スペイン女王イサベルの栄光と悲劇
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参考文献・資料
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カスティーリャ=レオン王家家系図 |
トラスタマラ王朝 |
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アルフォンソ11世(1311年〜1350年)はカスティーリャ王フェルナンド4世と王妃コンスタンサの唯一の男子で、レコンキスタを成功させ王権を強化し、正妻と愛妾の間に二人の子をもうけた。 アルフォンソ11世の二人の息子 @ペドロ1世(ドン・ペドロ=残虐王、正義王)(1334-1369)
Aエンリケ2世(1334-1379)
エンリケ2世の4世代後に誕生するのがイサベル女王である。 |
レコンキスタ |
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カスティ−リャは8世紀初頭のイスラム教徒による占領の後、キリスト教徒達が血の代償として小刻みに奪還していった土地であった。 この異教徒を追放して、イベリア半島を元のキリスト教統一国家として復活させるという願望は、中世を通じてイベリア半島キリスト教徒の内に燃え続けていた。
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イサベル1世への系譜 エンリケ2世→ファン1世→エンリケ3世→ファン2世→イサベル1世 |
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1451年 女王誕生 |
イベリア半島の中央を大きく占めるものの、何十年と無気力に存在していたカスティーリャを瞬く間にヨーロッパの一流国に仕立てあげ、武装艦隊育成やコロンブスの援助等の業績により、スペイン・ルネッサンスの名君主と賛えられつつも、君主である身と母性との板挟みに苦しんだと言われる女王........。 マドリガル・デ・ラス・アルタス・トーレス−高い塔の恋歌−という美しい名の村に、後にはスペイン建国の母とも崇められるイサベルが産声を挙げたのは、王権が貴族の頭上を越えて、その頃台頭し始めていた都市とじかに結び付きつつあった中世の終わり、正確には1451年春のことである。子供の出来る気配のない「不能の王子」と噂される皇太子の跡を継げる逞しい王子を、と切望した王や国民のもとに、やがて届いたのが王女誕生の知らせであった。 ヨーロッパはこの頃、長い中世のトンネルから近代へと抜け出そうとしていた。イサベル誕生の数年前には、グーテンベルクが最初の印刷を始め、イサベル誕生の二年後には、西ヨーロッパでは百年戦争が終結し、東ヨーロッパではトルコ軍がコンスタンティノーブルを陥落させた。 このコンスタンティノーブルの陥落は単に軍事的政治的事件にとどまらなかった。初代キリスト教ローマ皇帝より首都と定められて以来千余年、ヨーロッパ人の中に生き続けていた古い世界の影、東ローマ帝国が突然彼等の視野から消えたのであった。人間の原点に戻った新しい価値観を求める機運、ルネッサンスへの息吹が、ヨーロッパに強く感じられ出した頃であった。 日本では南北朝争乱の余波がまだ残り、足利義政が次々と起こる一揆と大名のお家騒動鎮圧に奔走していた頃のことである。 |
母、イサベル王妃 |
母と同様に「イサベル」と名付けられたこのカスティーリャ王女を待ち受けたのは、波乱に満ちた幼年時代、少女時代であった。 母イサベル王妃には既にこの頃から、一旦ある感情に捉えられると常軌を逸した行動に出る傾向が表れていた。 人々はこの新しい王妃を、ただ気性の激しい女性として困惑と共に傍観するのだが、この常軌を逸する傾向は、彼女の中で徐々にその黒い影を拡げていく。 人々は、このポルトガル女性によって、カスティーリャ王家に狂気の芽が運び込まれたことを、時と共に思い知らされるのだ。それは数年後彼女の中で顕著になり、半世紀後、彼女の孫でカスティーリャの王冠を受け継ぐファナの中に、絶望的に巣食うに到る不幸の芽であった。 それでもイサベル王妃は待望の王子を出産する。 しかし王妃の瞳の満足気な輝きも忽にして、そして永久に、消え去ることとなる。 ファン2世王は涙脆く見るからに弱々しくなり、1454年夏、人々の同情と軽蔑の中、49年の不本意な生涯を閉じる。 エンリーケ皇太子29歳、イサベル王女3歳、アルフォンソ王子はわずか8ケ月であった。 王の死は、イサベル王妃の思惑を全く狂わせたばかりではなく、彼女と二人の子供の運命を大きく変えることとなる。 即位したエンリーケ皇太子は、そりの合わなかった継母と異母弟妹を事実上宮廷から追い出してしまうのだ。母子三人はマドリガルの近くのアレバロという小さな町に、わずかな供の者と共に留まり、そこの小さな城で身を寄せ合うようにして暮らし始める。 |
