宗教画理解の手引き


 

第七章 イエス以後のキリスト教

キリスト教の誕生

イエスの弟ヤコブや一番弟子のペトロを中心として、エルサレムに教団が生まれた。

最初は、ユダヤ人社会というワク内での教団であったが、「神の子」という信条はユダヤ教とは絶対に相容れないものであったから、「イエスを神の子、救い主キリスト」とする人たちの教団は、ユダヤ教とはまったく別個なものにならざるを得なかった。これがキリスト教である。

地中海世界がローマ帝国によって統一され、人の往来は頻繁で、帝国の東半分ではギリシャ語が、西半分ではラテン語が共通語として広く使われていたという好条件のもとに、キリスト教はユダヤからシリア全域、小アジア、ギリシャ、エジプト、イタリアなどへ広まっていった。新約聖書はギリシャ語で編纂された。

 

キリスト教の迫害

ローマ帝国は、ユピテルを最高神とする伝統的なローマの神々を信仰した。そしてアウグストスの時代から、皇帝を現人神として神々の列に加え、帝国の各地に皇帝を祭る神殿が造られた。そのほかギリシャの神々や、エジプトのイシス女神の信仰、シリアのミトラ教なども帝国内に広まっていたが、これらはもとより多神教的であり、ローマの神々や皇帝も合わせて礼拝することにやぶさかではなかったので、弾圧はされなかった。

ところが、キリスト教徒はヤハウエを唯一絶対の神とする信条から、ローマの神々や皇帝を礼拝することを拒否したので、権力側から危険視され、迫害された。

それでも弟子たちは使命感に燃え、迫害をものともせず、生命をかけて宣教に努力した。

殉教者の第一号はステパノ。彼はユダヤ人によりエルサレムで石打ちにされた。
ウィーンの聖ステファン寺院はこのステパノに捧げられた教会である。

 

聖パウロ

パウロの改心
パウロもユダヤ人で、最初はキリスト教迫害の急先鋒の一人だった。それが、ダマスカスの郊外で電撃に撃たれたような感じを受け、彼に語りかけるイエスの姿を見たと信じてからは、迫害から180度転向して、キリスト教の熱烈な宣教者になった。

無学だったイエスの直弟子と違い、ユダヤ人の聖典や律法はもとより、ギリシャ哲学などについても、高い教養を身につけていたパウロは、その教養をフルに活用して、キリスト教の教義の根本を確立した。パウロの思想は新約聖書に収録された彼の手紙集の中で、高らかに述べられている。その代表格が「ローマの使途への手紙」である。

目からウロコの語源
聖パウロは最初キリストを迫害した。
「なぜ私を迫害するのか」という天の声を聞き、神の光に打たれて落馬し、その際に失明する。 アナニヤがパウロの目に手を置くと、「目からウロコのようなものが落ちて、突然見えるようになった」

コリントの信徒への手紙
この手紙はエフェソスで書かれた。コリント(コリントス)の共同体がもめているという話を知らされたパウロは驚いた。コリントの共同体の人々に「信仰によって一致してほしい」という思いを込めて送られた手紙である。当時のローマ帝国には郵便配達システムは未だ存在していなかったため、手紙は旅行者(テトスとその兄弟)によってコリントへ運ばれた。
13章

 

キリスト教の発展

イエスとその弟子、孫弟子たちが活躍した一、二世紀は、ローマ帝国の黄金時代の始まりであった。ローマの威力によって全地中海世界に平和が確立され、人の往来は極めて自由で安全になった。東はシリアから西はイベリア半島まで、人々は何の心配も妨げもなく旅行できた。こんなこは後にも先にもなかった。言葉の点でも、ローマ帝国の東半分ではギリシャ語が、西半分ではラテン語が公用語として広く使われ、あらゆる民族の壁を乗り越えて思想を伝え合うことができた。このような、歴史上にたった一度しかなかった好条件のもとで、キリスト教は短期間にローマ帝国の全域に広がった。

当初、キリスト教の五大中心地はエルサレム、アレキサンドリア、アンティオキア、コンスタンチノープル、ローマであった。七世紀に入ると、アラブ人の勃興がこの地図を塗り替えた。エルサレム、アレキサンドリア、アンティオキアはアラブ人に占領され、残ったのは、コンスタンチノープルとローマを中心とする二大勢力となった。前者はギリシャ正教(英語ではグリーク・オーソドックス)、後者はローマ・カトリックとなり、今日に至るまでキリスト教の大きな二つの流れをなしている。オーソドックスは正統、カトリックは普遍的という意味。

 

東方教会

ギリシャ正教は、その後バルカン半島からロシアに広まったが、肝心の地元の方はイスラム教徒のアラブ、続いてトルコに侵略され、1453年にはついにコンスタンチノープルもオスマン・トルコに奪われてしまった。その後は正教圏で独立国として残ったのはロシア(モスクワ大公国)だけであった。

ローマ・カトリックの方は、かつてのローマ帝国の境を越えてケルト人やゲルマン人の間に教えを広め、後には新大陸にまで及んだから、現在の勢力分布では決定的にギリシャ正教に水をあけてしまっている。その間、プロテスタントがローマ・カトリックから分離したが、ギリシャ正教に対する優位にゆるぎはなかった。今日では全世界のキリスト教徒のうち約60%がローマ・カトリック、約24%がプロテスタント、約14%がギリシャ正教となっている。セルビア、ブルガリア、ルーマニア、ロシアなどを加えてギリシャ正教を東方教会と呼ぶ。

西方教会ではローマ法王が至上権を持ち世俗の国境を越えて、あらゆる国のカトリック教会に対し支配を及ぼしていた。それに対しギリシャ正教では、コンスタンチノープル総主教の権威はそれほどではなく、九世紀頃から各国別に教会の自立化が始まった。セルビア正教、ブルガリア正教、ロシア正教、後にはルーマニア正教などが生まれ、それぞれの国に総主教が置かれるようになった。

 

その後のキリスト教

1541年:ミケランジェロ「最後の審判」除幕式

1517年:ルターの95か条の抗議文

グーテンベルクの印刷技術に乗ってヨーロッパ全土を揺るがす大事件に波及

1521年:ルターの破門

プロテスタント:ルターの改革に賛同する新教派⇒今日でも教会には十字架しか置かれない。

カトリック:ローマ教会の傘下にある旧教派⇒プロテスタントに対する巻き返し戦略の頂点⇒ミケランジェロ「最後の審判」⇒失われたローマ教会の権威の挽回⇒人類史上初のメディア戦争

いわば反宗教改革戦略の切り札としてのミケランジェロの起用であったが、いざ作品ができあがってみると、画面は伝統的な教会の権威を補強するどころが、それ自体が異端とも言うべき強烈な前衛性に満ちていた。

偶像礼拝の禁止⇒宗教画の破壊⇒美術市場での顧客の消失⇒風景画・静物画の誕生

1962年:第二ヴァチカン公会議⇒カトリックがプロテスタントと和解