3月 |
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ポーランドの天文学者ニコラウス・コペルニクス(70)が、太陽中心説を述べた「天球の回転について」6巻をミュルンブルクで出版した。彼は地球が1日一回転すること、太陽が宇宙の中心であること、月が地球の周りを回ることなどを体系的に説明し、惑星の動きに関する疑問を解いた。 |
朝鮮三・一独立運動 =1919年、韓国= |
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日本が『韓国併合』を強行したのは1910年8月22日であった。 かつて16世紀の末、豊臣秀吉は朝鮮侵略に失敗し、大阪城で死んだ。 それから320年後、ついに日本は朝鮮を植民地にした。 苛烈な憲兵政治に朝鮮人民の怒りが爆発し、この日、三・一独立運動が広がった。 この日、ソウルでは朝早くから家々に独立宣言書が配られた。パゴタ公園には、集会とデモの連絡を受けた学生、一般市民がぞくぞくとつめかけた。5千名を越える参会者を前に学生代表が独立宣言書を朗読した。場内は静まりかえり、やがて鳴咽の声があちらこちらから挙がる。独立宣言書の結びの言葉はまことに感動的であった。 独立運動は全国的に、かつあらゆる階層の人々に広がっていった。 《世界史への旅》
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1562年 フランスのヴァシーで新教徒が大量虐殺される。ユグノー戦争の発端 |
中国残留孤児、初来日 =1981年、日本= |
日本の敗戦により中国大陸に取り残された中国残留孤児の第一陣が、肉親捜しのため厚生省の招きで初来日した。中国残留孤児の総数は、推定1万人で、今回来日したのは、このうち47人。孤児たちは成田空港到着後、直ちに宿泊所である代々木のオリンピック記念青少年センターへと向かい、4日からの事情聴取と7日からの対面調査に備えた。 孤児が写真などの物的証拠を持つ例は稀で、肉親捜しの手がかりは、多くの場合35年前のかすかな記憶と顔かたちのみ。結局16日の帰国までに肉親が判明したのは26人。 《クロニック 世界全史》P1102 ツタンカ−メンの墓の発見者カ−タ−没、1939年 |
1840年
水野忠邦の抜擢により勘定奉行・遠山左衛門尉影元(通称・金四郎)が北町奉行に着任 |
アレクサンドル二世、農奴解放宣言 =1861年、ロシア= |
この日、ロシア皇帝アレクサンドル二世が農奴解放の法案に署名した。ここに、ロシアの近代化をはばみ、農民の自由を奪ってきた農奴制に終止符が打たれた。クリミア戦争での敗北は、皇帝をはじめ支配層に大きな衝撃を与えた。黒海からの艦隊引き揚げという軍事的な挫折は、ロシアの後進性を自覚させる契機となる。支配層の一部には、農奴制の廃止をはじめ根本的な社会改革なしでは、後進性を克服できないという考えが広がった。保守主義者のアレクサンドル二世も同じ考えを抱き、抵抗する貴族を前に次の様な演説を行っている。 「朕が農民に自由を与えようとしているとの噂が流れている。これは正しくない。しかし、農民とその領主との間には、不幸にも敵対関係が存在しており、すでにこれが原因で領主に対する不服従の例がいくつか生じている。 朕は遅かれ早かれ、われわれがこのことに決着を着けねばならないと確信している。されば、下からよりも上からこれを行うほうがはるかによいのである」 。 こうして農奴解放令は約2,250万人の農奴を解放した。 ⇒2月19日§ 《クロニック 世界全史》P810 |
◇上巳[じょうし],桃の節句 ◇雛祭り |
1603年 日本橋が開通。主要街道の起点となり、以来日本の道路交通の中心に |
月4日
フランクリン・ルーズベルト大統領就任 =1933年、アメリカ= |
1933年3月といえば、アメリカの大恐慌が最も深刻なときであったが、その3月4日の就任式で、新大統領は有名な第一声をもって国民を励ました。 「・・・・我々が恐れねばならぬただ一つのことは、恐れるということ自体である」 。 そして、9日に招集され、6月14日まで開かれた特別国会は恐慌対策としていわゆるニュ−・ディ−ル政策と呼ばれる諸政策を次々と成立させていった。ニュ−・ディ−ル政策は三つのRから成っている。つまり救済[RELIEF]、復興[RECOVERY]、改革[REFORM]の頭文字のRである。特にこれら三つのRを総合した新しい国土開発の試みとして、大きな成功を示したのはテネシー川流域開発公社 [TVA]の設立であった。 《教養人の世界史》 |
1053年 藤原頼通による宇治・平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)が完成 |
月5日
スターリン死去 =1953年、モスクワ= |
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この日、午後9時50分、ソ連首相スターリンがモスクワで死去した。73歳だった。 貧しい靴職人の息子としてグルジアのゴリに生まれた彼は、若くして職業革命家となった。スターリンとは『鉄の人』を意味する彼のペンネームで、本名は、ヨシフ・ビサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリ。1922年に党書記長に就任、レーニンの死後は、党内のライバルをつぎつぎと弾圧・粛正して権力を集中強化し、スターリン体制といわれるほどの独裁政治を行ってきた。 翌6日、モスクワ放送はスターリンの死を国民に伝え、哀悼の意を表する。 酷寒の中、モスクワ労働組合会館の「円柱の間」に安置された遺体に別れを告げる人々が延々と列をなす。 また全世界の新聞が、スターリンの死を伝え、彼の人間像に紙面の多くを割いたのである。 《クロニック 世界全史》P1040