アレバロ城のイサベル母子 |
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父亡きあとアレバロに追いやられて、母や弟と共にひっそりと幼年時代を過ごしたことは、王女イサベルにとって幸運だったと言わねばなるまい。宮廷の雰囲気に染まらずに成長したことは、イサベルの人格形成、ひいてはその後のスペイン史にもかなりな影響を及ぼす。 城の中で、狂った母親と寝起きを共にして育つ二人の子供たちが、長ずるに従って信仰に逃げ道を見つけ、二人して寄り添い、自分たちはしっかりしなければと唇を噛み締めながら成長したと考えると、精神の錯乱した母親はその存在によって反面教師としての大きな役割を果たしたのであろうか。 「私たちを虐げるものが後悔する日は必ず来るわ。私はこの命を懸けて闘うわ」
「カスティーリャとポルトガルは互いに絆を深め合いなさい。いつの日か、一つの国になるように」 「枯葉が落ちるようにまた一人大事な人を失った」(I) |
代母となる |
1462年2月3日、人々の好奇の芽と思惑と悪意の渦巻く中、マドリードの宮廷で王女が誕生した。 無事に赤ん坊が誕生すると、王はそれまでの悪い噂を一気に吹き飛ばす意気込みで、盛大な世継ぎ誕生の祝宴を命じた。 議会が直ちに招集され、カスティーリャ17都市の代表は、母親と同じにファナと名付けられたこの王女に対して、王位継承者としての忠誠の誓約を要求される。 慣例に従って代母となったイサベル王女は弟と共にマドリードに連れて来られた。生後間もない姪の前にひざまずいた少女はその小さな手に忠誠の証である接吻をする最初の人となる。 イサベル11歳の春であった。 自分には何の罪もないのに、王女ファナは生まれ落ちた時から人々の好奇の目に晒された。 そして人々の間に「ベルトラネーハ」という蔑称が徐々に定着してしまうのだ。これはベルトランの娘という意味である。 人々は、その頃のカスティーリャ宮廷を闊歩し、王妃に影の如く寄り添っていたベルトラン卿を赤ん坊の父だと噂し合った。 そしてその噂を肯定するかのように、王はそれまでアルフォンソ王子に与えられていた「サンティアーゴ騎士団団長」の栄誉ある称号までベルトランに与えてしまう。 これは9世紀にスペインの北西端コンポステーラでその墓が発見されたといわれる聖ヤコブ(スペイン語でサンティアーゴ)がスペインの守護神として崇められるようになって以来、騎士の最高の称号となっていた。 |
内乱からアルフォンソ王子の戴冠へ |
正統性の疑われる王女の誕生と、王がアルフォンソ王子から「サンティアーゴ騎士団長」の称号を取り上げたことは、日頃エンリーケ王の為政に不満を持つ人々に絶好な口実となった。アルフォンソ王子を手中にした反王勢力は、カスティーリャ高原のほぼ中央に位置するアビラ市に終結するや、トレード大司教の手によってアルフォンソ12世の戴冠式を執行したのであった。 衝撃的なニュースは忽ち王国の隅々にまで広まる。 国民は総てどちらかの側を選ばなければならない窮地に陥った。ブルゴス、トレード、コルドバ、セビーリャの大都市は「アルフォンソ王側につく。しかしその他の人々はこの余りにも先走った行動に反発し、エンリーケ王側に留まる。その後十余年間カスティーリャを二分する内戦の火蓋はこうして切って落とされた。 |
二人の王の狭間で |
1467年8月、両軍はオルメードで総力を挙げて戦う。 13歳のアルフォンソ王子も甲冑に身を固め、僧侶ではあるが勇壮無比な戦士でもあるトレード大司教に守られて戦場を駆け巡った。 カスティーリャは悲惨な状態に追い込まれた。「一つの町の中でも、一つの家族の中でさえも、エンリーケ王側とアルフォンソ王側とに分かれ、対立が生まれた。人々は殺気立ち、無意味な流血が繰り返され、人心は動揺した...」との歴史家の記述がある。20世紀に起こった悲惨なスペイン内戦を彷彿とさせる。 内戦はスペインの風土病であるとさえいわれる程に、カスティーリャを基盤として出来たスペインは多くの内戦を経験する。