ワーグナーの生涯とヨーロッパ史

私の添乗手帳より  編集;tabi-taro

小説「ワーグナー」ジャン・ルスロ著 横山一雄訳より加筆編集:tabi-taro 2025年1月24日 


 

 1812年5月9日、ナポレオンはロシア遠征のため、サン・クルー宮殿を出発した。彼がニェーメン河を渡る時、軍隊は70万に膨れ上っていた。このうち、実際にロシアに侵入したのは42万であるが、その中の30万がフランス兵で、あとは他国の兵からなる混成部隊であった。フランス兵がいかに[ラ・マルセエーズ]を高らかに歌おうとも、全軍の士気は上がらなかったわけである。ここにまず第一のつまがあった。

 しかし、ナポレオン軍は破竹の勢いであった。9月16日、ナポレオンは意気揚々とモスクワのクレムリン宮殿に入った。だがロシアの冬は駆け足でやってきた

 10月19日、冬将軍の猛攻を恐れたナポレオン軍はモスクワから総退却をはじめた。軍規は乱れ満身創痍となったナポレオン軍がパリに帰った時、の大軍はわずか4万足らずに減少していたという〜1812年の雪・両角良彦著・筑摩書房〜

1812年の雪

 このようにナポレオンが世界に誇るフランス大陸軍はこの地上から消え去ったかのように思われたが決してそうでは無かった。翌1813年の3月にプロイセンがフランスに宣戦すると彼は20万の兵を集めて攻撃に出た。そして5月21日、バウツエンでロシア・プロイセン同盟軍に決定的な打撃を与えた。ライプチッヒはこの激戦地からわずか 160Kmの所にある。

ライプツィヒ、ワーグナーが生まれた家

 リヒアルト・ワーグナーがそのライプチッヒで産声を上げたのはその翌日5月22日の事であった。その頃日本はまだ鎖国中で国民は泰平の夢をむさぼっていたがその夢も間もなく破られる時が迫っていた。ロシアはシベリアを横断して千島や樺太に迄その勢力を伸ばして来ていたし、東からはアメリカは鎖国日本の扉を叩いて開国を要求しつつあった。

 演劇好きの父の影響でワーグナーは読書好きな少年だった。特にギリシャ語が得意で、この頃の彼は音楽よりも文学と演劇を愛していた。

ドレスデンにてドイツ歌劇場指揮者のウェーバーが「魔弾の射手」を初演した。
ワーグナーはその見事な女声二重唱に陶酔した。それはまさに肉体的な陶酔だった。
絡み合い、競い、溶け合って、太陽よりも高く上昇する金色の二つの声のなかには、女性の抱擁とは違った愛すべきもの、輝かしい動きがあり、この世ならぬ別世界に運ばれたような気分だった。

 1830年(17才)、彼はニコライ学校からトーマス学校に転じた。有名なパリの7月革命はこの年の7月の末に起こっている。

1814年、メッテルニヒの呼び掛けによるウイーン会議 
1815年、ナポレオンエルバ島を脱出

 ナポレオンは無能なルイ18世を追い払って再び皇帝に即位したが、6月18日ワーテルローの戦いでイギリスのウエリントン将軍に惨敗し、その秋、大西洋上の孤島、セントヘレナに流され、1821年に波乱万丈の生涯を閉じている。
→ナポレオンの遺訓

 ナポレオン没落後、帝位に着いたチャールス10世は露骨な反動政策を取ったので自由勢力の強いフランス議会との間に摩擦が起き、結局革命へと発展した。チャールス10世はイギリスに亡命し自由主義者のオルレアン公フィリップが即位した。

ルーブル美術館・ドラクロア「民衆を導く自由の女神

 この7月革命ワーグナーはえらく興奮した。彼が政治に特別な関心を示すようになったのはこの時からである。1831年(18才)、ライプチッヒ大学に入る頃、ベートーベンに傾倒し音楽にその才能を見せ始める。

1839年7月、ワーグナーミンナはリガを出てパリに向かった。
彼らはこの旅にもっとも安上がりの交通手段を選んだ。イギリス海岸を経て北仏までは船、ブローニュからパリまでは乗合馬車を使った。船旅は恐ろしかった。船は嵐のため絶えず沖に流された。リヒャルトは「7年に一度だけ陸地に上がれる」よう運命づけられたさまよえるオランダ人の伝説を思い出していた。

