9月 |
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革命前の旧秩序を回復するための大規模なヨーロッパ会議が開催されたのは1814年9月から1815年6月にかけてのことだった。 |
関東大震災 =1923年、日本= |
この日、午前11時58分44秒、マグニチュード7,9という強震が関東一円を襲った。関東大震災である。震源地は相模湾北西部で、小田原近辺がもっとも激しい揺れを記録した。 最大の被害を受けた東京では、地震によって発生した火災が3日未明まで続き、全市街の3分の2が焼失。この震災では、死者9万9千331人、負傷者10万4千人、行方不明者4万4千人を記録、罹災者総数は340万人にも及んだ。大震災のニュースは海外にも伝わり、アメリカ、フランス、中国など41ヶ国から救援物資や義援金が寄せられた。 《クロニック 世界全史》P963 |
○関東大震災記念日 |
1920年 コカコーラが日本で初めて發賣される |
月2日
ミズーリ号上の降伏文書調印式 =1945年、日本= |
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1945年9月2日午前、東京湾上の米戦艦ミズーリ号で、日本側全権委員の重光葵外相と梅津美治郎参謀総長は、連合軍に対する8項目からなる降伏文書に調印した。連合国側は最高司令官マッカーサー元帥と各国代表が署名し、戦争終結の事実が確認された。 日本全権団は降伏文書に調印するだけで、ほかに行事はないと聞かされていたが、調印に先立って、マッカーサー元帥が突然演説を始めた。風格のあるマッカーサー元帥が説い事柄は、自由と正義と寛容であり、日本民族がその才幹を建設的に活用すれば、やがて惨憺たる状況を脱して栄誉ある地歩に進むだろうと強調したのである。かつての敵、今は無力な敗戦国の者を前にして、マッカーサー元帥は、日本国民さえ希望をもって努力すれば、祖国の再建は必ず達成されると説いたのだ。 マッカーサーの演説は加瀬初代国連大使がその要旨をしたため、天皇陛下の前で重光薫全権がそれを読みあげた。天皇陛下は前途に大きな不安を抱いていたが、その報告書によりマッカーサー元帥の人柄を知り、後日、天皇の発意により元帥を訪問することになった。⇒9月27日 調印式中ミズーリの甲板には2枚の星条旗が飾られていた。1枚は5年前、真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物、もう1枚は90年前、1853年、ペリー提督の旗艦「ポーハタン号」が浦賀来航の際に掲げていた物であった。日本の敗戦こそが第二の開国であることを告げるかのように・・・ 《私の歴史メモ》
ロンドンの大火、1666年 |
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普仏戦争終結 =1870年、フランス= |
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1867年にパリで開かれた万国博覧会に、ドイツのクルップ社は鋼鉄製の巨砲を出品し、社長のアルフレ−ト・クルップがフランスのナポレオン三世に親書をそえて買上をすすめた。しかし保守的なフランス陸軍はこの性能が理解できず購入しなかった。このクルップ製の優秀な巨砲が、難攻不落と思われていたフランス軍の要塞をつぎつぎに粉砕したのは、わずか3年後のことであった。 普仏戦争は、十分に戦備を整えていたプロシア軍がナポレオン三世を挑発してひき起こした戦争であった。 《世界の歴史がわかる本》 ナポレオン三世は、病気をおして前線に赴いて指揮を取ったが、たちまち国境線は破られ、フランス軍は連戦連敗のありさまで、早くもこの日、セダンで包囲されてしまい、皇帝は10万の将兵とともにドイツ軍に降伏するのやむなきに至った。皇帝の降伏によって、第二帝政は19年の歴史を閉じ、第三共和制が宣言された。「帝国はすなわち平和なり」という自分の言葉を裏切ったナポレオン三世は1873年亡命先のロンドンで淋しく世を去った。 《教養人の世界史》 |
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BC30年
アクティウムの海戦。ローマ海軍がクレオパトラ・アントニウス聯合軍に大勝 |
月3日
英仏、ドイツに宣戦布告 =1939年、ドイツ= |
1939年の夏はいつになく晴れた暑い日々が続いていた。8月23日、不倶載天の敵であったはずのナチス・ドイツと共産主義ソ連とが突如として不可侵条約を結び、世界中を驚愕させた。本来ならヒットラー・ドイツを包囲するために、英仏西側民主主義とソ連は共同戦線を張るとみられてきたが、双方の根強い不信が宿敵同士の接近という信じ難い結果を生み出したのである。東部戦線の後方が安全になったヒットラーは、ポーランドに対してもフランスに対しても、いつでも安んじて攻撃できる体制を整えた。 9月1日朝、ドイツ軍が独ソ不可侵条約のわずか1週間後に、怒涛のようにポーランド国境を越えて、首都ワルシャワに進撃した。第二次世界大戦の勃発である。 9月3日には英仏両国がドイツに宣戦布告、戦争は全欧に拡がっていった。ドイツの電撃戦の前に、英仏はポーランドに手をさしのべる余裕もなかった。 《エリザベ−ト》 |
○ホームラン記念日 |
1783年
パリでアメリカ独立戦争の講和条約に調印。イギリスがアメリカ合衆国の独立を承認 |
月4日
関西新空港開港 =1994年、日本= |
1994年のこの日、関西新空港が開港した。 関西国際空港は、海上に浮かぶ人工島である。人工島には訳がある。大阪国際空港(伊丹)は騒音問題などから1974年以降、つまり20年前から国際線の増便が1機も認められていなかった。その逆に国際交流などの活発化によって、海外への航空輸送の需要は着実に増加してきた。当然のことながら、成田、羽田と東京への一極集中が進む。 こうした背景をもとに、騒音問題も解消し、深夜の離発着も可能な空港ということで、本格的な海上空港が誕生するに至ったのだ。 《私の歴史メモ》 |