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☆啓蟄[けいちつ] ○スチュワーデスの日 |
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1770年
ボストン虐殺事件。重い税金に反対したボストン市民と英国軍が衝突。ボストン茶会事件のきっか1931年 日本航空輸送が3人のエア・ガールを採用。日本初のスチュワーデス |
月6日
日本航空の世界一周便離陸 =1967年、日本= |
1967年のこの日、国民の長年にわたる悲願であった日本航空の世界一周線西周りの第一便が、東京国際空港を飛び立った。これに先立ち空港内において、大橋武夫運輸大臣、小林武治郵政大臣らの列席のもとに就航式が行われた。この記念すべき大偉業をもたらした真の主役は、まさに日航の松尾静磨社長であった。松尾はこの場の華やかな光景とは対照的に、ただひとり、終始厳しい表情を崩さず、厳粛なるまなざしを一番機の姿が視界から消え去るまで大空に向けたままであった。 世界一周とは、東京→香港→バンコク→ニューデリー→テヘラン→カイロ→ローマ→パリ→ ロンドン→ニューヨーク→サンフランシスコ→ホノルル→東京と一周する航空路のことである。 これを西周りといい、この逆を東周りと呼ぶ。東京を加えた世界一周路を持つ航空会社は、当時、アメリカのパンアメリカン、イギリスのBOACの2社だけで、日航は第三の航空会社としての栄誉を担うことになったのである。それというのも、松尾の「安全第一」の精神が徹底しており、これまで無事故できたことが最大の理由となったことはいうまでもない。 《歴史に選ばれた366人》 ミケランジェロ生誕、1475年 |
○東京消防庁開庁記念日 |
1170年 保元の乱に敗れ伊豆大島に流罪になった源為朝が追討を受け自刃
(1177年とも) |
月7日
ドイツ軍のラインラント進駐 =1936年、ドイツ= |
ライン川左岸および右岸の一部のラインラントは、ドイツ軍国主義を警戒するためベルサイユ条約で武装禁止地帯とされており、これは1925年のロカルノ条約でも保証されていた。ところが1936年2月、仏ソ相互援助条約をフランス議会が批准すると、ヒットラーはこれに対する報復処置として3月7日軍をこのラインラントに進駐させるとともに、ロカルノ条約破棄を声明した。このラインラント非武装はフランスにとって対独安全保障上、最も重要なことである。 この時、フランスには対独開戦を賭しても制止すべしという世論もあった。しかし結局フランスは尻込みしてしまった。 後にヒットラーは語っている。「ラインラント進駐後の48時間は、私の生涯で最も神経を痛めた時だ。もし当時フランスが兵を進めておれば、我々はしっぽをまいて退却せざるを得なかったであろう」。機会はついに失われた。 《教養人の世界史》 |
連合軍、ライン河を越える =1945年、ドイツ= |
1805年のナポレオン以来140年、いかなる軍隊も渡り得なかったこの河を連合軍はついに越えた。 ドイツ軍は退却に際して、あらゆるライン河の橋梁を爆破し続けていたのだが、レマ−ゲン町のル−デンドルフ橋だけは、爆薬の不発があったのか、破壊に失敗したのである。 この町に肉薄していたアメリカ軍は、この一髪の好機を利用して1日に8千人の将兵を渡河させ、またたくうちに強力な橋頭堡を築き上げた。この機会を掴んで、アイゼンハワ−元帥はドイツに無条件降伏を呼び掛けた。 「これ以上の軍事的抵抗は全く無意味である。ドイツ国民の無益な流血、 ドイツ国土の不可避の荒廃、それを避けるために、良心を持つ指導者ならば、即刻降伏すべきではないか?」。 しかしこの好意的な勧告はナチス首脳部に完全に黙殺されたのである。 《帝国の死角》 |
1293年 鎌倉幕府が、蒙古再来に備え九州の裁判と軍事指揮を行う鎮西探題を博多に設置 |
月8日
忠犬ハチ公の死 =1935年、日本= |
1935年の今日、東京・渋谷駅前にある広場の片隅で、1匹の秋田犬が、老衰のために息をひきとった。その名を「ハチ」という。「ハチ」の飼い主は、東大教授で、農業工学の分野で功績のあった、上野英三郎博士であった。「ハチ」は、上野教授が大学を出て、帰宅のために渋谷駅に現れる夕方の6時頃になると、決まって渋谷駅の改札口まで出迎えていた。 だが、1925年5月22日、上野教授は教授会の席上、突然脳内出血を起こし、54歳でそのまま帰らぬ人となった。その後も「ハチ」は、これまで同様、夕方になると渋谷駅に現れ、上野博士の姿を求めて10年近くの間、ずっと待ち続けていたという。 この「ハチ」のことを全国的に有名にしたのは、総合通信社の細井吉蔵記者がこれを新聞の記事として報道したからであった。いまだ伝わる「ハチ」の話は、「ハチ」の生存中のことでもあったが、折しも軍国主義的風潮の盛んなときでもあり、このささやかな「ハチ」の行動が、いつしか「忠犬ハチ公」の美談へと、巧みにすり変わっていった。有名な彫刻家である安藤照は、生存中の「ハチ」をモデルに「忠犬ハチ公」の銅像を製作し、これを渋谷の駅頭に設置した。
