アイーダとエジプト近代史

このサイトを、2019年7月28日素晴らしい「アイーダ」を演奏してくださった
町田イタリア歌劇団の全ての皆様に捧げます。〜tabi-taro〜


 

エジプトの名ガイド=オマル氏がバスの中で語りました。
2千年間、外国から支配されなかった日本の奇跡!

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オマルさんのレポート「古代エジプトの繁栄と現在のエジプト」
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ナポレオンがエジプト遠征から持ち帰ったというオベリスクが天を衝くコンコルド広場。
その延長線上には、ナポレオンが生きて完成を見ることのなかった凱旋門が、
彼の威光を今に伝えています。

 

何故、パリにエジプトのオベリスクが?

1798年5月19日、ボナパルト将軍の率いるフランス軍遠征隊は、トゥ−ロン港を出発した。
フランス軍はネルソン提督の率いるイギリス艦隊網をかいくぐり、マルタ島を占領してからアレクサンドリアに到達。
7月1日から3日にかけて上陸した遠征軍は直ちにカイロへと進撃を開始した。

フランス遠征軍は7月20日に、ナイル河畔のピラミッドを望める地点に到達。
疲労気味の将兵に対し、ボナパルト将軍「兵士たちよ、ピラミッドの頂上から4千年の歴史が諸君らを見下ろしているぞ」と語った。 

ナポレオンは遠征の際に、フランス国王ルイ・フィリップからの贈り物(大時計)を携え、エジプト副王となったムハンムド・アリ・パシャに贈呈した。
現在、パリのコンコルド広場に立っているオベリスクはそれに対する返礼としてエジプト総督からフランスに贈られたものである。

 

 

 

オベリスクが引き抜かれた跡

ルクソール神殿、第一塔門前に立つ
もう一本のオベリスク

 

オスマン帝国支配からムハンマド・アリ朝へ

ナポレオン軍の侵攻に際し、オスマン帝国はそれを排除すべく、アルバニア人傭兵部隊を率いたムハンムド・アリを派遣した。

ナポレオン軍はイギリス軍に敗れはしたが、これによってエジプトには民族意識が芽生えた。

ムアンムド・アリはその機運に乗じてエジプト総督の地位に就き、オスマン帝国から独立した政権を樹立した





カイロのナポレオン軍

ムハムンド・アリ・パシャ


 

スエズ運河を作ったのは?

ディッチ・ディガー(DITCH DIGGER)とは、「みぞ堀り人夫」という意味だ。
スエズ運河の開発には格別新しい土木技術上の冒険はなく、ただひたすらに堀り続けるという人間のエネルギーだけが必要だった。
それゆえ、スエズ運河は
「みぞ掘り人夫の壮大な夢」と呼ばれた。

フランスの外交官レセップスによって1859年に着工されたこの運河は、幾度かの危機を乗り越えて1869年に完成した。
地中海と紅海を繋ぐ全長168キロ、幅22メ−トル、深さ8メートルのこの大運河の建設工事には、エジプトの大守
サイド・パシャの尽力によって、月々2万5千人のエジプト人労働者が提供された。
それは、エジプトの太陽のもとで繰り広げられた希にみる過酷な難工事だった。

巨大なアフリカ大陸を迂回せざるを得なかったヨーロッパとアジアの通商航路は、スエズ運河によって一挙に短縮された。
あのナポレオン
も夢見て果たせなかったスエズ運河は、一人のフランス人と無数のエジプト人が作ったのだ。




フランスの外交官、レセップス

スエズ運河

 

1869年11月、スエズ運河開通式

エジプト総督イスマイール・パシャナポレオン三世治下のフランスでオスマン男爵が行ったパリの都市改造に倣ってカイロを作り変えようとした。

1869年、スエズ運河の栄えある開通式に、イスマイル・パシャオーストリア皇帝ナポレオン三世をはじめヨーロッパ諸国の元首と名士を招待した。
開通式に集まる来賓のために建てられたのが
カイロ・オペラ座だった。

