700年間にわたり、ヨーロッパの様々な民族の上に君臨した大帝国 |
1.キリスト教 西洋史をひも解いてみるとき、我々はそれがフランス史であれ、イギリス史・ドイツ史であれ、必ずやローマ教皇庁の存在を無視することはできないであろう。ヨーロッパに於ては、キリスト教が全盛を誇った中世は当然として、近世以降でも、世俗勢力と聖職者勢力の拮抗が、重要な構成要素となっている。その意味から言って、西洋史では宗教問題は避けて通ることのできないキーポイントである。 そもそもキリスト教なしの西洋史など考えられないほど、それはその成立時から今日に至るまでヨーロッパ人の骨肉となって彼等の精神構造の最深部に浸透している。西洋文化はキリスト教文化といっても過言ではない。 2.キリスト教の歴史 キリスト教はユダヤ教を母体として生まれたが、イエス自身はもともとユダヤ教の改革を志したのであり、新しい宗教を創始するという考えはなかった。だからキリスト教の中にはユダヤ教から受け継いだものがたくさんある。例えば旧約聖書だ。この本はユダヤ民族の歴史と信仰を記したもので、唯一の神ヤーウェが天地を創造してゆく模様を雄大に物語っている。 旧約の約とは契約の意味である。旧約は神と選民ユダヤの民族との間に結ばれた契約を意味する。基本的にはモーセの十戒のことだ。それに対し「新約聖書」は、神がその子キリストを通じて、人間と新しく取り交わした契約書である。ここに旧来のモーセを通じて取り交わされた契約(旧約)に変わって、人間は神と新しい契約(新約)を結ぶに至ったことになる。このことを認めるか認めないかが、ユダヤ教とキリスト教とを分ける大きな境目となるのだ。すなわちキリストを神の子として認め、新約聖書を神の啓示として認めるのがキリスト教の立場であり、そのいずれをも認めないのがユダヤ教の立場である。 皇帝崇拝が広く行われていたローマでは、皇帝よりも神を信仰するキリスト教は危険なものとしてネロ皇帝以来代々、皇帝の迫害にあった。迫害一辺倒を良策としない方針は、信者の増加につれて次第にローマ宮廷内にも頭をもたげた。コンスタンチヌス大帝はついにミラノの勅令を313年に発令、キリスト教を公認した。思えば、西アジアの一弱小民族の神ヤーウェは、キリストによって、父なる愛の神として認識され、パウロやペテロによってヨーロッパに運ばれ、一民族を越えた世界的な救いの宗教としての地歩を、ここに初めて築き上げたのだ。 431年にローマが分裂してから、西のローマと東のコンスタンチノーブルには、それぞれローマの正統を継ぐという本山ができた。東ローマ領のキリスト教はギリシャ正教会と称し、1453年トルコ軍がコンスタンチノーブルを陥落するまで続く。 西ローマ帝国は476年にいち早く滅亡した。その後は統一した国家はできず、辛うじてゲルマンの一族フランクが樹てたフランク王国が、今のフランスを中心に、西欧最大の領土を保持しているばかりだった。しかしそれだけに、精神的な統一体の象徴としてのローマの地位は、かえって人々の心の中に生き、ペテロ殉教の地としての追憶などから次第にローマの重要性が認識されるようになった。 紀元800年にフランク王シャルルマーニュ大帝が西ローマ皇帝の称号を法王より贈られてからは、代々法王が皇帝に冠を授ける慣習が生じた。大帝の死後、フランク王国は現在のドイツ、フランス、イタリアに分裂するが、その伝統はドイツの神聖ローマ帝国に引き継がれてゆく。 11世紀になると、イスラム教徒トルコが東に勢力を奮い、キリスト生誕の地や聖都エルサレムへ巡礼をする。キリスト教徒が迫害されるようになり、ここに法王の号令のもとに十字軍が集結されることになる。十字軍の遠征は1096年から1270年の約170年間におよんだが、結局具体的な成果を見ることはなかった。 しかし、この十字軍の遠征は、東ヨーロッパに伝えられていたギリシャ・ローマの古代文化に対する関心を改めて西欧の人々に呼び起こし、やがて東ローマ帝国の滅亡とともに、西欧の地に於てルネサンスの花を咲かせるに至る。 3.ハプスブルク家 西洋史全体の動向において、ローマ教皇庁と並んでただ一つの王朝だけが、汎ヨーロッパ的な性格と重要性を常に失うことがなかった。ハプスブルク王朝である。 この王朝はほぼ13世紀から今世紀初頭までの約700年間にわたって、ヨーロッパの政局にも、文化の進展 にも絶えず関わり続けてきた。しかもその影響範囲は、中欧のオーストリアばかりではなく、ポルトガルからポーランドまで、ドイツからイタリア、そしてバルカン南部までと、ヨーロッパの全領域に及んだ。その国家には実にさまざまな民族が含まれていた。いわば、ゆるいヨーロッパ共同体あるいは国家連合として機能していた時代もあった。 このような意味において、ハプスブルクは汎ヨーロッパ的だった。このような性格を持った王朝は、ハプスブルク以外には存在しない。 4.神聖ローマ帝国(962〜1806) 神聖ローマ帝国をドイツ語で表すと「ドイツ国民の神聖なるローマの帝国」ということになる。ゲルマン民族の大移動の4〜5世紀ころまでドイツを支配していたローマ帝国は早々と滅亡したが、その帝国の核をなすキリスト教の方はドイツにも定着し、ゲルマン民族の心の支えとなった。神聖とは「キリスト教を信仰する」と言い替えた方が分かりよい。またローマ帝国とは広い意味でのドイツと同義と思えばよい。神聖ローマ帝国を代表し、統治する者がローマ王またはローマ皇帝である。皇帝選挙で投票する権利を持っていたのが七名の選帝侯である。七人のうち三人が聖職者で、四人が世俗の君主。聖職者とはマインツ、ケルン、トリーアの大司教のことで、世俗君主とはボヘミア王、ブランデンブルク公、ザクセン公、プファルツ宮中伯のことである。 |