「ハチ」の死後は、「忠犬ハチ公」として、修身の教科書にまで登場するようになったが、銅像のほうは、 弾丸用に回収されてしまった。 《歴史に選ばれた366人》 仏の作曲家ベルリオ−ズ没、1869年 |
○国際女性デー(International Women's Day) |
1669年 イタリア・シチリア島のエトナ火山が大噴火 |
月9日
ナポレオン、ジョセフィ−ヌと結婚 =1796年、フランス= |
バラスの愛人の中に「ロ−ズ」と呼ばれる女性がいた。1763年に生まれ、パリに出てきてボ−アルネ子爵夫人となった彼女はバラスの愛人の座を得た。
バラスは、厄介払いのつもりで彼女をボナパルトに引き合わせる。 1796年のこの日、二人の結婚契約書が作成されたが、出生証明書なしの結婚のため、年長のジョセフィ−ヌは4歳若く、逆にボナパルト将軍は2歳増して、共に28歳と記録に残っている。打算だけの結婚であった。 《ナポレオンの戦場》
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○記念切手記念日 ○関門国道トンネル開通記念日 □ローマの聖フランチェスカの祝日 |
1796年 ナポレオンがジョゼフィーヌと結婚。5年後オーストリア皇女との政略結婚の為に離婚 |
月10日
バイエルン王マクシミリアン死去 =1864年、ドイツ= |
久しく肝臓を煩い、このところの紛争に健康を害していたバイエルン王マクシミリアン二世はこの日死去した。新王は19歳、「国事は酷事」としている青年である。 《麗しの皇妃エリザベト》
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東京大空襲 =1945年、日本= |
昭和20年3月10日午前零時8分ごろから約2時間半の間に296機のB29が19万発、計1,783トンの焼夷弾を東京上空から投下した。 《「夏・再び」読売新聞平成6年8月14日》 判定は明らかであった。16平方マイルの東京の東部地域は煙と消えてしまった。 《原爆が落とされた日》 |
○東京大空襲記念日 *陸軍記念日 1906(明治39)年〜1945(昭和20)年 ※金子みすゞ忌 |
700年
法相宗の僧・道昭が火葬される。記録上日本初の火葬 |
月11日
ゴルバチョフ書記長就任 =1985年、ロシア= |
この日、ソ連共産党臨時中央委員会総会は、ミハイル・ゴルバチョフを書記長に選出した。 彼はチェルネンコ政権のNO.2でイデオロギー、党機構、経済、農業など重要ポストを担当してきた。 ソ連政府は、前日の午後7時20分、73歳の今スタンティン・チェルネンコ共産党書記長が死去したことを公式に発表。チェルネンコの後継者を決めるため、前夜10時半ごろ、党の最高指導者たちがクレムリンに緊急招集された。この政治局会議で、反ゴルバチョフ勢力の中心人物ロマノフ政治局員は、モスクワ市党第一書記グリシンを推薦。それに対しグロムイコ外相がゴルバチョフ推薦の口火を切った。両派の議論は朝まで続いた。 その後の臨時中央委員会総会には約200名が出席、グロムイコは、「この人物は素晴らしい笑顔と鉄の歯を持っている」とゴルバチョフを書記長に選出するよう演説、大勢は決した。 この指導部最年少の書記長は、以後ペレストロイカを進めてゆく。 《クロニック 世界全史》P1112 ボッティチェリ生誕、1444年 |
○パンダ発見の日 |
1160年 平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆に流される |
月12日
ドイツ軍ウィーン占領 =1938年、オーストリア= |
この日、ドイツ軍は早朝5時半に続々と国境を越えた。静かな暗闇の中を規則正しい靴音が響き始め、それがいつまでも続いた。ヒットラーが意気揚々と、生まれ故郷、オーストリアのブラウナウに入ったのは、午後3時半、それから小・中学校時代を過ごしたリンツに向かった。 モーツァルトの交響楽でも知られるこの街の市役所前の広場でヒットラーは初めてオーストリアの運命を告げる演説を行った。 「かつて、この街から出て行ったとき、私は今私の心を満たしているのと全く同じ信念を胸に抱いていました。長い歳月の後、その信念を実現することができた今、その感動がいかばかり深いものか、察していただきたい。摂理がドイツの指導者になるよう、この街から呼び出したとすれば、私に一つの使命を授けたと言わねばなりません。その使命とは、私の愛する故郷の地をドイツに復帰させること以外にあるはずがないのであります」。 第二次世界大戦は実際の開戦より早いこの日のヒットラーによるオーストリア併合の成功から始まったと、多くの歴史家が指摘している。 《エリザベ−ト》 |
ウィ−ンの大空襲 =1945年、オーストリア= |
ナポリの空軍基地から連日のように飛び立ってくる米英連合軍は1945年のこの日、ウィーンのもっとも美しい中心地帯に爆弾の雨を降らせた。 ブルク劇場、マリア・テレジアの銅像の横にある国立美術史博物館、聖シュテファン大寺院、国立オペラ劇場などが一斉に破壊された。特に音楽の都の象徴でもある国立オペラ劇場の爆撃は市民に大きな衝撃を与えた。 連合軍の飛行機が飛び去った後も数日間、昼となく夜となく燃え続ける国立オペラ劇場を、市民は呆然と肩を落として眺めていた。この時、140のオペラのセットと、16万着の衣装、多数の歴史的に貴重な楽器や楽譜が灰塵に帰した。 《エリザベ−ト》 |
