7月 |
![]() |
バスティーユ牢獄を攻撃するパリの民衆。騒乱はただちにフランス全土に波及。 |
王貞治、一本足打法をスタ−ト =1962年、日本= |
「打席に立つ自信がなくなった。やめたい」。昭和37年6月30日夜、プロ野球、巨人の王貞治は暗たんたる気持ちで、日課だった打撃コーチの荒川博宅に向かっていた。 「一本足で打ってみないか」。師匠と仰ぐ荒川の言葉の重さよりも、もはや破れかぶれの気持ちが強かった。「どうにでもなれ」との思いで取り組んだ練習はこの夜と次の日の試合前だけ。翌7月1日、通算868本塁打のうち822本を生み出した『一本足打法』が誕生した。もちろん一本足の完成は、その後のたゆまぬ努力が編み上げたたくいまれな技術があってのものだが、この日の一発こそ、世界の王へ羽ばたく運命を切り開いたものだった。 その後、王貞治は1977年9月3日に通算756号の本塁打でハンク・ア−ロンの大リーグ記録を超え、9月5日、初の国民栄誉賞に輝く。さらに1980年10月12日、対ヤクルト戦で公式戦最後の本塁打、通算868号を記録した。 《読売新聞『日本の軌跡』平成6年9月7日》 |
○更生保護制度施行記念日 ○東海道本線全通記念日 ◇山開き |
BC777年 オリンピアード(古代オリンピック)第1回大会開催 |
月2日
ツェッペリン号、空を飛ぶ =1900年、ドイツ= |
この日、風光明媚な南ドイツのボ−デン湖上空に、全長128メートルの巨大な葉巻形をした硬式飛行船、ツェッペリン号が静かに浮上した。 このツェッペリン号は、飛行船の軍事利用を唱え、世間から嘲笑され続けてきた、退役陸軍将校フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵の設計によるもの。金属性の骨組みに布を張り、内部にアルミニウム製の浮上用水素ガスタンクを装備した世界初の硬式飛行船である。16馬力のダイムラ−社製エンジン2基を搭載し、予定最高時速は32キロだった。 物見高い見物人が注視するなか、飛行船は高度4百メ−トルまで上昇し、17分ほど飛行を続けた。だがその直後、昇降舵の故障で船体は二つに折れ、湖に墜落してしまった。4人の乗員は無事救出された。 《クロニック 世界全史》P904金閣寺、焼失、1950年 |
○ユネスコ加盟記念日 □聖母マリアのエリザベトご訪問の祝日 |
798年 坂上田村麻呂が平安京に清水寺を建立 |
月3日
ゲディスバ−グの戦い =1863年、アメリカ= |
ペンシルヴェニア州南部の交通の要衝ゲディスバ−グでの戦闘は、3日間続いて、ロバ−ト・リ−将軍が率いる南部連合軍が撤退を余儀なくされた。 この日の午後、両軍の一斉砲撃に続いて、ジョ−ジ・ピケット将軍が指揮する1万5千人の南軍は、銃剣を携え隊列を組んで突撃した。しかし、北軍の砲撃に見舞われ、将校、兵士ともほとんどが死傷するという悲劇を招いた。 前月初めから、連邦の首都ワシントンを目指して北進していたリ−将軍は 6月28日、ゲディスバ−グにヴァ−ジニア軍団を集めた。一方、エイブラハム・リンカ−ン大統領は、ジョ−ジ・ミ−ド将軍を派遣していた。こうして、両軍はゲディスバ−グの町の下手にあるセミタリ−・リッジの高台で激突したのである。この『ピケットの突撃』と呼ばれる高地への攻撃を決行させたリ−将軍は、戦略の誤りを認め、翌日豪雨のなかを退却することとなる。この南部の命運を懸けて展開された名将リ−将軍の作戦も、近代兵器に優る北軍の前には功を奏することはなかった。 この年11月19日、このゲディスバ−グの戦いの跡地を国立戦没者墓地とし、戦死者の霊を弔う式典が、リンカーン大統領を招いて行われることとなる。「人民の、人民による、人民のための政治」の言葉で結ばれるあの崇高な演説は、この時のもの。その長さわずか3分間、10の単語で構成される不滅の演説となった。 ⇒4月9日 《クロニック 世界全史》P815 |
○通天閣の日 ▽独立記念日 (ベラルーシ) |
607年 第2回遣隋使が出発。小野妹子が、隋の皇帝に宛てた「日出づる處の天子、日没する處の天子に致す。恙なきや」の国書を持参 |
アメリカ合衆国独立 =1776年、アメリカ= |
前年の6月、大陸会議はワシントンを植民地統一軍総指令官に任命していた。 この日、大陸会議は独立宣言を公布し、背水の陣をしいた。この決意が最後の勝利につながった。 だが、独立宣言は、多くの黒人奴隷が戦列に参加したにもかかわらず『奴隷貿易の禁止』という草案の一項は、完全に抹消されたものだった。生命・自由・幸福の追求という天賦の人権を明記しながら、インディアンの権利については何一つ考慮されなかったのである。 8年間の独立戦争は苦しい戦いであった。『自由か死を』の言葉どおり、多くの生命がアメリカの山野に散った。フランス、スペインがイギリスに参戦し、ヨーロッパ大陸の義勇兵が植民地軍を助けた。1783年、敗北したイギリスは、植民地の独立を承認した。だが、いかなる独立国家になるかが問題であった。立法・行政・司法の三権分立を原理とした憲法が制定されて、『アメリカ合衆国』という、白人の大統領制国家が成立するには、あと4年の歳月を待たなければならなかった。 ⇒11月19日§ 《世界史への旅》
右端フランクリン、その左ジェファーソン、左端アダムス(第2代大統領) |
▽独立記念日(Independence Day) (アメリカ合衆国)
■アメリカの休日 |