1.ルドルフ1世(1218〜1291) スイスのバーゼルとチューリッヒを結ぶ線の西方に「ハプスブルク城」の存在が認められる。ドイツ語で「鷹の城」を意味するこの城郭こそハプスブルク一族の発祥の地である。ハプスブルクの起源としての祖先が現れるのは11世紀頃からで、彼等が定住していたのはライン川の上流域であった。 1273年、ハプスブルク家の始祖とされるルドルフ1世が国王に選出された。一族の総師ルドルフが帝国のローマ王に選ばれたことによって、はじめてハプスブルクの名が歴史上に刻まれることになった。ドイツ史でいえば、これによって国王不在のいわゆる「大空位時代」に終止符が打たれたのである。 1275年、ルドルフ1世がオットカル王との戦いに勝利したことで、オットカル王に帰属していたオーストリアがハプスブルク領となった。このときから、オーストリアとハプスブルクの結び付きが生まれたのである。 一方、ハプスブルク一門発祥の地、アルザス地方の自治権の強い帝国自由都市は、ハプスブルクによる支配を嫌って、独立の機運を高めていた。それゆえ同家は、東方に代替地を求めざるをえなくなり、一門はオーストリアという新天地に定住することになった。ある意味では、中央ヨーロッパの発祥の地から東方の辺境へ追い出されたということもできるであろう。 OSTERREICH=東の国 962年:ドイツの強王オットー1世戴冠(神聖ローマ帝国の成立) 2.アルプレヒト1世( 〜1308) 1308年5月1日、二代目として多くの期待を寄せられたローマ王アルプレヒトは、甥ヨーハンよって不意を襲われ絶命したのである。その凶行については、シラーの著名な戯曲「ウイリアム・テル」に叙述されている。 これによりスイス三州は独立を勝ち取り、神聖ローマ帝国から脱した。こうした事件が重なるにつれて、ハプスブルク家の中心はウィーン地方へ移らざるをえなくなる。 1300年:ルネサンスが開花 3.フリードリッヒ1世 ハプスブルク家では、親が卒すると兄弟で遺産を分割するのが伝統的である。つまりヨーロッパの他の王朝で一般的な長子相続制はとらない。このためにハプスブルク家全体としての統一は失われがちになる。初代ルドルフと次代アルプレヒトの時代が過ぎると、せっかく獲得した王冠も、他家に移ってしまった。 一族の者たちは、その王冠を取り戻そうと努力した。ルドルフ4世は宗家の地位を高めようとして一門の君主を大公と称することとした。彼はウィーンにシュテファン大聖堂の建設に着手した。 1338年:英仏百年戦争始まる 4.フリードリヒ3世(1415〜1493) =王冠奪還= 1440年2月、フリードリヒ3世が国王に選出された。彼が25才のことである。ハプスブルク家としては実に130年ぶりの王冠奪還であった。そしてこれ以後、1806年の帝国解体までハプスブルク家が王冠を独占することになろうとは。 1452年、36才になったフリードリヒは、ポルトガルの王女エレオノーレと華燭の典をあげ、ついで法王の手から帝冠を戴くためイタリアへ赴いた。これより彼は、ローマ皇帝と称される。1459年、エレオノーレとの間に待望の王子が生まれた。後の皇帝マクシミリアン1世である。この王子とともにハプスブルク家は、本当の意味でヨーロッパの政局に関与することになる。 フリードリヒ3世が即位した15世紀半ばごろ、ヨーロッパで政治・通商・文化などの領域で最も高い水準を誇っていたのはブルゴーニュ公国である。フィリップ善良公の後を継いだシャルル突進公の元に神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ3世の使者が到着した。「公女をぜひ我が息子に」 フリードリヒ3世以後、ローマ王はローマ皇帝と称されるようになる。 1450年:グーテンベルクが印刷術を発明 5.マクシミリアン1世(1459〜1519) =戦は他国にさせておけ。幸いなるオーストリアよ。汝は結婚せよ= 「マクシミリアン1世の肖像」=宮廷画家、デューラー ウィーン少年合唱団の創設 1477年8月にマクシミリアンがブルゴーニュ公女マリアと結婚したことによって、初めてハプスブルク家は西ヨーロッパと深く関わることになった。ブルゴーニュ公国は、イギリスとは良好な関係を保っていたが、フランスとはことあるごとに対立してきた。