スペイン女王イサベルの栄光と悲劇 
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参考文献・資料

大河ドラマ「波乱のスペイン王女、イサベル

スペイン王女
イサベルの栄光と悲劇

鎌倉書房 小西章子

アルカサル王城

 

カスティーリャ=レオン王家家系図

カスティーリャ・レオン王家家系図を別のページで開く

ハプスブルク家系図


 

トラスタマラ王朝

アルフォンソ11世(1311年〜1350年)はカスティーリャ王フェルナンド4世と王妃コンスタンサの唯一の男子で、レコンキスタを成功させ王権を強化し、正妻と愛妾の間に二人の子をもうけた。

アルフォンソ11世の二人の息子

@ペドロ1世(ドン・ペドロ=残虐王、正義王)(1334-1369)
アルフォンソ11世と王妃マリア(ポルトガル王の娘)との間の子。
ドン・ペドロは母マリアをポルトガルに追放。庶子のエンリケと敵対し、エンリケの生母レオノーラを処刑した。

→ドン・ペドロの生涯〜アルカサル王城

オペラ「シモン・ボッカネグラ」

ボッカネグラ家は13世紀になってジェノヴァ史に登場する平民の家系であったが、シモンは、1339年、ジェノヴァにおける初代の終身ドージェ(統領)の地位に就く。

ボッカネグラ家は、海の民でもあった。東方の商業で活動した人物、ルイ9世の十字軍に従軍した人物など海の向こうで活躍する人物を輩出しており、シモンの兄弟エジーディオは、ジェノヴァの艦隊を率いてカスティーリャ王ペドロ1世を支援している。
シモンの統治の時代のジェノヴァは、ヨーロッパを席巻した黒死病による人口激減に加え、当時の商業圏の拡大にも限界が見え始めた時期でもあり、経済的苦境に立たされ始めていた。

中世の平民のエネルギーは、近世のジェノヴァ共和国では忘却の彼方にあったが、民衆運動と革命の19世紀のなかで生まれたヴェルディのこの作品によって、ジェノヴァ人の記憶のなかのシモン・ボッカネグラは再生する。

ジェノヴァの有力貴族の邸宅群は現在世界遺産の指定を受け、荘厳で格調高い街並みの中に息づいているが、海の民であったシモン・ボッカネグラは、ヴェルディの音楽に乗せて、故郷ジェノヴァを超えて世界各地を駆け巡り、自らと中世のジェノヴァのたくましい精神を伝えているのである。

Aエンリケ2世(1334-1379)
アルフォンソ11世と愛妾レオノーラとの間の子。
エンリケはトラスマタラ伯爵家へ養子に出されたが王の近くで育つ。
ペドロ1世を破ったエンリケはエンリケ2世として即位し、トラスタマラ王朝の祖となり、後のスペイン王国誕生の基礎を築き上げた。
エンリケが改築したセゴビアのアルカサルは現在世界遺産。

ペドロ1世

エンリケ2世

オペラ「ラ・ファヴォリータ」

ファボリータとは英語でいう「Favorite」で、国王の愛人の意味。

修道士フェルナンドが恋したのは、こともあろうにアルフォンソ11世愛妾レオノーラ
フェルナンドは父親で修道院長のバルダッサーレに恋心を打ち明けるが、修道院から追放される。
イスラム教徒との戦いに勝利して凱旋したフェルナンドは褒美としてレオノーラを求めるが、レオノーラが王の愛人だったことを知らされ失意のうちに修道院に悖る。
レオノーラは騙すつもりはなかったと許しを請い、フェルナンドはそれを許すが、レオノーラはフェルナンドの腕の中で息絶えてしまう。

エンリケ2世の4世代後に誕生するのがイサベル女王である。

 

レコンキスタ

カスティ−リャは8世紀初頭のイスラム教徒による占領の後、キリスト教徒達が血の代償として小刻みに奪還していった土地であった。

この異教徒を追放して、イベリア半島を元のキリスト教統一国家として復活させるという願望は、中世を通じてイベリア半島キリスト教徒の内に燃え続けていた。


 

イサベル1世への系譜

エンリケ2世→ファン1世→エンリケ3世→ファン2世→イサベル1世

カスティーリャ・レオン王国紋章

 

エンリケ2世(1334-1379)

長男ファン1世を生む

ファン1世(1358-1390)の二人の王子

@エンリケ3世 Aフェルナンド1世(アラゴン王)

エンリケ3世(1379-1406)

ファン1世の長男は11歳でエンリケ3世(病弱王)として即位し、カスティーリャを統治する。
ドン・ペドロの孫カタリナと結婚したので、ドン・ペドロとエンリケ2世は孫の代で融和
したことになる。

ファン2世(1405-1454)

エンリケ3世の長男。
血腥い王朝交替劇を経てもなお、大貴族の間にくすぶり続ける権力争いが、ペストの襲来や飢饉という恐ろしい天災と共に、国民の上に悪夢のようにのしかかる疲れ切った王国....。 フアン2世がまだ二歳にも満たない頃、急死した父親(エンリケ3世)から否応無く譲り受けたのは、そんな国土であった。ファン2世は従妹に当る隣国アラゴンの王女との間に一男二女をもうけていた。しかし娘二人は死に、残された唯一の子供であるエンリーケ皇太子は、父親の意思薄弱さをそのまま受け継いだ心もとない跡継ぎであった。 

