ドン・ペドロの生涯〜アルカサル王城〜
秋田書店 青池保子 編集 tabi-taro


 

太陽が中天にあって 最も光輝を放つ時 その影は漆黒の闇を作る

それは権力の頂点に立つ者だけが知る猜疑と不安にみちた孤独の色のように・・・

 

 

セヴィリア王城(アルカサル)の宮殿の正面玄関に刻まれた碑文

最高位にして最高貴・最強なる征服者 神の恩寵によりカステイリャとレオンの王ドン・ペドロが、1402年(西暦1364年)、この王城と宮殿と玄関を建設せしめたり


アラゴン王、ペドロ4世
  「ドン・ペドロはバレンシアの勝利で得意の絶頂だ。玄関の碑文も彼らしい自画自賛だが、それだけの事はある。」

ポルトガル王、ペードロ1世
  「ポルトガルにもこれほどの城は知らんぞ。」

ナバーラ王、カルロス2世
  「ナバーラにもありません。」

グラナダ王、モハメッド5世
  「余のアルハンブラにも劣らぬ壮麗さだ。グラナダの職人達は良い仕事をしてくれた。」

ドン・ペドロ
  「アルフォンソ、お前も王になったら城を造れ。諸王に誇れる立派な城を。私は多くの敵との闘いを続けながらこれほど壮麗な城を完成させたのだ。玄関に刻んだ碑文が私の成し遂げた業績を後の世にも伝えるだろう。」

  回教徒の建築技術は世界最高だ。学問も芸術も我々には及びもつかぬ高度なものだ。私はその文化の粋を凝らした城を造るつもりだ。完成したら王国中で最も華麗な王城になるぞ。

マリア王妃
  「随分、優しい感じのお城ですのね。国王様ならいかにも頑丈そうなお城になさると思いましたけど」
  「戦闘用の城ではないからな」
  「なぜだかわかるようです。あなたがこの城を繊細な美で彩ろうとするのが。
  あなたの世界があまりにも荒々しく過酷だから。
  光と影だけの荒涼とした戦場で闘いに明け暮れ、憎悪と裏切りの中で激しく生きるからこそ、
  だからこそ、あなたが求めるものは優雅で温かいやさしさ。光と影の間に漂う淡い夢幻。
  この城はあなたの誇りと、安らぎと、憧憬と、あなた自身なのですね。


紋章

カスティリャの紋章は、10世紀以来統合・分裂を繰り返したカスティリアとレオンの二つの王国が、1230年カスティリャ王アルフォンソ6世によって最終的に統合されたことによる。

アラゴン王家の紋章、金地に赤の4本線である。これは9世紀にアラゴン伯・ビフレード1世が、フランスのシャルルに加勢し負傷した時に、シャルルが自分の血に4本の指を浸しアラゴン伯の黄金の無地の盾に4筋の線を記したという故事に由来する。


レコンキスタとアルハンブラ宮殿

 「ヒスパニア」「西ゴート王国」「アル・アンダルス」・・・それは時の支配者たちがイベリア半島に与えた名である。
 紀元前3世紀から約100年間ローマ帝国の支配下にあったヒスパニアは、4世紀以後のゲルマン諸民族の侵入と西ローマ帝国の崩壊(476年)で、「西ゴート王国」となり、711年、北アフリカからのイスラム教徒の侵攻で西ゴート王国が滅亡した後、征服地は「アル・アンダルス」と命名された。
 「アル・アンダルス」は8世紀から11世紀前半までコルドバを王都とするウマイア朝の下に、西ヨーロッパ最大の繁栄を誇り高度なイスラム文化を開花させたが、やがて複雑な民族構成と宗教的対立のために、多くの小王国に分裂する。
 一方、イスラムの征服から逃れたキリスト教徒は北部の辺境に拠点を築き、各地で諸王国を形成しつつ南へ向かって800年に亙る国土再征服運動(レコンキスタ)を発展させていく。
 この戦いは13世紀に転機を迎え、1212年夏、ラス・ナーバス・デ・トローサの地で、キリスト教連合軍がムワヒッド朝イスラム軍に圧勝、この勢いで40年間に次々と小王国を奪回し、半島に残るイスラム教国はナスル家のモハメッド1世が創生したグラナダ王国のみとなった。(1235年)王国の存続を願うグラナダ王はカスティリア王フェルナンド3世(聖王)に臣下として従うことを誓い、聖王もこれを認めた。
 この時より「アル・アンダルス」最後の王国ナスル朝グラナダはカスティリア王国の朝賞国(外国の朝廷に貢物を差し出す国)として保護を約束され、その後250年間、カスティリア女王イサベルとアラゴン王フェルナンド(カトリック両王)に征服されるまで(1492年レコンキスタ完了)半島の南端で生き延びるのである。
 14世紀後半、カスティリア王ドン・ペドロの治世下でも、グラナダ王モハメッド5世は、彼に忠節を尽くし異教国との共存関係を維持していた。かつて半島を席巻したイスラムの脅威は消滅し、「アル・アンダルス」は南スペインの地方名「アンダルシア」に名残を留めるが、その文化はグラナダで隆盛を極め、14世紀には壮麗なアルハンブラ宮殿を完成させている。
 それはイスラム建築の粋を集めた繊細優美な幻想の楽園である。1348年に竣工した世に比類なき建造物はモーロ人の精緻な技術と洗練された美意識で今なお訪れる人々を魅了し続けている。