そしてこの両者の抗争は、そのままマクシミリアンに受け継がれ、以後、ハプスブルク家対ヴァロア朝・ブルボン朝との壮絶な覇権争いは、世紀半ばにマリー・アントワネットがルイ16世に嫁ぐまで、延々400年近くの間続くのである。 マリアは結婚して一年も経たぬうちに、男の子を出産した。後にフィリップ美公と呼ばれ、カール5世の父となる。 マクシミリアンは1482年に事故で愛妻マリアを失うが、ネーデルランドにおける権威を確立し、嫡子フィリップの後見としての地位は不動となった。マクシミリアンにとってブルゴーニュ公国での青春時代は実り多き歳月であった。ハプスブルク家にはこの時以来、ブルゴーニュの高雅な生活様式が定着し、芸術への理解と関心はその後のハプスブルク家の伝統となった。 1453年、メフメット2世指揮下の雲霞のごとき大軍がコンスタンティノーブルを陥落させ、キリスト教徒の牙城だったビザンチン帝国(東ローマ帝国)を滅亡させた。こうして15世紀以降の西洋史は、常にトルコとの対決を一つの軸として展開することになる。 中世では曖昧としていた国家という理念は、このころになってようやく明確になり、英仏両国では中央集権体制が確立する。それに対してドイツとイタリアは、ますます分裂状態を深めてゆくのである。
マクシミリアン1世が、時をきわめるブルゴーニュ公国の跡取り娘と結婚した事で、ハプスブルク家は全欧的な規模の王朝に発展を遂げた。戦は他国にさせておけ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ。 ハプスブルクの結婚政策は信じられないくらい、実に見事に決まった。ブルゴーニュ公国の君主となったマクシミリアンは、息子フィリップ゚をスペイン王女と結婚させた。それが縁で孫のカール5世がスペイン王になった。しかもそのスペイン王は、発見されて間もない新大陸アメリカの領地の君主でもあり、またイタリアのナポリ王でもあった。 永らく南のアラゴン王国と北のカスティリア王国に分断されていたスペインでは、フェルナント王とイサベラ女王の君主結婚により統一国家として歩み出していた。1500年という区切りの年、このイサベラ女王の王女フアナとフィリップの間に王子が産まれた。後の皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の誕生である。 ハプスブルクの結婚政策は東方に於ても大成功を収めた。マクシミリアン帝は二人の孫フェルディナントとマリアの兄弟をハンガリーの王子と王女との間に二重結婚させた。それが実ってハンガリーの王冠が,ついでボヘミア(チェコ)の王冠がハプスブルクに転がりこんできた。最終的にはハプスブルクの次代をになうカール一人の手にカスティリア・アラゴンを含めたスペイン王国全体が委ねられ、弟フェルディナントはボヘミア・ハンガリー両国の王位に就くことになる。 これが20世紀初頭まで継続するボヘミア(チェコ)とハンガリーを含めたドナウ王国の成り立ちである。今日のチェコスロバキアとハンガリーの国土がハプスブルクの領有と帰したことになる。この形態はうよ曲折を経ながらも、1918年の第一次世界大戦終結まで存続する。今日の東欧問題の根源をたどれば、ここにたち至るのであって、チェコ史もハンガリー史もハプスブルクとの関係から考察せねばならない理由はここにある。
6.カール5世(1500〜1558) この頃、既に選帝候による皇帝選挙は有名無実化してハプスブルク家が独占で世襲していた。 カール5世の時代、ヨーロッパは英仏両国とローマ教皇庁領などを除くとほとんどがハプスブルクの支配下にあった。 「余の帝国では太陽の没することがない」。カール5世の一手に委ねられていたハプスブルク帝国は、彼の死後スペイン系とオーストリア系の二つに分かれた。 =空前絶後の高みに= カールの信念 カール兄弟は、母の発狂という不幸にもかかわらず、4人の姉妹とともによく協力し合い、ハプスブルク家の繁栄を築いた。 「我が王朝には始祖ルドルフ以来、神の特別の加護があり、宗家はキリスト教を守護するために神によって特別に選抜された由緒ある家柄である」という信念が、末裔に至るまで連綿として伝えられる。ハプスブルクがカトリックに深く帰依し、いかなる逆境にあってもこれを守り通したのは、この揺るぎない信念あってこそのことである。そしてカール5世があらゆる手段をつくして神聖ローマ帝国の皇帝となり、フランス王と熾烈な戦いを演じ、イスラム教徒・新教徒たちと渡り合ったのも、すべてこれがために他ならない。 =カール5世の戴冠= 1519年1月にマクシミリアン帝が死ぬと、次期皇帝候補として仏王フランソワ1世、英王ヘンリー8世、それにスペイン王カルロス1世等の名が挙がっていたが、結局、カルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝カール5世として戴冠した。 「皇帝とはキリスト教徒最高の君主であり現世における一切を司る者である。