ヨーロッパ建築様式

 

ヨーロッパ建築様式変遷の歴史を
年代順にご紹介します。
尚、サイトの編集にあたりましては、
マチエールさんのサイトを参考にさせていただきました。

2010年6月30日
tabi-taro


 

 各建築物の解説は
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
より引用させていただきました。


 

古代エジプト

ギザのピラミッド

エジプト、ギザ

スフィンクスと大ピラミッド ラクダとギザの三大ピラミッド

ギザの大ピラミッド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 12:35 (UTC)


ギザの大ピラミッド(Great Pyramid of Giza)とは、ピラミッド建築の頂点とされるクフ王のピラミッドである。エジプトのギザで建設された。なお、世界の七不思議で唯一現存する建造物である。

一般に、ピラミッドの出現は、王墓独自の創出により、ファラオ(王)を頂点とした中央集権国家が確立したことを示している。したがってピラミッドの建造が盛んなことは、エジプト中央集権国家としても盛期であったと言える。

ギザの三大ピラミッド(ギザの大ピラミッド(クフ王のピラミッド)、カフラー王のピラミッド、メンカフラー王のピラミッド)が建造された時代は「古王国時代(第3-第6王朝)」であり、この時代のピラミッドは、規模・技術ともに最高水準を示すことから、当時のことは、別名で「ピラミッド時代」ともいわれる。

なお、ピラミッドの語源は諸説あって確定できない。古代エジプト語名は「メル(mer)」である。
クフ王の王墓であるギザの大ピラミッドは、ピラミッド建築の頂点とされ、最大規模を誇る。

底辺:230m、高さ:144.6m、勾配:51度52分、容積:約260万m3で、平均2.5tの石材を約270万〜280万個積み上げたと計算される。長さと高さの比は黄金比であり、またこれはエッフェル塔が登場するまでの間世界で最も高い建築物であった。

こうした規模とともに石積技術も最高水準にある。例えば、底辺の長さの誤差は20cm、方位の誤差は1分57秒-5分30秒という正確さを誇る。

神々の指紋

 

アブシンベル神殿

エジプト、アブシンベル

アブ・シンベル神殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 12:39 (UTC)

アブ・シンベル神殿(Abu Simbel)は、エジプト南部、スーダンとの国境近くにあるヌビア遺跡。

1960年代、ナイル川にアスワン・ハイ・ダムの建設計画により、水没の危機にあったが、ユネスコによって、国際的な救済活動が行われた。1964年から1968年の間に、正確に分割されて、約60m上方の丘に移築された。このことが、世界遺産の創設のきっかけとなった。アブ・シンベル神殿は世界遺産の象徴的な遺跡で、もちろん世界文化遺産に登録されている。アスワン・ハイ・ダムの建設によってできた人造湖のナセル湖のほとりにたたずんでいる。

ヌビア遺跡

アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群(Nubian Monuments from Abu Simbel to Philae)は、エジプト南部のナイル川流域にある、古代エジプト文明の遺跡。1960年代、エジプトでナイル川流域にアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がったが、このダムが完成すると、ヌビア遺跡が水没する危機が懸念された。これを受けて、ユネスコが、ヌビア水没遺跡救済キャンペーンを開始。世界の60ヶ国の援助により、技術支援、考古学調査支援などが行われた。これがきっかけとなり、開発から歴史的価値のある遺跡、建築物、自然等を国際的な組織運営で守ろうという機運がうまれ、1972年11月16日、ユネスコのパリ本部で開催された第17回ユネスコ総会で、世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)が満場一致で成立。1975年、20ヶ国が条約締結し正式に発効した。ヌビア遺跡群も1979年、世界遺産(文化遺産)に登録された。

全てはナイル川から始まった


 

ギリシャ様式

ドーリア式・イオニア式・コリント式など、柱と梁からなる直線的な造り。神殿に代表される、重厚で均整のとれた様式。列柱建築という言葉にあるようにギリシアの建築物は、柱が多く狭い間隔で並んでおり、その柱の間を梁とする石材が載っている。梁とする石材の大きさに限界があり、神殿のような大きな建築物には、必然的に多くの柱が必要とされた。

パルテノン神殿

ギリシャ、アテネ


Photo from wikipedia.