○関西国際空港開港記念日 |
622年
マホメットがメッカからメディナに移る。この年がイスラム暦元年 |
月5日
ポ−ツマス講和条約調印 =1905年、アメリカ= |
日本政府がアメリカを頼り、日露戦争の終結への道を見いだそうとしたのは、ドイツとフランスがロシアの同盟国なのに対して、アメリカは中立国だったからである。ルーズベルトは旅順陥落後に一度、ニコライ二世に和議を勧告したが、ニコライは奉天に結集した陸軍とバルチック艦隊の勝利を確信して、勧告に応じなかった。しかし、奉天の会戦でロシア陸軍が敗北し、日本海海戦でもバルチック艦隊が全滅すると状況は変わった。 ポ−ツマス講和会議は1905年8月9日に始まり、公式会談だけでも12回という長期交渉の末、9月5日、ようやく講和条約調印に漕ぎ付けた。小村寿太郎とウィッテの間で「ロシアは樺太の南半分を日本に割譲し、日本側は賠償金の要求を取り下げる」という大筋の妥協が成立したのは8月29日であった。 しかし、日露戦争はロシア国内に亀裂を深め、革命への加速度を付けるだけの結果に終わった。 《ニコライ2世の日記》 |
○国民栄誉賞の日 ■アメリカの休日 |
1905年
アメリカ・ポーツマスで「日露講和条約」に調印。日露戦争が終結 |
月6日
エルカノ、世界周航達成 =1522年、スペイン= |
前年4月のマゼランの死後も、スペイン人のファン・セバスティアン・エルカノに率いられ航海を続けていたヴィクトリア号が、スペイン南西部のサンルカル・デ・バラメダ港に到着し、世界就航の偉業を成し遂げた。 1519年に出発したマゼラン一行は、20年にマゼラン海峡の通過に成功したものの、フィリピンのマクタン島で住民と交戦、マゼランは戦死した。あとを継いで航海の指揮をとったエルカノはマルク(香料)諸島を目指し、わずか2隻となった船隊を率いて21年11月8日にティドレ島に到着した。ティドレ島を出発してインド洋に向かったのは、ヴィクトリア号1隻だけだった。 以後、ヴィクトリア号は途中寄港することなしに希望峰を通過し、ついにこの日、スペインへの帰還を果たしたのである。出発以来、3年に及ぶ困難な航海を経て、帰国できた乗組員はわずか18名。その他に東南アジアから数人のマレー人を乗せていただけだった。彼らは3日後の9月9日、セビリアに上陸し、ヴィクトリア聖母教会に詣で、世界周航の達成を神に感謝する。 この世界周航により、地球が球形であることが実証された。また、スペイン船がマルク諸島に到着したことにより、以後、同諸島を巡り、ポルトガルとの対立が生じる。 《クロニック 世界全史》P412 |
1522年
マゼランのヴットリア号がスペインに帰港し、初の世界一周を達成 |
9月7日
東京オリンピックの聖火、沖縄に到着 =1964年、沖縄= |
昭和39年9月7日正午、東京オリンピックの聖火が沖縄・那覇空港に到着した。8月21日にギリシャのオリンピアで採火されたあと、『アジア初の五輪』を強調するかのように、アジアの各都市に立ち寄りながら、国産機『YS11』の空輸機で日本まで運ばれた。途中、空輸機が故障、沖縄到着が一日遅れるというハプニングもあり、国民をやきもきさせた。 空輸機から降ろされた聖火を最初に手にしたのは、当時22歳琉球大学4年生の宮城勇だった。聖火は沖縄を1周したあと鹿児島、宮崎、札幌に空輸され、さらに全都道府県を通るように4つのコースに分かれて日本列島をリレーされ、東京に向かう。 全国4千3百50区間、9千8百29キロを、地元の高校生を中心に、聖火を持つ正走者に随走者を加えた20人余りのチームでリレ−。ランナーの総数は9万6千347に上った。国をあげての一大セレモニーだった。10万人の若者の手で運ばれた聖火は10月10日、最終ランナーに選ばれた坂井義則の手で国立競技場の聖火台に灯され、オリンピック東京大会は開幕した。⇒10月10日 《戦後史開封》
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1180年 木曾の源義仲(木曾義仲)が平家討伐の兵を挙げる |
月8日
サンフランシスコ講和条約調印 =1951年、アメリカ= |
アメリカは朝鮮戦争の結果から、戦略拠点としての日本の重要性を認識し、日本を政治的にも軍事的にも結びつけるため、対日講和条約の締結を急いだ。9月4日からサンフランシスコにおいて講和会議が開かれた。会議の招請状は55ヶ国に出されたが、参加国は52カ国となった。9月8日午前11時、オペラハウスで対日講和条約の調印が行われた。 講和条約調印の直後に、別室に場所を移して、日米安全保障条約の調印がひっそりと行われた。調印時、日本側は吉田茂全権一人だけだった。講和後の米軍の日本駐留を定めたこの条約は、講和条約とセットになっており、そこにアメリカ側の目的があった。 日本の国内は、勿論、この条約締結に関して世論が激しく割れた。国会でも賛否をめぐり激論されたが、結局可決され、翌年4月28日、両条約は発効し、日本は形式的に独立を回復した。しかし、アメリカ軍の駐留が認められ、日米間の防衛協力と日本の軍備増強へつながっていく道が開かれることになった。 《私の歴史メモ》 |
独、『戦後』体制と決別 =1994年、ドイツ= |
8月31日の駐独ロシア軍の撤退完了に続き、冷戦時代にこのロシア軍と対峙してきた駐ベルリン西側戦勝国三国(米英仏)軍の撤退式典が、この日、メ−ジャ−英首相、ミッテラン仏大統領、クリストファ−米国務長官らを迎えてベルリンでも催された。 式典は、旧ソ連軍によるベルリン封鎖( 6月20日)に対抗し、三国が同年8月から翌49年5月まで行った『ベルリン大空輸』の記念碑への献花、ドイツ統一式典の会場だったシャウシュピ−ルハウスでの記念演説、ブランデンブルク門でのパレ−ドと続き、延べ10万人近いベルリン市民が、『自由を守った戦士』たちの退場を見送った。ロシア軍、西側三国軍の撤退により、ベルリンの『準占領体制』が名実ともに終了、ドイツは『戦後』体制と完全に決別した。コール・ドイツ首相は記念演説で、「半世紀にわたりベルリンを守り続けてくれた三国に、ドイツ民族は深く感謝する」と述べた。 《読売新聞・平成6年9月9日》 |