そしてそのオペラ座のこけら落としのための祝賀音楽の作曲をヴェルディに依頼した。

ところが、ヴェルディは「祝賀会用の音楽は作りません」とこれを断ったため、代わりに「リゴレット」が演奏された。

「アイーダ」が完成し、実際に初演されたのはカイロ・オペラ座完成の翌年だった。

1869年11月17日に行われたスエズ運河の開通記念式典の模様。
フランスのウジェニー皇后の宮廷ヨットを先頭に、船団は一列になって進んだ。
皇后は「いまだかつて、こんなに美しい光景を見たことはない」と言って感動の涙を流した。

開通式典の迎賓館として作られたゲジーラ宮殿
今はマリオットホテル

マリオットホテルに飾られた
ナポレオン3世とウジーニ皇后の肖像画

ゲジーラ宮殿についての読売新聞記事(2006年11月8日掲載)

 

1870年6月、ヴェルディ、「アイーダ」の作曲を受諾

「アイーダ」の作曲依頼が改めてヴェルディのもとに届いたのは1870年の春。
スエズ運河も開通し、オペラ劇場も開場した後である。

ヴェルディは新作オペラの作曲を引き受けるにあたり次のような条件を提示した。

@ヴェルディは作曲料として15万フランス・フランを受領する(これは彼の最近作『ドン・カルロ』の4倍という法外なものであった)

A台本はヴェルディが彼自身の支出によって、彼の選んだ作家に作成させること

B台本はイタリア語であるべきこと

C1871年1月に予定される初演はヴェルディの選んだ指揮者によって行われるべきこと

Dヴェルディ自身にはカイロに赴き初演を監督する義務はないこと

E仮にカイロでの初演が6か月以上遅延した場合、ヴェルディは彼の任意の歌劇場でそれを初演できること

F初演以外の全ての上演に関する権利はヴェルディが保持すること

作曲を依頼したイスマーイール・パシャはその全てを受諾した

 

巫女の合唱

ヴェルディの作曲は順調に進んでいたが、唯一後回しにしたのは第一幕、第二場、神殿で祭司たちが勝利を祈願する場面だった。

音楽効果上、ヴェルディは巫女の声を祭司たちのそれに重ねたいと考えていたが、「ファラオ時代の女性が祭祀に加わることあり得るだろうか?」、との疑問を持った。

その時代、このような宗教儀式への女性の参加はなかった、とするのが考古学上の通説だったが、エジプト考古学の第一人者は芸術上の効果を学問上の知見に優先させ、ヴェルディ氏の望まれるだけの数の巫女を儀式に加えて差し支えないと考えますという返信をしている。

こうして無事に巫女の声が祭司たちに唱和できることになった。

「アイーダ」第一幕、第二場

 

エジプト統一王朝の最古の首都メンフィス
ラムセス2世の立像

古代エジプト
職人の神、プタハ神

 

アイーダ・トランペット

ヴェルディは音楽に「エジプト的なもの」を取り入れようと考えていた。
彼はまず楽器史関連書籍にあった「エジプトの笛」なる記述に関心を寄せ、現物を確認しようとフィレンツェの博物館にまで赴いている。

ヴェルディは作曲にあたって古代エジプト文化等について調べ、またリコルディ社にも詳しい調査を依頼するなど、様々な方法を駆使してエジプト文化についてかなり綿密な時代考証を重ねながら作曲を進めた。

ヴェルディは、凱旋の場で「エジプト風」のトランペットを導入し、行進曲を添えることを考えた。
モデルとなったのはルーヴル美術館に収蔵された唯一の現物と、様々の壁画に描かれた長管の楽器であったと考えられる。

特注された「アイーダ・トランペット」は管長約1.2mの長大なものであり、舞台で6本揃えば異国情緒を演出するには十分な偉容であった。

ヴェルディの没後1922年、ツタンカーメン王の墓から発見されたトランペット状の管楽器は、管長50cm程度の比較的短いものばかりだった。

アイーダトランペット

ツタンカーメン王の墓から出土された管楽器

 