彼岸における平安の責を負うローマ法王と相携えて、世界の平和を維持してゆかねばならない」。これこそ、中世以来の皇帝理念であり、ヨーロッパ文化の核をなす原形はここにある。カール5世が旧来のキリスト教すなわちカトリックを死守しようと苦闘するのも、そのためであった。 =ハプスブルク家の領土= スペイン王カルロス1世は、ナポリ王国、シチリア島、サルディニア島、新大陸のスペイン領、フランドル・ブラバンドを含めたネーデルランドなどを、また弟フェルディナントはオーストリア、ボヘミア、ハンガリーなどと、ヨーロッパ全体をわずかの領域を除いてハプスブルクが統治するこっとなった。中世最盛期のカール大帝以来、ハプスブルクは実に空前絶後の高みに達したのである。 =フランソワ1世との確執= これ以後の約30年間、ヨーロッパは皇帝カール5世対仏王フランソワ1世の一騎打ちという形で展開される。二人を主役とすれば、脇役はローマ法王レオ10世、クレメンス7世、英王ヘンリー8世、トルコのスレイマン大帝となる。そして大きな筋書きとして次の二点が確認される。「フランスは、スペインと神聖ローマ帝国によって包囲されたことに非常な恐怖を覚えた」。「ローマ法王はカール5世の絶対的権威を恐れるあまり、法王庁の権益を守ためにはいかなる手段でも講じようとする」。 =宗教改革の嵐= このころの宗教界の堕落ぶりは目を覆うばかりで、キリスト教のためにという口実のもとに、多くの蛮行・残虐行為がなされていた。ローマ法王庁の横暴に対する反感は、やがてルター等の宗教改革運動を生むことになる。クレメンス7世に至っては、出身の我がメディチ家の権益ばかりを考え信仰にはまるで関心がなかった。これはローマ法王庁の宗教的権威の喪失を意味する。もしもカトリックの権威が岩のように揺るがなければ、新教の台頭は有り得なかった。 =カール5世の退位= 1555年から翌年にかけてのカール5世の退位は、きわめて劇的で感動的だった。皇帝はまずブリュッセルでブルゴーニュゆかりの金羊毛騎士団の団長を辞し、ネーデルランドの統治を嫡子フィリップに委譲した。さらにはカスティリア、アラゴン、ナポリ、シチリアそして新大陸の君主の地位を捨てた。スペインの最も格式が高いサンチャゴなどの三大騎士修道会の団長を辞任した。世界に君臨した不世出の皇帝は、あらゆる官職を惜しげもなく捨てたのである。波瀾万丈の生涯を終えた皇帝は「モット先へ=プルス・ウルトラ」という人生の標語を残しつつ、1558年9月21日、永遠の眠りについた。 カール5世は第二の故郷となったスペインと同化し、名実とともにスペイン王カルロス1世となった。スペインの人々と一体化したカールはスペイン人として生涯を終えた。 カール5世の宮廷画家=ティツィアーノ 『カルロス5世と猟銃犬』 金玉袋 1555年:アウグスブルグの宗教和議 =カール以後のスペイン= カール5世の大帝国は、皇帝の死後はスペイン・オーストリア両系に分かれ、帝冠はそれ以後スペイン系に戻ることはなかった。カール5世の息子フェリペ2世は、根っからのスペイン人で、もともと縁もゆかりもなく、言葉も知らないドイツなどにいささかの興味もなかった。彼の次の世代、つまりフェリペ3世、さらには4世ともなれば、カール5世があれほど苦労して権威を確立しようとした帝国のことなど、記憶の彼方に消え去ってしまう。 =近親結婚の悲劇= ウイーンとマドリッドの間をいったい何組の花婿、花嫁が行き来したことだろう。ハプスブルクの東西の親戚では近親結婚をしきりに繰り返した。その悪影響が顕著に現れたのは、スペイン側だった。虚弱体質は誰の目にも明らかで、君主とはいっても実際にはその任に耐えられなかった。1700年にカルロス2世が没すると、たちまちスペイン継承戦争に突入し、本来の係争国フランス対オーストリアに、イギリスやオランダが加わり、激しいつば競り合いが演じられる。しかも英仏両国の植民地争いが激化して、ヨーロッパが動乱の巷と化する。そのさなかにスペイン系ハプスブルクは消滅するのである。 =世界史のスペイン時代= カール5世以後のハプスブルク家では、スペイン系がオーストリア系を断然引き離して指導的立場にあった。スペイン王フェリペ2世(1556-98)の名を世に高らしめたのは、イスラム教徒とキリスト教徒の歴史的対戦として有名な1571年のレパントの海戦である。西欧軍の総師として活躍したのは、カール5世の庶子ドン・ファンダウストリアだった。 レパントの海戦のあった1571年の前後20年間が、スペイン王国の最盛期だった。フェリペ2世の統治を最もよく象徴するのは、エスコリアル宮殿の造営である。さらに彼はスペインの中央に位置するという理由でマドリッドを王国の首都と定めた。 =スペインの衰退= スペインがヨーロッパの覇権を失うのはイギリスの目覚ましい台頭による。スペインの誇る無敵艦隊は1588年英国に破れた。時代の趨勢から言って、すでにスペインのヨーロッパ支配は終幕していた。17世紀のスペインは、言ってみれば前世紀の遺産を食い潰してゆくようなものだった。