○サンフランシスコ平和条約調印記念日 ○ニューヨークの日 □聖母マリア誕生の祝日 ○国際識字デー(International
Literacy Day) |
1859年
尊攘派の小浜藩士・梅田雲濱を京都で捕縛。安政の大獄が始る |
月9日
独軍、西部戦線に対する電撃作戦開始 =1939年、ドイツ= |
オランダ、ベルギ−、ルクセンブルクの三国はこの戦争に対しては完全中立の政策を堅持し続けていた。それなのに国際法を踏みにじって、ナチス・ドイツはこの日、冷酷無残にも西部戦線に対して電撃作戦を開始した。 5月10日の未明、ドイツ空軍の爆撃下にあるブリュッセルの外務省で、ドイツのシュヴァンテ大使が最後通牒を読み上げようとしたとき、ベルギ−外相スパ−クは「それを読むのはおよしなさい。ドイツが誠実な中立国のベルギーに侵略を犯したのは、25年間でこれが2度目。爆撃の後の最後通牒など、うかがってもしかたありますまい」と憤慨した。 《帝国の死角》 |
◇菊の節句,重陽の節句 |
1871年 「午砲[ドン]の制」発布。江戸城旧本丸で正午に大砲を1発打ち時刻を知らせることが決まる |
月10日
オ−ストリア皇后エリザベ−ト、レマン湖畔にて暗殺 =1898年、スイス= |
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1898年のこの日、オーストリア皇后エリザベートが暗殺された。 大型の男物の懐中時計は、13時45分で止まっていた。エリザベトが昏睡状態に陥った時間だ。時計の鎖にはダイヤ12個をちりばめた小さなクリスタル製の白鳥が下がっていた。 おそらくル−ドヴィヒ二世の贈り物であろう。 ホテル・ボ−・リヴァ−ジュ。皇后が滞在した部屋は何度か改装されており、最後は1977年のことである。現在の部屋番号は119、120号室となっていて、エリザベトのポートレート写真が2枚あるが、特に説明は付いていない。『皇后陛下崩御』恐怖に身のすくんだ皇帝は一瞬立ちつくしていたが、やがて崩れるように椅子に座った。そして、自分にいいきかせるように、無表情な声で言った。「この地上ではあらゆる不幸が私をおそう」 埋葬は17世紀以来の儀典に従って行われた。ハプスブルク家16代皇后の遺骸は、フランシスコ会教会堂の廟に納められ、心臓は結婚式を挙げたアウグスティン教会に、内蔵は金属製の箱に納められ、聖シュテファン大聖堂の地下に納められた。 ⇒9月16日 《麗しの皇妃エリザベト》
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☆二百二十日[にひゃくはつか] |
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1561年
武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いで一番の激戦 |
月11日
アメリカ同時多発テロ =2001年、アメリカ= |
2001年9月11日午前8時45分(米国東部時間)、ハイジャックされたボストン発ロサンゼルス行きのアメリカン航空11便がニューヨーク最大のビル、世界貿易センターの北棟に、続いてユナイテッド航空175便が南棟に激突。超大国アメリカの歴史にとって、想像を絶する、真珠湾以来の本土攻撃を受けた瞬間だった。 あの日、犠牲になった四機のうち、ユナイテッド93便だけは目標に達することなく、午前10時3分ペンシルベニア州シャンクスヴィルに墜落、乗客乗員、全員が死亡した。軍の上層部がユナイテッド93便のハイジャックを知ったのは、墜落して4分も経った後のことで、一番近い戦闘機は現場から160キロの遠方にいた。 《ユナイテッド93 パンフレット》 |
フェリーペ二世ポルトガル王位継承 =1580年、スペイン= |
スペイン王フェリーペ二世が、空位となっていたポルトガル王に即位した。ポルトガル本国と その植民地を得たスペインは、『陽の没することなき帝国』となり、その商船保有数は他国を圧倒した。 この頃、フェリーペ二世はメキシコやペルーからの大量の銀を背景に積極的な拡張政策をとっており、その目標の一つがポルトガルだった。ポルトガルでは、1578年にジョアン三世の孫の王セバスティアンがモロッコ遠征中に戦死して以来、政局は王位継承を巡り混乱していた。そこに目を付けたフェリーペ二世は王位継承を主張し、この日の即位宣言となった。 この併合には衰退期にあったポルトガルの利害も絡んでいた。アジアでの香料貿易に携わるポルトガル商人にとって、支払手段となる銀は不可欠で、大量の銀を持つスペインとの併合を望む風潮もあった。その上、フェリーペはポルトガル人を官僚に登用することや、旧ポルトガル植民地貿易をポルトガル人の独占とすることなどを約束したのである。しかし、 《クロニック 世界全史》P466 |
○公衆電話の日 |
1331年
元弘の乱で窮地に陥った後醍醐天皇の召しに応じて楠木正成が挙兵 |
9月12日
シュ−マン、クララと結婚 =1840年、ドイツ= |
「きみはわが魂、わが心。きみは、わが喜び、わが悲しみ。きみはわが世界・・・・」。 シュ−マンは、長い恋愛の末に結ばれたクララへの贈り物として、結婚式の前夜、歌曲集『ミルテの花』をクララに捧げた。二人は、1840年の今日、ライプツィヒ郊外の教会で、ささやかな式を挙げた。シューマンは30歳、クララはその翌日21回目の誕生日を迎えるところであった。 普通なら、当然、出席してこの結婚をともに喜び、祝福してくれるはずの花嫁の父は出席しなかった。クララの父親で、シュ−マンにとっては恩師に当るフリ−ドリヒ・ヴィ−クは、最後までこの 結婚に大反対だったからである。 「まったく長い長い年月だった。今、新しく、美しい生活が始まろうとしている。彼に抱かれた生活、わたし自身よりも、ほかの誰よりも愛する彼に抱かれた生活が始まろうとしている。だが、一方、また重い重い責任がわたしの上におおいかぶさっている。神よ!わたしにそれらに耐えることのできるような、よき女性となる力を与えたまえ!」 《クラシック名曲ものがたり集成》 |
○宇宙の日 ○マラソンの日 |