三人の人間が寄れば四つの意見が出るというスペイン、長い独裁政治の後、現在は百何十もの政党が正式に登録されるというスペイン、日本と正反対に為政者には治め難い国といわれるスペインの現状は、カスティーリャ王国の成り立ちにも一因があろう。 カスティーリャは8世紀初頭のイスラム教徒による占領の後、キリスト教徒たちが血の代償として小刻みに奪還していった土地であった。 カスティーリャという名称も、奪還した土地にイスラム教徒の再襲撃に備えて要塞用の城(カスティーリョ)をいくつも建設したことに由来するといわれる。戦いといってもゲリラ戦が主で、個人プレイがその主流であった。上からの命令を受け入れるよりも、一人一人が自己の判断で行動する性癖が、万人の間で歴史的に定着してしまったとも言える。 しかしこの内戦の結末はあっけなく終わる。 ここ何代かのカスティーリャ王に著しく欠けていた統率力の芽と責任感とを持っていたといわれ、心ある同盟軍の人々からは、期待の眼差しで見守られてきた少年は、3年前「アルフォンソ12世」として戴冠された地の近くで、15年にも満たない短い生涯を閉じたのであった。 |
歴史の表舞台へ |
皮肉な運命の位とは、イサベルを歴史の表舞台に引き出す。アビラの修道院を訪れたトレード大司教はイサベルに、アルフォンソ12世の跡を継いで、カスティーリャ女王としての戴冠を要請するのだった。 その年の9月、アルフォンソの死後2ケ月後にエンリーケとイサベル、王側と同盟軍側の和睦会見が行われた。マドリードを後にしたエンリーケとアビラを後にしたイサベルは、その二つの町の中間にあるトーロス・デ・ギサンドという小さな村で再会する。 イサベルの王位継承式はその場で執り行われ、並みいる貴族達は一人一人イサベルの前に進み、その手に忠誠の証しである接吻を贈った。イサベルは一躍、未来のカスティーリャ女王として、脚光を浴びることとなる。 |
イサベルの婿選び |
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1469年 アラゴン=カタルーニャ王子フェルナンドと結婚 王女として生まれて17年間も未婚のままでいるということは、この頃のヨーロッパでは稀であった。14〜15歳で嫁ぐのが慣習であったから。明るい色の髪と白い肌、聡明そうな雰囲気をもったイサベルには、ポルトガルのアフォンソ王、イギリスのエドワード4世の弟(これはシェークスピアの戯曲で有名になった後の悪名高いリチャード3世)、フランスのルイ11世の弟であり当時はフランスの王位継承者であったギュイエンヌ公、そして隣国アラゴンの皇太子フェルナンドから、熱心な求婚の申し込みが寄せられていた。 隣国アラゴンはほぼ同じ民族から成り、言語も酷似しており、王朝も同じトラスタマラ。皇太子フェルナンドは、イサベルと共通の曾祖父を持つまたいとこに当る。文化的な互換性は既に共通しており、この二国の合併が巧みに実現の運びとなれば、二国の国力は倍加され、ヨーロッパの政治舞台での発言権は大幅に強まることは充分に予想された。カスティーリャ人の血が流れるフェルナンド王子の父、アラゴンのフアン2世は、以前からこの二国併合の構想を抱いており、息子とカスティーリャ王女との結婚を切望していた。 反対勢力の妨害等多くの障害を乗り切った二人はバリャドリードの隣町ドゥエーニャスで、蜜月の仮住まいを始めた。後にはヨーロッパ屈指の宮廷を築く二人も、門出は貧しかった。
「私、カスティーリャ国王エンリケ4世は、妹イサベルが私に従わないとみなす。法や協定に反し私の同意なく結婚したからである。故にこの勅令をもってギサント協定を反故にする。従ってイサベルはこれより公式に王位継承者から除外される」
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カスティーリャ女王、イサベル1世の戴冠式 |
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1474年、健康の優れなかった王エンリケ4世(1425-1474)は、12月11日未明、明確な意思を表さないまま、マドリードで息を引き取る。イサベルとセゴービアで和睦してから1年後であった。父フアン2世と同様に49年の、王として、否、男としても不本意な一生ではあった。国中に話題をまき散らし幾度か針のむしろに座らされた王妃も、その半年後35歳で病死した。 異母兄エンリケ4世が没するや、イサベルは夫フェルナンド(1452-1516)と共同で王位に就いた。