1841年の5月だった。ワーグナー夫妻がパリ近郊のムドンに借りた小さな家は、殺風景だが緑に囲まれたあばら家だった。リヒャルトは彼の頭にひらめいたスカンジナビア伝説の恐ろしい風土にふさわしく、陰気に心を昂らせ、「さまよえるオランダ人」の完成に打ち込んでいた。
『黒いマストと血なまぐさい帆の船』は、その主とともにたちまち海中に沈んでいく。すると遥か沖合に、すでにこの世のものではなくなった二つの陰が浮かび上がる。
さまよえるオランダ人ゼンタは、死のなかに永遠に結ばれ、恋人たちの楽園に向かって昇天していったのである。

従来のオペラは、実際にはたいして重要性のない歌詞に、アリアやメロディーを飾り付けたもので、一種のつづれ織り、音楽のモザイク模様であり、そこに文学的価値があるか否かは二次的なことだった。しかし「さまよえるオランダ人」で、大事な点は、この両者の融合だった、詩は音楽であり、音楽は詩だった。このオペラでは各主人公の性格に合った示導動機(ライトモチーフ)を反復することで作品に一貫した独自の動きを確保した。

1842年、ドレスデンの新しいオペラ劇場で「リエンツィ」を上演するため、リヒャルトミンナは愛し合う男女としてドレスデンに旅立った。
ドレスデンでのリエンツィ初演の大成功に、リストが賛辞を述べた。「ワーグナーさん、あなたの作品を聴いて実に楽しかったと申し上げたい。特にあなたの示導動機の考えは最高のものでした」
このリエンツィの大成功で、宮廷劇場は、そのレパートリーに、彼が書いた全作品を入れることを希望した。ザクセン王リヒャルト・ワーグナーを呼び寄せ、宮廷指揮者に任命した。

リヒャルトの債権者はいまではワーグナーよりも、きれいな女の尻を追いかけるのに忙しかった。
ワーグナーは女性なしには生きられない男だった。スカートのさらさらという音、ドレスの胴部の香りであふれた子供時代を思い出すとき、彼の幸福感と結びつくのは、いつも女性の抱擁だった。

最初の妻、ミンナ

1843年(30才),ドレスデンの宮廷劇場での歌劇「さまよえるオランダ人」の初演により、彼の名声は一段と高まった。

「タンホイザー」は、さまよえるオランダ人の魂が転移した作品に他ならなかった。タンホイザーの許婚エリザベートは、いまひとりのゼンタである。タンホイザーの地獄の苦しみは、神を冒涜したからではなく、愛を冒涜したことで始まる。しかし彼が懺悔の巡礼に出掛けなければならなかったその先は、地上における神の代表者、教皇のところだった。悲しいことに彼は教皇から、控訴の余地ない呪いしか受けなかった。そこで彼は、かつて自分の愛欲の相手だったヴェーヌスの方に向かった。

「リエンツィ」は好評だったが、「さまよえるオランダ人」の評判は心もとなく、「タンホイザー」はなおひどかった。バッハベートーヴェンの国で、新しい音楽に凱歌を奏させることは不可能なのだろうか?

ゼンタさまよえるオランダ人は、死によって初めて結ばれたのだ。ジークフリートは炎の幕をまたぐことでようやくブリュンヒルデと一体となった。タンホイザーは、恋に死んだエリザベートの神秘な恋人となるまでに、神の呪いを受けなければならなかった。

ドレスデン宮廷歌劇場、現ゼンパー・オパー

 ワーグナー「タンホイザー」の初演を行うと、すぐに次の歌劇「ローエングリン」に取りかかり、1848年に完成した。いつもなら彼は直ちに初演の準備に取りかかるのであるが初演どころか、ここにまたしても大事件が起こるのである。

1848年といえば、歴史上名高いマルクスエンゲルスによる「共産党宣言」が発表された年である。

『ヨーロッパに幽霊が出る。共産党と云う幽霊である』

 パリに2月革命(1848年)が勃発したのは、時あたかもこの時期であった。パリは2日間戦乱の巷と化し、ルイ・フィリップはイギリスに亡命し、王政を廃止して共和制を宣言した。これがフランスの第二共和政治である。ショパンが39才の生涯を閉じたのはこの年の10月であった。