しかしスペイン文化が円熟の極みに到達するのは、むしろ政治的には衰退してゆくこの17世紀においてである。グレコ、ベラスケス、ムリリョらのスペイン絵画は、この時代にこそ開花するのである。 =ハプスブルクのオーストリア系= ハプスブルクのオーストリア系は16世紀後半は、世界史の動きから取り残された感があった。ウイーンの君主たちが比較的短命だったためである。フェルディナント1世もその長男マクシミリアン2世も、10年前後の統治で終わっている。次の皇帝ルードルフ2世は在位期間こそ30数年に及んだが、断固とした政治力に欠けていた。 =30年戦争= 30年戦争が帝国内部の宗教戦争で終わらなかったのは、フランスが介入したからである。16世紀のカール5世の時代以降フランスは完全にハプスブルクにヨーロッパの覇権を奪われてきた。30年戦争は当初は教義を巡る争いだったのに、フランスが介入する頃にはすっかり様相を変え、ブルボン家対ハプスブルク家という宿敵の決戦となった。それが終わってみればフランスの絶対優位となり、1648年の和約はその主導によって進められた。 ヨーロッパの覇権は英仏そしてオランダに移り、やがて17世紀後半の大陸ではルイ14世の親政のもとで、フランスが最盛期を迎える。この太陽王によって、ついにハプスブルクのスペイン系は併合されてしまう。 7.フェルディナンド1世 8.マクシミリアン2世 フェルディナント1世の長男マクシミリアン2世になると、宗教分裂の傾向はますます激化する一方だった。 グレコ、ベラスケス、ムリリョなどのスペイン絵画開花 1571年:レパントの海戦でフェリペ2世勝利 9.ルドルフ2世 マクシミリアン2世の長男、ルドルフ2世は帝国の首都をプラハに遷都。プラハの王宮に閉じ篭もり、美術品の収集に溺れるが、政治的には無活動。 プラハの城に篭もる兄ルドルフ2世と、それに危機感を抱く弟マティアス。この二人の間では深刻な兄弟争いが発生していて、帝国はますます混乱の度を深めていった。 10.フェルディナント2世 フェルディナント2世は30年戦争を通じて、新教徒たちに一番手強い相手だった。 度重なる近親結婚の結果、スペイン系ハプスブルクは次第に虚弱化してゆく。 1618年:30年戦争。反宗教改革 11.フェルディナント3世 =オーストリアのバロック時代= 30年戦争は当初は教義を巡る争いだったが、フランスの介入により様相を変え、ブルボン家対ハプスブルク家という宿敵の決戦となった。1700年にカルロス2世が没すると、たちまちスペイン継承戦争に突入する。 1643年:ルイ14世がフランス国王即位
12.レオポルト1世(1657〜1705) 17世紀後半のハプスブルクの著しい退潮ぶりは、この時期の皇帝レオポルト1世の性格によるところが大きい。彼は政治能力の欠如のために、ハンガリー人の取扱いでも、スペイン継承戦争に際しても、適切な政策を取ることができなかった(皇帝権力の最低期)。 ヨーロッパ゚の覇権は英仏そしてオランダに移り、やがて17世紀後半の大陸ではルイ14世の親政のもとで、フランスが最盛期を迎える。そしてこの太陽王によって、ついにカール5世以来続いたスペイン・ハプスブルクはほぼ200年で終焉した。 13.ヨーゼフ1世 1705年にレオポルト1世が死ぬと、長男ヨーゼフが後を継いだ。彼はハプスブルクの家長という意識を明確に自覚し、我が一族は神によって選ばれた特別に由緒正しい家系であり、キリスト教徒の守護者であるとの信念を固く抱いていた。それゆえに彼が、スペインの親戚が後継ぎなくして絶えようとしている時に、その遺産継承のために対仏戦に闘志を燃やし、万難を拝してスペイン王位を我がハプスブルク家に維持させねばならないと決意したのも当然である。しかし1711年4月わずか6年の在位で、ヨーゼフ1世は今生に未練を残しつつ、冥土へ駕したのである。ヨーゼフ帝の急逝のために、オーストリア系ハプスブルクが九分九厘まで手にしていたスペイン王冠がするりと滑り落ちてしまった。なぜならば、ヨーゼフの後を継いで皇帝となった弟カール6世が、スペイン王を兼ねることによって全ヨーロッパが、かつてのカール5世の帝国のように、ハプスブルクの軛くびき につながれることを、イギリスとオランダが極度に恐れたからである。その結果、1713年のユトレヒトの和約でスペインはブルボン家に帰属することとなり、カール5世以来のハプスブルク時代は、ほぼ200年で終篶した。戦で敗れて消沈していたフランスは、棚からぼた餅のようにしてスペインを手に入れたのであった。 14.カール6世 カール6世はこれまでハプスブルク家の伝統であった分割相続制を廃止し、相続順位法へ移行。男の子のない皇帝の王女マリア・テレジアのための布石である。 1740〜45年のわずかな間、帝冠はバイエルン公、カール7世に渡ったが、女王は反撃し、帝冠は夫フランツの頭上に戻った。(オーストリア継承戦争) カール6世は数年間スペインで生活し、ひたすらその王になることを念願したが、あと一歩というところでその夢を断たれた。