12月13日早朝、喪を意味する純白の衣に身を包んだイサベルは、兄の霊に祈りを捧げた後、セゴービア城の門を出た。現在は城のすぐ正面に荘厳な大カテドラルがそびえるが、そのころはまたこの辺りは空地でトレード大司教とカブレーラ市長を先頭に街の代表者達、聖職者や貴族達が、一様に上気した面持ちでイサベルの登場を待ち構えていた。狭い石畳の路地を300m程下がった先に広がる小さな中央広場では、人々が興奮を一層あらわにし、少しでもよく見える場所に収まろうと、そこここで声を昂ぶらせていた。前夜、街の職人達が夜を徹して築き上げた木の祭壇が、その広場の中央で、人々の好奇心と期待に満ちた視線を集めていた。いよいよこれから、カスティーリャ女王イサベル1世の戴冠式が始まるのである。 「やがて、馬にまたがった女王が登場された。威厳のある美しさ、中肉中背、金髪で色白、青緑の瞳、快活できびきびした動き、整った目鼻立ち、そして暖かみのある堂々たる雰囲気を備えた女王は、時に23歳7ケ月と20日であった」と王室記録官が書きとめている。 イサベルが王座に着くと同時に、それまで押し殺していた興奮を一時に爆発させた人々の歓声が、広場を埋めつくした。城とライオンをかたちどったカスティーリャ・レオン王国の旗が澄み切った大空にひるかえり、セゴービア中の鐘という鐘が高らかに打ち鳴らされた。 後の歴史家達は、この日をスペイン近代史の始まりの日とする。長かった中世はここで終わりを告げたのである。王の去就をも左右する程の権力と富とを抱えた中世の大貴族は、一人としてこの戴冠式に参列しなかった。街の代表と小貴族の手による簡素な戴冠式は新しい時代の到来を象徴していた。
「ご列席の皆様の前でお尋ねします。皆様の同意のものに、全ての民を愛し守ることを誓いますか?」 「夫の私を差し置いて勝手に王位を継承するとは」 「でも私は兄上と違う。敵が戦争を望むなら潔く受けて立ちましょう。 「私イサベルはこの国を所有する女王である。正当な夫フェルナンドは王の称号を有する。印章にはカスティーリャの紋が先に、硬貨にはフェルナンドの名が先に刻まれる。共にいるときは平等に、離れていれば自由に裁きを下す。権力の行使は二人の名でなされ、個々の印章が押される」
1479年、父王ファン2世(1397-1479)の死去に伴い、フェルナンドはアラゴンの王位を継承し、フェルナンド2世となる。 ここにカスティーリャ=アラゴン連合王国、すなわちスペイン王国(イスパニア)が誕生した。 このころのフランス王はルイ11世(1423-1483)
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1492年1月2日 グラナダ陥落、アルハンブラ城開城 |
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グラナダ(スペイン語でざくろの意)を取り戻す戦いは、スペインの中の『十字軍の戦い』であった。 グラナダ王、ムレイ・アブル・ハッサン(不詳-1485)は衰勢のナスル朝の勢力回復を目指すが宮廷の内紛なども起こり挽回はならなかった。王の第一夫人の子ボアブディル(1460-1527)は反乱を起こし、父及び叔父ムハンマド12世と抗争を続けた。その間、2度もカスティーリャ軍の捕虜となるものの、ムハンマド11世として即位した。 「ここを我らの基地とする。石を積み重ね要塞の町を造る。グラナダの草原の町、サンタ・フェを」
1491年末、孤立したグラナダ市は兵糧攻めに屈し、戦闘を経ずして降伏。カトリック両王にグラナダを引き渡す協定に調印した。 「私グラナダ王ボアブディルは我が名と民の名のもとに両陛下およびその善良な民、愛と平和に則し宣言する。アルハンブラの要塞とグラナダの町およびアルバイシン地区とその周辺地域を明け渡す」 ナスル朝最後の王となったボアブディルは一旦はシェラネバダ山中の所領に退いたものの、後にフェズに亡命しナスル朝は滅亡した。
1492年が世界を変えた。
「城が威厳を与えるのではない。君主が城に名誉をもたらすのだ」 |
1492年10月12日 コロンブス新大陸発見 |
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グラナ−ダ陥落数日後、コロンブスは資金面で余裕のできたイサベル女王と、サンタ・フェで何度目かの会談をする機会を与えられる。彼が新航路で得る東洋との貿易の利益を、聖都エルサレム奪回の費用に当てるとの発案、及び東洋人にキリスト教を伝えるという大義名文は、イサベルの心をかなり揺り動かした。 こうして望み通り3隻の帆船と90人の乗組員とを獲得したコロンブスは、試練の末その年の10月12日、大西洋の果てに一つの島影を発見する。現在のバハマ諸島の一部といわれる。そこからキューバにかけての一帯を探検した一隊は、そこにカスティ−リャ王国の旗を立てた。
