海軍第一期飛行専修予備生徒
(略称 一期予備生徒)


 

 


海軍第一期飛行専修予備生徒
(略称 一期予備生徒)

昭和18年10月2日、大学、同予科、旧制高等学校、専門学校在学生の徴兵猶予停止が発令され、我々は12月10日各鎮守府所属海兵団に入団し、二等水兵となる。 約50日新兵教育を受け、19年2月1日、三重海軍航空隊及び鹿児島海軍航空隊に   入隊し、予備生徒を拝命した。予備生徒の出身校は大学予科、旧制高等学校、専門学校で、因みに同期入団した大学在学生は飛行科では第14期予備学生である。   生徒の身分は下士官の上、準士官の下に置かれた。19年12月25日少尉候補生、20年6月1日少尉に任官した。

海軍少尉候補生(左) 海軍少尉飛行服(右)に身を包む
若き日の予備生徒

戦後60年経った、予備生徒たちの「今」の画像

九七式艦上攻撃機(中島 B5N2)

1937年当時としては最新の技術である単葉、可変ピッチ、フラップを装備した艦上攻撃機だった。
日本機として始めて引込脚が採用された。
その後、後継機の天山の出現までは主役の座を守っていた。

 

中島九七式3号艦上攻撃機 米側コードネーム「ケイト」
全幅 15.51m
全長 10.30m
全備重量 3,800kg
乗員 3名
出力 1,000馬力
最大速度 377km/h
航続距離 1,281km
武装 7.7mm機銃1門 
爆弾800kgまたは魚雷1本
生産 1号、3号合わせて1,250機

 

 写真は昭和19年11月、兵庫県河西郡(現在の加西市)の鶉野飛行場で撮影された姫路海軍航空隊の97式1号艦上攻撃機である。前の人物は姫空練習生の前田一二氏(甲飛12期)で、同期生の藤原昌氏が撮影したものである。

 姫空は艦攻の練習航空隊として18年10月1日付で開隊した。20年に入ると、姫空でも特攻隊が編成された。この「ヒメー342」号機も神風特攻隊第一護皇白鷺隊として、山田鐵雄少尉(操縦・予備学生13期)、大岩虎吉少尉(偵察・同)、保村正一2飛曹(電信・乙飛18期)が搭乗し、4月6日、菊水一號作戦で同隊の他の12機(97艦攻11機、天山1機)とともに、鹿児島県の串良基地を沖縄周辺の米水上部隊に向けて出撃した。全機#80(800s爆弾)を装着していた。

 姫空からは5月4日までに計21機、63名が特攻出撃し、全機未帰還となっている。

写真ならびに資料提供 ●上谷昭夫/前田一二

 


 

下記文中の数字は「海軍飛行科予備学生・生徒史」より転載しました
また、4つの音声WAVファイルは、昭和38年7月26日放送、TBSラジオ、ドキュメント昭和史=戦争と人間、「第四回・学徒出陣」から転載しました。

海軍飛行専修予備学生

帝國海軍創設以来、有事の際に海軍将校を補う為に予備将校の養成制度を設け、予備将校は明治37年6月以降の官階に定められ、兵科将校の予備員とするものであった。

満州事変の勃発後、国際情勢の急変に伴い戦時要員の充足と航空戦力の増強が必要となり、昭和8年12月に航空予備員に関する方針が決定された。これが帝國海軍における予備学生制度の嚆矢をなすものである。

海軍における航空戦力の重要性が認識され始めた昭和9年、飛行機搭乗士官の不足に備え、海軍が旧制大学・高等専門学校の卒業生から志願制によって採用したのが飛行予備士官制度である。

当初は数も少なく1期学生は僅かに6名だったが、年を追って増加し大東亜戦争の勃発と共に昭和17年には9〜12期・328名が戦列に加わり、航空決戦が熾烈となった昭和18年には一挙に5,200名が13期として馳せ参じた。