しかしスペインこそ喪失したものの、ベルギーやミラノ、ナポリなど、かつてのスペイン領だった地域をハプスブルクに確保した。 ハプスブルクが海に熱い眼差しを注ぐようになったのも、この皇帝以来である。海上王国スペインに長く滞在した彼は、海外貿易の重要性をよく認識していた。カール6世は破天荒の試みとして、アドリア海の港湾都市トリエステの振興につとめた。トリエステの将来性に着目した皇帝の慧眼に狂いはなく、やがてこの港は皇帝の長女マリア・テレジア女帝の助成をうけて一層発展する。 =バロック時代の終焉= 君主に仕える家臣の中でもオイゲン公といえば格段の存在で、この将軍が君主から受けた財産は計り知れないが、オイゲン公はそれを元にしてウイーンの市郊外に夏の離宮としてベルベデーレ宮殿を造営した。この宮殿は、バロック宮殿を代表するものである。 バロックとは元来「不規則でいびつな真珠」を意味する。プロテスタントの津波のような攻勢に危機感を抱いたカトリック側が、再び中世盛期のような宗教感情に回帰し、地上の無常を悟って神に帰依し、ひたすら彼岸での平安を願う。しかしそれでいて現世における利権や享楽も完全には捨てきれない。そうした不安定な精神構造が極端な形となって表れたのがバロック宮殿であった。しかし理性を主体とし現実を直視する18世紀に入ると、次第にこの流行は下火に向かい、市民社会が醸成される19世紀には、ほとんど消滅するのである。 15.マリア・テレジア女帝 マリア・テレジアは23才で女王に即位し、16人の子を出産した。 1762年、マリア・テレジア・イエローと呼ばれる「シェーンブルン宮殿」において 16.ヨーゼフ2世 フランツの死後、長男ヨーゼフがローマ皇帝に即位。母マリア・テレジア共同統治するが、帝国の弱体化によりポーランドを分割せざるを得なかった 17.レオポルト2世 ヨーゼフ2世の弟レオポルト2世は非常に優れた指導者だったが、わずか2年の即位で惜しまれつつも45才で若くして病死。 1776年:アメリカ合衆国独立 18.フランツ2世 フランツ2世は神聖ローマ帝国最後の皇帝となった。 彼は叔母マリー・アントワネットがギロチンで処刑されたという悲しい知らせを受けるばかりか、ナポレオンに愛娘マリー・ルイズを降嫁せざるを得なくなる。さらにナポレオンによって帝位を奪われてしまう。 神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世 オーストリア皇帝フランツ1世 1804年:ナポレオンの戴冠
19.フェルディナンド1世 抑圧されていた市民階級は自由を求めて爆発した。ウィーン大学の学生を主体とする革命運動の高揚は,もはや無能のフェルディナンド帝の手には負えなかった。 1824年:ベートーベン第9交響曲初演 20.フランツ・ヨーゼフ1世 1848年、オーストリア皇帝に即位したハプスブルク家の事実上最後の君主フランツ・ヨーゼフは、若干18才で帝国の最高位にのぼった。 フランツ・ヨーゼフはウィーンの街の大改造をすすめ、栄光の帝国を再び美しく飾ろうと試みた。古い城壁を取り壊し、リングを設け,帝国議事堂正面の壁に全能の神、ゼウスになぞらえて自分をモデルにした銅像を据え着けた。クリムトはそれらの新しい建造物の壁にウィーンの世紀末を描いた。 1845年:ルードウィッヒ2世生 21.カール1世 1918年、700年に及ぶハプスブルク家の最後の皇帝となったカール1世は、ついに帝位を降り、ここに名実ともにオーストリア帝国は終焉し、それ以降は共和国として今日に至る。 |
第三章:神々の黄昏=ハプスブルク帝国の落日 1.ハプスブルク最後の皇帝 断末魔の症状にあえぐ解体寸前のハプスブルク王朝を辛うじてつなぎ止めていたのが、フランツ・ヨーゼフ皇帝だった。若く聡明かつ勇敢で、進取の気性に富んだこの君主には、多大な期待が寄せられた。彼ならば、傾きかけた国家の大厦を支えることができるかもしれないと、その手腕に望みをかける者も少なくなかった。だが奔流にも似た時代の激動はもはや止めようがなかった。ハンガリー人も、チェコ人も、ウイーンの中央政府にあらゆる無理難題をふっかけ、不満をぶちまけたが、皇帝に対する畏敬の念だけは決して失うことはなかった。オーストリア軍のもとで兵役に就いた者は、等しく、この皇帝のためなら生命も惜しまず、という熱い思いに捉えられていた。そのような意味でこそ、フランツ・ヨーゼフはハプスブルク王朝最後の皇帝として、いかにもふさわしい君主ということができた。 2.「この世ではあらゆるものが私から奪われてゆく」 1859年:北イタリアのハプスブルク領を失う。 1866年:プロイセンに破れ、ドイツ方面への影響力を失う。 1867年:ハンガリーの暴動 オーストリア=ハンガリー二重帝国承認 ハンガリーに続いて各地で独立運動=あらゆる民族の中央からの離反 〜やがてロシアに従属させられる運命 1867年:実弟でメキシコ皇帝であるマクシミリアンが民族主義者に処刑される。 