王家より大洋提督の称号を与える。発見された土地の副王および総督に接収製にて任命する。さらに金や銀、真珠、香辛料などから得られた富の10分の1を与える
私、クリストファー・コロンブスは、我らの主、全能の神を上陸の証人とします。両陛下のもとにこの地を手に入れ、フェルナンド王とイサベル女王に捧げます。ここにサンサルバドル島と命名します。 1494年6月7日、ポルトガルとの間で大西洋を分割する「トルデシリャス条約」を締結し、境界線はカナリア諸島の西1,850`に修正された。
発見された新大陸が「コロンビア」ではなく「アメリカ」である理由。 |
イタリア戦争 |
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シャルル8世(1470-1498)はフランス王ルイ11世とシャルロット・ド・サヴォワの息子としてアンボワーズ城で生まれた。1483年父王の死去により13歳で即位。 1492年、ロドリーゴ・ボルジアはアレクサンデル6世(1462-1515)として教皇の座を得た。 賄賂、好色、強欲で堕落した教皇であった。 1494年、16世紀前半のヨーロッパ史上重大な影響を与えることになるイタリア戦争を開始した。ナポリ王家と親戚関係にあったことを理由にナポリ王国の継承権を主張するシャルルは、フランス軍を率いてイタリア半島を南下し、バチカンへの入場を果たした。1495年2月22日。ナポリに入場し、ナポリ王として戴冠した。 この時にアレクサンデル6世の特使として活躍したのが教皇の息子であるチェーザレ・ボルジアである。
シャルル8世は1498年にうっかり鴨居に頭を打ちつける事故を起こして死亡した。シャルル8世が27歳で死ぬと、ヴァロア家の本流は断絶し、傍系ヴァロワ=オルレアン家のオルレアン公ルイ12世(1462-1515)が王位を継いだ。 ルイ12世はブルターニュに対する野心から、時のローマ教皇アレクサンデル6世に頼み込んでジャンヌとの結婚を無効にしてもらい、シャルル8世の王妃で王太后となっていたブルターニュ女公アンヌと結婚した。王妃アンヌの死後、イングランド王ヘンリー8世の妹メアリー・テューダと結婚。 イサベル女王とフェルナンド王は海と陸でカスティリャに接するヨーロッパ最大の王国フランスを包囲すべく、子供たちをフランドルとイングランドに嫁がせることを決断した。 「子供たちの運命をあなたに委ねるわ。カスティーリャとアラゴンの利益になるなら」 ナポリ王国の分割を条件に、クロード王女とカルロス王子の縁談は白紙となった。 ナポリ王国はアラゴンとフランスの支配下となる。
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両王が描く、フランス包囲戦略 |
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王国の防衛には同盟と犠牲が求められる。
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イサベルの5人の子供たち |
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イサベル女王崩御 |
1504年、バリャドリッドのメディナ・デル・カンポの王宮にてその波乱の生涯に幕を閉じ、遺骸は遺言に従いアルハンブラ宮殿の聖フランシスコ修道院に埋葬されたが、後にグラナダ大聖堂の王室礼拝堂に改葬されている。 ここに宣言します。ファナ王女が不在の場合、あるいは統治できぬ場合、私の夫を摂政とします。摂政は私の娘である王女に代わり、王国を統治すること、そして私の孫カルロス王子が成人し、王位に就くその日まで我が王国を守り正しき道へ導くこと。そしてアラゴン王である我が夫には摂政の職責を果たすよう願います。私の全ての臣下は、どんな身分や階級であっても主君に従いその命令を遂行すること。 生涯をイサベルとともにカスティーリャ=アラゴン連合王国の平和と繁栄のために捧げたフェルナンド2世は、イサベルの死去に伴いカスティーリャの王冠を脱いだ。カスティーリャの王位は次女ファナが継承した。 |