 

パルテノン神殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 12:41 (UTC)


パルテノン神殿Parthenon)は、古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に建設されたアテナ神を祭る神殿。現在残る神殿はペルシャ戦争後に建設されたもので、長さ68.7m、幅30.6mの周柱式神殿。通例、処女神殿と訳されるが、古代ギリシア語では、パルテノスは単に若い娘を意味する。古典時代のギリシア建築の傑作のひとつ。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

パルテノン神殿は、外部を囲む柱はドリス式オーダーだが、西側の後陣内部ではイオニア式オーダーの様式を取り入れている。それまでの方式では、一つの建築に様式を混在させることはなかった。神像の安置された内陣は、コの字型に上下2段のドリス式オーダーが配置され、アテナ神の格調高さを補強したが、これは今日では殆ど残っていない。

パルテノン神殿

 

リンドスのアクロポリス

ギリシャ、ロードス島

Photo from wikipedia.

リンドスのアクロポリス

アクロポリス、というのは「1番高い丘」という意味。
リンドスのアクロポリス(Acropolis of Lindos)は その名の通り眺めのよい丘の上に立つ。
ここから見るリンドスビーチの美しさは恐らく世界一。文句なしの絶景。

紀元前8〜6世紀頃に栄えた、3つの古代ポリスの1つで、神殿跡にはドリス式の円柱が建っている。

字幕は最高の日本語

 

ポセイドン神殿

ギリシャ、スニオン岬

ポセイドン神殿

スニオン岬の頂上にはポセイドン神殿の16本の白い大理石の柱が美しく並んでいる。

アテネから南に約70キロのスニオン岬は、夕日を眺める最高のスポットだ。

神殿からの日没時刻は季節によって大きく変わる。

7・8月には21時頃
9月では19時半頃
3月では17時半頃


 

ローマ様式

建築技術が発展したローマでは、小さな石材やレンガを組み合わせた「アーチ」や「ドーム」の利用により、ギリシアの建築物より柱の数を少なくして、空間を確保できるようになった。
ドームの典型は、ローマのパンテオン。ここでは、直径も高さも43.2mという大空間が造りだされ、頂部には直径7mの穴が開いている。

パンテオン

イタリア、ローマ

 
パンテオン正面 パンテオンのドーム
パンテオン
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取得日時: 2010年7月4日 12:43 (UTC)

パンテオン(Pantheon)は、ローマ市内のパラティヌスの丘に建造された神殿。元々はさまざまなローマ神を奉る万神殿であった。

最初のパンテオンは紀元前25年、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近マルクス・ウィプサニウス・アグリッパによって建造された。ローマ市内の建築物についてアウグストゥスとアグリッパは明確な役割分担を持っており、アグリッパが建造した神殿はこのパンテオンのみである。このためパンテオンはもともとアウグストゥスを奉ることを予定していたが市民の反発を避けるため万神殿に変更されたとの説もある。このパンテオンは後に火事で焼失している。

2代目のパンテオンは118年から128年にかけて、ローマ皇帝ハドリアヌスによって再建された。現在ローマで見ることができるのはこの再建されたパンテオンである。 建物は、深さ4.5mのローマン・コンクリート基礎の上部に直径43.2m の円堂と半球形のドームが載った構造で、壁面の厚さは6mに達するが、高さによって材質を使い分けており、ドーム上部は凝灰岩と軽石を素材として用い、その厚さは1.5mに減じる。

床からドーム頂部までの高さは直径と同じ43.2mで、頂上部分には採光のための開口部があり、ドームの質量を感じさせない。ローマ神が信じられなくなったあとも、この象徴的な空間性によって、608年頃にはキリスト教の聖堂となり、破壊を免れた。建物自体が非常に改築されにくいものだったので、この荘厳な空間は、今日でも見ることができる。

ラファエロの墓もここにある。

「天使と悪魔」のテーマによるローマ市内観光

 

コロッセオ

イタリア、ローマ

コロッセオ
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取得日時: 2010年7月4日 12:45 (UTC)

コロッセオ (Colosseo) は、古代ローマ時代の建造物。ローマ帝政期に造られた円形闘技場で現在ではローマを代表する観光地になっている。 コロッセオはラテン語でコロッセウム (Colosseum) と言い、観光では「コロッセオ」、歴史では「コロッセウム」を使うが同じ物を指す。また、英語で競技場を指すcolosseumや、コロシアムの語源ともなっている。

コロッセオはネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地に建設された。人工池は水を抜けばすでに掘り下げられていたので基礎工事をいくらか省略することができた。工事はウェスパシアヌス治世の75年に始まり、ティトゥス治世の80年から使用されるようになった。完成したのはドミティアヌスの治世中である。

フラウィウス朝の皇帝が建設者であることから「フラウィウス闘技場」が本来の名前である。しかし、ネロ帝の巨大な像(コロッスス)が傍らに立っていたためコロッセウムと呼ばれるようになったといわれている。1900年を越えた現在ではローマはイタリアの一都市となってしまったがコロッセオは今もって古代ローマの象徴でありつづけている。