トル−マン・ドクトリン発表 =1947年、アメリカ= |
1947年3月12日、トル−マン米大統領は、上下両議院合同会議で自由諸国を支援するトル−マン・ドクトリンを内外に発表した。 「アメリカはヨーロッパの現状が崩れて、共産主義に有利な変化が発生することを許さない。武装した少数者や外部からの征服に抵抗しつつある自由な諸国民を援助することこそ、アメリカ合衆国の政策でなければならない。国家の生存が脅かされているギリシャとトルコをアメリカの保護の下において、ギリシャには3億ドル、トルコに1億ドルの援助を与える」。 こうして米国は伝統的な孤立主義を捨て、平時においても他国に軍事援助を与える介入主義へと歴史的な方向転換をすることになった。 《エリザベ−ト》 |
○サンデーホリデーの日,半ドンの日 □聖グレゴリウスの祝日 |
1876年 官公庁が土曜半休・日曜休日制を実施 |
月13日
ロシア皇帝アレクサンドル二世死去 =1881年、ペテルブルク= |
この日、ロシア皇帝アレクサンドル二世は、1855年帝位について以来5回目の襲撃に会い、ついに命を落とした。爆弾が破裂したのだった。1年前に皇后を亡くし、ドルゴルキ王女と結婚したばかりだった。 《私の歴史メモ》 |
○青函トンネル開業記念日 |
1781年 イギリスの宮廷音楽家・ハーシェルが天王星を発見 |
月14日
カ−ル・マルクス没 =1883年、ドイツ= |
ワ−グナ−の死から、ちょうど1ヶ月経った3月14日、カール・マルクスが死んだ。 その時エンゲルスは涙ながらにこう述べた。「マルクスは人間の歴史の発展法則を発見したことでダーウインに比すべきものであり、ブルジョワ社会の運動法則を発見したことで経済学に革命をもたらした。彼ほど政府や保守的なブルジョワに憎まれ迫害された人もいないが、又彼ほど多くの革命的な戦友に尊敬され、愛された人もいなかった。彼の名は、幾世を通じて行き続けるでありましょう」。 同じドイツ人として生まれ、同じ時代に活躍し、音楽と思想の上で同じような大革命を行ったこの二人の偉人は、奇しくもこうして、同じ年に、この地上に別れを告げたのであった。 ⇒5月22日§ 《私の歴史メモ》
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○ホワイトデー |
800年 富士山が大噴火。1か月近く続く |
月15日
ロマノフ朝の終嫣 =1917年、ロシア= |
日露戦争での予想外の大敗、血の日曜日事件をきっかけとする労働運動や反体制運動の激化、それに対応するための皇帝による『10月17日宣言』の公布と立法議会の招集・・・・。ロマノフ王朝専制政治のタガの緩は、もはや誰の目にも明らかであった。 1917年3月8日の国際婦人デ−を契機に労働者のストライキが始まり、各都市に広がった。 そしてついに3月15日、ペトログラ−ドの労働者・兵士代表によるソビエト臨時政府が誕生し皇帝は退位を余儀なくされる。結局ロマノフ朝はここで300年の歴史を閉じ滅亡する。このとき、大本営の軍首脳が誰一人としてニコライを擁護しなかったのは象徴的である。陣頭に立ってはいたが、ニコライはそれほど、権威も人望も失っていたのである。 政変はさらに続き1917年11月7日、レ−ニンとトロツキ−指揮下のロシアのプロレタリア−トは、ペトログラ−ドで武装蜂起し、史上最初の労働者と農民のソビエト政府を成立させる。ニコライ一家が処刑されるわずか半年前のことである。 ⇒7月17日 《ニコライ二世の日記》 |
□涅槃会 |
紀元前44年 ローマの独裁官ユリウス・カエサルが暗殺される |
月16日
チェコスロバキア共和国の消滅 =1939年、チェコ= |
この日、午前6時を期して、ドイツ軍は首都プラハに向け進軍を開始した。 何も知らないプラハ市民は朝起きてみたら、市がもはやドイツ軍に占領されていることを知った。 プラハ生まれの作家フランツ・カフカが『変身』という作品の冒頭に、「ある朝、気掛かりな夢から目覚めると、巨大な毒虫に変身しているのに気が付いた」と書いていたように、プラハは一夜にして変身していたのである。 ボヘミヤ、モラヴィア地方を制圧したヒットラーはこの日の夕方にはプラハに入城し、美しいフラチャ−ニ城から、中世以来の古都であるプラハを一望の下に見下ろしていた。 「チェコも我々も、西欧諸国への不信感は、もはやどんなことがあっても埋めようがないだろう。特にチェコはこういう不測の事態のために、フランスと条約を結んであったのに、条約義務を無視され、屈服を強いられた。何のための条約だったのか。英国はチェコスロバキアを終始一貫裏切って滅亡させる主役となった。こんなひどい例はこれまでにない。チェコ国民はこれから、ソ連をたよりにするようになるだろう。同じスラブ民族でもあるのだから」 。 50年後の1990年、英国のサッチャ−首相、フランスのミッテラン大統領は、プラハを訪れた時、ハベル・チェコ大統領にこのときの裏切り外交を公式に謝罪した。 《エリザベ−ト》 ノーベル化学賞授賞、キュ−リ−夫人没、1956年 |
○国立公園指定記念日 |
1600年 ウイリアム・アダムス(後の三浦按針)、ヤン・ヨーステンらが乗っていたオランダ船が豊後に漂着 |
月17日
在留邦人215名のイラン脱出 =1861年、イラン= |