1776年 アメリカ東部13州の代表がアメリカ独立宣言に署名 |
月5日
パック・ツアーの始まり =1841年、イギリス= |
この日、バプティスト教会の伝道師トマス・クックは、イングランド中部のレスタ−で開催された禁酒大会のために、レスタ−〜ラフバラ間の公募団体列車を運行させた。 この成功に気を良くしたクックは、この後、一般の団体旅行も取り扱う旅行業を開業する。鉄道は敷設されてまだ10年ばかりで、列車を利用しての旅行は高嶺の花であったが、このシステムはやがてイギリス全土に普及してゆく。 また73年には『クックの大陸時刻表』を発表し、イギリスのみならずヨーロッパ中で重宝がられることとなる。こうして、団体のパック旅行をはじめとして、ホテル・乗り物の予約請負など、後の旅行業務の多くがクックにより開発されていく。 《クロニック 世界全史》P764 |
○ビキニスタイルの日 |
1590年
北條氏直が小田原城を開城して豊臣秀吉に降伏。秀吉の天下統一が完成 |
フス、火刑に =1415年、ドイツ= |
「おお、神のみぞ知る」と、フスは火あぶりにされながら叫んだという。コンスタンツ公会議で 異端宣告を受けたボヘミアの説教師ヤン・フスが、この日、自説をまげないまま処刑された。 彼は使徒たちの清貧を説き、教会の財政、聖職の売買、免罪符売買を否定した。教会は、まずフスの説教を禁止し、ローマへ召喚したが、彼は応じなかった。彼は1410年に破門されたが、ボヘミア王ヴァ−ツラフ四世は彼を保護した。最初の審問は1414年の11月28日に始まり、フスは異端の宣告を受け、ついにこの日処刑されたのである。 《クロニック 世界全史》P356
|
○公認会計士の日 ○ゼロ戦の日 |
1415年
教会の堕落を攻撃したチェコの宗教改革者・ヘスが宗教裁判で異端とされ火刑に |
月7日
アントン・カラス誕生 =1906年、オーストリア= |
ハンガリーの血を引くアントン・カラスは1906年7月7日オーストリアのウィーンで生まれた。ハプスブルク王朝が一歩一歩崩壊への道を辿っていた頃である。1914年6月28日、ボスニアの首都サラエボでのオーストリア皇太子夫妻暗殺に端を発した第一次世界大戦でオーストリア軍は負けた。かつて神聖ローマ帝国より続いた欧州第一の名門オーストリアは三流国に転落した。 カラスはその時14才。そんな状況の中で彼はチター弾きのアルバイトを始める。当時、ウィーンには約100軒のホイリゲがあった。農家風の構えの入口にモミの木が吊るされ、店の入口に皇帝フランツヨーゼフ二世がサインした円形の木看板が掲げられてある。 カラスは自宅から近いシーベリングとグリンツィングの演奏場所を見つけた。生活手段としてのチターと、芸術家になるためのピアノのどちらに本腰を入れねばならないか、カラスは決断に迫られた。そして彼はカペルマイスターという夢よりもチターという現実を選択した。こうしてチター師アントン・カラスが誕生した。 カラスの『第三の男』は世界を制覇し、30年を経た今でも、毎日世界のどこかでレコードが回っている名曲である。1978年現在のレコード総売上は6百万枚を越えて入る。それを生み出した カラスがウィーンでは抹殺されているのだ。その時代を揺るがした男が、ウィーンで発行されている歴史や音楽史の本から脱落しているとはどういう事か。常識では考えられない。 《滅びのチタ−師》 |
サイパン島玉砕 =1944年、サイパン= |
ドイツ国防軍の敗走が広大なヨーロッパ戦線で続いている6月中旬から下旬にかけて、太平洋戦線でも、最終的防衛戦と決していたマリアナ諸島に米軍進攻を迎え、陸海に最後の決戦がサイパン島を中心に企図されたが、日本軍はここで完敗した。戦争に日本帝国の勝利のないことが明白になった。 7月7日、サイパン島玉砕。大本営は重苦しい空気の底に沈んだ。陸海の守備部隊2万7千5百が玉と砕けたのである。それにもまして多くの民間人が軍のタテとなって死んだ。非戦闘員である女子供も容赦なかった。爆撃と艦砲射撃、さらに戦車砲の雨にさらされて息絶えた。軍が率先してサイパン島は難攻不落の要塞であると言い続けてきただけに、影響は大きかった。陸軍報道部長は涙をこぼしつつこの報を伝える。心ある人には、このまま戦争を継続することの愚かしさ、そしてそれは民族の滅亡を意味することを心底から憂えさせた。サイパン島失墜は、日本国民には“終わりの始まり(ザ・ビギニング・オブ・ジ・エンド)であった。 《原爆が落とされた日》 |
☆小暑[しょうしょ]
◇七夕[たなばた],七夕の節句 |
781年 記録に残る富士山の最古の噴火 |
月8日
ヴァスコ・ダ・ガマ、レステロ港を出帆 =1497年、ポルトガル= |
1495年、ジョアン二世が死んで、いとこのマヌエル一世がポルトガル国王となった。功名を急ぐこの26歳の青年王は、アフリカまわりのインド探検隊を編成し、その総指令官には、サンディエゴ修道会のヴァスコ・ダ・ガマを選んだ。 旗艦サン・ガブリエル号ほか3隻の船に分乗した170名のベテラン船員ばかりの一行が、この日リスボン港を出航した。季節風に乗りインド洋を横断した一行は、翌年5月20日、マラッカとならぶ中継市場の町、インド西海岸のカリカットに到着した。 こうして、ユーラシア大陸の西端のヨーロッパは、東南部をオスマン・トルコにおびやかされながらも、スペイン、ポルトガルを先頭にして、海上からアフリカ、アメリカ、アジアの世界の植民地化に狂奔する時代に突入していった。 《世界史への旅》