BC490年
マラトンの戦い。ギリシャ重装歩兵軍がマラトンに上陸したペルシャ遠征軍を撃破。勝利を伝える為にパンテオンまで走った兵士の故事がマラソンの起源に |
月13日
エスコリアル宮殿完成 =1584年、スペイン= |
首都マドリードの北西のエスコリアルに、修道院と歴代国王の霊廟を兼ねた壮大な王宮エル・エスコリアルが完成した。正式名称は、サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル修道院である。スペイン軍は1557年にフランス軍に大勝したが、その日はスペイン出身の聖人ラウレンティウス(サン・ロレンソ)の殉教日にあたっていた。フェリーペ二世は、この勝利に感謝して帝国の安寧を神に祈願するため、聖ラウレンティウスに捧げる修道院の建設を命じたは、この勝利に感謝して帝国の安寧を神に祈願するため、聖ラウレンティウスに捧げる修道院の建設を命じたは、この勝利に感謝して帝国の安寧を神に祈願するため、聖ラウレンティウスに捧げる修道院の建設を命じたのである。 この日完成した建物は、ドームを戴く教会を中央に、左右に王の離宮と修道院が配され、 教会地下に歴代国王の霊廟が設けられた。装飾を排し、冷厳さをきわだたせたこの建築様式は、プロテスタントに対する対抗宗教改革の精神を誇示するもので、建築家エレラにちなんでエレラ様式と呼ばれ、以後、スペインの様々な公的建物に採用される。 《クロニック 世界全史》P471 |
○乃木大将の日 *司法保護記念日 |
668年
唐・新羅軍が高句麗を滅ぼし朝鮮半島を統一 |
フランス皇帝の三十二日間 =1812年、フランス= |
1812年のこの日、ナポレオンはついにモスクワを占領した。 初秋の爽やかな陽射しが霧にきらめく朝、ナポレオンはモスクワを眼下に望むポクロンナイアの丘に昂然として立っていた。昔のロシアの人々はモジャイスクからの道を通ってこの丘に至るとき、眼前に開ける聖なる都の姿にひざまずき、十字を切り、それからやおら丘を下がってモスクワの城門へと進む習わしだった。ポクロンナイアは祈りの丘であった。
トルストイは言う。「当時フランス郡が占めていたその輝かしい状態を保持するためには、思うに特別の天才など必要としない筈である。そのために必要なことは、軍に略奪を許さず、モスクワで全軍に支給するだけ手に入れられた筈の冬の衣類を用意し、モスクワにあった全軍を半年以上養うことのできる食糧を確実に確保するという、極めて簡単で容易なことを実行することであった。ところがこの天才中の天才、ナポレオンがこれを何も行わなかったのである」。 ⇒10月19日 《私の歴史メモ》 |
□十字架称賛の日 |
1900年
津田梅子が女子英学塾を開校。現在の津田塾大学 |
月15日
ロンドン・バ−ニング、イギリス空軍の善戦 =1940年、イギリス= |
世界最強を誇るドイツ空軍が総力を結集し、イギリスの首都ロンドンを攻撃した。 だが、イギリスの戦闘機がこれを迎え撃ち、善戦。イギリス軍26機に対してドイツ軍56機の損失と、ドイツはあまり戦果を上げることができなかった。 3ヶ月前の6月22日にフランスが降伏してからは、ヒトラ−は攻撃目標をイギリスに転じていた。ドイツ空軍によるイギリス本土空爆に対して、いわゆるバトル・オブ・ブリテンが8月から始まった。ドイツ空軍はまず、軍需工場や飛行場を集中的に攻撃。これらの爆撃はイギリス軍の戦闘力の低下を狙ったものであり、この時点では首都への爆撃はヒトラ−によって禁止されていた。 しかし8月24日、ドイツ空軍機がロンドンを誤爆。翌日、イギリス軍がベルリンを報復爆撃したことから、ヒトラーがロンドン空爆を許可。この月7日にも900機の大編隊が初めてロンドンを爆撃し、市内のいたるところに無残な傷跡を残していた。今回の空爆で事実上の敗北を喫したドイツ空軍は、これ以後イギリス軍が装備不十分なため苦手とする夜間に攻撃を集中する。 9月17日、英首相チャーチルが、9月前半の被害を死者約2千人、負傷者約8千人と発表。イギリス国民は、反ファシズムの理念と愛国心を支えに、こののちも続くバトル・オブ・ブリテンを耐え抜き、国土防衛軍に続々と参加、戦争体制は総力戦へと強化されていく。 《クロニック 世界全史》P1009 |
○老人の日 |
1600年
関ヶ原の戦い。徳川家康の東軍7万5千人が豊臣方・石田三成の西軍12万8千人に勝利 |
月16日
皇后エリザベトの葬儀 =1898年、オーストリア= |
全世界からの弔電が皇室事務所に届いた。ヴィクトリア女王、フランス大統領フェリックス・フォ−ル、ウィルヘルム二世、米国大統領マッキンレ−、ロシア皇帝ニコライ二世、ローマ法王・・・・・・・・。 9月16日土曜日、棺をフランシスコ会教会に埋葬するための葬列には、各国の王候貴族や政府高官82名が参列した。 エリザベトの数奇な運命を思うとき、彼女の家に襲いかかった数多くの悲しみに耐えたことに頭の下がる思いである。海に消えたヨハン大公、狩猟事故で死んだラディスラウス大公、銃殺されたマクシミリアン、ルドルフの謎の死、溺れ死んだル−ドヴィヒ二世、焼死したアランソン公夫人ゾフィ−、気が狂ったカルロッテ、姪のマチルダの焼死、義弟トラニ伯爵の自殺・・・・・。 家系だろうか。死者の行進・・・・。そして死に方がどれもまともではない。その一つ一つが エリザベトから生きる理由を奪っていった。「私たちは皆変死する」と、ある日言ったシシの予感には、ギリシャ神話のアトレウス家の呪いにも似たものがある。 歯車はなお、呪いをかけるかのように回り続け、フランツ・フェルディナント大公夫妻がサラエボで撃たれる。第一次世界大戦の幕開けの一発である。 ⇒6月7日 《麗しの皇妃エリザベト》 |
▽独立記念日 (メキシコ) |
1948年
岡晴夫の『憧れのハワイ航路』が発売 |
月17日
ギロチンの恐怖 =1793年、フランス= |