同年12月には「学徒出陣」によって現役入隊した大学・高専在学生のうち3,334名が14期学生として加わった。

太平洋戦争開戦

昭和16年12月 ハワイ真珠湾攻撃

海軍飛行専修予備生徒

大学・高専を卒業した志願者から採用した予備学生に対して、在学中に徴兵猶予停止によって徴用された未卒業生から志願により採用した者を予備生徒という。

昭和18年10月2日、専門学校以上の学校の文科系学生に対する徴兵猶予が停止された結果。2,208名が1期予備生徒として加わった。

兵科、飛行科、整備科の3種に区分し、教育を修了したのは第1期、第2期のみで第3期は卒業に至らず終戦を迎えた。

クラス

入隊年月日

入隊人数

戦没者人数

うち特攻戦
死者

 1期学生

昭和9年11月21日

6

0

0

14期学生

昭和19年2月1日

3,334

411

163

 1期生徒

昭和19年2月1日

2,208

165

37

1期生徒のうち1,393名が三重航空隊に入隊。

学徒出陣

昭和18年12月太平洋戦争のさなか 旧制文科系大学・高専・専門学校学生生徒の多くは学業半ばにして召集を受け軍籍に身を投ず。これを学徒出陣と称す。

太平洋戦争の激化(戦線の拡大と相次ぐ敗北による兵力の極度の消耗)にともない、「国家存亡のとき、学生もペンを捨てて入隊せよ」とのスローガンの下、1943(昭和18)年12月、徴兵年齢(満20歳)に達した大学・高等専門学校の学生(理工科系・教員養成系以外)を入営させた措置。

最後の早慶戦で歌われた海ゆかば

ブログ「歴史の現場証人」・・・東條由布子さんとの遭遇

学徒壮行大会

昭和18年10月21日、
神宮外苑小雨の降る神宮外苑競技場で
学徒壮行大会が挙行された。


1943年10月21日雨の神宮外苑・学徒出陣式

学徒壮行大会の実況

神風特別攻撃隊

……第三草薙隊名古屋空 大塚晟夫海軍少尉候補生23歳 昭和20年4月28日沖縄沖敵艦船に特攻出撃死 九九艦爆搭乗

「皆元気でゆこう。
大東亜戦争の必勝を信じ、
 君達の多幸を祈り、
 いままでの不幸をお詫びし、
 さてさて俺はニッコリ笑って出撃する。」
   大塚晟夫海軍少尉候補生

海軍兵学校、予備学生、特務士官を含む神風特別攻撃隊での士官戦死者587名。うち飛行予備学生・生徒の戦死者が512名。87%が予備学生出身者で占められていた。

神風特攻隊、ナレーション

草薙隊、大塚晟夫(あきお)さん(23歳、中央大)
4月28日出撃当日の手紙

絶望的な戦況の中で、希望を捨てなかったからこそ志願した特攻隊員たち。私も希望は捨てません、この国がどんなに堕ちた国になっても。日々の飯や酒の味は忘れても言葉は残ります。人が死んでも言葉は残ります。だからこそ語り継がねばなりません。どんなに荒廃した社会になっても、必ず子供たちの中から「聞くべき耳を持つ者」が現れると私は信じています。(神崎夢現)

左端下段に大塚晟夫さんの名前が見える

予科錬

海軍飛行予科練習生の略称。旧日本海軍て、戦場における航空機の重視に伴い、多数の搭乗員を育成するため、1930年(昭和5年)霞ヶ浦飛行場内に設けられた制度。14〜15歳の少年に約3ヵ年の基礎教育を施した。予科終了後、飛行練習生教程を経て搭乗員となった。

三重海軍航空隊

三重県一志郡香良洲町

三重県史Q&A「三重海軍航空隊」を読む

三重海軍航空隊に入隊した
海軍飛行予備学生について

この門は三重海軍航空隊の門なり

過ぐる日紅顔の少年達がこの門をくぐり情熱のすべてを祖国に捧げ朝な夕なに訓練に励み大空へと巣立って行ったのは海軍飛行予科練習生である

祖国の安泰と民族の平和を念じつつ悠久の大義に殉じていったその霊を顕彰するためにもこの門を永久に保存するものである

海軍第一期飛行専修予備生徒慰霊碑

大阪護国神社

建立・管理 海軍第一期飛行学生
建立年月日 昭和51年8月
慰霊祭の主催者 一生会
祭神数 165柱

終戦

昭和20年8月15日 大東亜戦争終戦