長径188m短径156mの楕円形で高さは48mで45,000人を収容出来た。また、天井部分は開放されているが、日除け用に布を張る設備があった。皇帝席には一日中直射日光が当たらないように設計されており、また一般の観客席についても一日に20分以上日光が当たらないように工夫がなされていた。

初期においては競技場に水を張り、海戦を模した戦いを上演することが可能であったが、後には「迫」のような複雑な舞台装置を設置したために、このような水を使った演出は不可能となった。

中世を通じてコロッセオに使用されている建材は他の建築物に流用され続けた。つまり一種の採石場とされていたわけである。その大理石はサンピエトロ大聖堂にも使用されている。それにもかかわらず往時の姿をとどめているのは、迫害されたキリスト教徒がここで殉教したと伝えられていた為、一種の聖地となっていたからである。しかし、キリスト教徒が迫害されたという明確な根拠はない。ローマ教皇ベネディクトゥス14世によりコロッセオは神聖であるとして保存されるようになった。現在外周は半分程度が残っている。


 

ビザンチン様式

アヤ・ソフィア大聖堂

トルコ、イスタンブール


Photo from ウィキペディア

キリスト教のモザイク画が残る聖堂内部
アヤソフィア
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取得日時: 2010年7月4日 12:47 (UTC)

アヤソフィア(トルコ語 : Ayasofya)は、トルコのイスタンブルにあるビザンティン建築の代表的遺構である。同名の建築物は、ギリシャやトルコなどかつての東ローマ帝国(ビザンティン帝国・ビザンツ帝国)領の各地に数多く残されているが、単にアヤソフィアと言った場合、イスタンブルのアヤソフィアをさすことが一般的である。元来の名称であるハギア・ソフィアはギリシャ語で聖なる英知を意味し、その中世ギリシャ語の発音アヤ・ソフィアがトルコ語名アヤソフィアの由来である。日本では聖ソフィア大聖堂聖ソフィア寺院などとも呼ばれる。

1985年、「イスタンブール歴史地域」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録された。

世界のクーポラ(CUPOLA)

バシリカが長方形なのに対して、円形、四角形、六角形などにまとめられ、普通中央に丸屋根
(クーポラ)
を持つ。東方世界で多く好まれ、エルサレムやギリシャなどで盛んに建造された。
いわゆるビザンチン様式の基本
世界の代表的なクーポラをその大きさの順に並べると

     1位:アヤ・ソフィア寺院(イスタンブール)
     
2位:サンピエトロ大聖堂(バチカン)
     
3位セントポール寺院(ロンドン)
     4位:サンタ・マリア・デル・フィオーレ(フィレンツェ)
     5位:イサク寺院(サンクト・ペテルブルグ)の順になる。


サン・マルコ寺院

イタリア、ベニス

サン・マルコ寺院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 12:49 (UTC)

サン・マルコ寺院(Basilica di San Marco)は、福音記者マルコにささげられたイタリアのヴェネト州の州都ヴェネツィアで最も有名な大聖堂である。

ビザンティン建築を代表する記念建築物であるとされるが、その当時、コンスタンティノポリスで500年以上も前に流行した形式を採用している。サン・マルコ広場(Piazza San Marco)に面して建ち、ドージェの館であるドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)に隣接し繋がっている。

1807年からはヴェネツィア大司教座が置かれている。「サン・マルコ寺院」という呼び名は人口に膾炙しているが、カトリック教会の大聖堂であるため、本来は「寺院」というより「大聖堂」というのが適切である。

サン・マルコ聖堂は東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスにあった聖諸使徒大聖堂を模して建てられたといわれている。1090年代に建設された聖堂は十字形平面で、中央部に円蓋を持つ典型的なクロス・ドーム形式で、その意味では由緒正しいビザンティン建築である。統領にとって宮廷礼拝堂のような役割を持っていたので、12世紀後半からはグラード司教の主教座大聖堂として機能した。

 

アルハンブラ宮殿

スペイン、グラナダ

 

ヘネラリーフェ、植え込みのアーチ アラヤネスのパティオ
アラヤネスとは池の両側に植えられている天人花のこと
ライオンの中庭(パティオ)では
12頭のライオンが噴水を支えている
白い雪をいただくシェラネバダの山並みと
丘の上にそびえるアルハンブラ宮殿

 

アルハンブラ宮殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 12:51 (UTC)

アルハンブラ宮殿は、イベリア半島がムスリムの勢力圏内にあった時代に建設された壮麗な宮殿。

スペインのグラナダにある。「アルハンブラ」とは、アル・ハムラすなわち「赤いもの」を意味するとされるが、これについては建築に使われた煉瓦の色であるとか、宮殿が赤い漆喰で覆われていたからなど色々と言われている。スペイン語表記ではAlhambraと綴り、「アランブラ」と発音する。