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フランス革命の進行は、世界に向けて発した人権宣言を自ら無視してしまう。驚くべきことに、当時この大量虐殺は、正当な行為として国民の支持を受けた。パリの革命自治市会(コミュ−ン)は、虐殺者に日当を払いさえしたのである。異常な事態の中で誰もが正気を失って行く。革命はその崇高な目的を達するために残虐な手段に訴えた。 フランス革命は、決して綺麗ごとではないのである。 1793年のこの日、反革命の陰謀を事前に予防するために、嫌疑者の投獄を命ずる法令が発せられた。この法令は95年10月に廃止されるまで、全国で20万人もの人々を牢獄に閉じ込める。そして、革命裁判は何と2万人もの人々を断頭台に送った。 内務大臣であった夫を引っ張って政治活動を展開し、死刑を宣告された美貌のロラン夫人が、ギロチン台を前にして呟いた言葉、「ああ自由よ、汝の名においていかに多くの罪が犯されていることか!」は、いわゆる恐怖政治の性格をよく表している。 処刑者の苦痛を短縮することにより、死刑に人間味を持たせる目的から、医者で議員の ギヨタンが発明したギロチン台が切り落とした首は、刑の執行を見守る民衆たちの眼前に、執行人の腕に突き出されて掲げられた。勝ち誇った民衆は、『ラ・マルセイエ−ズ』を歌った。⇒10月16日 《ラ・マルセイエ−ズ物語》
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○モノレール開業記念日 |
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14年
ティベリウスがローマ皇帝に就任 |
月18日
ウィ−ン会議開催 =1814年、オーストリア= |
ナポレオン帝国崩壊後のヨーロッパと世界の新たな秩序を協議するため、全ヨーロッパの代表者がウィーンに参集した。 オーストリア外相クレメンス・フォン・メッテルニヒを議長にウィーン会議はこの日の予備会談をもって始まった。会議には、数十ヶ国の君主や外交官などの代表が参加したが、結局、全体会議は1度も開かれない。領土再編と配分については、諸国の利害が対立し会議は紛糾する。 しかも、具体的な交渉は宴会やサロンなど舞台裏の会合で行われる。 《クロニック 世界全史》P715 |
米英原子力協定締結 =1944年、アメリカ= |
この日 、ル−ズベルト大統領とチャーチル首相は、密かに米英原子力協定に関する覚書を交換し、これに調印した。恐るべき歴史的決断が正式文章となった。「原爆が完成すれば慎重に考慮した上で、これを日本に使用するものとす。日本が降伏するまで、われわれは原爆攻撃を続行する旨、警告することになろう」。 マンハッタン計画の指揮官であったグロ−ブス少将は戦後の回想録に書いている。「われわれが原子エネルギーの開発に着手した当初は、アメリカはいかなる国に対しても原子爆弾を使用するつもりはなかった。しかしマンハッタン計画が活発化するにしたがって、情勢は変化し始めた。われわれの仕事はあまりにも高価についた。金の面でも、他の戦争への努力に対する妨害という面でも・・・・・」。 「時が進むにつれて、そしてわれわれが金と努力をその計画に注ぎ込めば込むほど、政府は最終的な原爆の使用に踏み切らざるを得なくなった。われわれがこの身の毛もよだつような兵器の開発に乗り出したのはヒトラーにその完成の先手を取られないようにするためだと、しきりに言われたが、事実は、戦争を終わらせるため、それを使用するということに他ならなかった。 マンハッタン計画はスチムソン長官の言うように、『戦争を急速に勝利をもって終わらせ、アメリカ人の多数の生命を救うために』存在したのである」。 それが戦争の論理というものであった。ヒューマニズムとか道徳とかがそこに入る余地はなかった。人類始まって以来、およそ戦争というものはそういうものであると、誰もがそう思うことで自分の心を納得させたのである。 ⇒4月12日 《原爆が落とされた日》 |
◇十五夜(御月見,中秋の名月,芋名月)
<旧暦8月15日> ○満洲事変記念日 |
1793年
ロシアに漂着した大黒屋光太夫が将軍徳川家斉に面会 |
月19日
長嶋茂雄、幻の本塁打 =1958年、日本= |
巨人の長嶋が球史に残る『幻の本塁打』を放ったのは、デビューした昭和33年の9月19日だ。対広島戦で同点の5回、カウント2−1から鵜狩道夫の投じた4球目は左中間に弾き返された。豪快な『28号ホ−マ−』にスタンドは沸いた。しかし、その歓声の中で、広島の一塁手藤井弘は冷静に長嶋のストライドを見ていた。そして、球審から投手、さらに藤井へと渡ったボールをベースにタッチすると、「一塁ベ−スを踏んでいなかった」とアピ−ルした。塁審もこれを認めて、即アウトとなった。投手から一塁へとボ−ルが渡ったため、記録上は投ゴロとなった。 《読売新聞『プロ野球あの日あの時』平成6年9月19日》 |
○苗字の日 |
1870年 イタリア軍がローマ教皇領を占領 |
月20日
マゼラン世界一周に出発 =1519年、スペイン= |
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スペイン王カルロス一世に仕えるポルトガル人フェルナンデ・マガリャンイス(英名フェルディナンド・マゼラン)が、総勢265名を乗せた5隻の船(トリニダー号、ビクトリア号等)を率いて、スペイン南西部の港町サンルカル・デ・バラメダから世界周航に出発した。 マゼランの目的は西回りで香料諸島に到達し、既に希望峰経由でインド洋に入り、香料諸島で取引をしているポルトガル人に対抗することである。かつてポルトガル王マヌエル一世に仕えてインド洋に従軍していたことのある彼は、香料諸島に関する情報を十分に得ていた。 南アメリカ大陸沿いに南下したマゼラン一行は、翌1520年10月21日、後にマゼラン海峡と呼ばれる海峡の入口を発見。1ヶ月掛ってここを通過し、太平洋に出た。当時の人々の地理的知識には広大な太平洋の存在はなかったため、以後、長引く航海に乗組員は飢えと水不足と壊血病に悩まされ、航海は困難を極めた。しかし、21年3月6日、ついにグアム島に到達。ついでフィリピン諸島のセブ島に至るが、4月27日、マクタン島の先住民と交戦中に、マゼランは命を落とす。 残った2隻の船長らはしばし迷走しながらもモルッカ諸島に何とかたどり着いた。しかしここでついにトリニダー号も破損し、ビクトリア号だけが西を目指して帰航の途に就くことになった。この時、最後の指揮官となったのが船長のフアン・セバスティアン・エルカーノである。香辛料を満載したビクトリア号は1521年12月21日、ティドーレ島を出航。喜望峰を回って1522年9月6日にスペインに帰還した。生き残り無事に帰りついた乗組員は、わずかに18名であったという。 フィリピン以西は既にヨーロッパにも知られていたので、実質的には航海半ばで倒れたマゼランによって世界周航が達成されたことになり、「地球が丸い」ことが実証された。 《クロニック 世界全史》P409
