ヨハン・カスパルは宮中顧問官。母のカタリ−ナ・エリザベ−トは時のフランクフルト市長の娘であったから、彼の生まれた家は当時の上流 階級に属し、今も残る彼の生家も、堂々たる構えである。 ゲーテは1749年8月28日正午、この家に生まれた。第二次世界大戦の爆撃でこの家も破壊されたが、市民は破片の一つ一つを丹念に寄せ集めて復旧した。今はゲーテ博物館として公開されている。内部の家具は疎開してあったので無事だった。 ⇒3月22日 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》 |
ワシントン大行進 =1963年、アメリカ= |
ケネディの時代に高まりを見せた公民権運動が、その最高潮に達したのは、いうまでもなく、この日に行われたワシントン大行進である。この日ワシントン記念堂のあいだの芝生の広場には20万人以上の黒人が集まり、ただちに黒人に平等な権利を与えるよう訴えて、整然と行進を行った。キング牧師が「私には夢がある」という有名な演説を行ったのも、この日だった。彼は力強い言葉で、集まった人々に語りかけた。 「たとえわれわれが今日も明日も困難に直面しなければならないとしても、私には夢がある。それはかつてアメリカ人が抱いた理想に深く根付いた夢である。きっといつの日かこの国は意を決して立ち上がり、この国の独立宣言の真の精神を甦らせる日がくるにちがいない。すべての人間は平等に創られているという事実を自明の真実として掲げる日がくるにちがいない。 私には夢がある。きっといつの日か、ジョージアの赤土の上で、その昔奴隷だった者の子供たちと奴隷所有者だった者の子供たちが、兄弟として同じテーブルに着く日がくるにちがいない。 私には夢がある。きっといつの日か、私の4人の子供たちは、人がその肌の色ではなく、その人の持つ人格によって判断される国に住むことができるにちがいない」。 キング牧師のこの力強い感動的な演説は多くのアメリカ人の心を打ち、名演説として永く人々に記憶されることになった。 この晩のパーティーの会場で、キング牧師の姿を見かけると、ケネディはすぐに近付いていって握手を求め、キングに向かってこう言った。「私にも夢がある」と。 ケネディは、アメリカという国を、その軍事力ではなく、文化によって世界の国々から尊敬される国にしたいという夢を描いていた。 ⇒4月4日 《ケネディ−その実像を求めて》 トルストイ生誕、1828年 |
○民放テレビスタートの日 |
1853年
黒船から江戸湾を防衛する為、品川沖に沿岸砲台「御台場」の築城を開始 |
月29日
浅井長政、自刃 =1573年、日本= |
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1573年の今日、浅井長政は、織田信長の猛攻に遭い、もはやこれまでと悟ると、妻と三人の娘を信長の先鋒を務める木下秀吉に託し、自らは自刃して、29歳の若さでその生涯の幕を降ろした。 10年ほど前、尾張を制圧した信長は、上洛をこころざし、その途上にある近江の地で、絶大な勢力を持つ長政に対し、美女のほまれ高い妹のお市の方を嫁がせることにより、長政を味方に付けることに成功した。 信長は上洛に反対する朝倉義景を攻略すべく作戦を立てたが、この計画に不安を持った家臣が二人いた。明智光秀と木下秀吉である。光秀は、信長が越前に侵入した際、背後より長政に攻撃されれば、信長軍はたちまちにして窮地に追い込まれると進言した。これに対し信長は、案の定自分の義理の弟長政を信用しない光秀に対して激怒した。 他方、秀吉は、このような信長の性格を熟知していたために、口には出さないが、背後からの長政の攻撃に遭った場合、これをいかに回避するかへの方策を立て、そのための調査を行っていた。はたせるかな信長が越前の金が崎城を攻略した直後、長政の軍が背後から迫ってきた。 経営者には大きく分けて二つのタイプがある。積極的・肯定的に将来を考えるものと、逆に消極的・否定的に捉え、安全第1を心がけるものとがそれである。前者の欠点は、結果が不成功に終わった場合に、大きな損失を発生させる危険があることである。この両者の持つ欠点を補うためには、それぞれ正反対のタイプのスタッフを持つことである。 積極型の経営者は、もちろん自らの信念に沿って、そのプロジェクトを推進すべきであるが、その際、安全型のスタッフには、このプロジェクトが不成功に終わった場合、そのリカバリ−を打つべき対策を常に考えさせ、それが可能な限りにおいて、初めて実現に着手すればよい。『金が崎の退き口』において、秀吉のとった態度は、その良き教訓に他ならない。
《歴史に選ばれた366人》
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○文化財保護法施行記念日 □洗礼者ヨハネの祝日 |
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1842年
「南京条約」締結により阿片戦争が終結。上海など5港を開港し香港をイギリスに割譲 |
月30日
マッカーサー元帥、厚木飛行場に到着 =1945年、日本= |
8月30日午後2時過ぎ、マッカーサー元帥はカーキー色の軍服で、上着を着けず、黒めがね、右手にはパイプ、静かな足取りで厚木飛行場に降り立った。 9月2日、それは「210日」であったが、風はなく、波も静かな朝の9時少し過ぎ、東京湾上のアメリカ戦艦ミズ−リ号上で、重光外相、梅津参謀総長たちが日本を代表して降伏の調印をした。こうして太平洋戦争は終わった。 《教養人の世界史》 半世紀前の夏、日本国内には本土決戦に備えて4百33万5千5百人もの陸海軍将兵がひしめいていた。8月15日の降伏直後から復員が超スピードで行われ、この膨大な兵力は、ポツダム宣言という非軍事的手段によって、たった2ヶ月で消滅した。 連合軍層司令官D・マッカ−サ−米陸軍元帥は、軍事史上の奇跡とされるこの日本軍解体に満足し、「すべての戦力を禁止された日本の将来は平和の道以外にはあり得ない」と告げた。〈非武装中立〉路線の起点である。 《『日本を変えた日』読売新聞平成6年8月14日》 |
○富士山測候所記念日 ○マッカーサー進駐記念日 ○冒険家の日 |
1872年 新橋駅構内に日本初の駅の売店 |
月31日
モノレ−ル羽田線誕生 =1964年、日本= |
1964年の今日、内外記者団らを招いて、モノレール羽田線の全線13キロにわたる試運転が行われた。 ここに、日本では初めての本格的な交通システムとしてのモノレ−ルが誕生したのである。 いわゆるモノレールの原型は、すでに1820年にイギリスにおいて存在していた。このモノレールを日本の国際的な空の玄関口にあたる羽田空港から東京都心を結ぶ交通システムとして提唱したのは、当時帝国ホテルの社長であった犬丸徹三であった。 犬丸は、羽田空港と都心とを結ぶ高速道路が常に渋滞を重ね、所要時間は時と場合によって、大きく変動することに心を痛めていた。そして、その念願をかなえる絶好のチャンスが到来した。1964年10月10日を期して、東京オリンピックの開催が決定したからである。 1961年、日本高架電鉄という名称で会社が設立された。今日の東京モノレールは、かくして実現したのである。犬丸は1981年に94歳の長寿でこの世を去ったが、その生涯を捧げたホテル業よりもむしろ、東京モノレールの推進者として評価するものが少なくない。 《歴史に選ばれた366人》 |
▽独立記念日 (マレーシア) *天長節 ☆二百十日[にひゃくとおか] |
1906年 アムンゼンが北極北西航路を初横断 |