グラナダ市の南東部には、馬の背のような形をした丘があり、丘の頂上部は長さ740m、幅205mにわたって平坦になっていた。アルハンブラ宮殿が建設されたのは、この平坦な部分である。夏場非常に暑いと言われるグラナダの中でもとても涼しい場所に位置している。

アルハンブラ宮殿(和田フォト)


 

ロマネスク様式

ロマネスク建築はフランスなどを中心に11世紀以降の中世ヨーロッパで発達した。イベリア半島にまで進出したイスラム勢力から失地回復すべくレコンキスタの時代を迎えるこの時代、聖ヤコブ(12使徒の一人、スペイン名サンチアゴ)の遺骨が、スペイン北西部で発見され聖地となり、聖地を参る巡礼の旅がブームとなった。

フランスからピレネー山脈を越えてサンチアゴに至る巡礼路沿いには多くのロマネスク様式の教会や修道院が発展した。石積みの技術がまだ発達していなかったため、窓が小さく壁が厚いのが特徴。代表例としては、なんといっても聖地、サンチアゴ・デ・コンポステラの大聖堂が挙げられる。

ピサ大会堂

イタリア、ピサ


Photo from http://www.geocities.jp/bane2161/eu-1.html

 
ピサのドゥオモ広場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 12:53 (UTC)

ピサのドゥオモ広場(-ひろば)は、イタリアにある世界遺産の物件名である。

大聖堂(ドゥオモ)は、緑の芝生が生える広場の中央にそびえる。都市国家であったピサが、1063年にパレルモ沖でサラセン艦隊を破ったことを記念して建築を始めたといわれる。

建物の構造は、奥行きが約100m、幅約30mで、上から眺めるとラテン十字の形をしている。内部は、円柱が密に並び、五廊式となっている。使用された円柱の多くは戦利品として、パレルモの古代遺跡から運ばれたものともいわれ、内装はビサンティン様式の影響も見える。

建物内部にはピサの人々に愛された、聖ラニエリハインリッヒ7世の墓がある。

ガリレオのランプは、身廊のほぼ中央に吊り下がっているブロンズ製のランプで、ガリレオがこのランプの揺れをみて振り子の等時性を発見したと伝わっているが、これも事実ではないと考えられている。

説教壇は、14世紀の始め頃に作られた、イタリア・ゴシック様式を代表する彫刻として知られている。

 

サン・フランチェスコ聖堂

イタリア、アッシジ


Photo from wikipedia.

アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
取得日時: 2010年7月4日 12:53 (UTC)

サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)は、アッシジに生まれ、死後に聖人に列せられたアッシジのフランチェスコの功績をたたえるために建設されたといわれている。1228年に教皇グレゴリウス9世によって建築が始まり、1253年に一応の完成をみたと言われている。また建築に際してはフランチェスコの弟子であったエリアの働きかけが大きかったといわれている。その後、何度も改修が行われて現在の姿になった。

聖堂は、町の北西の斜面の上に建ち、斜面を有効に利用するため建物は上下二段に分かれている。上堂部分はゴシック様式、下堂の部分はロマネスク様式と異なっている。聖堂にはチマブーエ、ジョット、シモーネ・マルティーニなどの画家の手になるフレスコが多数描かれ、上堂内部はルネサンス初期の画家ジョットによる聖人フランチェスコの生涯、28の場面を描いたフレスコ画が、また下堂には『玉座の聖母と4人の天使と聖フランチェスコ』がそれぞれ一番の見所である。

1997年9月26日に発生したウンブリア・マルケ地震で聖堂の建物は大きく損傷してしまったが、ボランティアによる修復工事などにより、2000年にはほぼ元の形にもどった。


 

ゴシック様式

11〜12世紀、都市に流入した多くの人々のための救いの場所として大聖堂は「巨大な聖書」だった。中世の巡礼路沿いの辺鄙な場所にあったロマネスク建築とちがって、ゴシックは都市の大教会のための建築であった。急増した余剰人口は都市に集まり、多くの人々を満たす大教会が必要とされてきたのだ。
ゴシック建築は、12世紀後半から花開いたフランスを発祥とする建築様式である。高さへのあこがれ、そして荘厳さを演出するため、天に向かって伸びる直線的な尖塔が多いのが特徴。
フライング・バットレス(飛び梁)の発明により、高く大きなステンドグラスが可能になり、教会内は、光溢れる空間となりました。「もっと高く、もっと光を!」
パリのノートルダム寺院、サント・シャペル、シャルトルの大聖堂など美しいステンドグラスの教会が、その代表。