そんな折り、王妃マリアが死去した。王冠の行く末を案じるまだ40歳の王が次の王妃としてマドリガルの宮殿に迎えたのは、ポルトガルの王女イサベルであった。 1447年の夏のことである。

エンリケ4世(1425-1474)

ファン2世とアラゴンのマリアとの子。
エンリケ4世は不能王とあだ名された。
ポルトガル王女ファナとの間に王女ファナを出産するも、王女は愛人ベルトランの子(ベルトラネーハ)と呼ばれた。
1474年にマドリードで死去の結果、王女ファナも王位継承者を主張したが、イサベル支持者がファナ支持派に勝利し、イサベルが王位を継いだ。

イサベル1世(1451-1504)

ファン2世とポルトガルのイサベルとの間の長女こそがスペイン王国の黄金期を築いたカスティリア女王イザベル1世である。

 

1451年 女王誕生

イベリア半島の中央を大きく占めるものの、何十年と無気力に存在していたカスティーリャを瞬く間にヨーロッパの一流国に仕立てあげ、武装艦隊育成やコロンブスの援助等の業績により、スペイン・ルネッサンスの名君主と賛えられつつも、君主である身と母性との板挟みに苦しんだと言われる女王........。

マドリガル・デ・ラス・アルタス・トーレス−高い塔の恋歌−という美しい名の村に、後にはスペイン建国の母とも崇められるイサベルが産声を挙げたのは、王権が貴族の頭上を越えて、その頃台頭し始めていた都市とじかに結び付きつつあった中世の終わり、正確には1451年春のことである。子供の出来る気配のない「不能の王子」と噂される皇太子の跡を継げる逞しい王子を、と切望した王や国民のもとに、やがて届いたのが王女誕生の知らせであった。

ヨーロッパはこの頃、長い中世のトンネルから近代へと抜け出そうとしていた。イサベル誕生の数年前には、グーテンベルクが最初の印刷を始め、イサベル誕生の二年後には、西ヨーロッパでは百年戦争が終結し、東ヨーロッパではトルコ軍がコンスタンティノーブルを陥落させた。

このコンスタンティノーブルの陥落は単に軍事的政治的事件にとどまらなかった。初代キリスト教ローマ皇帝より首都と定められて以来千余年、ヨーロッパ人の中に生き続けていた古い世界の影、東ローマ帝国が突然彼等の視野から消えたのであった。人間の原点に戻った新しい価値観を求める機運、ルネッサンスへの息吹が、ヨーロッパに強く感じられ出した頃であった。

日本では南北朝争乱の余波がまだ残り、足利義政が次々と起こる一揆と大名のお家騒動鎮圧に奔走していた頃のことである。

 

母、イサベル王妃

母と同様に「イサベル」と名付けられたこのカスティーリャ王女を待ち受けたのは、波乱に満ちた幼年時代、少女時代であった。 母イサベル王妃には既にこの頃から、一旦ある感情に捉えられると常軌を逸した行動に出る傾向が表れていた。 人々はこの新しい王妃を、ただ気性の激しい女性として困惑と共に傍観するのだが、この常軌を逸する傾向は、彼女の中で徐々にその黒い影を拡げていく。 人々は、このポルトガル女性によって、カスティーリャ王家に狂気の芽が運び込まれたことを、時と共に思い知らされるのだ。それは数年後彼女の中で顕著になり、半世紀後、彼女の孫でカスティーリャの王冠を受け継ぐファナの中に、絶望的に巣食うに到る不幸の芽であった。

それでもイサベル王妃は待望の王子を出産する。 しかし王妃の瞳の満足気な輝きも忽にして、そして永久に、消え去ることとなる。 ファン2世王は涙脆く見るからに弱々しくなり、1454年夏、人々の同情と軽蔑の中、49年の不本意な生涯を閉じる。 エンリーケ皇太子29歳、イサベル王女3歳、アルフォンソ王子はわずか8ケ月であった。

王の死は、イサベル王妃の思惑を全く狂わせたばかりではなく、彼女と二人の子供の運命を大きく変えることとなる。 即位したエンリーケ皇太子は、そりの合わなかった継母と異母弟妹を事実上宮廷から追い出してしまうのだ。母子三人はマドリガルの近くのアレバロという小さな町に、わずかな供の者と共に留まり、そこの小さな城で身を寄せ合うようにして暮らし始める。

 

アレバロ城のイサベル母子

父亡きあとアレバロに追いやられて、母や弟と共にひっそりと幼年時代を過ごしたことは、王女イサベルにとって幸運だったと言わねばなるまい。宮廷の雰囲気に染まらずに成長したことは、イサベルの人格形成、ひいてはその後のスペイン史にもかなりな影響を及ぼす。

城の中で、狂った母親と寝起きを共にして育つ二人の子供たちが、長ずるに従って信仰に逃げ道を見つけ、二人して寄り添い、自分たちはしっかりしなければと唇を噛み締めながら成長したと考えると、精神の錯乱した母親はその存在によって反面教師としての大きな役割を果たしたのであろうか。