〜ヴァンドーム広場、宝石店「ショーメ」の二階/
映画「昼下がりの情事」の撮影で有名なリッツホテル〜

1850年、チューリッヒの社交界はワーグナーヴェーゼンドンク夫人マティルデとの恋の噂でもちきりだった。
1858年、マティルデとの恋の嫉妬に燃えるミンナと別れたワーグナーはヴェネツィアに向かった。
腐敗したような、金色のこの町の悲劇的な魅力は、彼の気持ちにぴったりだった。運河の黒ずんだ水、建物のいまにも倒れそうでいて堂々たる正面、墓場の臭いのする路地、サン・マルコ寺院のきらめく金色、そのへさきが、葬式馬車を曳く馬の胸先を思わせるゴンドラ、そのすべてが、避けられない世界の終末、崇高なる抱擁、神の壮大な憂鬱を呼吸していた。ヴェネツィアは、容赦なく流れて行くが、わずかな希望にすがりつく人生そのものを象徴していた。

ワーグナーの名言
過去・・・
われわれが確実に所有できるいっさいのもの、なにものもわれわれから奪い取ることができないもの、それが過去というものだ。

ワーグナーはヴェネツィアを発ち、ルツェルンに向かい、シュヴァイツァーホーフホテルに投宿した。(このホテルには私も2007年6月に泊まっている)

2007年6月宿泊のルツェルン、シュヴァイツァーホーフホテル

1861年、パリオペラ座でのタンホイザー公演は敗北に終わった。3回の公演のあと、「タンホイザー」はポスターから外された。
ワーグナーは友人フランツ・リストと再会するためにワイマールに向かった。リストワーグナーを大げさに抱擁して迎えた。この町で彼はほかにも彼の崇拝者とうれしい再会をした。親愛なる弟子のハンス・フォン・ビューローとその妻コジマである。

コジマは彼に再会してうれしそうにも不安そうにも見えた。コジマリヒャルトマティルデ・ヴェーゼンドンクに対してトリスタンの役を演じるのをあまりに間近にみていたので、父親的で口上手な彼の態度のなかに、きわめて若々しく男性的な欲望がひそんでいることがよくわかっていた。

1864年、息子のガニエラの手を握りながら。コジマはようやくミュンヘン駅に到着した。彼は父親のようにコジマを抱擁した。しかし暖かい香水の匂いのたちのぼる、がっしりとしているが、しなやかなこの若い肉体を抱き、彼の頬に、コジマのみずみずしい唇を感じたとき、彼は老いぼれ男の仮面を投げ捨てたい欲望を抑えられなかった。

 1864年、ワーグナーの元にバイエルンから王の特使がとんできた。18才の青年国王、ルードウイヒ2世ローエングリンの舞台を見て以来、すっかりワーグナーの芸術の虜になっていた。王に即位するとすぐに国賓としてワーグナーを迎え、ワーグナーはミュンヘンに居を構えた。1864年といえば、アメリカでは南北戦争がいよいよ終わりに近付き、その翌年、リンカーンは暗殺されている。日本は元治元年、既にペリーは私の故郷、下田を訪れ、国内は開国派と反対派が真正面からぶつかりあっていた。

 1870年ワーグナージークフリート牧歌が初演された時、ワーグナーは2度目の結婚(コジマ)により初めて満ち足りた生活を味わい始めていた。56才の年である。

 1870年といえば、レーニンが生まれ普仏戦争が勃発した年である。そしてその一年前の1869年ルードウイッヒ2世はかのノイシュバンシュタイン城の築城を決意した。

 

 

ワーグナーとルードヴィッヒ2世

コジマの胸像

結局、ルツェルンとその近郊まで足を延ばし、二人はトリープシェンで、ルツェルン湖のなかに突き出た半島の先端にある、少々傷んではいるが日当たりのいい、うっそうと生い茂った樹木に囲まれた一軒の家に引かれた。
コジマは5月12日、所持品いっさいを持って、子供たちと到着した。スキャンダルに打ちのめされたビューローが、説明を求めて、彼女のあとを追うようにしてやってきた。しかし彼は、世間的道徳といっさい関係を断ち切ろうと、冷静に構えた二人の恋人に、到底太刀打ちできなかった。