黒船、浦賀に来航、1853年 |
○外務省開庁記念日 *大蔵省開庁記念日 |
1497年
ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路開拓の為にリスボンを出発 |
月9日
エカチェリ−ナ、女帝として即位 =1762年、ロシア= |
ピョ−トル三世の后(きさき)エカチェリ−ナが宮廷革命で女帝として即位した。この日の朝早く、ペテルブルク近郊にいたエカチェリ−ナは、愛人の近衛士官グリゴリ−・オルロ−フとともに首都ペテルブルクに戻った。そして近衛連隊におもむき、彼等に忠誠を誓わせると、エカチェリ−ナはその足でカザン寺院に行き、祈祷式により女帝エカチェリ−ナ二世としての即位を正式に宣言した。 この事件は、プロイセンのフリ−ドリヒ二世を崇拝していたピョ−トル三世が七年戦争開戦中に彼と和を結び、軍隊や官庁でプロイセン流の規律を強要したり、彼の生家ホルシュタイン家のために戦争を企てたりしたことに端を発している。同日夕方、彼女は夫ピョ−トル三世を逮捕し、彼みずからの手で退位文書を書き写させ、しかもそれに署名させた。在位わずか6ヶ月で帝位を失ったピョ−トル三世は、前女帝エリザベ−タが彼に贈ったロプシャの別荘の一室に幽閉され、7月17日に殺害された。 《クロニック 世界全史》P616 |
▽独立宣言の日 (アルゼンチン) |
1810年 ナポレオン1世がオランダをフランスに併合 |
月10日
フランス国王、アンリ二世死去 =1559年、フランス= |
最初、医師たちの診断では、アンリ二世はたぶん片方の目を失うだけだろうと思われていた。もし彼等が傷口の洗浄をおろそかにしなかったら、そしていわゆる「開頭術」なるものを行っていたら、アンリ二世の命は助かっただろうというのが、後の医学者たちの意見である。 7月9日、臨終が告げられる。束の間意識が戻ってきた。王太子フランソワが呼ばれた。 「息子よ、そなたは父のない子になろうとしている。しかし気を落としてはならぬ。余の祝福は永久にそなたと共にあることを忘れぬように」。 フランソワはその場に気絶する。次の日、1559年7月10日、アンリ二世は、ついに40歳の生涯を終えた。 アンリ二世の死後、当時の風習に従って黒幕を壁に垂らした喪の部屋に閉じ篭もることを拒否して、カトリ−ヌは長男の新国王フランソワ二世とギ−ズ兄弟を伴って、その日のうちにル−ヴル宮入りを果たした。母に対して全幅の信頼を置いていたフランソワ二世は、カトリ−ヌの命令は今後君主の命令に等しいものとなることを宣言した。 しかし実際はその後、権力は新王妃メアリの叔父にあたるギ−ズ兄弟の手に集中することになる。またしてもカトリ−ヌは、フランソワ二世の即位中、この兄弟の比類ない権勢の陰で、卑しいフィレンツェ女の役を演じなければならないことになる。彼女が摂政として、事実上の女支配者として権力を一手に握り、あの史上名高い『サン・バルテルミ−大虐殺』でユグノ−撲滅を謀るには、なお13年の月日を待たねばならないのである。 《公妃ディアヌ・ド・ポワチエ》 |
○国土建設記念日,建設省開庁記念日 |
1821年
伊能忠敬が測量を始め門弟らが完成させた『大日本沿海輿地全図』を幕府に献上 |
月11日
フランス第三共和政が終わる =1940年、フランス= |
前日、中部フランスの温泉地ヴィシ−に招集された上下両院は、第三共和政憲法を廃止し、議会を無期停止としたうえで、この日、フィリップ・ペタン元帥を新体制の主席とし、憲法起草の全権を与えた。ここに『自由・平等・博愛』の第三共和国にかわって、『労働・家族・国家』という スローガンを掲げるヴィシ−政権の『フランス国』が誕生したのである。 この年5月、オランダ、ベルギ−を制圧したドイツ軍はフランスの対独防衛線(マジノ線)を簡単に突破し、6月14日には無防備都市となったパリを、戦わずして陥落させた。6月21日この惨敗にフランス人はみずからの国家と政府に対して強い不信感を抱いた。そして、無能ぶりを露呈した旧来の議会政治家に替え、第一次大戦のヴェルダンの会戦で救国の英雄となったペタンに最後の望みを託したのである。パリ陥落の2日後の6月16日、首相ポール・レノ−が辞任すると、ペタンが内閣を組織した。 ⇒6月21日§ 《クロニック 世界全史》P1008 |
○真珠記念日 ○世界人口デー(World Population Day) ○YS-11記念日 |
1156年
保元の乱。平清盛・源義朝らが崇徳上皇らの蘢る白河御所を夜襲し上皇方が敗退 |
源頼朝、征夷大将軍に =1192年、日本= |
1192年の今日、源頼朝は、念願かなって武門の棟梁たる征夷大将軍の地位を獲得し、鎌倉の地に幕府を開いた。 頼朝は清和源氏の嫡流で、源義朝の第三子として誕生した。平治の乱で義朝が平清盛に敗れるや、当時13歳であった頼朝は、伊豆韮山に近い蛭が小島に流された。頼朝はいつの日にか平家を討伐し、源氏の世に戻そうと、大望を抱きながら、その機会をうかがっていた。31歳のとき、伊豆の豪族北条時政の娘である政子と結婚し、その知己を頼りに、伊豆を中心に、東国の武将たちを次第に味方に付けていった。 頼朝は、1180年8月、ついに平家討伐を目標として挙兵し、広く東国の豪族に呼びかけた。 やがて、腹違いの弟義経らの加勢を得て、1185年には、ついに平家滅亡の念願を果たすことになる。だが、後白河法皇は義経を頼朝と反目させ、さらには義経に頼朝討伐の宣旨を与えたことにより、両者の全面衝突を引き起こさせた。結果は頼朝の勝利となり、義経は奥州へと落ち延びたが、後白河法皇は死ぬまで頼朝に将軍の地位を与えなかった。頼朝が将軍になったのは、後白河法皇の死後4ヶ月のことであった。 《歴史に選ばれた366人》 |