「私たちを虐げるものが後悔する日は必ず来るわ。私はこの命を懸けて闘うわ」
〜アレバロ城に狂った母(イサベル)を見舞った時に、弟アルフォンソに語ったイザベルの決意〜

母を見舞うイザベルとアルフォンソ

「カスティーリャとポルトガルは互いに絆を深め合いなさい。いつの日か、一つの国になるように」
〜1496年8月15日、イサベル・デ・ポルトガルの遺言

「枯葉が落ちるようにまた一人大事な人を失った」(I)
「それが人生だ。やがて冬が来れば木の葉は全て落ちてしまう。だからこそ人は愛し合い互いを守り続ける」(F)

〜母イサベルの死に際し発した両王の言葉

 

代母となる

1462年2月3日、人々の好奇の芽と思惑と悪意の渦巻く中、マドリードの宮廷で王女が誕生した。

無事に赤ん坊が誕生すると、王はそれまでの悪い噂を一気に吹き飛ばす意気込みで、盛大な世継ぎ誕生の祝宴を命じた。 議会が直ちに招集され、カスティーリャ17都市の代表は、母親と同じにファナと名付けられたこの王女に対して、王位継承者としての忠誠の誓約を要求される。

慣例に従って代母となったイサベル王女は弟と共にマドリードに連れて来られた。生後間もない姪の前にひざまずいた少女はその小さな手に忠誠の証である接吻をする最初の人となる。 イサベル11歳の春であった。

自分には何の罪もないのに、王女ファナは生まれ落ちた時から人々の好奇の目に晒された。 そして人々の間に「ベルトラネーハ」という蔑称が徐々に定着してしまうのだ。これはベルトランの娘という意味である。 人々は、その頃のカスティーリャ宮廷を闊歩し、王妃に影の如く寄り添っていたベルトラン卿を赤ん坊の父だと噂し合った。 そしてその噂を肯定するかのように、王はそれまでアルフォンソ王子に与えられていた「サンティアーゴ騎士団団長」の栄誉ある称号までベルトランに与えてしまう。 これは9世紀にスペインの北西端コンポステーラでその墓が発見されたといわれる聖ヤコブ(スペイン語でサンティアーゴ)がスペインの守護神として崇められるようになって以来、騎士の最高の称号となっていた。

 

内乱からアルフォンソ王子の戴冠へ

正統性の疑われる王女の誕生と、王がアルフォンソ王子から「サンティアーゴ騎士団長」の称号を取り上げたことは、日頃エンリーケ王の為政に不満を持つ人々に絶好な口実となった。アルフォンソ王子を手中にした反王勢力は、カスティーリャ高原のほぼ中央に位置するアビラ市に終結するや、トレード大司教の手によってアルフォンソ12世の戴冠式を執行したのであった。

衝撃的なニュースは忽ち王国の隅々にまで広まる。 国民は総てどちらかの側を選ばなければならない窮地に陥った。ブルゴス、トレード、コルドバ、セビーリャの大都市は「アルフォンソ王側につく。しかしその他の人々はこの余りにも先走った行動に反発し、エンリーケ王側に留まる。その後十余年間カスティーリャを二分する内戦の火蓋はこうして切って落とされた。

 

二人の王の狭間で

1467年8月、両軍はオルメードで総力を挙げて戦う。 13歳のアルフォンソ王子も甲冑に身を固め、僧侶ではあるが勇壮無比な戦士でもあるトレード大司教に守られて戦場を駆け巡った。

カスティーリャは悲惨な状態に追い込まれた。「一つの町の中でも、一つの家族の中でさえも、エンリーケ王側とアルフォンソ王側とに分かれ、対立が生まれた。人々は殺気立ち、無意味な流血が繰り返され、人心は動揺した...」との歴史家の記述がある。20世紀に起こった悲惨なスペイン内戦を彷彿とさせる。

内戦はスペインの風土病であるとさえいわれる程に、カスティーリャを基盤として出来たスペインは多くの内戦を経験する。三人の人間が寄れば四つの意見が出るというスペイン、長い独裁政治の後、現在は百何十もの政党が正式に登録されるというスペイン、日本と正反対に為政者には治め難い国といわれるスペインの現状は、カスティーリャ王国の成り立ちにも一因があろう。

カスティーリャは8世紀初頭のイスラム教徒による占領の後、キリスト教徒たちが血の代償として小刻みに奪還していった土地であった。 カスティーリャという名称も、奪還した土地にイスラム教徒の再襲撃に備えて要塞用の城(カスティーリョ)をいくつも建設したことに由来するといわれる。戦いといってもゲリラ戦が主で、個人プレイがその主流であった。上からの命令を受け入れるよりも、一人一人が自己の判断で行動する性癖が、万人の間で歴史的に定着してしまったとも言える。

しかしこの内戦の結末はあっけなく終わる。 ここ何代かのカスティーリャ王に著しく欠けていた統率力の芽と責任感とを持っていたといわれ、心ある同盟軍の人々からは、期待の眼差しで見守られてきた少年は、3年前「アルフォンソ12世」として戴冠された地の近くで、15年にも満たない短い生涯を閉じたのであった。

 

歴史の表舞台へ

皮肉な運命の位とは、イサベルを歴史の表舞台に引き出す。アビラの修道院を訪れたトレード大司教はイサベルに、アルフォンソ12世の跡を継いで、カスティーリャ女王としての戴冠を要請するのだった。