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なかなか終わらないイラン・イラク戦争(1980-1988)に対し、日本では両国の名前をもじって「イライラ戦争」と呼ばれた。両国の都市爆撃の応酬が続く最中の1985年3月17日のことである。イラクのサダム・フセインが、「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。 日本航空の経営陣は救援機を飛ばす覚悟を固めていたとされ、この時操縦に名乗り出た乗員の1人が、5ヵ月後に日航ジャンボ機墜落事故で殉職した海上自衛隊出身の高濱雅巳機長だった。しかし日本航空チャーター機の派遣も反会社側労働組合の反対と、前記期日までの脱出が困難であることを理由に実現しなかった。 世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であった。 《小さな歴史の物語》 |
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イタリア王国成立 =1861年、イタリア= |
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この日、サルデ−ニャ王ヴットリオ・エマヌエ−レ二世が、首都トリノでイタリア国王に即位した。ここに、北はアルプスから南はシチリアまで、イタリア半島を貫く地域が統一された。統一は、北部のサルデ−ニャ王国による中南部の併合の形をとった。統一の実質的指導者のカミルロ・カヴ−ル首相は、1858年のナポレオン三世との密約により、フランスを対オーストリア戦争に引き込み、59年にロンバルディアを獲得、60年に中部諸地域にも併合を働きかけて成功し、さらにジョゼッペ・ガリバルディの遠征によって南イタリアをも新王国に組み入れた。しかし、フランスが軍隊を残したローマと、オーストリアの支配下にあるヴェネツィアはこれに含まれなかった。 《クロニック 世界全史》P810
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■アメリカの休日 □彼岸の入り <春分の3日前> □聖パトリックの祝日,緑の日 |
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1830年
ショパンがワルシャワで独奏会を開きピアニストとしてデビュー |
月18日
フラ・アンジェリコ、ローマに死す =1455年、イタリア= |
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この日、フラ・アンジェリコ、本名グイド・ディ・ピエトロがローマで亡くなった。その庇護者、教皇ニコラウス五世に先立つこと、わずか数週間であった。 アンジェリコは遅くとも1418年までに画家としてフィレンツェで活動を始め、その直後ドミニコ会修道士となった。 38年、彼はコジモ・デ・メディチによって、フィレンツェ、サン・マルコ修道院の43の僧坊にフレスコ画を描くことを依頼された。彼は7年間の歳月をかけ、サン・マルコ修道院に、今も残る一連のフレスコ画を完成させたのである。 彼は、マサッチョなどのルネサンス的自然主義の影響を受け、新しい遠近法・透視図法などを取り入れていた。現在マドリードのプラド美術館にある『受胎告知』は余りにも有名である。 《クロニック 世界全史》P371
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1871年
パリの民衆がティエール臨時政府に対し武器をとり蜂起。28日に革命政府「パリ・コミューン」樹立 |
月19日
初の両ドイツ首脳会議 =1970年、ドイツ= |
この日、西ドイツのヴィリ−・ブラント首相が、東ドイツのエルフルトに到着、ヴィリ−・シュトフ東ドイツ首相の出迎えと、「ヴィリ−、ヴィリ−」と連呼する市民の大歓迎を受けた。そして両者は、東西ドイツ首脳による初の歴史的会談に望んだ。 第二次大戦後、ドイツ分断によって成立した両国は、ともに東西陣営の優等生として、これまで反目し続けてきた。しかし、前年10月の社会民主党と自由民主党によるブラント連立政権の成立以来、西ドイツでは、東側との平和共存・緊張緩和政策の模索が始まっていた。 こうして、ブラントとヴァルタ−・シェ−ル外相は『東方政策』を展開、この後、5月の西ドイツのカッセルでの第二回東西首脳会議に続いて、8月のソ連、12月のポ−ランドとの関係正常化のための条約締結へと進む。この試みは1990年のドイツ再統一への第一歩となる。 《クロニック世界全史》P1079 |
○アカデミー賞設立記念日 ○カメラ発明記念日 □聖ヨセフの祝日 |
667年 中大兄皇子(後の天智天皇)が近江・大津京に遷都 |
エルバ島を脱出したナポレオン、パリへ入城 =1815年、フランス= |
この日、エルバ島を脱出したナポレオンがパリへ戻ってきた。 =3月20日、ある14才の学生の日記= 「教室からはバンドーム広場がよく見えた。学生は勉強が身に入らず、窓の外ばかり気にしていた。いまかいまかと皇帝の到着を心待っていたのだ。突然、私は我知らず叫び声を上げた。記念碑から、ブルボンの白旗が降ろされ、代わって三色旗が掲げられたのだ。同時に遠方から軍楽の音が聞こえた。全校の学生が机の上に踊り上がり、ドアに突進し、街頭に飛び出し、熱狂する群集と抱擁した。興奮がパリ全市を支配した」。 ⇒6月9日 《私の歴史メモ》 ブル−トゥスに暗殺されたシ−ザ−の葬儀、BC44年 |