○ラジオ本放送の日 ○ローリング・ストーンズ記念日 |
1192年
源頼朝が征夷大将軍に就任。鎌倉幕府が成立 |
月13日
ナポレオンのエジプト遠征 =1798年、エジプト= |
1798年5月19日、ボナパルト将軍の率いるフランス軍遠征隊は、トゥ−ロン港を出発した。 フランス軍はネルソン提督の率いるイギリス艦隊網をかい潜り、マルタ島を占領してからアレクサンドリアに到達する。荒天下を推して7月1日から3日にかけて上陸した遠征軍は、直ちにカイロへと進撃を開始する。 7月13日、ナイル河沿いのシプラキットで、ついに族長ムラ−ドの率いる一万の部隊が、騎上して攻撃してきた。それに対してフランス遠征軍は方陣で対抗する。 のちに1815年6月、ワ−テルロ−の会戦において、ネイ元帥が突撃した際に、連合軍が防いだ戦法であった。勝敗は一方的なものとなり、マムル−クと呼ばれるコ−カサス部隊はカイロへと敗走した。フランス遠征軍は7月20日に、ナイル河畔のピラミッドを望める地点に到達する。疲労気味の将兵がいぶかしげに見る中、ボナパルト将軍は、「兵士たちよ、ピラミッドの頂上から4千年の歴史が諸君らを見下ろしているぞ」と馬上から告げる。 《ナポレオンの戦場》 |
○日本標準時刻記念日 |
1221年
承久の乱で幕府に敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流される |
月14日
フランス革命勃発 =1789年、フランス= |
この日、パリは快晴。5〜6千人の群集が廃兵院を襲い、3万2千梃の小銃と、20門も大砲を奪った。市民軍の代表は要塞指令官ドロネ−と交渉したが、指令官は降伏を認めず、守備隊のほうから先に発砲した。午後2時すこし前から激しい戦闘となり、午後4時、ついに守備隊は降伏した。 この日も狩りに行ったルイ十六世は、早寝のところを起こされパリの事件の報告を受けた。 聞き終わった王の、「じゃ、暴動だな」という言葉に、報告者のリャンク−ル公は答えた。「いえ、陛下、革命でございます」。 しかし、この日は狩りの収穫もなかったせいか、ルイ十六世の、例の灰色の日記帳の7月14日の欄は空白である。 これが、世界史をゆるがすフランス革命勃発の日のルイ十六世の姿である。マリ−・アントワネットは、あれほど夜の気晴らしのために訪れたパリを憎みだす。弱気になる王を助け、宮廷内の反革命の星となる。その強気な態度が革命をさらに徹底させ、王室を救いのない奈落の底に沈ませるとも知らずに・・・・・。 ⇒10月5日 《世界史への旅》 |
○パリ祭,フランス革命記念日 |
1685年
江戸幕府が将軍通行の時の犬猫の繋留を禁止。初の「生類憐みの令
」 |
月15日
エルサレム王国の建国 =1099年、エルサレム= |
パレスティナに侵入していた第一回十字軍が、ついにこの日、エルサレムを占領。ロレ−ヌ公ゴドフロアを王としてエルサスレム王国を樹立する。1096年から始まった第一回十字軍は、同年、コンスタンティノ−ブルに4軍団が集結して以来の目的であった聖地エルサレムの奪還を達成したことになる。聖地回復のための『聖戦』という目的意識に征服者としての慘忍さも加わり、女性と子供を含むイスラム教徒たちを一週間にわたって大量に虐殺した。またユダヤ教徒も聖地奪還の大儀名分のもとで多数焼き殺されたという。十字軍遠征は170年余にわたって試みられ、軍事的には成功したとは言えないが、異文化と接触することでヨーロッパの文化水準が向上し、また人々の視野がグロ−バルになるなど、その果たした役割は大きい。しかしイスラムにとっては、侵略以外の何物でもなかった。 《クロニック 世界全史》P279 イェルサレムは城壁で守られていたので攻城用の塔の製作に時間が掛ったのでした。総攻撃は7月13日に開始され7月15日に落城しイェルサレムは解放されたのです。 イェルサレムの市内では、アンティオキアの陥落時に優るとも劣らない残虐さで惨劇がくり広げられていた。アンティオキアの時と同様に、十字軍は、市内にはイスラム教徒しかいないと思い込んでいる。キリスト教徒はいなかったが、ユダヤ教徒はいたのだ。だが、ヨーロッパから来たキリスト教徒にしてみれば、ユダヤ人も異教徒である。それで十字軍の兵士たちは、人と見るや殺しまくったのである。捕らえて奴隷に売ることでさえ、その日の彼らの頭にはなかったのであった。聖なる都イエルサレムには、異教徒は一人でも残っていてはならないのであった。⇒6月7日 《十字軍物語》塩野七生著 |
◇初伏[しょふく] □中元 |
1099年
十字軍がエルサレム市内に突入しイスラム教徒から聖地を奪還 |
帝王カラヤン没 =1989年、オーストリア= |