その年の9月、アルフォンソの死後2ケ月後にエンリーケとイサベル、王側と同盟軍側の和睦会見が行われた。マドリードを後にしたエンリーケとアビラを後にしたイサベルは、その二つの町の中間にあるトーロス・デ・ギサンドという小さな村で再会する。

イサベルの王位継承式はその場で執り行われ、並みいる貴族達は一人一人イサベルの前に進み、その手に忠誠の証しである接吻を贈った。イサベルは一躍、未来のカスティーリャ女王として、脚光を浴びることとなる。

 

イサベルの婿選び

1469年 アラゴン=カタルーニャ王子フェルナンドと結婚

王女として生まれて17年間も未婚のままでいるということは、この頃のヨーロッパでは稀であった。14〜15歳で嫁ぐのが慣習であったから。明るい色の髪と白い肌、聡明そうな雰囲気をもったイサベルには、ポルトガルのアフォンソ王、イギリスのエドワード4世の弟(これはシェークスピアの戯曲で有名になった後の悪名高いリチャード3世)、フランスのルイ11世の弟であり当時はフランスの王位継承者であったギュイエンヌ公、そして隣国アラゴンの皇太子フェルナンドから、熱心な求婚の申し込みが寄せられていた。

隣国アラゴンはほぼ同じ民族から成り、言語も酷似しており、王朝も同じトラスタマラ。皇太子フェルナンドは、イサベルと共通の曾祖父を持つまたいとこに当る。文化的な互換性は既に共通しており、この二国の合併が巧みに実現の運びとなれば、二国の国力は倍加され、ヨーロッパの政治舞台での発言権は大幅に強まることは充分に予想された。カスティーリャ人の血が流れるフェルナンド王子の父、アラゴンのフアン2世は、以前からこの二国併合の構想を抱いており、息子とカスティーリャ王女との結婚を切望していた。

反対勢力の妨害等多くの障害を乗り切った二人はバリャドリードの隣町ドゥエーニャスで、蜜月の仮住まいを始めた。後にはヨーロッパ屈指の宮廷を築く二人も、門出は貧しかった。

イサベルとフェルナンドの結婚式

「私、カスティーリャ国王エンリケ4世は、妹イサベルが私に従わないとみなす。法や協定に反し私の同意なく結婚したからである。故にこの勅令をもってギサント協定を反故にする。従ってイサベルはこれより公式に王位継承者から除外される」
〜自分の娘ファナを次の女王にしようと画策するエンリケ4世の宣誓書〜

15世紀のイベリア半島

 

カスティーリャ女王、イサベル1世の戴冠式

1474年、健康の優れなかった王エンリケ4世(1425-1474)は、12月11日未明、明確な意思を表さないまま、マドリードで息を引き取る。イサベルとセゴービアで和睦してから1年後であった。父フアン2世と同様に49年の、王として、否、男としても不本意な一生ではあった。国中に話題をまき散らし幾度か針のむしろに座らされた王妃も、その半年後35歳で病死した。

異母兄エンリケ4が没するや、イサベルは夫フェルナンド(1452-1516)と共同で王位に就いた。

波乱のスペイン女王、イサベル 人物相関図を大きく見る

12月13日早朝、喪を意味する純白の衣に身を包んだイサベルは、兄の霊に祈りを捧げた後、セゴービア城の門を出た。現在は城のすぐ正面に荘厳な大カテドラルがそびえるが、そのころはまたこの辺りは空地でトレード大司教とカブレーラ市長を先頭に街の代表者達、聖職者や貴族達が、一様に上気した面持ちでイサベルの登場を待ち構えていた。狭い石畳の路地を300m程下がった先に広がる小さな中央広場では、人々が興奮を一層あらわにし、少しでもよく見える場所に収まろうと、そこここで声を昂ぶらせていた。前夜、街の職人達が夜を徹して築き上げた木の祭壇が、その広場の中央で、人々の好奇心と期待に満ちた視線を集めていた。いよいよこれから、カスティーリャ女王イサベル1世の戴冠式が始まるのである。

「やがて、馬にまたがった女王が登場された。威厳のある美しさ、中肉中背、金髪で色白、青緑の瞳、快活できびきびした動き、整った目鼻立ち、そして暖かみのある堂々たる雰囲気を備えた女王は、時に23歳7ケ月と20日であった」と王室記録官が書きとめている。

イサベルが王座に着くと同時に、それまで押し殺していた興奮を一時に爆発させた人々の歓声が、広場を埋めつくした。城とライオンをかたちどったカスティーリャ・レオン王国の旗が澄み切った大空にひるかえり、セゴービア中の鐘という鐘が高らかに打ち鳴らされた。

後の歴史家達は、この日をスペイン近代史の始まりの日とする。長かった中世はここで終わりを告げたのである。王の去就をも左右する程の権力と富とを抱えた中世の大貴族は、一人としてこの戴冠式に参列しなかった。街の代表と小貴族の手による簡素な戴冠式は新しい時代の到来を象徴していた。