☆春分[しゅんぶん](Vernal equinox) ◎春分の日(Vernal Equinox) □彼岸の中日 <春分日> ○上野動物園開園記念日 ○東京国立博物館開館記念日 □棕梠[しゅろ]の主日(枝の主日,受難の主日)(Palm
Sunday) |
1602年 オランダ、世界初の株式会社「オランダ東インド会社」を設立。 |
月21日
コペルニクス、地動説発表 =1543年、ドイツ= |
ポーランドの天文学者ニコラウス・コペルニクス(70)が、太陽中心説を述べた『天球の回転について』六巻をニュルンベルクで出版した。本書が彼のもとに届けられたとき、彼は臨終の床にあり、5月24日に没した。彼は、地球が1日1回自転すること、太陽が宇宙の中心であること、月が地球の周りを回ることなどを体系的に説明し、惑星の動きに関する疑問を解いた。 慎重な性格だった彼は、自説を述べた『要綱』を知人の間でのみ流布させていたが、次第に一般にも知られるようになり、カトリック教会はもとよりルターやカルヴァンからも痛烈な批判を受け、完全に否定された。ところが、研究の詳細を知ったヴィッテンベルク大学教授レティクスが、1539年にコペルニクスのもとを訪れ出版を勧め、ようやく世に出ることになった。 彼の説が認められるには、この後100年の歳月を要するが、本書は中世的宇宙観に大変革をもたらし、やがてケプラーやニュートンの近代的宇宙観を導くことになる。 《クロニック 世界全史》P435 バッハ生誕、1685年 |
※和泉式部忌 |
1612年
江戸幕府が幕府直轄領にキリシタン禁教令を発令。翌年全国に拡大 |
月22日
ゲ−テ没 =1832年、ドイツ= |
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この日、午前11時半、ゲーテは、「もっと光を」という最後の言葉を残して、83才の生涯をワイマールで閉じた。 ゲ−テは秘書エッカ−マンに、晩年のある日こう語った。 「私はこういう時代に生まれて非常な得をした。大きな世界的事件が相次いで起こり、私の長い生涯を通じて続いた。それゆえ私は、七年戦争の、イギリスからのアメリカ独立の、さらにフランス革命の、そして最後にナポレオンの没落とそれに続く諸事件に至るまでの全ナポレオン時代の、生きた証人となった。これによって私は、これから生まれてああいう事件を分かりにくい書物によって知らねばならぬ人々とは全く違った結果と見識を得たのである」。 エッカ−マン『ゲーテとの対話』より ⇒8月28日§ 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》
マクシミリアン一世生誕、1459年 |
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東京放送局(現在のNHK)が日本初のラジオ仮放送を開始 |
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○放送記念日 関聯サイト 日本放送協会(NHK) http://www.nhk.or.jp □聖火曜日(教えと論争の日) <イースター(今年は3月27日)の5日前> |
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1485年
薔薇戦争最後の決戦・ボズワースの戦い。ランカスター派が勝利しヘンリー7世がチューダー朝を開く |
月23日
第三帝国の成立 =1933年、ドイツ= |
諸党派が分立しているワイマール共和国の政局は、老大統領ヒンデンブルクと、側近の政治家や軍人によって動かされ、議会制は無視されるに至った。 この年、1月30日大統領はヒットラーを首相に任じた。ヒットラーは共産党その他民主勢力の大弾圧を開始し、ついに3月23日、ナチス独裁を認める『全権委任法』が国会を通過した。 ここに中世の神聖ローマ帝国、1871年成立のドイツ帝国に対していわゆる第三帝国が生まれた。ワイマール憲法は空文と化して、33年7月、ナチス以外の全政党は禁止され、 《教養人の世界史》 スタンダール没、1842年 |
1238年 僧・浄光が鎌倉高徳寺の大仏(鎌倉大仏)の建立を開始 |
月24日
エリザベス女王が死去 =1603年、イギリス= |
生涯独身を通した女王エリザベス一世が、この日リッチモンド宮で没し、チュ−ダ−朝は断絶した。彼女は、即位前後から幾多の結婚の機会を拒み独身を通したため、すでに治世の前半から王位継承が問題とされていた。 イギリス王位継承権を持つ元スコットランド女王メアリ・スチュア−トは、エリザベスによって処刑されたが、メアリの遺児で新教徒のスコットランド王ジェ−ムス六世はイギリスの王位継承者として国民からも期待されていた。エリザベスも晩年にはひそかに彼を王位継承者と考え、重臣たちも彼とこの問題について協議していた。 スコットランド王ジェ−ムス六世がイングランド王ジェ−ムス一世として即位することにより、スチュア−ト朝の同君連合が始まる。両国は別個の教会や政治体制を維持するが、約100年後の1707年に合同し、グレ−トブリテン王国が成立する。 《クロニック 世界全史》 桜田門外の変、1860年 |
○壇ノ浦の戦いの日 □聖木曜日(洗足木曜目,愛の戒めの木曜日)(Maunday