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◎敬老の日(Respect for the Aged Day) <9月第3月曜日> |
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BC479年
サラミスの海戦。アテネ南西の水道でギリシャ軍が約2倍のペルシャ軍を撃滅 |
月21日
カ−ル五世没 =1558年、ベルギー= |
1555年から翌年にかけてのカール五世の退位は、きわめて劇的で感動的だった。皇帝はまずブリュッセルでブルゴーニュゆかりの金羊毛騎士団の団長を辞し、ネーデルランドの統治を嫡子フィリップに委譲した。さらにはカスティリア、アラゴン、ナポリ、シチリアそして新大陸の君主の地位を捨てた。スペインの最も格式が高いサンチャゴなどの三大騎士修道会の団長を辞任した。世界に君臨した不世出の皇帝は、あらゆる官職を惜しげもなく捨てたのである。 波瀾万丈の生涯を終えた皇帝は「もっと先へ=プルス・ウルトラ」という人生の標語を残しつつ、1558年9月21日、永遠の眠りについた。 ⇒2月24日§ 《ハプスブルク家》 |
○国際平和デー,世界停戦日 |
1792年 フランス国民公会が王制廃止・共和制宣言を議決 |
月22日
リンカ−ン、黒人奴隷解放宣言 =1862年、アメリカ= |
1862年、南北戦争の真っ最中にリンカーンは最高指令官の資格で奴隷解放宣言を行い、300万以上の奴隷を自由にする約束をした。これは戦争を有利に導くための戦術的な匂いが濃かったが、この約束は後に憲法修正13条となって、リンカーンに奴隷解放者の栄誉を与えることになった。 また、ゲティスバーグの古戦場を訪れて戦死者の霊を慰めた時の、彼の演説の最後の一句、「人民による、人民のための、人民の政府」という言葉こそは、デモクラシーの最良の表現として不滅の意義をもっている。 だが、このリンカーンも、南部軍の降伏のわずか5日後に、観劇中に南部出身の一俳優によって狙撃され、翌朝ついにこの世を去った。人々の悲しみの中を遺体は特別列車で故郷に帰り着く。その劇的な生涯と人間的な高貴さのゆえに、彼はまさしくアメリカ史上最大の英雄であろう。⇒1月1日 《教養人の世界史》 |
1862年
アメリカ南北戦争で北軍が勝利。リンカーン大統領が「奴隷解放予備宣言」を発表 |
月23日
種子島に鉄砲伝来 =1543年、日本= |
九州の種子島に見慣れぬ一隻の船が漂着した。乗船していた明の儒学者五峰(ごほう)との筆談で、ポルトガル人三人が乗っていることが分かった。 彼等は長さ一メートルほどの奇妙な鉄の筒を所持しており、これに火薬と鉛の玉を詰めて点火すると、光と雷のような音を発し玉が飛んで的に命中した。この火器の威力に驚いた島主、種子島時尭(ときたか)はさっそく二丁を買い取り、家臣等に火薬の製法や鉄砲の国産化を研究させ、約一年後に数十丁の鉄砲が完成する。 鉄砲はまたたく間に日本各地の戦国大名のあいだに広まり、従来の戦闘方法や築城技術に 一大変化をもたらすことになる。 《クロニック 世界全史》P434 |
☆秋分[しゅうぶん](Autumnal Equinox) |
1846年
ベルリン天文台のガレが天文学者ルベリエの予言に基いて海王星を発見 |
海上保安庁巡視艇、中国漁船と衝突 =2010年、日本= |
沖縄の尖閣諸島で、9月7日海上保安庁の巡視船と衝突事故を起こした中国漁船の船長が、9月25日未明、帰国した。 那覇地検の鈴木亨・次席検事は24日、記者会見で次のように語った。 本日、公務執行妨害罪で拘留しておりました被疑者を、処分保留のまま釈放することに決定しました。なお、被疑者に確認すべき事項もあり、釈放の具体的日時等は未定です。 同事件では万全の捜査態勢を組み、本日まで、石垣海上保安部とともに捜査を行いました。これまで収集した証拠によっても、被疑者が、我が国の領海内で、適正な職務に従事していた石垣海上保安部所属の巡視船「みずき」に対し、故意に同漁船左舷船首部を、みずき右舷船体中央部等に衝突させたことは明白です。 また、被疑者の行為は、みずきに航行障害を発生させる恐れや、甲板上の乗組員らが海に投げ出される恐れがあった危険な行為でした。他方、みずきの損傷はただちに航行に支障が生じるものではなく、乗組員が負傷するなどの被害の発生もありませんでした。 被疑者はトロール漁船の一船長で、本件は、みずきの追跡を免れるためとっさにとった行為と思われ、計画性等は認められず、被疑者には我が国での前科等もありません。加えて、我が国国民への影響や今後の日中関係を考慮すると、身柄拘束を継続して捜査を続けることは相当でないと判断しました。 被疑者の処分については、今後の情勢を踏まえて判断する予定で、本日、福岡高等検察庁および最高検察庁と協議の上で決めました。 海上保安庁によれば、9月7日午前10時15分頃、尖閣諸島最北端に位置する『久場島』北西約12キロの付近の海域をパトロールしていた、第十一管区海上保安本部所属の巡視船「みずき」が不審船(中国籍のトロール漁船『閩晋漁5179』)を発見、停船を勧告するも、それを無視して漁船は逃走。逃走時に巡視船に衝突を繰り返し、巡視船2隻を破損させた。海上保安庁はこのときの様子をビデオに撮影している。海上保安庁は8日にこの中国漁船を停船させ、同漁船の船長を公務執行妨害で逮捕した。巡視船、不審船とも乗組員にけがはなかった。この船の船長は、外国人漁業規制法違反等の容疑で石垣島へ連行された。船長を除く船員も同漁船にて石垣港へ回航、事情聴取が行われた。 中国政府は「釣魚島(尖閣諸島)は中国固有の領土」であるという根拠を元に、事件発生の日から5回にわたって北京駐在の丹羽宇一郎大使を呼び出し、日本側の措置に強硬に抗議、船長・船員の即時釈放を要求した。特に4回目となる中国国務委員による呼び出しは、12日の未明(午前0時から1時間)ということもあり、きわめて異例とされた。 《私の歴史メモ》 |