1886年:ルードヴィッヒ2世の溺死 1889年:我が子ルドルフの心中自殺=マイヤーリンクの悲劇 1897年:エリザベートの妹、ゾフィーの焼死 1898年:愛妻エリザベートがレマン湖畔で無政府主義者に暗殺される 1914年:甥で次期皇帝フランツ・フェルディナントが暗殺される。 しかしフランツ・ヨーゼフ皇帝には、まだ奪われるものが残っていた。すなわち、ハプスブクル帝国そのものが。 3.ルードヴィッヒ2世の溺死 「王が身を投げたっ...」。 エリザベトはしゃくりあげながらいう。「気など違っていなかったわ。ただ、夢を見ている変わり者だっただけなのに。もう少し考えて接してあげていれば、こんな悲劇的な最後はさけられたはずだわ」。エリザベトは、今は平和に眠る王の遺骸の傍らにぬかずくことは、ついにしなかった。ただ、聖ゲオルグの大十字章をかけた王の胸に、二人の秘密の印であり、王が愛したジャスミンの一枝を置くように..と短い示唆に富んだ命令を伝えた。傷ついたかもめが、雷に打たれた鷲に贈る最後の贈り物だった。ルドルフは父、フランツヨーゼフの名代として、ミュンヘンで行われるルードヴィッヒ2世の葬儀に参列することになった。 4.マイヤーリンクの悲劇 1889年1月29日から30日にかけての夜半に、マイヤーリンクで一体何が起きたのか。正確にどういう事件があったのだろうか。19世紀の最も不可解な歴史の謎、古きヨーロッパに起きた胸をつかれるようなドラマ、それは今日でもまだ実に多様な解釈を生んでいる。マイヤーリンクは一人の男と、家と、一つの世界の悲劇のドラマである。映画「うたかたの恋」に描かれたように、オーストリア皇太子ルドルフが恋に落ちたマリーと心中をしたというのが、少なくとも最近までのこの事件の定説であった。 しかし、1983年3月11日=つい最近のことである=63年間の亡命生活ののちに初めてウイーンに帰ってきた、オーストリア最後の皇后であり、ハンガリア最後の王妃であったチタ皇后は、ウイーンの「クローネン新聞」に驚くべき声明を発表したのである。 「ルドルフ大公は自殺したのではありません。暗殺されたのです。しかも政治的な暗殺でした」と....。 チタ皇后が1983年3月11日まで、マイヤーリンクの謎を明かすことをされなかったのは何故か。また暗殺だとする理由は、政治的暗殺だとする理由はどこにあるのか....... いずれにしても、マイヤーリンクは現代風にいえば、不安定化の企ての第一幕であったのであり、サラエボはその第二幕だったのである。そして目的は達せられた。オーストリアハンガリー帝国はマイヤーリンクで揺さぶりをかけられ、サラエボ事件で解体されたのだから。 当時のハプスブルク家にとって、真相を確立することは不可能であったのであり、そのことでルドルフ大公の死の悲劇と謎の重みは一層増していったのである。そして、それ以後、エリザベトはさまよえる皇后となる。 5.ゾフィーの焼死 1897年5月4日,パリ。 ジャン・グジョン街17番地の横長の木造建物の中では、パリの上流夫人達がバザーを開いている。大変な人出でごった返しだ。「慈善バザー」と呼ばれるこの建物で、午後4時10分、エーテルを使った映写機から炎があがった。会場にいたエリザベトの妹、あのルードヴィッヒ2世が婚約を破棄したゾフィー、現アランソン公爵夫人は事の重大さにすぐ気付いた。またしても悲劇の始まりである。ゾフィーは自らを犠牲にする決心を固め、周囲にいる若い令嬢達に向かって叫んだ。「先にお出なさい。私は最後に出ますから」 ゾフィーはこの火災の150人の犠牲者の一人となった。「公爵夫人といってもただの小娘....」とルードヴィッヒ2世の婚約者を評したコジマ・ワーグナーは間違っていた。ゾフィーは高潔な貴夫人であった。悲報を聞いたエリザベトは虚ろな目でつぶやいた。「呪いの勢いがますます強くなる」。 6.エリザベトの暗殺 歴史に残る悲劇の日、1898年9月10日(土)。彷徨の果てに異郷の湖岸で、19世紀随一の美貌の皇后エリザベトはテロリストの刃に倒れた。その前の晩、ジュネーブのホテル、ボー・リヴァージュの34〜36号室(現在は119・120号室となっており、エリザベトのポートレート写真が二枚あるが、特に説明は付いていない)に宿泊した彼女は、ボニヴァール通りのベッカー楽器店で皇帝や子供たちへのおみやげを買った後、船着き場へ向かった。「こんなにはっきりモン・ブランが見えたことはありません」と皇后はハンガリー語で言った。 その直後のことであった。61才であった。大型の男物の懐中時計は、13時45分で止まっている。時計の鎖には、ダイヤ12個をちりばめた小さなクリスタル製の白鳥が下がっている。ルードヴィッヒ2世の贈り物である。1907年6月7日、ウイーン中心街にある国民公園で、フランツ・ヨーゼフは、オーストリア皇后エリザベトの像の除幕式を行った。皇后は椅子に掛け、足元に大型犬が二匹いる。皇后の瞳はホーフブルクを見つめている。像の前では、現在でも時々演奏会が催され、過ぎ去った時代へのノスタルジアを掻き立てる。