この日、『帝王』の異名をとるオーストリアの指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが、ザルツブルグ郊外アニフの自宅で心不全のため死去した。81歳。 1908年、ザルツブルクに生まれたカラヤンは、19歳でウルムの歌劇場に指揮者としてデビュー。38年からはベルリン国立歌劇場の演奏会指揮者を務め、若くして巨匠フルトヴェングラ−のライバルと目された。戦後はベルリン・フィルの終身常任指揮者、ウィーン国立歌劇場の総監督を歴任。バイロイト、ザルツブルグ両音楽祭でも指揮棒を振るい華麗な指揮を誇った。 カラヤンの死により、トスカニ−ニやフルトヴェングラ−等、20世紀に輩出した巨匠たちによる大指揮者時代は幕を閉じる。 《クロニック 世界全史》P1120 米、ニューメキシコで原爆実験に成功、1945年 |
○駅弁記念日 ◇籔入り □盆送り火 |
1054年
ローマ教皇がコンスタンチノープル総大司教に教会破門状を出す。以後1965年まで東西教会分裂が続く |
月17日
ニコライ一家、全員銃殺 =1918年、ロシア= |
||
ニコライが最後の日記を書いたのは、処刑の4日前のことである。 「7月13日、土曜日。アレクセイはトポリスクから到着して初めて風呂に入った。アレクセイの膝はよくなっているが、まだ足を完全に伸ばすことはできない。気候は暖かく快適だ。外からのニュースは何もない」と、死の予感など全く感じられない絶筆である。1918年の今日、ニコライ一家は全員イパティエフ邸の地下室で警備隊長ユロフスキ−らによって射殺され、遺体はどこかに隠されたといわれている。 1764年誕生以来、3世紀にわたり社交界、王侯貴族たちの間で、その美しい姿を称えられた『バカラ』。クリスタルの代名詞とまで言われ、神秘の輝きは時代とともにきらめいた。バカラの光の芸術は、19世紀から20世紀初頭にかけて、世界を舞台に華開いた。顧客リストに名を連ねた人々を見ると、そのまま、そこに激動の世界史がある。 ルイ十八世、ロシア皇帝と皇后、トルコの皇帝、インド歴代の大君、ポルトガル、ギリシャ、イタリア、スペイン、エジプトなどの国王・・・。いつしかバカラは『王者たちのクリスタル』と呼ばれるようになっていった。 1897年、バカラのショールームを訪れたロシア皇帝ニコライ二世は、そこに漂う芸術性と香りあふれる気品に胸をうたれ、早速ペテルブルグ宮殿に飾る大燭台を注文した。その他にも、直径4.85mのシャンデリア数基、7mの高さの噴水など次々と注文が続き、パリ中の人々の話題になったという。その後の注文も個数単位でなく、トン単位で行われ、ロバの隊商が高価なクリスタルグラスを背負って、バカラ社とペテルブルグ宮殿の間を往復した。 一方、12基に及んだ大燭台の注文を全て作り終えたのは1914年。あの忌まわしい第一次世界大戦勃発の年である。そして1917年ロシア革命。ニコライ二世は家族とともに刑場の露となった。戦火ゆえに旅立たなかった燭台が2基、いまパリにある。『王者たちのクリスタル』この言葉に秘められたものは限りなく深い。研ぎすまされ、永遠のきらめきを放つバカラのクリスタルには一片といえども作り手たちの愛と誇りが刻まれぬことはない。 《私の歴史メモ》
|
||
864年
富士山が大噴火。西湖と精進湖ができる |
月18日
スペイン内乱の勃発 =1936年、スペイン= |
ベートーベンの第九交響曲『喜びの歌』合唱の最終リハーサルが始まろうとしていた。1939年7月18日夕、場所はスペイン・バルセロナの劇場だ。翌日の『人民オリンピック』開会式のリハーサルだった。チェロ奏者パブロ・カザルスの指揮棒が下ろされようとした時、伝令が飛び込んできた。「市街戦が迫ってきたぞ」と。スペイン内戦の勃発だ。 小説『誰が為に鐘は鳴る』は、このスペイン内乱を舞台にした物語だ。ヘミングウェ−が自ら反ナチスの側に立って取材した体験が基になっている。若い将校ロバートは、「この世は美しく、戦う価値のある所だ。なんとすばらしい人生だったろう」と語り、最後には死んでいく。 スペインは36年大会の当初の予定地だった。それをナチスに奪われたことに抗議して、 『人民オリンピック』を独自開催しようとするが、それも結局踏み潰された。そしてその夢は56年後の1992年に実現したのである。 人生は苦難と敗北、不条理に満ちてはいるが、「問うことなかれ、誰が為に鐘は鳴るやと、そは汝(な)が為に鳴るなれば」。ジョン・ダン(英国)の詩はそう慰め戦う者をたたえている。ヘミングウエーは小説の題をここから取った。 《私の歴史メモ》 |
◎海の日(Marine Day) <7月第3月曜日> |
745年 唐の楊太真が玄宗皇帝の貴妃(楊貴妃)になる |
月19日
普仏戦争勃発 =1870年、ドイツ= |
イギリスやフランスなどでは早くから統一国家をつくっていたが、イタリアと同様ドイツは、 19世紀になっても分裂したままであった。1861年、ウィルヘルム一世が即位した。 まさにその日、王はフランス大使であったビスマルクをプロシアの首相に任命した。 プロシアは1866年、ドイツ統一の主導権を争うオ−ストリアと戦い、これを破った。(普墺戦争)同年プロシアはオーストリアとナポレオン三世の圧力を受けていた南ドイツ4ヶ国を除いて、北ドイツ連邦を組織した。こうしてドイツ統一を妨げる勢力は、フランスのナポレオン三世のみとなった。 《世界の歴史がわかる本》 ナポレオン三世は伯父ほどの大人物ではなかったが、クリミア戦争にロシアを破って大勝し、セバストポリの陥落した1855年、パリは国際博覧会の主催地としてその華やかな姿を世界中の人々に示して驚嘆させた。この日からパリは、世界美術や流行の中心地としての名声を長い間独占するようになるのである。 しかしナポレオン三世の幸運は長く続かなかった。この日始まった普仏戦争にフランス軍は 手痛い打撃を被って敗退。ナポレオン三世はドイツ軍によってセダンの町に囲まれ、9月2日、ついに降伏を申し入れた。皇帝はドイツ軍に捕らえられドイツに護送され、パリ総攻撃が始まったのだ。 皇帝の降伏によって第二帝政は19年の歴史を閉じ、パリでは第三共和制が宣言された。 ⇒9月2日 《ヨーロッパ歴史と文化の旅》 |