セゴビア、アルカサル

イサベル女王戴冠式

「ご列席の皆様の前でお尋ねします。皆様の同意のものに、全ての民を愛し守ることを誓いますか?」
「はい、誓います」
「聖なる教会の戒めに従い、王国の利益を求め平和にすることを誓いますか?」
「その両方を実現し、さらなる強国へと導きます」
〜イサベル女王の宣誓〜

「夫の私を差し置いて勝手に王位を継承するとは」
「自ら王だと宣言し、正義の剣を取り出したのです」
「彼女が罪人に刑を科すと言うのか」
「そんな女性は初めてです」

〜イサベルが勝手に戴冠したと聞いて激怒するフェルナンド〜

「でも私は兄上と違う。敵が戦争を望むなら潔く受けて立ちましょう。
この私こそ・・・カスティーリャの女王。神が臨む限り君臨し続ける」

〜イサベル女王の決意〜

「私イサベルはこの国を所有する女王である。正当な夫フェルナンドは王の称号を有する。印章にはカスティーリャの紋が先に、硬貨にはフェルナンドの名が先に刻まれる。共にいるときは平等に、離れていれば自由に裁きを下す。権力の行使は二人の名でなされ、個々の印章が押される」
〜1475年1月15日、セゴビア条約〜

対等に並ぶ女王と王の硬貨

セゴビア城に翻る両王の旗

1475年の国旗

1981年〜現在のスペイン国旗

左上 カスティーリャ王国:三つの塔の城
右上 レオン王国:金の冠を被ったライオン
左下 アラゴン王国:朱い4本の縦線
右下 ナバラ王国:チェーン状のクロス
真下 グラナダ王国:ザクロの実
中央 ブルボン家:三つの百合の花

1479年、父王ファン2(1397-1479)の死去に伴い、フェルナンドはアラゴンの王位を継承し、フェルナンド2世となる。

ここにカスティーリャ=アラゴン連合王国、すなわちスペイン王国(イスパニア)が誕生した。  

このころのフランス王はルイ11世(1423-1483)

 

1492年1月2日 

グラナダ陥落、アルハンブラ城開城

グラナダ(スペイン語でざくろの意)を取り戻す戦いは、スペインの中の『十字軍の戦い』であった。

グラナダ王、ムレイ・アブル・ハッサン(不詳-1485)は衰勢のナスル朝の勢力回復を目指すが宮廷の内紛なども起こり挽回はならなかった。王第一夫人の子ボアブディル(1460-1527)は反乱を起こし、父及び叔父ムハンマド12世と抗争を続けた。その間、2度もカスティーリャ軍の捕虜となるものの、ムハンマド11世として即位した。

「ここを我らの基地とする。石を積み重ね要塞の町を造る。グラナダの草原の町、サンタ・フェを」
〜1491年1月、サンタ・フェ(聖なる信仰)でのイサベル女王の演説〜

グラナダ攻略の基地となったサンタ・フェ

1491年末、孤立したグラナダ市は兵糧攻めに屈し、戦闘を経ずして降伏。カトリック両王にグラナダを引き渡す協定に調印した。

「私グラナダ王ボアブディルは我が名と民の名のもとに両陛下およびその善良な民、愛と平和に則し宣言する。アルハンブラの要塞とグラナダの町およびアルバイシン地区とその周辺地域を明け渡す」
〜ボアブディルが調印した引渡し協定書〜

ナスル朝最後の王となったボアブディルは一旦はシェラネバダ山中の所領に退いたものの、後にフェズに亡命しナスル朝は滅亡した。

イサベルと和平交渉するボアブディル グラナダ王、ムレイ・アブル・ハッサン

1492年が世界を変えた。
ついに12日、グラナダは実に780年ぶりにキリスト教徒の手に戻った。 ボアブディルはカトリック両王にアルハンブラの鍵を渡しナスル朝は滅亡した。無血開城であった。

1492年1月2日 サクロモンテの丘
グラナダに涙ながらに別れを告げるボアブディル

無血開城後初めてアルハンブラ宮殿に入り
余りの美しさに感嘆する両王

「城が威厳を与えるのではない。君主が城に名誉をもたらすのだ」
〜グラナダを去るときにボアブディルが息子に語った言葉〜

 

1492年10月12日 コロンブス新大陸発見

グラナ−ダ陥落数日後、コロンブスは資金面で余裕のできたイサベル女王と、サンタ・フェで何度目かの会談をする機会を与えられる。彼が新航路で得る東洋との貿易の利益を、聖都エルサレム奪回の費用に当てるとの発案、及び東洋人にキリスト教を伝えるという大義名文は、イサベルの心をかなり揺り動かした。

 こうして望み通り3隻の帆船と90人の乗組員とを獲得したコロンブスは、試練の末その年の10月12日、大西洋の果てに一つの島影を発見する。現在のバハマ諸島の一部といわれる。そこからキューバにかけての一帯を探検した一隊は、そこにカスティ−リャ王国の旗を立てた。

イサベルに遠征への援助を願い出るコロンブス

王家より大洋提督の称号を与える。発見された土地の副王および総督に接収製にて任命する。さらに金や銀、真珠、香辛料などから得られた富の10分の1を与える
〜1492年4月17日、サンタ・フェの協約