ベラスケスの肖像画 =1632年、スペイン= |
1632年9月24日付のスペイン王室文書は、首席宮廷画家ベラスケスに「国王夫妻の肖像を ドイツに発送するよう」命じている。フェリーペ四世の妹で、1年前にドイツ皇帝フェルディナンド三世に嫁いだマリア宛、つまり、スペインのハプスブルク家から本家への近況報告的な意味を持った贈り物である。イサベール王妃は、フランス王アンリ四世とマリー・ド・メディシスの娘で、1603年に生まれた。このブルボン家出身の王妃は、美貌で知られたばかりでなく、白馬を愛し、豪華な衣装や宝石類を好んだことでも知られる。 一説によるとこの王妃は、祖国フランスとスペインの絶え間ない敵対関係に加え、王の浮気や宰相オリバレス一派のいやがらせに耐えねばならなかったという。王妃の表情にどことなく憂愁がただようのはそのためであろうか。後に一人娘のマリア・テレーサ王女が、同年齢の従兄弟フランス王ルイ14世に嫁ぐことになる。この作品はいわゆる宮廷肖像画の1枚だが、その背後に、ハプスブルクとブルボンという17世紀ヨーロッパの二大王家によるヨーロッパの覇権をめぐる確執を読み取ることも不可能ではないだろう。 《私の歴史メモ》 |
1614年
江戸幕府が高山右近らキリシタン大名を含む148人をマニラ・マカオに追放 |
月25日
尖閣諸島漁船衝突事件、中国人漁船船長が釈放帰国 =2010年、日本= |
沖縄の尖閣諸島で、9月7日海上保安庁の巡視船と衝突事故を起こした中国漁船の船長が、9月25日未明、帰国した。 那覇地検の鈴木亨・次席検事は24日、記者会見で次のように語った。 公務執行妨害罪で拘留しておりました被疑者を、処分保留のまま釈放することに決定しました。同事件では、被疑者が、我が国の領海内で、適正な職務に従事していた石垣海上保安部所属の巡視船「みずき」に対し、故意に同漁船左舷船首部を、みずき右舷船体中央部等に衝突させたことは明白です。 船長が釈放されたことを受けて、中国外務省は25日、「日本側が漁民を拘置、調べたことは、いかなる形式の司法措置であれ、すべて違法で無効だ。日本側は中国側に謝罪し、賠償すべきだ」とする声明を発表し、謝罪と賠償を要求した。釈放された船長は同日午前4時(日本時間同5時)頃、中国政府のチャーター機で福建省福州に到着した。 自民党の山本一太参院政審会長は25日朝のTBS番組で、「見たこともないような外交的敗北だ。その批判を避けるため検察に責任を押しつけようとしている。」と述べた。 公明党の高木陽介幹事長代理も「日本が法治国家ではなくなったような状況にしたことが一番大きな問題だ。今の民主党政権に外交を任せることはできない」と指摘した。 米ニューヨーク・タイムズ紙は、日本の「屈辱的退却」と論評。またウォール・ストリート・ジャーナル紙は、「中国は、船長が起訴もされずに釈放されたことを、外交的勝利と位置づけている」とし、「中国がアジアにおける他の領土紛争で、大胆さを増す危険を引き起こした」と日本政府の決定による地域への悪影響に懸念を示した。 《同日の新聞報道》 |
日中国交回復 =1972年、中国= |
この日の北京空港上空には雲一つなく、まさに『北京秋天』の日和であった。日中国交正常化を目指す日本の総理が、戦後初めて中国の土を踏もうとしていた。 《文芸春秋》2001年11月号宰相列伝、久保田富弘=文 |
パルテノン神殿大被害 =1687年、ギリシャ= |
ヴェネツィアが、オスマン帝国支配下のアテネを砲撃し占領した。この砲撃でアクロポリスに建つパルテノン神殿が大きな被害を被った。紀元前438年に完成したパルテノン神殿は、15世紀なかばにオスマン帝国の支配のもとでイスラムのモスクとなったが、建物自体は良く保存されていた。 ヴェネツィアは1669年に地中海の最後の拠点だったクレタ島をオスマン帝国に奪われたが、84年に神聖同盟に加わり、オスマン帝国に宣戦布告した。ヴェネツィア沿岸地域とペロポネソス半島に侵攻し、この日、貴重な文化遺産を犠牲にしてアテネの制圧に成功したのである。 この後も、ヴェネツィア軍は神聖同盟と連係してオスマン帝国への反攻を続けるが、たいした成果は得られず、宿願のクレタ島の奪還も果たせなかった。 《クロニック 世界全史》P563 ドイツ、新旧両宗派の和睦 、1555年 |
○10円カレーの日 ○藤ノ木古墳記念日 |
1936年
巨人の沢村栄治投手が日本プロ野球初のノーヒット・ノーランを達成 |
月26日
ドヴォルザ−ク、ニューヨークに到着 =1892年、アメリカ= |
ドヴォルザ−クは、ヨーロッパの大作曲家の中では、チャイコフスキーに次いで大西洋を渡った2番目の人である。彼は1892年の今日、ニューヨークに着いた。 その当時のアメリカは、コロンブスのアメリカ大陸発見から400年、また1783年に独立を果たしてからわずか109年しか経っていない歴史の浅い国で、ヨーロッパの人たちからは『新大陸』と呼ばれていた。ちょうど資本主義の興隆期で、時の大統領は23代目のB・ハリスン、有名な大陸横断鉄道は、23年前の1869年にすでに完成していた。 彼がアメリカで実際に生活を始めてみて、強烈な感動を受けたことが2つある。一つは、恐るべき勢いで発展しつつあったこの『新大陸』のエネルギーであり、もう一つは素朴なアメリカ民謡や黒人霊歌などから受けた感動であった。彼はこの二つの刺激から、新しい一つの交響曲をまとめた。これが『交響曲第9番』(新世界より)だったのである。 《クラシック名曲ものがたり集成》
伊勢湾台風で死者5,041人、1959年 |
○ワープロの日 |
1687年
トルコ軍に占領され弾薬庫として使われていたパルテノン神殿がベニス軍の砲弾により崩潰 |