ノートルダム大聖堂

フランス、パリ

ノートルダム大聖堂
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取得日時: 2010年7月4日 13:11 (UTC)

ノートルダム大聖堂(Cathedrale Notre-Dame de Paris、ノートルダム寺院とも) はゴシック建築を代表する建物であり、フランス、パリのシテ島にある。「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。

 

シャルトル大聖堂

フランス、シャルトル


向かって右側の塔(南の鐘楼)は12世紀ロマネスク様式の傑作。
向かって左側の塔(北の鐘楼)は4世紀後の16世紀のゴシック建築。

シャルトルブルーとして有名なステンドグラス
「青い聖母の窓」別名「美しき絵ガラスの聖母」
シャルトル大聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 13:13 (UTC)

シャルトル大聖堂(−だいせいどう、フランス語名:Cathedrale Notre-Dame de Chartres)はフランスの首都パリからおよそ50マイルほど離れた都市シャルトルに位置し、フランス全土において最も美しいゴシック建築のひとつと考えられている大聖堂。1979年にユネスコの世界遺産に登録されている。大聖堂はカトリック教会の教会州、シャルトル教区を置く。

 

ケルン大聖堂

ドイツ、ケルン


Photo from http://wadaphoto.jp/kikou/doitu5.htm

ケルン大聖堂
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取得日時: 2010年7月4日 13:16 (UTC)

ケルン大聖堂(―だいせいどう、独:Kolner Dom)は、ドイツのケルンにあるゴシック様式の大聖堂。正式名称は、ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂(Dom St. Peter und Maria)。ゴシック様式の建築物としては世界最大であり、現在はカトリック教会の管理下にある。

現存の大聖堂は3代目で、初代が完成したのは4世紀のことであった。正方形の建物で、最も古い聖堂として知られていた。

2代目は818年に完成し、12世紀後半に東方三博士の聖遺物がおかれたことで多くの巡礼者を集め、ケルンの発展に貢献した。1248年の4月30日に火災により消失した。3代目は2代目が消失した年である1248年に建設がはじまった。しかし、16世紀に入って財政難から一度工事が途絶し、正面のファサードの塔がひとつしかない状態が続いた。建設が再開されるのは19世紀に入ってからだった。

ナポレオン戦争の影響によりドイツでナショナリズムが高揚する中、中世ドイツに自民族の伝統を探し求める動きが強まった。建築ではゴシック・リヴァイヴァルの潮流が強まり、建設途中であったケルン大聖堂に注目が集まったため、1842年に建設が再開され、もうひとつの塔の完成が急がれた。全てが完成したのは建設開始から600年以上が経過した1880年のことであり、高さが157mの大聖堂はアメリカのワシントン記念塔(高さ169m)が完成する1884年まで建築物としては世界一の高さを誇った。「皇帝の鐘」と称される鐘が南塔にとりつけられたが、第一次世界大戦の際に没収され、溶かされたのちに武器として用いられた。

大聖堂は第二次世界大戦時に14回もの爆撃を受けたが崩れなかったため、1956年までに復旧工事が行われ、元の状態に復元された。

1996年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたが、周辺の新建築物による景観破壊の危機にさらされ、2004年に危機遺産に指定された。

2005年8月18日にはローマ教皇ベネディクト16世が自ら大聖堂を訪問している。

 

ルーアン大聖堂

フランス、ルーアン

フランス一の高さを誇る尖塔 日曜日はミサで大混雑
ルーアン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 13:20 (UTC)

12世紀に着工し、400年の歳月かけて完成したフランボワイヤン・ゴシック様式の教会。
高さ150mの教会の尖塔は、フランス一番の高さを誇る。
(ヨーロッパ一高いのは、ドイツにあるウルムの大聖堂で、161メートル)

この教会はクロード・モネの絵画の主題としても有名だ。
モネは1892年から1894年の間、ほとんどこのルーアン大聖堂の西側ファサードの絵に打ち込んだ。

モネは1892年2月、大聖堂向かいの建物の2階に部屋を借り翌年の早春まで、ほぼ同じ構図で30点以上の絵を描いた。そのうちの5点はパリのオルセー美術館で見ることができる。

モネが印象派の名前の由来ともなった名画「印象・日の出」を描いたル・アーブルの港は、ルーアンから更にセーヌ川を下ったところにある。

 

ウエストミンスター寺院

英国、ロンドン

 

ウェストミンスター寺院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 13:23 (UTC)