1492年10月12日
コロンブス、新大陸発見

私、クリストファー・コロンブスは、我らの主、全能の神を上陸の証人とします。両陛下のもとにこの地を手に入れ、フェルナンド王とイサベル女王に捧げます。ここにサンサルバドル島と命名します。
〜1492年10月12日、グアナハニ島にて、コロンブスの言葉

1494年6月7日、ポルトガルとの間で大西洋を分割する「トルデシリャス条約」を締結し、境界線はカナリア諸島の西1,850`に修正された。
境界線を譲歩するポルトガル王 更新された大西洋の境界線

発見された新大陸が「コロンビア」ではなく「アメリカ」である理由。
アメリゴ・ヴェショウッチ

 

イタリア戦争

シャルル8世(1470-1498)はフランス王ルイ11世とシャルロット・ド・サヴォワの息子としてアンボワーズ城で生まれた。1483年父王の死去により13歳で即位。

1492年、ロドリーゴ・ボルジアはアレクサンデル6世(1462-1515)として教皇の座を得た。 賄賂、好色、強欲で堕落した教皇であった。

1494年、16世紀前半のヨーロッパ史上重大な影響を与えることになるイタリア戦争を開始した。ナポリ王家と親戚関係にあったことを理由にナポリ王国の継承権を主張するシャルルは、フランス軍を率いてイタリア半島を南下し、バチカンへの入場を果たした。1495年2月22日。ナポリに入場し、ナポリ王として戴冠した。

この時にアレクサンデル6世の特使として活躍したのが教皇の息子であるチェーザレ・ボルジアである。


フランドルのマルガリータは当初シャルル8世の元に嫁ぐ予定であったが、破談となり、マルガリータはカスティーリャのファン王子と結婚した。

シャルル8世は1498年にうっかり鴨居に頭を打ちつける事故を起こして死亡した。シャルル8世が27歳で死ぬと、ヴァロア家の本流は断絶し、傍系ヴァロワ=オルレアン家のオルレアン公ルイ12世(1462-1515)が王位を継いだ。

ルイ12世はブルターニュに対する野心から、時のローマ教皇アレクサンデル6世に頼み込んでジャンヌとの結婚を無効にしてもらい、シャルル8世の王妃で王太后となっていたブルターニュ女公アンヌと結婚した。王妃アンヌの死後、イングランド王ヘンリー8世の妹メアリー・テューダと結婚。

イサベル女王とフェルナンド王は海と陸でカスティリャに接するヨーロッパ最大の王国フランスを包囲すべく、子供たちをフランドルとイングランドに嫁がせることを決断した。

「子供たちの運命をあなたに委ねるわ。カスティーリャとアラゴンの利益になるなら」
「この戦略が我々の王国を栄光に導くと信じてくれ」

〜イサベルとフェルナンド王

ナポリ王国の分割を条件に、クロード王女とカルロス王子の縁談は白紙となった。

ナポリ王国はアラゴンとフランスの支配下となる。
ナポリ王の称号はルイ12世が所有すること。
〜1500年11月11日、グラナダ条約
強国フランスに対抗 フランドル、イングランドと同盟して
フランスを包囲

 

両王が描く、フランス包囲戦略

王国の防衛には同盟と犠牲が求められる。
各国との王位継承者との婚約を早急に進めたい。
我々はカスティーりゃとアラゴンの名のもとに一族の拡大を望む

〜フェルナンド2世


あなた方は王の子です。同盟国との関係を確立強化しなさい。
我が王国の継承者ファン皇太子は、神聖ローマ帝国マルガレーテ王女を迎えます。
ファナ王女は、神聖ローマ帝国継承者フィリップ王子に嫁ぐ。
ハプスブルク家を確固たる同盟者にするための婚姻です。
そしてカタリーナ王女の相手は、イングランド皇太子。
ポルトガルは、マリア王女が皇太子妃となります。※イサベルに変更
我々は決断した。お前たちのおかげで我が一族はヨーロッパ宮廷に広がる。
神が望めば、一つの大陸を治めるでしょう。

〜イサベルが子供たちに託した期待
両王と5人の子供たち

 

イサベルの5人の子供たち

1.イサベル(1470-1498)

1470年10月1日、ドゥエーニャスの城で女児が生まれた。母親似で明るい色の髪と青い目を持つこのアラゴン皇太子夫妻の第一子は、母親と同じくイサベルと名付けられた。 西洋では親や祖父母の名をそのまま受け継ぐ場合いが多いのでまぎらわしい。しかし、女の場合いはフルネームで呼ぶと区別がつく。この場合生まれた赤ん坊はイサベル・デ・アラゴン、その母はイサベル・デ・カスティーリャ、そして祖母はイサベル・デ・ポルトガルということになる。

イサベルは、ポルトガル王ジョアン2世の息子アフォンソ王太子と結婚する。

待望の長女誕生を喜ぶ両王 イサベルはポルトガルアフォンソ王太子に嫁ぐ

結婚の翌年アフォンソ皇太子は落馬事故により死亡。死別したイサベルはカスティーリャに帰国。修道院に入りたいという希望は受け入れられず、1497年マヌエル1世と再婚。※3女マリアの予定を変更しての決定だった。