8月25日、ルツェルンのプロテスタント教会で、コジマとの結婚式が行われた。コジマは、リヒャルトの宗教に従うため、自らのカトリックの信仰を、なんのためらいもなく捨てていた。その理由はだだひとつ。一人の大天才を、世界の頂点に押し上げることだった。

 2月革命以後、フランスの国際的地位は著しく低下した。そうした混乱の中から突如彗星の如く登場したのが、ナポレオンの甥、ルイ・ナポレオンであった。ルイ・ナポレオンは自分の人気を高める手段として、極端な国家主義政策をとるようになった。そのナポレオン3世にとっていつも目の上のたんこぶだったのが次第に強大化しつあったプロイセンであった。

 1870年、フランスとプロイセンは、イスパニア王位継承問題をめぐって激しく対立した。これが発火点となり、フランスは自国の軍備の遅れている事を承知のうえでプロイセンに宣戦を布告した。これが普仏戦争である。 戦況はビスマルクの率いるプロイセン軍のほうに有利であった。ドイツ各国が一斉にプロイセンに味方したからである。

 フランス軍は降伏したが、ビスマルクは更に徹底的な打撃を与える為に兵を進め、翌1871年1月29日ついにパリを陥しいれた。この大勝利に気をよくしたドイツ連邦の各君主は、早速ベルサイユ宮殿で会議を開き、19世紀最大の懸案であったドイツ統一を決議プロイセン国王ウイルヘルム1世をドイツ帝国最初の世襲の皇帝としたのである。そして武勲かくかくたるビスマルクがドイツ帝国初代の宰相に任命されたのであった。

〜皮肉にも1919年6月28日同じ鏡の間に於てドイツは その帝国崩壊のためのベルサイユ条約に調印すること になるのである。〜

 一方フランスはナポレオン3世の没落と共に帝政は廃止され、今日のフランス共和国の基礎となった第三共和政治が樹立されたのである。こうしてドイツもフランスも近代国家としての第一歩を踏み出したのであった。

 普仏戦争のゴタゴタでミュンヘンに建てようとしていた大劇場の構想は中断したが、ドイツが勝利をおさめたため、ワーグナーの新劇場建築の夢はバイロイトに於て実現される事となった。1876年8月新劇場で四夜にわたって「ニーベルングの指環」の完全上演が行われ大成功を修めた。

バイロイト祝祭劇場

1876年8月初旬、祝祭劇場はついに完成した。ルードイッヒ2世は四部作「ニーベルングの指環」のゲネプロに、4夜にわたって列席し、バイロイトを去っていった。
8月13日に始まった四部作の正式初演には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の姿が桟敷席にみられた。舞台裏の中央部には、「ラインの黄金」の水の精の場面の波や、「ジークフリート」の鍛冶場の蒸気の雲を自由におこせる完全な機械装置が付けられていた。

 ワーグナーは63才になっていた。彼の前にはもう敵がいなかった。かつて彼に対して猛烈な敵意を抱いていた反対派の人達もすっかり影を潜めてしまった。この不世出のドイツ音楽の王者は、その時になって初めて自分の年齢というものを意識した。69才...彼は自分の体から創造する力も、生きるエネルギーも潮の様に引いてゆくのを感じたのだった。

 イタリアのベネチアに住み毎日のようにサンマルコ広場を散歩するワーグナーの顔にはいつも微笑みが浮かんでいたという。

 1883年2月13日、ワーグナは70才の波乱万丈の生涯を閉じた。葬儀は5日後にバイロイトで行われた。それは全て大がかりで革新的な事の好きだったこの大芸術家の葬儀にふさわしく、王候貴族のそれよりも盛大だったという。

1883年2月13日、オペラ全盛時代、数多くの人間の魂を、その重荷から救った人間が、自らの重荷から永遠に解放された。
彼の遺体をバイロイトへ運ぶのに、まず大運河を渡らなければならなかった。その仕事にはゴンドラがぴったりだった。
ゴンドラはどれも美しい喪の色に塗られているからだ。