Thursday) |
1185年 壇ノ浦の合戦。平家一門が滅亡 |
月25日
EEC(ヨーロッパ経済共同体)条約調印 =1957年、ローマ= |
フランスの経済専門家ジャン・モネの考案によるEECの目的は、まず米ソの二大経済圏に挟まれたヨーロッパを世界の第三の勢力にしようとするところにあった。1957年のこの日、ローマ市役所の広間で、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ルクセンブルク、ベルギ−の6ヶ国代表が欧州経済共同体及び欧州原子力共同体設立の条約(ローマ条約)に調印した。両組織は 翌年1月1日に発足する。すでにこの頃、このEECという経済統合をさらに進めて、政治統合までもってゆこうという動きも見えている。 このヨーロッパ統合の動きはすでに1920年代から存在し、たとえはオーストリアのク−デンホ−フ・カレルギ−伯爵はヨーロッパ合衆国の結成を主張、またフランス外相ブリアンは国際連盟を舞台にヨーロッパの統一・連合を提案し、第二次世界大戦ではチャーチルなどによるヨーロッパ合衆国運動があったが、いまや、それが新しく展開したものともいえよう。 《教養人の世界史》 ドビッシ−没、1918年 |
□春の社日[しゃにち],春社 □聖母マリアの受胎告知の祝日(Lady
day) □聖金曜日(受難日,受苦日)(Good
Friday) ■アメリカの休日 |
1878年 工部大学校で日本初の電燈が燈る |
月26日
ベ−ト−ベン没。五十六才 =1827年、ドイツ= |
1827年3月26日、「喝采せよ、友よ、喜劇は終わった」と言い残して、ベートーベンはこの世を去った。一旦、ヴェーリング墓地に埋められた彼の遺骸は後に、1888年になってウィーン中央墓地に葬られた。 もちろんナポレオンという一人の英雄の出現が時代の要請であったように、19世紀初頭の音楽界もまた、18世紀の貴族中心型から市民中心型へ移行しようという変革の時代であった。 音楽を支えるのは、王候貴族といった狭い社会だけではなくなったのである。ある特定の機会、目的、催しのための音楽だけを書く必然性は急速に少なくなっていた。18世紀の音楽愛好者にして芸術の保護者であった王候貴族の没落は、もはやすぐれた作曲家を雇い、彼等に命じて用途に応じた作品を作曲させるだけの財力と権力を失いかけていた。 こうした時代背景から見ると、ベートーベンの出現は、どこかナポレオンのそれに似ていなくない。しかしナポレオンは必ずしもボナパルトである必要はなかったが、ベートーベンはルードヴィッヒでなければならなかった。政治上の英雄は、時を隔てて見れば、時代を回転させた一つの歯車として観察し得るものであるが、芸術上の英雄は時代を超越して生きるその作品と共に、永遠の光彩を放っているのである。 1845年、ボン市、ミュンスター寺院前広場で、ベートーベン像の除幕式が行われた。 《私の歴史メモ》
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※楽聖忌 □聖土曜日(暗黒の土曜日)(Easter Eve) |
1453年
トルコ軍がコンスタンチノープルに向かって出陣。2か月後にビザンチン帝国が滅亡 |
月27日
吉田松陰、下田より密航未遂 =1854年、日本= |
1854年の今日、闇夜に乗じて、折から下田沖に停泊中のペリ−提督の率いる米国軍艦に、一艘の小舟が接近していった。その小舟には、瓜中万二、市木公太と名乗る2名の若者が乗っており、応対に現れた米国士官に密航を懇願したが拒絶された。 この両名とも偽名で本名は長州藩の吉田松陰と金子重輔であった。 1853年6月にアメリカのペリーが黒船四隻を率いて浦賀に来航して以来、翌月にはロシアのプ−チャ−チンが同様に長崎に来航するなど、日本をめぐる国際情勢はにわかに緊迫の度を深めていった。 松陰は「百聞は一見に如かず」と、先進国の実態を一目見るためには法を犯しても、生命に代えても断固として行かねばならぬと決意していた。 だがその結果、松陰は長州藩に蟄居させられた。蟄居の身でありながら松陰は自らの家に私塾を開き、有志を多数集めて、世界の情勢や日本の対応について松陰の見解を述べ、塾生たちを啓蒙した。世に言う松下村塾である。その塾生の中には、高杉晋作、山縣有明、伊藤博文など、幕末から維新にかけて、日本の近代化に貢献した俊英が多数輩出していった。 《歴史に選ばれた366人》 日本、満州問題で国際連盟を脱退、1933年 |
□イースター(復活祭,復活の主日)(Easter) ■アメリカの休日 |
1689年
松尾芭蕉が弟子の曾良とともに、深川六間堀の芭蕉庵を出て『奥の細道』の旅に出発 |
月28日
パリ・コンミュ−ン宣言 =1871年、パリ= |
普仏戦争の敗北による屈辱的な講和とドイツ軍の入城は、パリの民衆を傷付けた。 彼等は戸口を閉ざしドイツ軍をにらみ据えていた。この沈黙の抵抗に出会ったドイツ軍は早々にパリを引き上げた。 3月18日、ティエ−ル政府は、パリ国民軍の武装解除を強行せんとした。乏しい資金を出し合って作った大砲が差し押さえられようとしたとき、民衆の怒りは絶頂に達した。 フランス史上最大といわれる反乱が開始される。政府がベルサイユに逃げ去ったあと、国民軍がパリの主権者となる。翌日国民軍中央委員会はコンミュ−ンの選挙を行うことを宣言した。 28日、市役所前広場を埋めた20万の民衆からラ・マルセイエ−ズの歌声が湧き起こり、赤旗のひらめく中でコミュ−ンの成立が宣言された。それは世界史上初めての労働者による政権であった。しかしコミューン政府もやがて短い命を閉じねばならない時が来る。 《教養人の世界史》 |