 

 

 

ドン・ペドロの生涯

アンダルシアの強烈な太陽の光は くっきりと暗く濃い影を作る。
後の世にその怒りの激しさで「残酷王」と呼ばれ その公平さで「審判王」の名を残し
短い生涯を乱世のスペインで戦いとともに生きた男・・・
セビリアのアルカサル(王城)で カスティリャ王ドン・ペドロ1世が即位したのは
1350年の春のことだった。


14世紀後半のイベリア半島には「残酷王ペドロ」と呼ばれた王が3人いた。
アラゴン王ペドロ4世、ポルトガル王ペードロ1世、そして、カスティリャ王ドン・ペドロ1世である。

1334年8月、ブルゴスにて王子ドン・ペドロ誕生
 
カスティリア王アルフォンソは本日大いなる喜びを持って、王子ドン・ペドロの生誕をここに告げる。

 憂うべきはこの光景だ。王の側に控えるのは愛妾のレオノーラ・デ・グスマンと、二年前に生まれた双生児のエンリケとファドリケ。
 カスティリャ王国の王座を約束されながら、父に疎んぜられた王子ドン・ペドロ。彼は孤独な少年時代を過ごした。

アルフォンソ11世の死
 1347年にクリミア半島から上陸した黒死病はたちまちヨーロッパ中に広がり、その猛威は1349年まで続きヨーロッパの全人口の1/5から1/3が犠牲となった。

 3月27日聖金曜日、カスティリャ国王アルフォンソ11世は黒死病で急死した。

1350年春、ドン・ペドロ即位
 セビリアの王城でドン・ペドロは即位した。カスティリャ王ドン・ペドロ1世である。

レオノーラ・デ・グスマン処刑
 さようなら、私の子供たち・・・母は亡き王のもとへ参ります。でも忘れないで、宰相と王妃のこの仕打ちを。
たとえどんな事があろうと、決して国王と=あの女の息子と和解などしてはなりませんよ。母の死を忘れないで、エンリケ。

1356年、ポアティエの戦い
 「吟遊詩人さん、恋の歌もよいけれどまず諸国のお話を聞きたいわ。フランスはいかがですの?」
フランスの花など、みな様を暗い気分にさせるだけでございます。長い間のイギリスとの戦いで国内は荒廃しております。
 2年前(1356年)に国王ジャン2世がポアティエの戦いでイギリスのエドワード黒太子に敗れ捕虜にされてロンドンへ送られてからはフランス国内では内紛が起こり大混乱。そんな不幸な国々を旅して来た者にとってはこのカステイリャ王国は平和そのものでございます。この平和は国王ドン・ペドロの強大な力を示すものでありましょう」

カスティリャの艦隊
 対アラゴン戦において、ドン・ペドロが建造したカステイリャの艦隊はスペインの海軍力を大きく発展させた。だが、皮肉にもドン・ペドロ自身は船の上では全くいい事が無かった。この陸戦の勇者は海と相性が頗る悪かったのである。
「我が提督はジェノバ人だ。古来より海軍に精通した海の民だ。その有能さを早く私に見せてくれたまえ、ボカネグラ」