1870年7月、フランスは普仏戦争勃発

スエズ運河開通記念式典を終え、パリに戻ったナポレオン三世の幸運は長くは続かなかった。式典の翌年、プロイセンとの間に普仏戦争が勃発したのだ。

ナポレオン三世は病気をおして前線に赴いて
軍の指揮を取ったが国境線は破られ、同じ年の9月、10万の将兵とともにドイツ軍に降伏た。

皇帝の降伏によって、第二帝政は19年の歴史を閉じ、パリでは第三共和制が宣言された。

作曲の準備は順調だったが、この戦争勃発が予期せぬ混乱をもたらした。

カイロ初演のための舞台装置と衣装は全てパリで制作されていたが、プロイセン軍によってパリはほぼ完全に包囲され、作業は大幅に遅延。

完成した資材をパリから運び出すことも不能な状態となりスケジュール通りの初演は不可能になった。

フランス皇帝、ナポレオン3世

ウジーニ皇后

 

1970年11月、ヴェルディ歌劇「アイーダ」を完成

エジプトを舞台にしたオペラとしてはモーツァルト「魔笛」が有名だが、ほぼ無国籍なファンタジーである「魔笛」に比べ、「アイーダ」は国家の興亡(エジプトとエチオピア)を描いた壮大な「イタリア風グランドオペラ」である。

アイーダのカイロ初演は当初1871年1月に予定されていた。
しかし、普仏戦争の勃発による影響なので、同じ年の12月に変更された。

エジプトとの契約では、初演はカイロとせず別の歌劇場で強行することもできたのだが(ヴェルディが提示した条件のE番)、ヴェルディは依頼者であるイスマイール・パシャの顔を立て、カイロの次に予定していたミラノ・スカラ座でもイタリア初演も延期することにした。

1971年12月24日、カイロにて11ヵ月遅れで行われた初演は大成功だった。
ヴェルディは初演に立ち会うことはなかったが、本番の二週間前には入場券は完売。

イスマイール・パシャは狂喜の電報をヴェルディに送ったと伝えられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「アイーダ」ヴォーカル・スコアの表紙
(182年頃出版)

アイーダ初演当時のカイロオペラハウス


 

イギリスがスエズ運河の株を購入

イギリスはスエズ運河の建設計画に激しく反対していた。
1858年に国際スエズ運河会社が設立され40万株が公募された際にも、イギリスからは1株の申込もなかった。

しかし、スエズ運河が完成し、希望峰回りの半分の距離でインドに達することが出来るようになった今、このまま黙っているわけにはいかなくなった。
実際にスエズ運河を利用する船舶も、毎年一番多いのはイギリス船であった。

そこで、イギリスは運河会社の株を買い入れるチャンスを虎視耽々と狙っていたが、そのチャンスは劇的なかたちでやってきた。
エジプトのパシャが持株を売りに出したのである。

1875年の11月14日、日曜日の夕刻、ロンドンのライオネル・ロスチャイルド邸では、保守党のディズレリ−が、ライオネルと夕食を共にしていた。
ちょうど食事にさしかかった時、トレーに電報を乗せて執事が入ってきた。

「エジプト・パシャはフランス政府に運河会社の株の売却を申し込んだが、フランス側はその条件を呑むに至っていない」

首相はひとこと、「いくら?」と聞いた。
ライオネル
はすぐパリ宛に問い合わせの電報を打った。
パリからの返事は、1億フラン(400万ポンド)と記されてあった。
「よし、買おう」
と首相は言った。

48時間後には、パシャ所有のスエズ運河会社の株は、イギリス政府の所有に移った。

この日の決定がイギリスとエジプトの運命を分けた。
イギリスは以後72年間に渡ってスエズ地帯を支配することになるのである。

ライオネル・ロスチャイルド

スベンジャミン・ディズレリー

 

カイロオペラ座消失、そして再建

カイロオペラ座は、ヴェルディがアイーダを初演した1871年から丁度100年後の1971年に不審火で消失した。
現在のオペラハウスは、1988年、
日本の無償援助によって再建された。

その百年の間、エジプトは
1.イギリス領(1882年〜)
2.エジプト王国(1922年〜)
3.エジプト共和国(1953年〜)
4.アラブ連合共和国(1958年〜)を経て
現在のエジプト・アラブ共和国(1971年〜)に至っている。

カイロ、オペラハウス


リンク集

エジプト理解一口メモ