ヘンリー8
多情にして非情な57年の人生


 

16世紀前半
宗教改革の嵐が吹きすさぶこの時代、ヨーロッパは3人の君主を中心に歴史を刻んでいた。

カール5世 フランソワ1世 ヘンリー8世

家系図2

カール5世
1500-1558

スペイン系ハプスブルク 神聖ローマ帝国皇帝
新大陸にコロンブスを送り出したイザベル女王の孫

フランソワ1世
1494-1547

フランス国王
カール5世の好敵手。レオナルド・ダ・ヴィンチを擁護したフランス初のルネサンス君主

ヘンリー8世
1491-1547

1491年6月28日ヘンリー7世の次男としてグリニッジの王宮で生まれる ヨーク公 チューダー王朝 イングランド国王
ローマカトリックと決別し、英国国教会を創始

映画「ブーリン家の姉妹」(原題:The other Boleyn girl

英国史上に燦然と輝く悪名高き絶倫男ヘンリー8世は、何と生涯に6人もの女性を妻にした。その絶倫男に愛された二人の姉妹、メアリ・ブーリンとアン・ブーリンの物語。  

アン・ブーリンが残した歴史的功績

1.英国国教会の設立
 国王とキャサリンとの離婚のために、ローマ・カトリック教会と決別させ、国教会を設立へのキッカケを作ったこと。

2.エリザベス1世
 メアリ一世亡き後に即位したエリザベス1世の治下、イギリスは安定を回復し、世界の強国へとのし上がっていく。それがゆえに、アン・ブーリンはイギリスの歴史の礎を築いた母として、イギリス人にとって密かな敬意の対象になっている。

 

ヘンリー8世の愛した女たち

王妃 キャサリン・オブ・アラゴンCatherine of Aragon1485-1536

1509年結婚 1533年離婚
スペイン・イザベル女王とアラゴン国王フェルナンドの間の4女。キャサリンは最初、英国王ヘンリー7世の長男アーサー王子に嫁いだ。でもそのアーサー王子は若くして死亡。イギリスはその政略上、スペインと親善を保つ必要があった。後家になったキャサリン(24歳)はこともあろうにアーサーの弟、ヘンリー8世(18歳)と再婚。メアリ1世(ブラディ・メアリ)の母。男児に恵まれず、結婚から20年余りを経た後に離婚。キャサリンの姉、ファナはカール5世の母。

愛人 メアリ・ブーリン 1508?-1543

最初に愛されたのは妹メアリ
兄貴のお古の年上女房じゃイヤだということでもないのでしょうが、国王は世継ぎを産むために若くて美しいブーリン家の次女メアリを寵愛する。メアリは男児を出産するがが、所詮愛人の子は庶子にかわりなく、ヘンリー王の愛は姉のアン・ブーリンに移っていった。

王妃 アン・ブーリンAnne Boleyn 1507?-1536

王妃になったのは姉のアン
フランスから戻ったアンはその洗練された身のこなしと美しさでヘンリー王を魅了。そして愛人ではなく王妃となるために王にキャサリンとの離婚を要求。しかしカトリックでは離婚は許されず、時のローマ法王クレメンス7世は当然離婚申請を却下した。するとヘンリー8世はローマ法王の世話にはならないと、英国独自の国教会を設立。これが今もイギリスに残る英国国教の成立。ウエストミンスター寺院がその総本山。1533年、ヘンリー王は彼の子を身篭ったアンと結婚。アンはついにイングランド王妃の座に登り詰めた。しかし、アンが出産したのは女の子(後のエリザベス1世)。アンは不貞と近親相姦の反逆罪に問われロンドン塔内で処刑された。

王妃 ジェーン・シーモアJane Seymour 1509-1537

元はアン・ブーリンの侍女。
新しい結婚を望む王は、アンを大逆、姦通、近親相姦、魔術行為といった罪で死刑に処した。刑の施行の翌日、王は婚約を公表、その二週間後、二人は正式に結婚した。

1537年10月12日、難産の末王妃ジェーンは待望の男子(後のエドワード6世)を出産する。しかし難産で体力が回復しないジェーンは、10月24日深夜、息を引き取った。ジェーンの遺体は王のために既に造られてあった、ウィンザーの墓所に埋葬された。ちなみに、ヘンリーと墓所を共にしているのは、6人の后のうちジェーンだけである。

王妃 アン・オブ・クレーヴスAnne of Cleves 1515-1557

王は実際の花嫁の顔を見るなり、「絵に描いてある女とは違う!」と激怒し、新王妃とは2度と顔を合わすことはなかった。時の大臣であったトマス・クロムウェルが王の見合いのために画家ハンス・ホルバインに依頼して肖像画を描かせたが、アンの姿は肖像画に描かれたほど美人でなかったと言われる。事実、クロムウェルはその責任を取らされてロンドン塔で処刑されたが、ホルバイン自身は王のお気に入りの画家であるために刑死は免れた。王は挙式後6ヶ月でアンと離婚した。王の死後まで生き延びた唯一の皇后で、最も幸せな生涯を送った人物とされる。

