アメリカから見た真珠湾


パールハーバーに行ってきました。

ハワイへは過去何回か行きましたが、アリゾナ記念館へ行くのは初めてでした。


USSアリゾナ記念館見学者センター入口

日本軍の奇襲により沈没した戦艦アリゾナの船内には、今なお、1177名の米兵が眠っています。
そして、この記念館に保管されている数々の展示物は、その悲しい歴史がまぎれもない事実であることを証明してくれています。
我々が訪問したのは月曜日でしたが、アリゾナ記念館は大勢の観光客で賑っておりました。
でも、日本人観光客は我々のほか数えるほどしか来ていません。 来場者の多くはアメリカ人でした。


1941年12月7日、8時10分、日本軍による真珠湾攻撃を受けて沈没した戦艦アリゾナ


見学者センターには真珠湾攻撃で
犠牲になった兵士の名前が刻まれている

彼らはここ真珠湾で起こった「あの日」を改めて再確認して、メモリアル内で行き交う我々日本人に何を感じているのでしょうか?
かつて、折角このアリゾナ・メロリアルに行ったのに、そこでアメリカ人の冷ややかな視線を感じて戸惑ったという話を聞いたことがある私は、今回、意識して彼らと目を合わせてみました。 でも、不思議とそのような我々を非難するかのような冷たい目線には出会うことはありませんでした。

それだけ時が過ぎたのでしょうか?
それとも冷たい目線を感じたというその人の意識そのものが、「奇襲」や「敗戦」の後ろめたさからくる錯覚だったのでしょうか?

少なくとも今回私がここで見たものは、相変わらず好意的な、そして人懐こい笑顔のいつものアメリカ人だったのです。

パールハーバー・・・
なんと美しい響きでしょう! このロマンチックな名前は、湾に停泊していた船に付いたカキの殻から真珠が出てきたことから名付けけられたと言います。


1941年12月7日、真珠湾内に停泊していた
130隻の米太平洋艦隊戦艦の配置図


見学者センター資料館に展示されている
日本海軍航空母艦
「赤城」

1941127日早朝、6隻の空母を含む合計33隻もの連合艦隊はオアフ島北方370キロの海域に到達しました。そして夜明けと共に、航空母艦からは雷撃機、艦上爆撃機、戦闘機が、この美しい真珠湾に向けて飛び立っていったのです。

第一波攻撃隊長、淵田美津雄海軍中佐が母艦隊に向け打電した「奇襲成功せり」を意味する暗号電報「トラ、トラ、トラ」はあまりにも有名です。

攻撃は確かに目を見張る大戦果を産みましたが、完全な成功とは言えませんでした。アメリカ太平洋艦隊は粉砕されたとはいえ、攻撃時に湾内にいなかった空母は無傷。その上、真珠湾そのものも信じ難いほど無事だったのです。

そして、もっと重要なことは、それまで第二次世界大戦に参戦するか否かで真っ二つに分かれていたアメリカの世論が、この真珠湾攻撃によって完全に戦争参加に向けて一本化したことでした。

アメリカナショナリズムは日本に対し、「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)を合言葉のもと、徹底的に戦うことを決意させてしまったのです。


被爆後、9分足らずで1177名の乗組員と共に
海底に沈んだ戦艦アリゾナの砲台


アリゾナ記念館(右端)へのボート船尾に翻る星条旗と
戦艦ミズーリ号

このアリゾナ記念館のすぐ隣りには、これまた歴史の現場証人である戦艦ミズーリが、貴重な歴史の足跡を今に伝える記念碑として係留されていました。
言うまでも無く、日本降伏文書の調印式会場となった戦艦です。

太平洋戦争の引きがねとなった真珠湾・・・
その同じ湾内に、奇襲により撃沈したアリゾナ号が海底に横たわり、その戦争の終結の象徴であるミズーリ号が戦争記念博物館として永久係留されているとは、何という歴史の皮肉でしょうか?!

パールハーバーに始まり、その後三年九ヶ月間に及んだ太平洋戦争はミズーリ号で終結し、そこから日本は戦後の新たな一歩を踏み出したのです。

1853年、ペリー提督が黒船を率いて浦賀に来航しました。 日本とアメリカの近代史の幕開けです。

1945年9月2日、ミズーリ号の甲板で日本の降伏文書調印式が行われたその日、戦艦のマストに高々と翻っていた旗は、その昔、ペリー提督が浦賀来航の際に掲げていた星条旗そのものだったと聞いた時、1898年のハワイの併合さえもアメリカの環太平洋政策の流れの中の必然であったのかと思えてきます。

今や、年間に150万人もの日本人が訪れる常夏のパラダイス、ハワイ・・・
ビーチで日光浴をし、ブランド品を買いあさる観光客のうちの何人が、ここアリゾナ記念館を訪れるのでしょうか?


その観光客の多くも、すでに戦争を知る世代から、戦争を知らない世代へと、世代交代が進んでいます。
一人でも多くの日本人に、この日米の近代史の「偉大なる記念碑」を訪れていただき、前世紀半ばに真珠湾で起こった事実と、そしてその後に日本が背負った重い十字架に思いを馳せていただきたいものだと、切に感じました。

19世紀、イギリスのサミュエル・スマイルズはその著「品性論」 の中でこう記しています。
「国としての品格は、自分たちは偉大なる民族に属するという感情から、その支持と力を得るものである。先祖の偉大さを受け継ぎ、先祖の遂げた栄光を永続させるべきだという風土がその国に出来上がったときに、国家としての品格が高まる」

記:2005年2月14日

 戦艦ミズーリ号(左)とアリゾナ・メモリアル

真珠湾攻撃の成功を伝える当時の臨時ニュース

臨時ニュースを申し上げます。
大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表、
「帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋において、米英軍と、戦闘状態に入れり」"新高山登れ"
戦艦赤城に、Z旗が、高々と翻った。わが機動部隊は、一路、ハワイへ、その艨艟を、推し進めたのである。
8日 第一波攻撃隊183機。第二波攻撃隊167機。
6隻の空母から、旭日に、銀翼を輝かせて次々と飛び立った航空部隊は、真珠湾に集結の、アメリカ太平洋艦隊の頭上に、果敢な攻撃を開始した。
時は 日本時間、午前7時55分、数秒前、空と、そして海からの、特殊潜航艇による真珠湾攻撃は、文字通りの奇襲作戦であった。
赫々たる戦果をあげた海軍は、さらに、12月10日、イギリス極東艦隊の主力、プリンス・オブ・ウェールズ、並びに、レバルスを撃沈、その意気、正に、天を衝くものがあった。

一方、陸軍も、8日未明、機を同じくして、マライ半島東岸に上陸、騎虎の勢い、凄まじく、翌、昭和17年1月11日、
セレベス島メナドに落下傘部隊を降下、これを占領、続いて、
スマトラ島パレンバンにも、白きバラの花模様を、青い大空一杯に、描いて空の神兵の名を轟かした。

★★★ 謝辞 ★★★
上記は、福井さんのブログ 【歴史】太平洋戦争の200万英霊を追悼する!!に掲載された日本遺族会推薦 200万英霊に捧げる!!「軍歌はここに生きている」より、そのナレーションの一部を転用させていただきました。ナレーションの全文は福井さんのブログ
 http://matiere.at.webry.info/ でご覧いただけます。