ハンガリーでは政変はあったが、エリザベトの思い出は今も生きていて、ドナウ川にかかる橋は、いまでもエリザベト橋である。 チタ皇后の言葉によれば、皇帝は、1916年11月21日の死のその日まで、繰り返し言い続けたという。「私がシシをどれほど愛したかは、誰にもわからないだろう」と.....。「私達は皆、変死する」と、ある日言ったシシの予感には、ギリシャ神話のアトレウス家の呪いにも似たものがある。歯車はなお、呪いをかけるかのように回り続け、フランツ・フェルディナンド大公と大公妃がサラエボで撃たれる。第一次世界大戦の幕開けの一発である。1914年6月28日のことである。 そして1919年、第一次世界大戦が終わった時、かつて神聖ローマ帝国より続いた欧州第一の名門オーストリアは三流国に転落したのである。チタ皇后は1916年にエリザベトに続いてハンガリー王妃となり、ヨーロッパが解体し、二度に渡って大陸に戦火を見た暗い時代の最後の、そして最高の歴史の現場証人である。 シシと愛称されたエリザベトは、ヴィッテルスバッハという呪われた家系に生まれたということで、家という閉ざされた歴史の重みを背負い、同時に、19世紀末ヨーロッパ社会の大きな変貌による歴史の歪みを一身に受けていた。そして、そこから新しい時代に向かって逃れようとして果たしえなかった女性だ。いわば公と私との二重の歴史を象徴する存在だとも言える。 シシにとって新しい時代を託せるはずであった皇太子ルドルフは、チタ皇后の劇的な発表があった今もなお、不透明な部分の多い謎の死を遂げているが、その謎はまさに、崩壊するヨーロッパの旧体制と、台頭する現代型の国家体制との歪みを内包している。この自由奔放なプリンスは、結果的にはエリザベトと同じように、揺れ動く黄昏のヨーロッパのエスケープ・ゴートであったのだろう。 エリザベトをめぐる人々、そして黄昏のウイーン宮廷、遠くに聞こえる地鳴りのような20世紀の足音。それがひどく不穏で、不気味な軍靴の音であるということが、シシという美貌で聡明な女性を通して理解できたような気がした。19世紀末葉の動乱の火種が、バルカン半島であり、中近東であることも、百年前の話とは思えぬ身近さである。 美貌の女優ロミー・シュナイダーもまた20世紀を生き抜くことなく去っていった今、百年前のシシの面影と、ヴィスコンティの映像が二重写しになって眼前に浮かぶ。遠い国の遠い存在が急に近くに息づくような錯覚を覚えるのは、ウイーンにいるからとばかりは言えないようだ。 7.セルビアの野に轟く銃声数発 愛妻ゾフィーとともに、フランツ・フェルディナントは赤い血に染まって倒れた。敵弾の格好の標的とされた大公は、あれほど手に入れたがった帝冠、あと二年も我慢すれば得られた帝冠に触れることなく、あたら51歳の生涯を無為に終えた。 1914年7月、サライェボ事件を導火線として第一次世界大戦の端緒が開かれた時、フランツ・ヨーゼフ帝は84歳になんなんとしていた。そして1916年11月11日、前夜から高熱を発していた皇帝はついに息を引き取った。 この神話的人物と化した皇帝とともに、6世紀半の覇業に栄えたハプスブルク王朝は、事実上終焉した。次に帝位に昇ったカールには、とても解体寸前の帝国を支える力量も手腕もなかった。やがて世界大戦は局を結び、それとともに1918年、ハプスブルクは名実ともに瓦解した。そして旧領のハンガリーもボヘミアも、ポーランドやルーマニア、ユーゴスラビアの所領も失ったオーストリアは、有史以来はじめて共和国となり、新たな歴史を刻み始めた。 8.追憶 オーストリア=ハンガリー帝国には12にのぼる民族が含まれていた。ドイツ人、ハンガリー人、チェコ人の他にも、クロアチア人、スロヴェニア人、ルーマニア人などが、それぞれの民族意識と母国語に従って生活しつつも、二重帝国の枠内で皇帝を絆として統一されていた。そして、1918年の終戦とともに、これらの民族は次々に独立していった。 この年を節目として、各民族、各国家は小国として独立した後に、苦難の道を歩始めた。オーストリアそのものが、700年にわたるハプスブルク王朝の統治を廃して共和国となった。だが、それはなんという悲惨な共和国だったことだろう。激しいインフレに見舞われ、通貨改革によって民衆は一文なし。食糧難につぐ物資不足。酷寒の真冬に炊く薪炭もなく、人々はウイーンの森へ行って木切れを拾う始末だった。その時になってはじめて、彼等は1918年までのハプスブルク王朝の時代が、安定した世界だったことに気付いた。まさか700年の伝統を誇るハプスブルク王朝が滅亡するとは思わなかった。だからこそ彼等は、それが滅びた時になって、あの時代はよかったと甘い追憶にかられたのである。
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ヨーロッパ歴史年表
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