ウェストミンスター寺院 (Westminster Abbey) は、イギリスのロンドンウエストミンスターにあるイギリス国教会の教会。聖ペテロ修道教会。戴冠式などの王室行事が執り行われ、内部の壁と床には歴代の王や女王、政治家などが多数埋葬されている。墓地としては既に満杯状態で、新たに埋葬するスペースはもはやなくなっている。国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)が隣接している。

イギリス中世の大規模なゴシック建築である。11世紀にエドワード懺悔王が建設し、1066年以降、英国国王の戴冠式が行われている。1245年、ヘンリー3世が再建を決め、フランスの建築家を招き、フランスのゴシック建築にならって現在の寺院を建て始めた。14世紀末までにおおよそ完成するが、正面部分は16世紀初め、塔は17世紀、と長期間にわたって建設されている。

多くの学校や職場で使用されている始業、終業のチャイムの音階は、同寺院の鐘の音が元となっている。

1987年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。

(カトリックのウェストミンスター大聖堂(Westminster Cathedral)と区別すること。)

 

ミラノ大聖堂

イタリア、ミラノ


Photo from http://www.geocities.jp/gontahome06/italy/indexhp.htm

ミラノのドゥオーモ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 13:26 (UTC)

ミラノのドゥオーモ(Duomo di Milano)は、ロンバルディア州都ミラノの象徴である。 都市の中心の同名のドゥオーモ広場に位置し、初期の聖母マリアに献納されているドゥオーモである。


 

ルネサンス様式

ルネサンス様式は、イタリアのフィレンツェで1420年代に始まり、17世紀初頭まで続いた「端正で華麗」な建築様式。 
円柱やアーチ塔など古代ローマ時代の建築様式を取り入れ、調和と均整を重視し、シンプルさが特徴。

サンタ・マリア・デル・フィーオーレ

イタリア、フィレンツェ


Photo form http://italying.zening.info/firenze/santa_maria.htm

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 13:28 (UTC)

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(―だいせいどう、Santa Maria del Fiore)は、イタリアのフィレンツェにあるキリスト教・カトリックの教会。フィレンツェの大司教座聖堂であり、ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。教会の名は「花の(聖母)マリア」の意。

 

フォンテーヌブロー宮殿

フランス、パリ

 

1814年4月20日、ナポレオンが集まった告別の辞を述べた馬蹄型階段

「兵士諸君、諸君とは長年苦楽を共にしてきたが、ここで別れねばならぬ。 20年間、私は諸君と共に一路栄光の道を歩いてきた。 この数週間に諸君が示してくれた勇気と忠誠を私は永久に忘れないだろう。 −中略−最後に、心から諸君を抱擁する。 親愛なる戦友諸君、さようなら。 別れに際してせめて、軍旗にキスすることを許してもらいたい」
そしてナポレオンはエルバ島に流されていった。 

フォンテーヌブロー宮殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 13:31 (UTC)

フォンテーヌブロー宮殿(仏:Palais de Fontainebleau)はセーヌ=エ=マルヌ県に在する、フランスで最も大きな宮殿。フォンテーヌブロー城 (Château de Fontainebleau) とも呼ばれる。宮殿の現在の姿は多くのフランス王による築城の結実であり、基本的な建築構造はフランソワ1世による。建物は中庭を囲むように広がり、フォンテーヌブローの街がかつての王の狩猟場(フォンテーヌブローの森)跡を取り囲むように発展している。

 

サン・ピエトロ大聖堂

バチカン市国

天国の鍵を持つ聖ペテロ(岩)

シモン=ペテロ=ペトロ=ピーター
ピエール=ペーター=ペドロ=ピエトロ=ピョートル

 

サン・ピエトロ大聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 13:34 (UTC)

サン・ピエトロ大聖堂(イタリア語:Basilica di San Pietro in Vaticano)はローマのバチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山。サン・ピエトロは「聖ペトロ」の意で、キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みに由来する。サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂、セント‐ピーター寺院などと表記されることもある。

カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所があったところに建立されたとされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。床面積2万3000平方m。北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などがあり、国全体が『バチカン市国』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

サン・ピエトロ大聖堂はローマの四大バジリカ(古代ローマ様式の大聖堂)の一つに数えられる。四大バジリカとはこのサン・ピエトロ大聖堂とサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロ大聖堂)である。さらにサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖ラウレンツィオ大聖堂)を加えて五大バジリカと呼ぶこともある。

 

世界のクーポラ(CUPOLA)

バシリカが長方形なのに対して、円形、四角形、六角形などにまとめられ、普通中央に丸屋根
(クーポラ)
を持つ。東方世界で多く好まれ、エルサレムやギリシャなどで盛んに建造された。
いわゆるビザンチン様式の基本
世界の代表的なクーポラをその大きさの順に並べると

