歌劇 ギヨーム・テル Guillaume Tell

 

作品

原作:シラーの戯曲「ウィルヘルム・テル」1804年
台本:ヴィクトル=ジョセル・エティエンヌ・ド・ジュイ
作曲:ジョアキーノ・ロッシーニ
言語:フランス語 全4幕
演奏時間:4時間
舞台:スイス(ウーリー州の山村、ルツェルン湖、アルトドルフ)

オペラの概要

「ギヨーム・テル」は自由を希求するスイスの民衆の闘いを壮大なスケールで描き、ロッシーニの捜索の集大成であると共にロマン主義的グランド・オペラの幕開けを告げる記念碑的作品となった。

スイスの指導者メルクタールの息子アルノールは、オーストリアのハプスブルク家の皇女マティルドが溺れそうなところを助けたことがあった。政治情勢にもかかわらず、アルノールマティルドは身分の差を超えて愛し合う秘密の間柄となった。父のメルクタールはそのことを知らない。

ハプスブルク家

西洋史全体の動向において、ローマ教皇庁と並んでただ一つの王朝だけが、汎ヨーロッパ的な性格と重要性を常に失うことがなかった。ハプスブルク王朝である。
この王朝はほぼ13世紀から今世紀初頭までの約700年間にわたって、ヨーロッパの政局にも、文化の進展 にも絶えず関わり続けてきた。しかもその影響範囲は、中欧のオーストリアばかりではなく、ポルトガルからポーランドまで、ドイツからイタリア、そしてバルカン南部までと、ヨーロッパの全領域に及んだ。その国家には実にさまざまな民族が含まれていた。いわば、ゆるいヨーロッパ共同体あるいは国家連合として機能していた時代もあった。 このような意味において、ハプスブルクは汎ヨーロッパ的だった。このような性格を持った王朝は、ハプスブルク以外には存在しない。

       神聖ローマ帝国国旗

スイスで勢力を拡大したハプスブルク家

スイスのバーゼルとチューリッヒを結ぶ線の西方に「ハプスブルク城」の存在が認められる。ドイツ語で「鷹の城」を意味するこの城郭こそハプスブルク一族の発祥の地である。ハプスブルクの起源としての祖先が現れるのは11世紀頃からで、彼等が定住していたのはライン川の上流域であった。

1.ルドルフ1世(1218〜1291)
  神聖ローマ帝国ローマ王(在位:1273-1291)

1273年、ハプスブルク家の始祖とされるルドルフ1世が国王に選出された。一族の総師ルドルフが帝国のローマ王に選ばれたことによって、はじめてハプスブルクの名が歴史上に刻まれることになった。
ドイツ史でいえば、これによって国王不在のいわゆる「大空位時代」に終止符が打たれたのである。

1275年、ルドルフ1世がオットカル王との戦いに勝利したことで、オットカル王に帰属していたオーストリアがハプスブルク領となった。このときから、オーストリアとハプスブルクの結び付きが生まれたのである。
ハプスブルク一門発祥の地、アルザス地方(フランス東北部)の自治権の強い帝国自由都市は、ハプスブルクによる支配を嫌って、独立の機運を高めていた。それゆえ同家は、東方に代替地を求めざるをえなくなり、一門はオーストリアという新天地に定住することになった。ある意味では、中央ヨーロッパの発祥の地から東方の辺境へ追い出されたということもできるであろう。 ルドルフはウィーンに一門の拠点を移し、20世紀に至るまでウィーンはハプスブルク家の本拠地となる。(OSTERREICH=東の国)

1291年にルドルフ死去の報告がスイスに届くと、1291年8月にウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの代表者がリュートリで密かに会合し、盟約者同盟を結んだ。これによりスイス三州は独立を勝ち取り、神聖ローマ帝国から脱した。(このシュヴィーツ州という地名が「スイス」の語源)
スイスの建国j記念日(8月1日)はこの文章の日付に基づいている。

2.アルプレヒト1世( 1255〜1308)ルドルフ1世の長男
  
神聖ローマ帝国ローマ王(在位:1298-1308)

1308年5月1日、二代目として多くの期待を寄せられたローマ王アルプレヒトは、甥ヨーハンよって不意を襲われ絶命したのである。その凶行については、シラーの著名な戯曲「ウイリアム・テル」に叙述されている。 

ハプスブルク皇女マチルデ(1251-1304)

ハプスブルク家始祖ルドルフ1世の長女 アルプレヒト1世の姉

歌劇「ウイリアム・テル」ではアルノールと恋に落ちたことが描かれているが、
実際には彼女は1273年9月1日にアーヘンにて行われた父ルドルフ1世の戴冠式と同じ日にバイエルン公ルートヴィヒ2世との結婚式を挙げた。