双頭の鷲  佐藤賢一著



 

上巻

時は、中世。イングランドとの百年戦争で、劣勢に陥るフランスに登場したベルトラン・デュ・ゲクラン。このブルターニュ産の貧乏貴族、口を開けば乱暴粗野なことばかり。だが幼き日より、喧嘩が滅法強いベルトラン。見事な用兵で敵を撃破する。神は、無骨なその男に軍事の大才を与えたもうた! 鉄人チャンドスは戦慄し、好敵手グライーは闘志を燃やす・・・・。歴史小説の新たなる傑作。

プロローグ ポワティエ

1.戦場

 1356年9月19日、フランス中西部、ポワティエ近郊モーベルテュイの草原に両軍は激突した。それは「ポワティエの戦い」と称される、空前絶後の大合戦だった。
 イングランドは合戦に絶対の自信を持っていた。最初に矢の弾幕を張り、頃合を計って白兵戦に移行する。馬を捨て、前列の長弓兵、後列の重装槍兵と全軍を徒歩で着陣させる戦術は、「モード・アングレ(イングランド式)」と呼ばれていた。

 ーーーイングランドの時代が来る。チャンドスは鉄人と呼ばれる男だった。偉大な世紀の予感が、老いた身体に尽きない火を燃やしていた。スコットランド、アイルランドは無論のこと、アキテーヌ、ブルターニュ、ノルマンディ、いや、フランス全土が王冠ごと、遠からずイングランドのものになる。なんとなれば、我らには英雄があるのだ。
 黒太子エドワード伝説となるべき名前に、老人は果てしない夢をみていた。

 

第一章 ブルターニュ

1.悪童

 斜めに雪が降っていた。1357年2月14日、聖ヴァレンティヌスの日。かすれた口笛のような風に混じって、ディナンの街には時ならぬ賛美歌の声が響いていた。
 ベルトラン・デュ・ゲクラン。
 ブルターニュ継承戦争が始まったのは、この悪童が20歳になった年だった。

2.ドールフィン館

 白地に十字黒斑を描いた「アーミン(白テンの毛皮)」と呼ばれる模様は、北国の主ブルターニュ公の紋章である。

4.占い

 まだ子供の頃の話だった。近所に学問があると評判の修道女がいた。
 外れたら、火あぶりにされても構わない。そう保証した上で明らかした預言は、次のようなものだった。
「この男児、人知の及ばぬ栄光の定めを授かりて、系譜に未踏の輝きを得ん。天下に無二の人となり、百合の花に飾られたる、未曾有の名誉を楽しまん。遠くエルサレムの果てにさえ、名を轟かせるに至るなり」

 

第二章 パリ

3.図書館

 パリは霧模様だった。セーヌ河の中州は、白い蓋が落とされたようにもみえた。霧を突き破って、にょきにょき顔を覗かせるのは、高く聳える尖塔の群れだった。
 堤防を上がると、奥に広場が開けていた。港の賑わいを見守るのは、切り妻の屋根を並べた巨大建築である。別に「石柱の館」とも呼ばれるパリ市庁舎だった。門にはパリ市民の印として、帆船の紋章が飾られている。銘句はラテン語で次のように綴られていた。
 「フリュクテュアート・ネック・メルギィトゥル(たゆたえども沈まず)」

 虚ろな目を泳がせるまま、ちろと上唇を舐めたとき、表情に幼さが残るだけ、妙に仇っぽい感じがした。それが、ふとした瞬間に険しくなる。少女の潔癖さと母の強さが同居する、やはり女にしか作れない表情だった。

4.決別

 王朝の交代は、まだ記憶に新しい出来事だった。10世紀以来、脈々と伝えられたカペー王朝は今から四半世紀ほど前、シャルル4世を最後に断絶していた。そのとき、本流に最も近い分家で、フランスお受けの始祖ユーグ・カペーの血を男系で伝えていた王族が、パリ北東に封じられたヴァロア伯フィリップ、登位してフランス王フィリップ6世を名乗った男だった。

 サリカ法典では、と王太子シャルルは続けた。
 「女にも相続権が認められている。動産はいい。けれど不動産だけは例外なのだ。フランス王国も土地だ。女に生まれれば、この国の王にはなれない」
 「土地を相続するということは、土地を治めることだ。このフランスでは、王とは大きな騎士であり、騎士とは小さな王なのだ。治める土地に大小の差はあれ、いずれも政治家であり、また同時に武将とされている」

 イングランド王がフランス王位を要求していた。エドワード3世は、フランス王フィリップ4世の娘イザベルが、嫁いだイングランド王エドワード2世との間に儲けた男子である。母方を通して、エドワード3世はカペー王朝の直系だった。比べればヴァロア王家は、フィリップ4世の弟シャルル伯を一門の祖とする、傍系の血筋でしかない。

7.預言の人

 この男児、人知の及ばぬ栄光の定めを授かりて、系譜に未踏の輝きを得ん。天下に無二の人となり、百合の花に飾られたる・・・・
 デュ・ゲクランに与えられた、かの破格の預言だった。謎が解けていた。百合の花とはフランス王家の紋章だった。
 「そうだ。俺はあの人に仕えるんだ」 指をさされて、王太子シャルルは呆気に取られた。

 「仕えてくれるというのか。この私に・・・・」
この男は信じられる。全ての理性を狂わせながら、乱暴な直感が走ったとたん、小さな音が弾けていた。若者の心の中で、最後の金具が砕けて外れた音だった。仕えてくれるのか。この私に仕えてくれるのか。繰り返した王太子シャルルは、直後に泣き崩れていた。