イサベル王女はマヌエル1世と結婚 イサベル王女はカスティーリャとアラゴンの
王位継承者

未来の女王として期待されたイサベルだったが、1409年ポルトガル、カスティーリャ、アラゴンの王位継承者である長男ミゲルを出産するも、イサベルは産後死亡。

ポルトガル両陛下の子でありあなたたちが仕えるミゲル・ダ・パス王子が誕生しました。私たち王家を統一し、平和(パス)をもたらすための名です。キリスト教世界で最も重要な国を築くでしょう。この子に忠誠を誓うあなたたちと同じく私も誓います。命を懸けて我が孫の身を守護します。それにより我が王国の未来もまた保証されるでしょう」
〜イサベル

三国を治める最初の王として期待されたミゲル王子も2年後に早世し、マヌエル1世のスペイン王位への野望は潰えた。

イサベル王女はマヌエル1世と結婚 ミゲル王子が亡くなりポルトガルを失った

2.ファン(1478-1497)

唯一の男子でカスティーリャの後継者として期待の星だったファンは、フィリップ美公の妹マルガリータと結婚後間もなく天然痘にかかり夭折。マルガリータは男児を死産。

カスティーリャの後継者を失ったマルガリータは、フランドルへ帰国してシャルル8世の従弟と再婚。

マルガレーテとファンの結婚

マルガリータの懐妊を喜ぶ両王

3.ファナ(1479-1555)

強国フランスに対抗するため、ハプスブルクのフィリップ美公と結婚。

 

1500年2月24日、二人の間にカール5世誕生。

カール5世誕生 ミゲル王子の死によりファナが王位継承者に
狂ったファナから離されて育つカール

 

 

カール5世(1500-1558)

1500年2月24日誕生 イサベル女王の孫(狂女ファナの子)

1500年という区切りの年、カール5世はイサベル女王の3女ファナとフィリップ美公の間に生まれた。スペイン系ハプスブルク神聖ローマ帝国皇帝、カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)

新大陸からもたらされる富と栄光はイサベルの孫、ハプスブルクのカール5世が一手に享受することとなる。

スペイン王カルロス1世は、ナポリ王国、シチリア島、サルディニア島、新大陸のスペイン領、フランドル・ブラバンドを含めたネーデルランドなどを、また弟フェルディナントはオーストリア、ボヘミア、ハンガリーなどと、ヨーロッパ全体をわずかの領域を除いてハプスブルクが統治するこっとなった。中世最盛期のカール大帝以来、ハプスブルクは実に空前絶後の高みに達したのである。

カール5世とポルトガル、イサベルの長男がフェリペ2世(フィリッポ2世)

フランソワ1世(1515〜1547)とクロード・ド・フランスの子がアンリ2世
アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの長女がエリザベッタ

⇒オペラ「ドン・カルロ」

1502年5月22日、トレド大聖堂にてファナとフィリップは王位継承の儀式に臨む。

カスティーリャにて、次男フェルナンド1世(1503-1564)を出産。


夫と別れて暮らすファナはその寂しさと孤独の中、さらにその狂気を深め、祖母イサベルの精神異常が隔世遺伝し、狂王女と呼ばれる。イサベル女王の容態が悪化するなか、ファンは一人モタ城に幽閉される。
フェルディナント1世はスペインで生まれ、スペインで育った。後の神聖ローマ帝国皇帝。

王国のために命を懸けた。まもなくナポリを手にする。だがいつの日か、この献身により勝ち得た栄光も、裏切り者と理性を失った娘へ受け継がれるのだ。
〜フェルナンド2世

生きなさい。神が母上を天にお召しになる前に。そして母上に伝えて。
私は女王として民を見守り続けると。母上のように。
〜ファナの決意

二人の長女レオノールは後にポルトガル王マヌエル1世に嫁ぐ。

幸せの薔薇の儀式

4.マリア(1482-1517)

イサベルの死後、1500年、マヌエル1世の王妃となる。
マヌエル1世は、イサベルの死後、弱体化していたポルトガルを守るために、イサベルの子ミゲルをカスティーリャで養育することを条件に、マリア王女との再婚を決意した。

マリア王女とマヌエル1世の結婚

マヌエル1世と結婚したマリアは10子を産んだが王に先立って1517年に病死した。
その長女がイサベル。イサベルは神聖ローマ帝国皇帝カール5世と結婚し、フェリペ2世を産む。

マリアの死後、マヌエル1世は狂女王ファナの娘レオノールと再婚した。
レオノールはマヌエル1世の死後、フランソワ1世に嫁ぎフランス王妃となった。

5.キャサリン(1487-1536)

薔薇戦争の終結後、孤立を恐れたイングランド、ヘンリー7世はカスティーリャとの同盟を欲した。

カタリーナ王女出生 アーサー皇太子との婚約成立


14歳のキャサリンは、1501年5月21日、グラナダを出発。巨額な持参金を携えてヘンリー7世の長男アーサー王子に嫁いだ。結婚式は11月14日、セント・ポール大聖堂にて挙げられた。

イングランドに嫁ぐキャサリン アーサー王子を失ったキャサリン

アーサー王子は結婚式の翌年、1502年、流行の感冒にかかり、急逝した。
1503年にエリザベス王妃が死ぬと、ヘンリー7世キャサリンを自身の後妻に要求したが、さすがにこの厚顔無恥な申し出はスペイン側に拒絶され、第二次イタリア戦争で優勢なスペインに対し、ヘンリー7世は要求を取り下げた。

