オペラの誕生とイタリア史 シチリア王国、ナポリ王国 |
イタリアの歴史 |
オペラの歴史 |
オペラの語源 |
オペラという単語はイタリア語で「仕事」「作品」を意味する。 |
文明の十字路、シチリア島 |
シチリア島は地中海世界のほぼ中央に位置する地中海最大の島である。 |
ノルマン人の南イタリア進出 |
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イスラム勢力の侵入に危機感を持ったローマ教皇や都市は、聖地巡礼の途中、南イタリアに来ていたノルマンディ出身のノルマン人騎士の武力を傭兵として利用した。 1130年、イスラム勢力を排除したノルマン人は、シチリアと南イタリアにまたがるシチリア王国を建国し、首都をパレルモに置いた。これがシチリア王国のノルマン朝である。 パレルモには、ノルマン、ギリシャ、ビザンツ、イスラムの文化を融合させた独自の都市文化が開花した。
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シチリア王国の分裂とナポリ王国の誕生 |
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1266年、神聖ローマ帝国と対立するローマ教皇の要請により、フランス・アンジュー家のシャルルがシチリアに侵攻し、以後、アンジュー家がナポリ及びシチリア島を支配した。 1302年、アラゴン王が支配するシチリア王国が成立。一方のアンジュー家はナポリ王国を支配することで和議が成立し、シチリア王国は分離した。 シチリア王国は二つに分裂し、半島側はナポリ王国と呼ばれることになった。
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アラゴンによるシチリア王国の支配 |
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1412年、カスペの妥協によりアラゴン王フェルナンド1世(1380-1416)は「アラゴン王、バレンシア王、バルセロナ伯、およびシチリア王の称号持つことになる。 1435年、ナポリ王国を支配していたアンジュー家が途絶えると、シチリア王であったアラゴン王家のアルフォンソ5世がナポリを侵攻し1442年にナポリ王となった。
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スペインによるシチリア支配 |
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1469年、アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベルの結婚によりスペイン王国が成立。 フェルナンド2世は既にトラスタマラ家の支流が支配していたナポリ王国を再征服したため、両シチリア王国が復活し、両シチリアはスペインの支配下に置かれた。
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イタリア戦争(1494-1559) |
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1494年からはナポリの支配を巡ってスペインとフランスは激しく対立を繰り返した。 フランス王フランソワ1世が結んだコニャック同盟に対抗し、イサベル女王の孫カール5世が率いる神聖ローマ帝国皇帝軍がローマを奪還する。 その後もフランソワ1世はイタリアへの侵攻を繰り返すが、最終的にはジェノヴァを始めとするイタリア有力諸国はカール5世に服したため、イタリアは神聖ローマ帝国の支配下となった。
しかしながらもとよりスペイン王家は神聖ローマ帝国皇帝と同じハプスブルク家であり、事実上皇帝の家系によってイタリアが支配される構図に変わりはなかった。 イタリア諸侯の中では、後にイタリアを統一するサヴォイア公国(首都はトリノ)が勢力を伸ばした。
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オペラの成立 |
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16世紀末、フィレンツェで古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まった。 今日、オペラとみなされる最古の作品は、1597年頃のヤコポ・ペーリ(1561-1633)による「ダフネ」であるが、作品は現存しない。 1600年以降にペーリが作曲した「エウリディーチェ」が今日に残る最初のオペラ作品である。 このころよりイタリア各地でオペラが上演されるようになり、18世紀にかけてナポリで隆盛を極めた。オペラ劇場は王侯貴族や裕福な市民の社交と娯楽の場として発展した。 一般に、1600年〜1740年の間に作られたヨーロッパ音楽をバロック音楽といい、大きく劇場音楽、室内楽、教会音楽の三つに分類される。
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ヴェネツィアのオペラ |
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史上一番早く民衆に開放された公共ののオペラ劇場は、ヴェネツィアのサン・カッシアーノ劇場である。ここでは王侯貴族のためでなく市民のためのオペラが上演された。 今日、上演される最古のオペラは1607年にマンドヴァで初演されたクラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)作曲の「オルフェオ」である。 1613年にモンテヴェルディはヴェネツィア、サン・マルコ教会の学長に就任した。 モンテヴェルディのオペラは5作品がヴェネツィアで上演されたが、現存しているのは「ウリッセの帰還」「ポッペアの戴冠」の二作のみである。
