「ピアノ協奏曲第一番第一楽章」は Pierre R. Schwob 氏のClassical Archivesの許諾により、MIDIファイルを添付しております。 |
チャイコフスキー |
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歴史的快挙(2002年6月23日) 第12回チャイコフスキー国際コンクールの授賞式が23日、モスクワ音楽院大ホールで開かれ、ピアノ部門で日本人として初優勝した上原彩子さん(21)=岐阜県各務原市=に金メダルや合計3万ドルの賞金が授与された。 プーチン大統領も出席した授賞式後のコンサートで上原さんは、決勝で演奏したチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を披露。 (モスクワ共同)(毎日新聞) |
私がモスクワを訪れたのは5月29日でした。 |
クリン、チャイコフスキー博物館 |
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チャイコフスキーが晩年を過ごした家 |
Trapeznaya教会 |
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チャイコフスキーの家博物館内部に |
モスクワ、チャイコフスキー音楽院 | ||
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音楽院の前には チャイコフスキーの銅像が・・・ |
5月31日のプログラムを 告げるポスター |
チャイコフスキー音楽院大ホールでの ピアノコンサート 出演のポストゥニコワさん |
サンクト・ペテルブルク チャイコフスキーゆかりの地 |
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アレクサンドル・ネフスキー修道院内の チフヴィン墓地にある チャイコフスキーの墓 |
ピョートル・チャイコフスキーが 亡くなった家 |
チャイコフスキーの生涯 チャイコフスキーの生涯は、「小さなチャイコフスキー」のページよりその要約を転載させていただきました。 誕生、少年時代 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、1840年5月8日ロシアのウラル地方のヴォトキンスクで鉱山技師イリヤ・ペトロヴィチ・チャイコフスキーと妻アレクサンドラ・アドレエブナの間に7人兄弟の次男として生まれました。 8歳のとき、一家はペテルブルグへ移りました。最初にピアノレッスンを始めたのもここでした。 1854年6月に母親アレクサンドラがコレラに感染して、40歳という若さでこの世を去ってしまったのです。特に母親っ子だったチャイコフスキーは心に大きな打撃を受けたのでした。 役人、ペテルブルグ音楽院時代 チャイコフスキーは、1861年役人勤務のまま音楽教室に入学したのです。音楽教室でルービンシテインから「君は才能はあるが音楽に対する姿勢がいい加減だ。」との忠告を受けました。このひとことが、本格的に音楽家の道への決意を固めるきっかけとなったのです。 ペテルブルグ音楽教室は、1862年9月ペテルブルグ音楽院となり、チャイコフスキーは正式に音楽院の学生となりました。 モスクワ時代 音楽院を卒業してからまもなく、チャイコフスキーはアントン・ルービンシテインの弟でピアニストのニコライ・グリゴーリエヴィチ・ルービンシテインから招かれ、1861年1月にモスクワに移りニコライの家に下宿することになりました。 生涯、「作曲家が自分を表現する手段は交響曲かオペラがふさわしい」との信念を持っていたチャイコフスキーは、苦難の末、「第一交響曲」を1866年に完成したのでした。 オペラ歌手との恋 1868年の春、モスクワを訪れたイタリア歌劇団のなかに際立ったメゾ・ソプラノの歌手がいました。彼女の名はデジーレ・アルトー。チャイコフスキーは彼女の舞台に接した時から完全にとりこになってしまいました。いつしかお互いに結婚を考えるようになりました。 ある性癖の悩み 実はチャイコフスキーはいつの頃か同性愛の性癖に悩まされていました。。 フォン・メック夫人との出会い 1876年の暮れ、チャイコフスキーは以前に作曲を依頼していたある女性崇拝者からの手紙を受取りました。 これが、史上類をみない長い文通のはじまりでした。 彼女との交際はそれから14年間も続きましたが、ふたりは一度も会うことがなく、言葉を交わすことがなく、ただ文通で付き合うという不思議な関係でした。この約束は晩年に破局が訪れるまで忠実に守られたのです。 不幸な結婚 1877年、バレエ「白鳥の湖」の初演、「第4交響曲」の作曲にとりかかっていたチャイコフスキーのもとに、アントニーナ・イワノーヴナ・ミリュコーヴァという女性からの突然のラブレターが届き彼を驚かせました。 彼の同性愛的な性癖に対する世間の目がうるさく思えるようになってきた時期でもあり、彼女の熱意に負けて1877年7月19日ついに結婚することになってしまいました。しかし知性とか芸術とかの領域にはおよそ無縁としか思えなかった妻の姿はチャイコフスキーにとって憎悪そのものでした。 ついに、チャイコフスキーが発狂寸前でモスクワ川で自殺未遂。 スランプ、円熟な晩年 不幸な結婚の後、何年間もロシアと西ヨーロッパの間を行き来し落ち着かない日々を送っていましたが、1885年1月、モスクワ近郊のクリンの町の近くマイダノヴォ村に家を借りて移り住みました。毎日、午前中の仕事を済ませると午後からは外出するのを日課としていました。チャイコフスキーは、この「創造的散歩」には絶えずノートを持ち歩き、5時から7時までの間を夕方の仕事時間として、ノートに書かれたアイデアを整理することにしていました。 1888年、騒々しくなったマイダノヴォを離れ、となりのフロロフスコエ村の手頃な家に住居を移しました。ここで創作意欲が高まり、自信がついたチャイコフスキーは「第5交響曲」を8月に完成し、11月に初演されました。その翌年、外国旅行にでかけ、帝室劇場から依頼されたバレエの2作目「眠りの森の美女」の作曲を夏に完成しています。1890年にはオペラ「スペードの女王」を熱狂的な情熱で仕上げたのでした。 謎めいた最期 1890年9月、フォン。メック夫人から一通の重大な手紙を受取りました。「経済的な危機に直面しているので、私たちの友情もこれで終わらせざるを得ないのです」さらに「私を忘れないで下さい。時々は思い出してください」と書き添えられていました。 精神的なショックを少しでも忘れ去るため、チャイコフスキーは仕事にのめり込みました。1891年、依頼されていたバレエ「くるみ割り人形」、オペラ「イオランタ」の創作にとりかかり、その間にアメリカに旅立ちました。カーネギーホールのこけら落しに招待され、自作の指揮をとるためでした。 しかし、アメリカに着いてみると予想をはるかに超える暖かい歓迎を受け、彼は異郷にありながら幾分和らんだ気分に浸っていました。 フロロフスコエを引き払い、再びクリンに移ったチャイコフスキーは、1893年2月、新しい交響曲に取り組み始めました。その前年に変ホ長調の交響曲を未完成のまま放棄していただけに、彼の創作への執念はすさまじいほどでした。イギリスのケンブリッジ大学から名誉博士の授与式典に参加するためヨーロッパに旅した中断の後に「第6交響曲」を8月に完成させました。 1893年10月29日、ペテルブルグで作曲者自身の手で「第6交響曲」は初演されましたが、聴衆、批評家の評判は冷たいものでした。しかし、この作品の出来に満足した彼は「全作品のうちで最高の出来栄え」と自負していました。 「第6交響曲」初演後の4、5日たった頃、チャイコフスキーは体調を崩していることに気がつきました。1893年11月7日未明、ロシアを代表する大作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは最愛の母と同じくコレラを患ったのが原因で53歳の生涯を終えたのでした。 |