○北壁の日 |
64年
ローマで大火。皇帝ネロがキリスト教徒による放火であるとして迫害を開始 |
月20日
ヒットラーの暗殺未遂 =1944年、ドイツ= |
ワーグナーの大作『ニ−ベルンゲンの指環』は四部作で、上演も4日がかりだが、その第二部が『ワレキュ−レ』である。そしてまた『ワレキュ−レ』とは、この日に決行されるヒットラーの暗殺計画と、それに続いて行われるベルリン占領計画に対する同志の秘密の呼び名だった。 この日、7月20日の夕方から、ヒットラーは東独ラシュテンブルクでムッソリーニと会見することになっていた。そして昼頃行われる作戦会議が、その暗殺の舞台に選ばれたのだった。計画は予定通りに進行し、零時42分会議室は爆発した。 しかし、この暗殺計画は失敗に終わり、ヒットラーは奇跡的に助かった。3人の人間が死亡し、その他の人間はほとんど重傷を負ったのにヒットラーはほんのかすり傷程度だった。ヒットラー暗殺の最後の機会だった『ワレキュ−レ』計画は、こうして完全な失敗に終わったのである。 《帝国の死角》 |
○月面着陸の日 |
1876年
明治天皇が青森から燈台監視船に乗って横浜に帰還 |
月21日
人類、月に立つ =1969年、アメリカ= |
1969年7月16日午前9時32分(米東部夏時間)、アポロ11号はアメリカ合衆国フロリダ州 ケネディ宇宙センターから上昇を開始して大西洋上に消えていった。3人の宇宙飛行士はア−ムストロング38歳、コリンズ38歳、オルドリン39歳。そして38万8千キロの宇宙空間を越えて、人類が月面「静かな海」に第一歩をしるしたのは4日後であった。「こちら静かな海の基地、イ−グル(月着陸船)は着陸」。 その歴史的瞬間は7月20日午後4時17分40秒、それから大きな生命維持装置を背に、純白の宇宙服で身をかためたア−ムストロングがイーグルのはしごを降りて、まさに月面に立ったのは午後10時56分20秒(日本時間7月21日午前11時)。この日、全世界の人々がテレビを見守った。まさに人類が初めて地球以外の天体へ到達した瞬間だった。 ア−ムストロング船長は言った。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍なのだ」 《教養人の世界史》 |
◇土用の丑の日 |
1588年
イギリス艦隊とスペイン無敵艦隊の海戦が始る。30日にイギリスが勝利 |
月22日
天正の少年遣欧使節団、長崎に帰国 =1590年、長崎= |
この日、4人の少年遣欧使節の、イエズス会の東インド巡察師ヴァリニャ−ノとともに長崎へ帰着した。同港を出てから実に8年半ぶりの帰国であった。 一行は1582年、豊後の大友宗麟、肥前の有馬晴信、大村純忠の3キリスト大名により派遣された。しかし訪欧中に大友・大村の2大名は死去、しかも日本は87年以来の宣教師追放令下という厳しい状況の中での帰国だった。このため一行は、アラビア馬やミラノ製の甲冑など数々の献上品を持参し、翌1591年、京都・聚楽台で秀吉との謁見に臨んだ。秀吉は終始なごやかに応じたが、キリシタン迫害の態度を変えることはなかった。4人はその後、キリスト教布教に努めるが、激しい弾圧に中浦ジュリアンは殉教、千々石(ちぢわ)ミゲルは棄教しキリスト教迫害の立場に回る。 ⇒1月28日§ 《 クロニック 世界全史》P474 |
○著作権制度の日 |
1549年
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。日本にキリスト教が伝来(新暦08/15) |
IWC、商業捕鯨全面禁止を決議 =1982年、イギリス= |
さる19日からブライトンで開かれていた第34回国際捕鯨委員会(IWC)総会は、午後6時からの本会議で「沿岸捕鯨は1986年漁期から、遠洋母船式捕鯨は85〜86年漁期から、商業捕鯨を全面禁止する」ことを、賛成多数で決議した。捕鯨反対の声は、72年にストックホルムで開かれた第一回国連人間環境会議以来、世界的に高まってきており、捕鯨国はIWC加盟国でも日本、ソ連など9ヶ国にすぎない。 11月、日本政府はIWCに異議申し立てを行い、今回の決議に拘束されない立場をとる。 これに対し捕鯨反対派のアメリカ政府は、200カイリ水域内の対日漁獲割り当ての削減を通告し、異議撤回を迫る。だが1985年4月の両国協議の結果、南氷洋捕鯨は87年、沿岸捕鯨は88年3月まで継続することで合意をみる。 《クロニック 世界全史》P1105 |
☆大暑[たいしょ] ○米騒動の日 |
1202年
源頼家が征夷大将軍に任ぜられる |
原爆投下命令書完成 =1945年、アメリカ= |