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作曲家、スカルラッティ |
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1685年、アレッサンドロ・スカルラッティ(1660-172)がナポリ王室礼拝堂楽長に就任した。彼は鍵盤楽器で有名なドメニコ・スカルラッティの父親としても知られる。 スカルラッティはバロックオペラのスタイルを集大成し、後にオペラ・セリアと呼ばれるジャンルの確立に重要な役割を果たした。
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オペラ「貞節の勝利」 |
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「貞節の勝利」はアレッサンドロ・スカルラッティが作曲した唯一の喜劇オペラで、活動の最晩年になる1718年に掛かれた。 初演は大きな成功を収めたが、この公演を観ることが出来たのは王族と貴族たちのみであり、その後1938年にロンドンで再演されるまでに200年以上の時を要した。
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バロックオペラの終焉 |
こうしてナポリで花開いたバロックオペラも時代の変化と友に衰退し、その歴史的役割を終えることとなった。 |
スペイン継承戦争(1701-1714) |
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スペイン・ハプスブルク家の断絶に伴い、オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ帝国はスペインがもつイタリアの利権を手に入れた。 1707年、イングランドとスコットランドが合併しグレートブリテン王国が成立。 1713年、ユトレヒト条約により、スペインはオーストリアにネーデルランド、ナポリ王国、ミラノ公国を、サヴォイア公国にシチリア王国を割譲した。 1720年、サルデーニュ王国成立
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ナポリ、サン・カルロ歌劇場 |
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1737年、世界最古のオペラハウス開場。 聖人サン・カルロ
イタリア三大オペラハウス ナポリ サン・カルロ歌劇場 |
ナポリは世界の音楽の首都 |
18世紀のナポリはナポリ王国の首都として、パリ、ロンドンに次いでヨーロッパで三番目の大都市であった。シャルル・ド・プロスは1739年に「ナポリは世界の音楽の首都」であると述べている。 当時のナポリでは音楽に重きが置かれ、コンセルヴァトワールが創設されるなど、音楽教育が確立された。カストラートはほとんどがナポリで訓練を受けていた。 ナポリ楽派の影響はイタリアを越え、グルック〜モーツァルト〜ベートーヴェンにも及んだ。 |
オペラ「湖上の美人」 |
1815年から1822年までの7年間、ナポリ王立歌劇場音楽監督に就任したロッシーニが書いた9曲の歌劇の7番目の作品。最新の優れた文学=1810年に発表されたウォルター・スコットの物語詩「湖上の美人」を題材に、知り尽くした座付きの合唱団とオーケストラのために二重のバンダを駆使して作曲された。ナポリ時代のオペラでは初めてコントラルト(アルト)を男装させて登場させた。 その音楽は当時の最先端を行く、とても充実したものだった。 〜園田隆一郎(「湖上の美人」プログラムより |
ナポレオン戦争(1799-1815) |
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1796年、ナポレオンはフランスの皇帝としてイタリアに侵入した。 1805年、ナポレオンは自らを大統領としてイタリア共和国を建国、その後、皇帝となり共和国はイタリア王国となった。 ナポリ王国も妹婿のミュラに委ねており、イタリア半島はナポレオンによりほぼ統一された。
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オペラ「シチリアの晩鐘」(シチリアの夕べの祈り) |
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ジョゼッペ・ヴェルディが作曲した5幕から構成されたオペラ。
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シチリア、マッシモ劇場 |
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1897年、バジーレ親子によって33年もの歳月をかけて作られた。 落成式にはヴェルディのオペラ「ファルスタッフ」が上演された。
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イタリアの統一 |
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ナポレオンの没落後、イタリアは再び分割された。 ウィーン会議の結果、ヴェネツィアの一部とミラノの一部はオーストリアの支配に。ジェノヴァを含む北西部とサルデーニャ島はサルデーニャ王国に。半島南部とシチリア島は両シチリア王国に。 このウィーン体制に対して各地で自由主義運動が高まったが、オーストリアによって鎮圧されてしまう。(ラデツキー将軍) 1859年、サルデーニャ王国(ヴィットリオ・エマニュエル2世王)の首相カヴールはフランス皇帝ナポレオン3世と結びオーストリア帝国を攻撃。翌年ジョゼッペ・ガリバルディは千人隊を率いてシチリアとイタリア南部を征服し、その領土をサルデーニャ王に献上した。 1861年、統一国家としてのイタリア王国の成立が宣言された。
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