ワーグナーは自らの恋の苦悩と理想の女性の追及を音楽の上に転移した。たとえば「タンホイザー」の愛欲の女神ヴェーヌスは、官能的な愛の象徴であり、エリザベートはこの愛欲に身を投じたタンホイザーを救済する天上の愛の象徴といえる。「さまよえるオランダ人」ゼンタ「トリスタンとイゾルデ」イゾルデ「ローエングリン」エルザも、すべてワーグナーの描いた自らの理想の女性である。

 それからちょうど1ケ月たった3月14日,カール・マルクスが死んだ。
その時、エンゲルスは涙乍らにこう述べた。

 「マルクスは人間の歴史の発展法則を発見したことでダーウインに比すべきものであり、ブルジョワ社会の運動法則を発見したことで経済学に革命をもたらした。彼ほど政府や保守的なブルジョワに憎まれ迫害された人もいないが又彼ほど多くの革命的な戦友に尊敬され愛された人もいなかった。彼の名は幾世を通じて行き続けるでありましょう。」

 同じドイツ人として生まれ、同じ時代に活躍し、音楽と思想のうえで同じような大革命を行ったこの二人の偉人は、奇しくもこうして、同じ年に、この地上に別れを告げたのであった。

〜1887年6月13日、ルードウイッヒ2世 シュタルンベルク湖で変死〜

ヒットラーが歩んだナポレオンの道

 ヘンリー・マンシーニの曲でお馴染みの映画「ひまわり」ソフィア・ローレンがロシア戦線から戻らぬ夫マルチェロ・マストロヤンニを捜してひまわりの群生する野へ....そのひまわりの下には数え切れない程のドイツ・イタリア兵士の死体が埋まっているという。そのひまわりの野にイタリア戦没者の碑が建っていて、スベトロフの詩が刻まれている。

「ナポリの子よ何が君をロシアの野に呼んだ故郷の海に 飽きたか異国の丘に想うはベスビオスの山」

バイロイト祝祭劇場

 バイロイト祝典劇場は、ワーグナーが自分の楽劇を上演するために建築した大劇場で、1876年8月13日から17日までの四夜にわたり、落成記念に舞台祝典劇「ニーベルンゲンの指環」の全曲が初めて通し上演された。それ以来この劇場ではワーグナーの作品以外の音楽は演奏されていない。言うなればバイロイトはワーグネリアンにとっては聖地とも言える。熱烈なワーグネリアンであった独裁者ヒットラーも毎年ナチスの首脳達と共にこの音楽堂に臨席していたに違いないのである。

 「ニーベルンゲンの指環」は、上演にまるまる四晩を要する大作で、前夜=ラインの黄金、第一夜=ワルキューレ、第二夜=ジークフリート第三夜=神々の黄昏の四部から成っている。

 世界を支配する魔力を与えるというライン川水底の黄金から作られた指環を巡って、大神ウオータンを始めとする神々の一族、巨人の兄弟、こびと族=ニーベルンゲン、ブリュンヒルデを始めとする戦いの女神ワルキューレ、そして英雄ジークフリートなどが互いに葛藤の火花を散らす波乱万丈の大楽劇は、結局ジークフリートの死、その妻ブリュンヒルデの自殺、そしてラインの大洪水と天界にあるウオータンの居城の炎上という悲劇的幕切れとなり、黄金の指環は元のライン河水底に住む水の精の手に戻ることになる。

 そして今、バイロイトは一年前から予約しなければ席が取れないほど、多数の人々を世界各地から引きつけるほどの町になり、ルードヴィヒ二世の偉業は、目先の利かない卑俗な人間どもへの強烈な仕返しとなっている。 1975年、世界最大の音楽イベントの一つであり、洗練された好みの最後の砦であるバイロイトの祝祭に、席が取れなかった人が十万人いたという。

何故か13に縁が深いワーグナー

@1813年生まれ
A1813をすべて足すと1+8+1+3=13
Bタンホイザー初演 1845年4月13日
Cバイロイト音楽祭第一回開幕1876年8月13日
Dワーグナーが作曲jしたオペラの数は13作品
Eパルシファル完成 1882年1月13日
Fそれから13ヶ月目の1883年2月13日に死去
GRichart Wagnerのスペルは13文字