     1位:アヤ・ソフィア寺院(イスタンブール)
     
2位:サンピエトロ大聖堂(バチカン)
     
3位セントポール寺院(ロンドン)
     4位:サンタ・マリア・デル・フィオーレ(フィレンツェ)
     5位:イサク寺院(サンクト・ペテルブルグ)の順になる。

 

ルーヴル宮殿

フランス、パリ

ルーブル宮殿の壁には“L”の頭文字が刻まれている

ルーヴル宮殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 13:36 (UTC)

ルーヴル宮殿(Palais du Louvre)はパリにあるフランス王の築いた宮殿である。

元々、中世の城館であったが、フランソワ1世が新たに建設することを計画した。3世紀にわたって建設が続けられたため、各時代の建築様式を見ることができる。

現在はルーヴル美術館として利用されている。

 


 

バロック様式

バロック建築は、1590年頃から、国家権力の揺り戻しで、教会や国王の絶対的力を誇示する重厚な様式として盛んになった。ルネサンスを基本とし、より豪華さと躍動感を求め、複雑さや多様性を示すことを特徴とする。 
サンピエトロ寺院のコロネード(列柱廊)やトレビの泉がその代表で、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿、ウィーンのシェーンブルン宮殿などが挙げられる。

セント・ポール寺院

英国、ロンドン

パウロ=ポールに捧げられた教会

(イエス死後に信仰の道に入ってきたためイエスの直弟子ではなく、
「最後の晩餐」に連なった十二使徒の中には数えられない)

セント・ポール大聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 13:38 (UTC)

セント・ポール大聖堂(-だいせいどう、St Paul's Cathedral)は、ロンドンの金融街、シティにある国教会の大聖堂で、聖パウロに捧げられている。

1666年のロンドン大火の後、建築家クリストファー・レンにより再建されたバロック建築で、1710年完成。大ドームと正面に2つの塔を持つ。大聖堂前にはアン女王の銅像が建てられている。

先端にあるドームの頂上の塔まで上ることが出来るが、エレベーターなどはないため全部階段であがることになる。かなりきつい道のりだが、頂上からはロンドン市内が一望できるのでトライする価値はある。

 

サン・ピエトロ広場

バチカン

サン・ピエトロ広場の噴水
サン・ピエトロ広場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 13:41 (UTC)

サン・ピエトロ広場(サンピエトロひろば、イタリア語:Piazza San Pietro)はバチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山、サン・ピエトロ大聖堂の正面にある楕円形の広場。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの設計により、1656-67年に建設された。4列のドーリア式円柱による列柱廊と140体の聖人像に囲まれた広場の中央にオベリスクが立つ。

 

ヴェルサイユ宮殿

フランス、ヴェルサイユ

ヴェルサイユ宮殿、鏡の間のシャンデリア
ヴェルサイユ宮殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 13:44 (UTC)

ヴェルサイユ宮殿(仏:Chateau de Versailles) は、1682年、フランス王ルイ14世(1638年-1715年 在位1643年-1715年)が建てたフランスの宮殿。イヴリーヌ県ヴェルサイユにある。ベルサイユ宮殿とも表記される。

フランス絶対王政の象徴的建造物。バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名。

パリの南西22キロに位置する。主な部分の設計はマンサールとル・ブランによっておこなわれ、庭園はル・ノートルによって造営された。


 

ロココ様式

18世紀、教会が世俗化し、国家権力が倦怠感を漂わせた時代にルイ15世のフランス宮廷から始まった耽美的で官能的な様式。繊細で女性的・耽美的であり、後期バロック建築を更に爛熟させた建築様式である。優美で艶やかな内装のヴィースの巡礼教会のように、室内装飾に特徴がある。

ヴェルサイユ宮殿王室礼拝堂

フランス、ヴェルサイユ


この礼拝堂は、王家の子供の誕生のお祝いや王子達の結婚式に使われた。
1770年マリー・アントワネットとルイ16世の結婚式もここで行われた。

2階柱はコリント式で、前に見えるのは祭壇上にしつらえられたクリコ作のパイプオルガン。

リンク:
  ---- ほろびゆくものは美しい
   Tabi-taroの言葉の旅 「マリーアントワネットの結婚式」
    http://blog.goo.ne.jp/tabi-taro/e/4bfe75a7d90154cb68a4579073747972

わらしべランド*ベルサイユ宮殿

 

ヴィース巡礼教会

ドイツ、ヴィース

ヴィースの巡礼教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 13:52 (UTC)