○シルクロードの日 ○スリーマイル島記念日 ※鑑三忌 |
804年 最澄と空海が遣唐使として入唐 |
月29日
アレクサンドル三世、シベリア鉄道建設を発布 =1891年、ロシア= |
1850年代からすでに、ロシア領内を横断し東アジアへと延びる鉄道の敷設が待たれていた。このころはアメリカ横断鉄道が開通(1869年)されるなど長距離鉄道の建設時代であった。 こうした中、シベリア鉄道の建設は、飢饉救済のための社会事業として、またロシアの東方政策進展のため具体化され、1891年のこの日閣議決定した。 起工式は5月31日、ウラジオストクで行われ、建設は極東側のウラジオストクから西に、西側のチェリャビンスクから東に向かって、両方向から工事が開始されるが、シベリアの厳しい冬が工事の妨げとなり、容易に進まない。 1897年、ようやく西側のチェイラビンスク−イルク−ツク間と、東側のウラジオストク−ハバロフスク間が完成する。 《クロニック 世界全史》 |
○マリモの日 |
730年 奈良・薬師寺の三重塔(東塔)が建立 |
月30日
クリミア戦争終結、パリ講和条約締結 =1856年、パリ= |
イギリス、フランス、サルデ−ニャ、オスマン帝国の4ヶ国連合とロシアとの間で戦われたクリミア戦争を終結させる講和条約が、この日パリで締結された。 前年9月、ロシアのセヴァストポリ要塞の陥落がこの戦争を決着させただけに、戦争終結の必須条件は、黒海の非武装化であった。 ロシアはセヴァストポリを含む4つの海軍基地の破壊と、黒海からの艦隊の撤収に同意した。 ロシアの南下政策は頓挫し、ナポレオン戦争以来の国際的威信も失墜した。また、国内政治にも重要な意味を持つ。戦争末期に帝位に就いたアレクサンドル二世にとっても大きな衝撃となり、ロシアの後進性が一気に内外に暴露される。そのため、農奴解放をはじめとする、上からの改革を推進する契機となる。 《クロニック 世界全史》P800 |
シチリア晩鐘事件 =1282年、シチリア= |
1282年、マフィアの名前の由来となったとされる「シチリアの晩鐘事件」が起こった。 この叛乱は全島に拡大し、フランス人は見つかり次第に殺され、その数は4000人以上に及んた。この叛乱の合言葉「Morte alla Francia Italia anela(全てのフランス人に死を、これはイタリアの叫び)」の各単語の頭文字を並べると「マフィア(mafia)」となり、これがマフィアの名前の由来となった。 シャルル・ダンジューのアンジュー王家はシチリアから追放され、代ってシチリアの支配者となったアラゴン王家との間に20年に及ぶ戦争が起こった。 ゴヤ生誕、1746年 |
○国立競技場落成記念日 |
1282年 シチリアの晩鐘事件 |
月31日
フランス革命百年を記念してエッフェル塔完成 =1889年、パリ= |
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午後1時30分、ギュスタヴ・エッフェル(57)は、首相をはじめ各界の来賓約60名を従え300メ−トルの塔頂を目指して登り始めた。エレベーターが未完成のためである。 半数が途中で脱落し、展望台にたどりついたのは35名だった。 エッフェル塔は2ヶ月後に開催されるパリ万国博のシンボルとして計画された。 建設が始まると、デュマやモ−パッサン等の芸術家は「フランスのよき趣味、フランスの歴史に対する脅威である」とこぞって大反対したが、多くのフランス人は塔の高さに賛嘆の声をあげた。 パリ万国博は革命百周年を祝い、普仏戦争の敗北から復活したフランスの国力を誇示して、3千万人を超える観客を動員するが、エッフェル塔がもっとも人気を集めた。 《クロニック 世界全史》P877
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新日本製鉄の合併 =1970年、日本= |
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戦後50年のちょうど折り返し点に当たる昭和45年3月31日。大阪万国博覧会が華やかに開幕した直後のお祭りムードを吹き飛ばす衝撃が日本列島を貫いた。日本航空の『よど号』ハイジャックである。
国民の目が、テレビにくぎ付けになったその朝、日本経済にとってはそれ以上に大きなできごとが歴史に記された。八幡製鉄と富士製鉄の合併による『世界最大の製鉄メーカー』新日本製鉄の誕生だ。廃墟の中から再出発した鉄鋼業界が、わずか25年で世界の頂点を極め、産業界にとって記念すべき日となった。 日本が焦土と化し、財閥解体の追い打ちをかけられた産業界が虚脱状態に陥っていたあのころ、このような日が来ることを予期した人はいなかっただろう。 《『日本を変えた日』読売新聞平成6年8月8日》フランソワ一世没、1547年 |
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○教育基本法・学校教育法公布の日 ○エッフェル塔の日 |
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1617年
江戸幕府が江戸に吉原遊廓の開設を許可 |