王妃 キャリン・ハワードCatherine Howard 1521-1542

2番目の王妃アン・ブーリンの従妹。1540年、ヘンリー8世はキャサリンと再婚したが、「不義密通」を疑われ、逮捕された。 キャサリン本人は密通を否定したが、聞き入れられず、事実は曖昧なまま結婚1年半後にロンドン塔内のアン・ブーリンと同じ場所で処刑された。

キャサリンが夫・ヘンリー8世に直訴しようとしたハンプトン宮殿の廊下は、今はキャサリンの幽霊が無実を訴えようと出没する怪奇スポット「ホーンテッド・ギャラリー(幽霊の廊下)」として、世界的に知られている。

王妃 キャサリン・パーCatherinde Parr 1512-1548

キャサリン・パーは、51歳のヘンリー8世に見初められ、31歳で王と結婚した。宮廷内での抜群の才女振りとマナーの良さが、王のみならず側近たちにも理想の女性とうつり、王妃に推された。

キャサリンは当時私生児の身分に落とされていたメアリー(後のメアリー1世)とエリザベス(後のエリザベス1世)の姉妹を、王女の地位に戻すことを王に嘆願して許された。

学識高くメアリ、エドワード、エリザベスの教育係も努めた。彼らが王族としての深い教養を身に付けられたのも、聡明な王妃のお蔭である。

梅毒を病んでいたヘンリーは1547年にはセント・ジェームズ宮殿の病床にあった。この年1月28日、王妃キャサリンらに見守られ58歳で他界した。

 

王妃の子供たち

 

最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンが生んだ女の子が後の英国女王メアリ

ヘンリー8世の息子エドワード6世の治世で英国国教は一層進展。それが、スペイン出身でカトリックの信仰が厚いメアリには面白い筈はない。新教徒を虐殺してしまいます。その時に流れた赤い血がブラディ・メアリ(血塗られたメアリ)の語源。トマトジュースはその血を表現している。メアリ1世は新教徒弾圧のため、新教徒に人気の異母妹すらもロンドン塔に押し込めた。この異母妹こそが、後の英国の母、エリザベス1世。

1554年、11歳年下のスペイン王フェリペ2世と結婚。メアリーとフェリペは性格が合わず、ほとんど別居状態。メアリーは、子をもうけないまま1558年、在位5年で死亡した。

2番目の王妃アン・ブーリンが生んだ女の子が後の英国の母エリザベス1世

1535年9月7日、アンが生んだ女の子が後のエリザベス1である。

ロンドン塔内の散歩道、エリザベス・ウオークは、異母姉メアリ1世に幽閉されたエリザベスに因んで名付けられた。エリザベス1世はイングランドを45年間統治し「英国の母」と讃えられた。「私は英国を夫とする」と公言した女王は生涯独身を通したため、処女王(the Virgin Queen)と称される。

生涯独身のエリザベス女王に因んでアメリカのヴァージニア(処女)州が名付けられた。ヴァージニア州はウォルター・ローリーが女王エリザベス1世に捧げた名前。(ローリー:ローリーズ、ヨーロッパに初めてタバコをもたらした)

1603年3月、後継者にスコットランド王ジェームス6世(メアリーの息子)を指名し、崩御した。ジェームス6世はイギリス王を兼ねてジェームス1世として即位。ここにチューダー王朝は断絶し、スチュアート朝に引き継がれる。その後、1707年にイギリスとスコットランドが合併しグレート・ブリテンが結成される。

エリザベスの時代、ウィリアム・シェイクスピアを始めとする文筆家を多数輩出して一大文化を築いた。

3番目の王妃ジェーン・シーモアが生んだ男児が後のエドワード6世。

ヘンリー8世の男児で唯一存命していたエドワードは、父の死に伴い9歳で即位した。

ヘンリー8世が1543年に制定した法律では、継承順位はエドワード、メアリー(後のメアリー1世)、エリザベス(後のエリザベス1世)であったが、政治の実験を握るジョン・ダドリー等は本来は継承順位が低いジェーンを後継として指名する遺言を死の床にあるエドワードに迫った。結局エドワードはそれを了承し、僅か15歳で死亡した。

エドワード6世の治世で英国国教は一層推進した。エドワード6世と次のメアリ1世の治世、あわせて10年ほどは、イングランドが史上最も荒廃した年代と呼ばれる。