この日、グロ−ブス少将等は、正式の原爆投下命令書を作成した。その夜、6時35分、グロ−ブス少将は、ハンディ参謀総長代理の主張により、ポツダム会談に出席中のマ−シャル参謀総長に命令書の写しを送り、原爆投下作戦計画の最終的承認を求めることにした。最重要秘密文書はこうしてポツダムに打電された。 「合衆国陸軍戦略空軍総司令官カ−ル・スパッツ将軍宛 1.第20空軍第509爆撃隊は、1945年8月3日頃以降、天候が目視爆撃を許すかぎり、なるべく速やかに、最初の特殊爆弾を次の目標の一つに投下せよ。(目標)=広島・小倉・新潟および長崎 −後略− 参謀総長代理ト−マス・ハンディ」。 翌、7月25日朝、ポツダムより至急電報がワシントンのペンタゴンに届いた。「陸軍長官はグロ−ブス命令案を承認す」 この電報に基づいて、正式の25日付けの命令書にハンディ参謀総長代理がサインした。原爆投下命令は、トル−マン大統領、スチムソン陸軍長官、マ−シャル参謀総長、ア−ノルド陸軍航空軍総司令官等の承認を得て発動された。 新しい歴史が始まろうとしていたこの日、一束の書類がマンハッタン計画の製造主任ケネス・ニコルズ陸軍大佐の手によって、ワシントンのグロ−ブス少将へと送られた。歴史の皮肉であろうか、原爆投下の最終命令が下された日に、科学者たちの請願書が陽の目を見ようとするのであった。褐色のマニラ紙の封筒の宛名は合衆国大統領殿。中にはジラ−ド博士ら著名な科学者70名が署名した「事前に警告し、それを日本が拒否した場合にのみ原爆を使用する」よう要望した文書が入っていた。 しかしトル−マン大統領は最終的にこれらの文章を見ることはなかった。記録によれば、手紙の束は8月1日に、グロ−ブス少将がスチムソン長官の事務所に提出したという。それはポツダム会談を終えた大統領が巡洋艦オ−ガスタでヨーロッパを離れようとしているときであった。⇒8月6日 《原爆が落とされた日》 芥川龍之介、コカインを服用して自殺、1927年 |
▽父母の日 (アメリカ合衆国) <7月第4日曜日> |
1917年
第一次大戦で活躍したドイツのスパイ・マタ・ハリにパリ法廷で死刑判決。10月15日に執行 |
月25日
アンリ二世、フランス国王に即位 =1547年、フランス= |
カール五世とその生涯を通して対決したフランソワ一世の死期は迫っていた。フランソワ一世は残り少ない力を振り絞り、息子アンリに手を差しのべて言う。「接吻しておくれ、我が息子よ。其方に神のご加護のあらんことを」 3月31日午後、ついに死が彼の身体に訪れた。享年53歳であった。同日、王太子アンリは、ただちにフランス国王アンリ二世として即位する。 1547年7月25日、いよいよ今日は新国王アンリの即位式が、パリ東方165キロ、シャンパ−ニュ地方ランスの町で行われようとしていた。通りの家々の窓は錦のタペストリや花輪や吹き流しに飾られた。通りのあちこちには葉飾りの円天井、碧玉の柱や凱旋門が建てられた。 午前8時、町中の鐘が一斉に新国王の到着を知らせて鳴り響く。黄金の馬衣を付けた馬に跨ったアンリ二世が長い行列を従えて登場する。市の城門では待機していたランス市長を始めとする著名の士が、彼を迎えようとして進みでる。歓声が上がり、国王陛下万歳が叫ばれる。けれどもそれも束の間、場内は戸惑いを伴った奇妙な静寂のために一瞬水を打ったように静まりかえる。 人々を驚かせたのはアンリ二世が身につけている式服だった。サテンの短上着に施された刺繍が、弓と一束の矢、Hの字に絡み合わされた三つのD、ともに結ばれた3つの三日月・・・・・。これらは、アンリ二世とディアヌの関係を公然と公表するものだったのである。 ⇒6月30日 《公妃ディアヌ・ド・ポワチエ》 |
○最高気温記念日 |
1581年 オランダがスペインから独立 |
月26日
ナセル大統領、スエズ運河国有化を宣言 =1956年、エジプト= |
この日の夜、ジャマ−ル・ナセル大統領は、アレクサンドリアのマンシェ−ア広場に集まった数万の聴衆を前に、革命4周年の記念演説を行い、スエズ運河の国有化を宣言した。 大統領は、1時間半に及ぶ演説のなかで、運河建設のために12万人のエジプト人労働者の尊い人命が失われたこと、それにもかかわらず運河が外国の支配下に置かれて不当な搾取を受けてきたことを訴えた。 そして、スエズ運河会社の接収は法的にも歴史的にも正当な措置であり、今後、運河があげる年間1億ドルの収益は、アスワン・ハイ・ダムの建設費用に充てることを力説。 広場はエジプト市民の大歓声に包まれ、以後アラブ民族主義の高揚をみる。 この強行措置は、スエズ運河会社を事実上支配してきた英仏に衝撃を与え、やがてイギリス、フランス、イスラエル3ヶ国とエジプトの軍事衝突(スエズ動乱)へと発展する。 《クロニック 世界全史》P1047 |
○ポツダム宣言記念日 ▽独立記念日 (リベリア) □聖ヨアキムと聖アンナの祝日 |
1614年
徳川家康が、豊臣秀頼が作った京都・方広寺の大仏の鐘にある「国家安康」の文字に対し、家康の名前を分けて呪っていると言いがかりをつける。大坂冬の陣のきっかけに |
朝鮮戦争終結 =1953年、韓国= |
1951年初め、中共の『人海戦術』と国連軍の科学兵器による『火海戦術』は激戦を展開したが、春には38度線沿いに戦局は膠着状態となっていた。そしてこの年の7月から休戦会談が始まり、それは幾度も中断しつつ2年間に及んだが、1953年7月27日、ようやく休戦協定が板門店で調印された。 その後、金日成首相のもとに建設を進めた北朝鮮に対し、韓国では1960年4月ソウル市民の激しい抵抗に屈して、李承晩大統領が辞任し、10年余に及ぶ独裁政治が終わった。 《教養人の世界史》 |
1623年 徳川家光が江戸幕府第3代将軍に就任 |
月28日
第一次世界大戦勃発 =1914年、ドイツ= |
||