1738年、ある農家の夫人がシュタインガーデン修道院の修道士が彫った「鞭打たれるキリスト」の木像をもらい受けたところ、6月14日このキリストの像が涙を流したという。教会ではこれを奇跡とは認定しなかったが、この噂は「ヴィースの涙の奇跡」として広まり、巡礼者が農家に集まるようになった。1740年には牧草地の小さな礼拝堂に移したが、巡礼者は増える一方であった。そこでシュタインガーデン修道院が先頭に立ち、一般からの浄財を募るなどして建設資金を捻出し、1746年から建造されたのがこの教会である。1754年に献堂式が行われ、最終的に完成したのは1757年であった。設計はドイツ・ロココの完成者として名高いドミニクス・ツィンマーマンで、それまでにも数多くの建築を手がけていたが、この教会には特別な愛情と情熱を傾け、完成後もこの教会から離れることを嫌い、すぐ近くに居を移し、亡くなるまでこの教会を見守り続けた。

外観は牧場の中に建つ何の変哲もない教会だが、ロココ様式の内部の装飾はヨーロッパ随一と言われており、特にその天井画は「天から降ってきた宝石」とも讃えられている。ロマンティック街道、ドイツ・アルペン街道の観光スポットの一つとなっている。

1983年、世界遺産に登録されている。

 

ネオ・バロック様式

オペラ座(ガルニエ)

フランス、パリ

ガルニエ宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 13:55 (UTC)

ガルニエ宮Palais Garnier)は、フランスの首都パリにある歌劇場である。単にオペラ座l'Opéra)と呼ばれることもある。パリ国立オペラの公演会場の一つである。

外観および内装はネオ・バロック様式の典型と言われ、たくさんの彫刻を飾り、華美な装飾を施した豪華絢爛たるものである。また建材には当時、最新の素材とされていた鉄を使用した。これによって、従来不可能とされていた巨大な空間を確保することに成功した。2167の座席が5階に配分されており、観客収容規模でも当時最大の劇場であった。


 

新古典主義様式(クラシック・リバイバル)

新古典主義とは、ゴシック・リヴァイヴァル建築と言われ、18世紀後半から19世紀にかけて興ったゴシック建築の復興運動である。別名、ネオ・ゴシック建築とも呼ばれ、産業革命を迎えたイギリスを発祥の地とし、18世紀後半にはフランス、ドイツに、その後イタリア、ロシア、アメリカに広がった。ロココの貴族趣味の反動で、正統派への回帰から古代建築への研究が花開いた。

大英博物館

英国、ロンドン

大英博物館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時:2010年7月4日 13:57 (UTC)

世界最大の博物館のひとつで、古今東西の美術品や書籍など約700万点が収蔵されている(うち常設展示されているのは約15万点)。収蔵品は美術品や書籍のほかに、考古学的な遺物・標本・硬貨やオルゴールなどの工芸品、世界各地の民族誌資料など多岐に渡る。イギリス自身のものも所蔵・展示されている。余りに多岐にわたることから、常設展示だけでも一日で全てを見ることはほぼ不可能である。

 

パリ凱旋門

フランス、パリ

エトワール凱旋門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 14:00 (UTC)

エトワール凱旋門(仏語Arc de triomphe de l'Etoile)(−がいせんもん)は、フランス・パリのシャンゼリゼ通りの西端、シャルル・ド・ゴール広場にある凱旋門である。

 

ブランデンブルク門

ドイツ、ベルリン

ブランデンブルク門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 14:03 (UTC)

1868年に城壁が取り壊されるまでベルリンは星型要塞に囲まれた城郭都市だった。ブランデンブルク門は18箇所あった都城の門のひとつであり、残りの門が城壁の取り壊しとともに姿を消していく中、唯一残されたのがブランデンブルク門である。現在、城壁や都城の門は跡形もなくなったが、ベルリンには『〜Tor(門)』という地名はそこかしこに残されている。どの地名もその門の先の都市の名前が門の名前になっており、ブランデンブルク門の場合はホーエンツォレルン家(ブランデンブルク辺境伯から、プロイセンの地を得てプロイセン王国の王、ドイツ帝国の皇帝となった)がベルリンに遷都するまで、ブランデンブルク辺境伯国の首都だったブランデンブルクに通ずる道を扼する役割を担っていた。

 

イギリス国会議事堂

イギリス、ロンドン

ウェストミンスター宮殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
取得日時: 2010年7月4日 14:06 (UTC)

ウェストミンスター宮殿(Palace of Westminster)は、英国ロンドンの中心部テムズ川河畔に存在する宮殿。現在英国議会が議事堂として使用している。併設されている時計塔(ビッグ・ベン)と共にロンドンを代表する景色として挙げられる。