15041126日 イサベル女王死去  

1509年、ヘンリー7世が崩御した。王位を継承した18歳の若き国王ヘンリー8世(アーサー王子の弟)は、兄嫁だったキャサリンとの結婚を熱望。父の喪が明けぬ6月11日に強引に結婚式を挙げた。こうしてキャサリンはイングランド王妃となり、5月30日に戴冠式が執り行われた。

 

アーサー王子との死別以来8年近く苦境にあったキャサリンにとって、結婚と戴冠は幸福の絶頂であった。夫婦仲も円満であったが、結婚生活の中キャサリンは度重なる流産と死産に見舞われ、1516年、ようやく健康な女児メアリー王女を出産する。その王女こそが後のイングランド王メアリー1世。ヘンリー8世の息子エドワード6世が15歳で崩御すると、メアリーが王位に就いた。ブラッディ・メアリ(血塗れのメアリー)と呼ばれた王女メアリ1世である。

 

ヘンリー8の6人の妃たち
英国史上に燦然と輝く悪名高き絶倫男。何と6人もの女性を妻にした。

1:スペイン王女キャサリン(1485-1536)
ヘンリー8世(1491-1547)は男子跡継ぎを生まないキャサリンと離縁。カトリックでは離婚は許されない。時のローマ法王クレメンス七世は離婚申請を却下す。ヘンリー8世はローマ法王の世話にはならないと、英国独自の宗教を創設。これが今もイギリスに残る英国国教の成立。ウエストミンスター寺院がその総本山。
キャサリンが生んだ女の子が後の女王メアリ。

ヘンリー8世の息子エドワード6世の治世で英国国教は一層進展するが、スペイン出身でカトリックの信仰が厚いメアリにはそれが面白くなく、新教徒を虐殺。
その時に流れた赤い血がブラディ・メアリ(血塗られたメアリ)の語源。トマトジュースはその血を表現。

メアリは新教徒弾圧のため、新教徒に人気の異母妹すらもロンドン塔に押し込めた。この異母妹(アン。ブーリンの子供)こそが、後の英国の母、エリザベス1世。
1554
年、英国女王メアリーは1世は11歳年下のスペイン王フェリペ2世と結婚するが子供は設けないまま在位5年で死去。

メアリー・ブーリン アン・ブーリンの姉  

2:アン・ブーリン(1500-1536)
(メアリー・ブーリンの妹。フランス宮廷で洗練)

フランスから戻ったアンはその洗練された身のこなしと美しさでヘンリー王を魅了。愛人ではなく王妃となるために王にキャサリンとの離婚を要求。
1533
年、ヘンリー王は彼の子を身篭ったアンと結婚。アンはついにイングランド王妃の座に登り詰めた。
しかし、アンが出産したのは女の子(後のエリザベス1世)。

1536519日、ヘンリー8世は非道にも、不義の名目で王妃アンをロンドン塔内の小さな広場で首をはねて処刑。

かのロンドン塔の主人公、ヘンリー8世がオックスフォード教区の大聖堂として創設したクライストチャーチ・・・。 映画「ハリー・ポッター」で魔術学校のホールの撮影舞台となったグレイトホールでは、沢山の燭台が幻想的にその灯を揺らせている。  

⇒オペラ「アンナ・ボレーナ」

3:ジェーン・シーモア(1509-1537)
(アン・ブーリンの侍女)
アン・ブーリン処刑の翌日に婚約発表。
1537
年、王妃ジェーンは待望の男子を出産(後のエドワード6世)
難産の結果、体力が回復しないジェーンは息を引き取る。ヘンリーと墓所を共にしている唯一の王妃。
 
4:アン・オブ・グリーヴズ(1515-1557)
ドイツのプロテスタントの有力貴族、クリーヴスの娘。離婚後はエジンバラのヒーヴァー城で静かに余生を送った。
5:キャサリン・ハワード(1521-1542)
ヘンリー8世の目を盗み不貞を重ねた結果、処刑。
6:キャサリン・パー(1512-1548)
ヘンリー8世を看取った良妻。

1547128日 ヘンリー8世死去
王妃キャサリン・パーに見守られ、ヘンリー8世は58歳で他界した。  

 

イサベル女王崩御

1504年、バリャドリッドのメディナ・デル・カンポの王宮にてその波乱の生涯に幕を閉じ、遺骸は遺言に従いアルハンブラ宮殿の聖フランシスコ修道院に埋葬されたが、後にグラナダ大聖堂の王室礼拝堂に改葬されている。

ここに宣言します。ファナ王女が不在の場合、あるいは統治できぬ場合、私の夫を摂政とします。摂政は私の娘である王女に代わり、王国を統治すること、そして私の孫カルロス王子が成人し、王位に就くその日まで我が王国を守り正しき道へ導くこと。そしてアラゴン王である我が夫には摂政の職責を果たすよう願います。私の全ての臣下は、どんな身分や階級であっても主君に従いその命令を遂行すること。
〜我、女王

生涯をイサベルとともにカスティーリャ=アラゴン連合王国の平和と繁栄のために捧げたフェルナンド2世は、イサベルの死去に伴いカスティーリャの王冠を脱いだ。カスティーリャの王位は次女ファナが継承した。