オ−ストリア=ハンガリ−帝国は、自国の皇位継承者暗殺事件を、セルビアに鉄槌を下す絶好のチャンスとみた。帝国の同盟国であるドイツは、ロシアのスラブ民族同士の強い同盟の絆を甘くみて、事態を2国間の地域紛争に局限できると予想した。帝国はセルビアに国交断絶を通告し、大公暗殺の日からまる1ヶ月たった今日、宣戦布告した。 一見強行に見える各国の姿勢の裏には、軍事的威嚇によって、危機は回避されるだろうという楽観主義が潜んでいた。オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに報復を加え、バルカンでの政治不安の要素を取り除こうという決意は固かったが、ロシアとことを構えたくはなかった。 宣戦布告はしたものの、戦闘準備はできていなかったのである。しかし翌日、慎重論だったロシア皇帝ニコライ二世は、軍に迫られて総動員令に署名してしまう。 これに狼狽したドイツがロシアとフランスに宣戦、英国がドイツに宣戦布告した。大騒ぎの震源地であるオーストリア=ハンガリ−帝国は、ドイツにせっつかれてようやく8月6日ロシアに宣戦するや、10日にはフランスと英国がオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦を布告し、戦火は 全ヨーロッパに拡大し、第一次世界大戦にまで発展してしまったのである。 《エリザベ−ト》
|
||
○第一次世界大戦開戦記念日 |
||
1603年 徳川家康の孫で7歳の千姫が、11歳の豊臣秀頼の大坂城へ輿入れ |
月29日
ウルバヌス二世没 =1099年、エルサレム= |
1096年の夏ヨーロッパを出発した十字軍は、3年後の1099年6月初め、ようやくエルサレムの麓に達した。十字軍の将兵は、7月13日夜半から総攻撃を開始した。かつてソロモン王が、ついでヘロデ王が建てたエルサレムの神殿跡には、イスラム寺院が建っていたが、そこへ逃れた市民7万人以上が殺され、寺院は地の海となった。 十字軍の将兵は、市内にいるユダヤ教徒をシナゴ−グに集めたあと、外から密閉し、火をかけて全員焼き殺した。略奪もまた凄まじかった。神殿の金銀の燭台や灯明はもちろんのこと 、民家に押し入って家財を奪い、死体からも金品をかき集めた。こうした蛮行ののち、ロレーヌ公ゴドフロアを初代の統治者とするエルサレム王国が造られた。ウルバヌス二世は虐殺された人々の無念の思いに呪われたのか、7月29日にローマで息を引き取った。 ⇒11月27日 《私の歴史メモ》 |
日米修好通商条約調印 =1858年、日本= |
1858年7月29日(安政5年6月19日)下田奉行・井上清直とアメリカ総領事ハリスが、神奈川県沖のポーハタン号の船上で「日米修好通商条約」に調印をしました。 この日以降、日本は大老井伊直弼の安政の大獄、桜田門外の変を経て幕末の動乱期に入りました。条約調印は、井伊大老の無勅許調印といわれますが、その元は、下田奉行井上清直。井上の機敏な行動で日本は清国のように外国の植民地にならずに救われたのです。 調印式の後の晩餐会で、井上清直が発した「乾杯!」が、日本の宴席での「乾杯」の始まりです。 《福井さんの歴史ブログ》 |
1186年
源義經の愛妾・静御前が安達新三郎の家で男子を出産するが、頼朝の命により溺殺される |
月30日
明治天皇崩御 =1912年、日本= |
天皇睦仁(むつひと)の死が、「ついに今30日午前零時43分、心臓麻痺により崩御あそばさる。まことにきょうくの至りに堪えず」と宮内省公示により発表された。59歳だった。だが、実際の死去は、前日の午後10時40分ごろで、皇室会議の協議で死亡時刻を約2時間遅らせての発表だった。 明治天皇は1867年に即位、王政復古=明治維新のシンボルとされた。その後、日本は対外的な独立を達成。日清・日露戦争を通して急速な近代化を果たす。彼は、その近代国家形成期の君主として比類ない権威によって正当化され、なかば神格化されたカリスマ的存在だったのである。 10日前に天皇の重体が公表されて以後、宮城前には天皇の平癒を祈る国民の姿が絶えなかったが、この知らせは、国民に深い感慨をもたらす。ただちに皇太子嘉仁(よしひと)が皇位を継ぎ、元号を『大正』を制定。9月13日、青山葬儀場で大喪が行われた。 《クロニック 世界全史》P931 |
*明治天皇祭 |
1768年
イギリスの海軍中尉ジェームス・クックが初航海に出発 |
聖地メッカで流血事件 =1987年、サウジアラビア= |
イスラムの聖地メッカにある聖モスク周辺で、反米叫ぶ数千人のイラン人巡礼団とサウジの警官隊が衝突、サウジ側の発表によると、402人が死亡し、多数の負傷者が出た。 イランは、7年前に起きたイラン・イラク戦争の膠着状態と、年々深まる外交的な孤立状態にフラストレ−ションを募らせていた。一方、イラク側に立つサウジは、毎年訪れるイラン人巡礼団の政治的なシュプレヒコ−ルに過敏になっていた。こうした緊張関係がこの事件を引き起こした。 翌日、イランの首都テヘランでは、市民・学生のデモ隊がサウジ大使館などに押しかける騒ぎが起き、ハメネイ大統領も「メッカ事件はアメリカの陰謀」と、イラン全土での大規模な抗議デモを国民に呼びかける。そして、この後4年間、巡礼団は中断されることになる。 《クロニック 世界全史》P1117 フランツ・リスト没、1886年 |
○こだまの日 |
1905年 ロシア軍が降伏し日露戦争が終結 |