月27日
天皇、マッカーサーを表敬訪問 =1945年、日本= |
9月27日、天皇陛下は赤坂の米国大使館にマッカーサー元帥を訪問され、約35分間会談された。天皇の直立不動の姿勢に対して、マッカーサー元帥が腰に手を当てたポーズの写真は国民にショックを与え、敗戦を実感させることになった。 午前10時、車は、マッカーサーの待つアメリカ大使公邸の門をくぐった。大使公邸の玄関には、マッカーサーの姿はなく、出迎えたのは、2人の副官だけだった。マッカーサーは、この時、出迎えも見送りもしないと決めていたのである。昭和天皇は、同行したくない大臣などと次の間で別れ、通訳と二人だけで奥の部屋に向かった。 マッカーサーは、回想記にこの日の模様を記している。 マッカーサーが使ったDecentという言葉こそ、高貴で品格のある天皇を讃えるにふさわしい最高の褒め言葉であった。 35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は変わっていた。マッカーサーは、予定を変えて、自ら昭和天皇を玄関まで送った。マッカーサーにとって、最大の好意の表れだった。 《私の歴史メモ》 |
ポーランド分割 =1939年、ポーランド= |
ポーランド軍は戦車に対して、騎兵で向こう見ずに立ち向かっていったが、ものの数ではなく、ドイツ軍は開戦1週間後には早くもワルシャワ郊外に迫った。ドイツ軍の予想を遥かに越える急進撃に驚いたソ連は、獲物の分け前に預かろうと、ヒットラーとの約束どおり、9月17日に東ポーランドに進入し、すでに力尽きている小国に後方から襲いかかった。 ワルシャワは頑強に抵抗したが、9月27日に陥落する。結局ポーランドはドイツとソ連に分割され、戦闘開始から1ヶ月足らずのうちに、地図から消滅してしまった。 欧州諸国は、1年半のうちにオーストリア、チェコスロバキア、ポーランドの中欧3国を手中に入れたヒットラーの力の前になす術もなかった。 《エリザベ−ト》 |
1529年
オスマン帝国のスレイマン1世が、12万を越える兵力でウィーンを包囲し攻撃を開始 |
月28日
エジプト、ナセル大統領急死 =1970年、エジプト= |
アラブ連合共和国(エジプト)のジャマ−ル・ナセル大統領が、心臓発作のために52歳という若さで急死した。中東全体を代表する偉大な指導者だったナセルの死に、今後の中東情勢への不安から世界中が動揺した。中東世界は1952年のエジプトの軍事革命以来、『ナセル主義』とも呼ばれる彼個人の政治的な指導力に支えられてきた。 また、ナセルは、インドのネ−ル首相、ユーゴスラビアのチト−首相とともに、非同盟諸国を代表する指導者として、国際社会で重要な役割を担ってきた。それだけに、主軸を失った中東世界が政治的な混迷に向かうのでは、という危機感が高まった。エジプト政府は直ちにアンワル・サ−ダ−ト副大統領を後任とし、ナセル大統領の国葬を3日後の10月1日に行うと発表する。 《クロニック 世界全史》P1079 |
○パソコン記念日 |
1629年
徳川光圀が江戸小石川の水戸藩別邸に庭園・後楽園を完成させる |
サラミスの大海戦 =BC480年、ギリシャ= |
ペルシャ王ダリウスはその精鋭なる軍隊をペロポネソス半島に進めて、海陸からギリシャを猛攻した。前後3回に及んだペルシャ戦争が始まったのだ。アテネのために立ち上がったスパルタ兵の屍を踏み込み、敵はアテネに雪崩込み、町に火を放った。サラミスの島へと難を逃れたギリシャ軍は、ペルシャ軍を狭い湾内に誘い入れて、一挙に勝敗を決しようとした。 時に紀元前480年9月29日、史上にその名を残す有名なサラミスの大海戦をここに見るのだ。 海戦はアテネの大勝利に終わる。だが、アテネの町は、短いペルシャ軍の占領中にことごとく焼きつくされてしまっていた。ただ不思議にもオリーブの木のいくつかが、戦火の中を生き残って、変わらぬ青い葉を海風にそよがせていた。この可憐なオリーブのそよぎが人々をこよなく勇気づけた。アテネを繁栄に導いたもの、海外からさまざまの富をもたらす基となったもの、そのオリーブが、今、戦火に荒れ果てたアテネの人達の心の中に、再び測り知れぬ緑の涼風のようなさわやかさと勇気を与えるものとなって甦った。 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》 |
○日中国交正常化の日 □大天使ガブリエルの祝日 □大天使ミカエルの祝日 |
747年
東大寺大仏の鋳造を開始 |
月30日
ベ−ブ・ル−スの本塁打記録 =1927年、アメリカ= |
この日、アメリカ大リーグ、ヤンキ−・スタジアムの対セネタ−ズ戦で、ベ−ブ・ル−スは 8回裏、内角低めの直球を右翼スタンドに叩き込んだ。6年前に打ち立てたシーズン本塁打記録59を更新する60号に、1万人の観衆は総立ちとなった。1920年代はボクシングのジャック・デンプシ−やフットボ−ルのレッド・グランジの他、大スターが続出、大衆スポーツの黄金時代が到来した。 《クロニック 世界全史》P975
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ジェ−ムス・ディ−ン没 =1955年、アメリカ= |
この日、『ジミ−』の愛称で親しまれた人気映画俳優ジェ−ムス・ディ−ンが、自動車事故で死亡した。カリフォルニア州パソ・ロ−ブルの路上で、愛車ポルシェ・スパイダ−を飛ばしている時に、横あいから現れた車に激突したのである。24歳の若さだった。母親を早く亡くして、孤独な少年時代を過ごしたディ−ンは、やがて俳優を目指し、数本の映画に端役で出演した。前年、エリア・カザン監督に見出されて『エデンの東』に主演。この年、この映画が公開されると、彼の演じた鮮烈な若者像は大評判になった。社会から疎外され、反逆する若者の姿に、若い観客が共感したのである。 死後公開された『理由なき反抗』『ジャイアンツ』を加えて、主演作品はわずかに3本だが、彼の演じた若者像は、この後も多くの若者の心を捉え続ける。 《クロニック 世界全史》P1045 フルシチョフ、中国訪問、1959年 |
1791年
モーツァルト作曲の最後のオペラ『魔笛』が初演 |