 カステイリャがアラゴンを破り、イベリア半島の覇者になるためには、私の下に精鋭を誇る陸軍と共に、陸と海とに強力な軍事力を持つ事だ。イベリアの海を制する海軍力を作り上げる事が私の望みだ。

ヴェルディの歌劇に描かれたシモン・ボッカネグラ
 ボッカネグラ家は13世紀になってジェノヴァ史に登場する平民の家系であったが、シモンは、1339年、ジェノヴァにおける初代の終身ドージェ(統領)の地位に就く。
 ボッカネグラ家は、海の民でもあった。東方の商業で活動した人物、ルイ9世の十字軍に従軍した人物など海の向こうで活躍する人物を輩出しており、シモンの兄弟エジーディオは、ジェノヴァの艦隊を率いてカスティーリャ王ペドロ1世を支援している。
 シモンの統治の時代のジェノヴァは、ヨーロッパを席巻した黒死病による人口激減に加え、当時の商業圏の拡大にも限界が見え始めた時期でもあり、経済的苦境に立たされ始めていた。
  
 平民による終身ドージェ制は、諸外国の侵入によりイタリアが抱えた苦悩のなかで15世紀末には行き詰まり、1528年以降は平民を権力から排除し貴族寡頭制が施行され、ナポレオン軍の侵入によりジェノヴァ共和国が終焉を迎えるまで続くことになる。
 中世の平民のエネルギーは、近世のジェノヴァ共和国では忘却の彼方にあったが、民衆運動と革命の19世紀のなかで生まれたヴェルディのこの作品によって、ジェノヴァ人の記憶のなかのシモン・ボッカネグラは再生する。
 ジェノヴァの有力貴族の邸宅群は現在世界遺産の指定を受け、荘厳で格調高い街並みの中に息づいているが、海の民であったシモン・ボッカネグラは、ヴェルディの音楽に乗せて、故郷ジェノヴァを超えて世界各地を駆け巡り、自らと中世のジェノヴァのたくましい精神を伝えているのである。

1361年、グラナダとの開戦
 英仏間の王位継承権をめぐって1337年から始まったいわゆる「百年戦争」(〜1453年)において、両王は正規軍に加えてヨーロッパ各国から集めた傭兵部隊を動員して戦っていた。1360年の「ブレティニーの和約」で両国が休戦したこの当時、雇主を失った傭兵達は野盗の群れと化し、ヨーロッパ各地を流浪し略奪と暴行で大きな社会不安を巻き起こしていた。
 1361年のカステイリャとグラナダの開戦はこの戦争の犬達をイベリア半島に引き寄せた。イギリスとフランスの貴族達に率いられた十数人から数十人の武装集団がピレネー山脈を越え、カスティリャ王の旗を目指してスペインへ現われ始めていた。

1365年11月、エンリケの宣戦布告
 エンリケ・デ・トラスタマラはカステイリャ王ドン・ペドロに宣戦布告した。フランス王家出身の王妃を幽閉暗殺し、多くの貴族を処刑した残酷な王ペドロからのカステイリャの解放が名目である。
 フランス王シャルル5世は教皇ウルバヌス5世をたきつけて多額の軍資金を調達し、1万2千人の傭兵軍団を結成させ、指揮官には中世史上に誉れ高きカリスマ傭兵隊長ベルトラン・ゲクランを派遣した。
 この侵攻作戦はフランスの国益に適っていた。英国との戦争が休戦中のため失業した傭兵軍団の略奪行為のはけ口を国外へ厄介払いする目的と、来るべき英仏戦争の再開に備えて最強のカスティリャ艦隊を確保するためには親英派のドン・ペドロをエンリケに排除させる必要があった。
 1366年初頭、エンリケの率いる1万2千の大軍団はピレネー山脈を越えてイベリア半島へ襲来した。

王子アルフォンソの死
 16年前に父王アルフォンソ11世の命を奪った黒死病が王国の未来を背負う王子アルフォンソと王妃マリアの命を奪った。
 王妃は幸せな方だった。その後の王国の崩壊を見ることもなく、王の腕の中で目を瞑られたのだ。王の激しい怒りをなだめられたただ一人の女性を失ったことが、王国の崩壊を早めさせたように思えてならない。

4月初め、エンリケの戴冠
 
ブルゴスに入ったエンリケはラス・ウェルガス僧院の伝統的な法の下に戴冠式を執り行った。カスティリャ王エンリケ2世である。5月2日、エンリケはトレドに無血入城した。トレドの降伏でドン・ペドロの軍隊は事実上壊滅した。

8月、ランカスター家との縁
 
ドン・ペドロは黒太子に招かれてボルドーに到着した。彼は3人の娘と重臣たちと共にイギリス王国に身を寄せる亡命者となった。
 この時に出会った黒太子の弟たちランカスター公とヨーク公・・・この2人の英国王子がコンスタンシアとイサベルの夫となるのは5年後のことである。
 ドン・ペドロは黒太子の宮廷で金貨や宝石の贈り物をした。この時、ドン・ペドロがエドワード黒太子に贈った(かつてグラナダ王アブー・サイトから奪ったた)ルビーは、1953年のエリザベス2世の戴冠式に女王の頭上を飾った。現在はロンドン塔内の宝物館で見ることができる。

1369年3月23日、ドン・ペドロ死去
 カスティリャ王ドン・ペドロ1世はモンティエルに34才で死没した。正当な王の暗殺によりカスティリャ王国の内戦は終結ではなく更なる泥沼化の方向へ動き出すのである。

1371年9月21日、ランカスター家がカステイリャ王に
 ドン・ペドロの娘コンスタンシアと、英国王の四男ランカスター公ジョンはバイヨンヌのモン・ド・マルサンで結婚式を挙げた。翌年1月英国議会はランカスター公をカスティリャ王として正式に認めた。この夫婦が産んだ女の子がカタリナ(ドン・ペドロの孫)。
 そしてこのカタリナの長男ファン2世が産んだ女の子こそがスペイン統一の女王イザベルである。ドン・ペドロ王から数えて4世代目イザベル女王によって、アラゴンとカスティリャは統一されスペインとなる。

1379年5月29日、エンリケ2世死去
 カステイリャ王エンリケ2世はサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサダで46歳の波乱の生涯を閉じた。ドン・ペドロが没して10年目のことだった。
 トラスタマラ家の長男ホアンが21歳で即位した。カステイリャ王ホアン1世である。
 1382年、ホアン1世の王妃レオノール(アラゴン王女)が長男エンリケと次男フェルナンド(後のアラゴン王)を遺して24歳で急死。

1386年7月6日、コンスタンシアの帰還
 
ランカスター公の大艦隊はプリマスを出港した。コルーニャの人々はランカスター公一行をカステイリャ王一家として歓迎した。コンスタンシアは20年ぶりに故国の土を踏んだ。
 ランカスター家とトラスタマラ家の交渉は英国王との協議の時間も含めて数か月間を費やしたが、ついに合意に達し両家の間で条約が交わされた。(バイヨンヌ条約)
 ランカスター公はカステイリャ王の権利を放棄する代わりに、カタリナとエンリケ王子との婚約に合意した。

1388年9月17日、宿敵トラスタマラ家との婚姻
 聖アントニン大聖堂でホアン1世の長男エンリケ王子(9歳)とランカスター公の四女カタリナ(15歳)の結婚式が挙行された。孫同士の結婚により、ドン・ペドロとエンリケ・デ・トラスタマラの血脈が結ばれ後年のスペイン王国へと受け継がれる事になった。

イサベル女王への血脈
 
ホアン1世は1390年落馬事故で逝去。11歳の長男がエンリケ3世として即位、カタリナは王妃になる。エンリケ3世(病弱王)が27歳で病没した時、長男ホアンは1歳。(フアン2世)カタリナは彼が成年に達するまで王弟フェルナンドと共に摂政として王国を統治した。
 フアン2世の長女こそが後のスペイン王国の黄金期を築いたカスティリャ女王イサベル1世である(1451-1504)


ドン・ペドロから100年・・・時代は近世に移っていた。

 ドン・ペドロが建造し、こよなく愛したセビリア王城はセビリア歴史地区として大聖堂や古文書館などど共に世界遺産に登録された。(1987年)
 34歳の生涯を、荒涼たるスペイン全土で戦にあけくれた戦国の王が作り上げた優美な宮殿は、彼の絶頂期を表すものである。
 1364年に完成された正面玄関に刻まれた碑文から、高らかな王の誇りが感じとれる。
 最高位にして最高貴  最強なる征服者カスティリアとレオンの王ドン・ペドロ
アンダルシアの陽光の下、彼の栄光は今もなお輝き続ける。

ドン・ペドロの首