10.地図

「これと、これだ」
 デュ・ゲクランは得意顔で地図の二点を指していた。
シャルルの脳髄に雷鳴が走った。モーとモントローさえ押さえれば、物資を送るも止めるも、こちらの胸先三寸になる。パリには水が流れ下らない。パリを攻略しようとすれば、永遠の制圧は決定的な戦略だった。
 なんということだ。王太子シャルルは意識革命を強いられていた。私のみた戦争とは、一体なんだったろう。デュ・ゲクランが描き出した緻密な絵画に比べれば、騎士たちの戦争は稚拙な塗り絵でしかない。

 パリに暮らしたものならわかる。たゆたえども沈まず。市庁舎の帆船の紋章に刻まれた、自治都市の銘句を読むからである。パリ経済はセーヌ河を命脈としていた。パリは水運業者の街だった。水運業者のギルドはパリ最大の組合だった。いや、パリそのものといってもよい。

 充実感が熱気になった空間で、王太子シャルルとデュ・ゲクランは夜更けまで話し合った。この夜を皮切りに、二人の討議は20年の長きに亘って、幾度となく繰り返されることになる。
 後に「賢王」と称賛されるシャルル5世と、後に「軍神」と崇められるデュ・ゲクラン大元帥の、水も洩らさぬ対話が始まろうとしていた。フランス史上、最強のデュオが誕生した瞬間だった。

14.目算

 マイヤール一党は反マルセル、反ナバラを標榜しながら、解放者としてヴァロア王家をパリに迎えた。颯爽と白馬に跨り、王太子シャルルが凱旋を果たしたのは、ほどない1358年8月2日のことだった。

 

第三章 ノルマンディ

3.日課

ティファーヌは無表情で起き上がった。鼈甲の櫛で栗色の髪を梳きながら、鏡に写った偽らない自分に語りかけている。もう眠りなさい。今日という日をやりすごせば、星の定めに従って、必ず明日という日がやってくる。もう眠りなさい。どんな運命が待っているのか、それは誰にもわからないことなのだから。

5.カレー

 鴎の声は悲鳴に似ていた。砂混じりの風に苛立ち、アンジュー公ルイは顔を顰めた。高台から眼下の港湾を眺めると、まだ夏なのに、カレーの海は冷たい色をしていた。
 英仏海峡は、イングランドでは「ドーバー海峡」と呼ばれ、フランスでは「カレー海峡」と呼ばれる。文字通り、ドーバーとカレーという対岸の港街をつなぐ航路である。いずれも今はイングランド王の支配下に組み込まれていた。

 1357年9月、ロンドンで和平会議が始まっていた。世にいう第一回ロンドン交渉である。イングランド王エドワード3世は、法外な要求を突きつけた。第一にフランス王の称号。第二にアキテーヌ公領。さらにカレー、ポンテュー、アンジュー、メーヌ、ノルマンディなどの領土の割譲。実現すれば、実にフランスの三分の二が、イングランド王の手に渡ることになる。王冠を奪われ、莫大な金を取られ、フランス王家はヴァロア伯家に落ちるのである。

10.グーレー城

 アンジュー公ルイは、デュ・ゲクランの陣羽織をみやった。将軍に抜擢するにあたり、シャルル5世が進呈した羅紗織の逸品である。壁に掛けて披露された陣羽織は、白地に黒で勇ましい生物が描かれていた。
 ーーエーグル・ア・ドゥー・テット(双頭の鷲)
 左右対象に翼を広げ、尖った嘴と鋭い鉤爪を四隅に突き出す鳥の図柄は、皇帝カール4世に賜った特別の紋様だという。「双頭の鷲」とは古来、ローマ皇帝だけが軍旗に用いた紋様だった。

以上、上巻


 

下巻

ついに大元帥の位まで登りつめた、ベルトラン・デュ・ゲクラン。国王シャルル5世との奇跡のデュオは民衆に希望をもたらした。破竹の快進撃を続ける武将は、いつしか生ける伝説に。だが、フランスで、スペインで、強敵に打ち勝ってきた男にも、黄昏は訪れる。その日まで・・・・、男は太陽のように、周囲を照らし続けた。不世出の軍人と彼を巡る群像を描く歴史小説、堂々の完結編。

第四章 スペイン

1.オーレ

 「ブロワ殿は戦死なされた」雄々しく戦われた。見事な騎士の最期であった」
そんなはずはない。デュ・ゲクランの意識は、とっさに現実を拒絶した。
片目の老人は再度、最後の敵将に降伏を促していた。
地鳴りに似た咆哮を轟かせ、デュ・ゲクランは消えたようだった。再び姿を現したとき、男は血飛沫の直中に立っていた。終止符が打たれたはずの戦場が、本当の鬼神を目撃するのは、まだこれからのことだった。

3.アヴィニョン

 1365年四月30日、ベルトラン・デュ・ゲクランと僧形の筆頭顧問は、アヴィニョンを訪ねていた。60年前にローマから教皇庁が移転して、今やキリスト教世界の都である。後世に「教皇のバビロン補囚」として悪名高い顛末だが、4千人に上る教会エリートが、南フランスの長閑な生活を楽しんだことも事実だった。
 教皇ウルバヌス5世は驚きから立ち直ると、かわりに目に憐憫の色を浮かべ、口許で囁くようなラテン語を唱え始めた。
来れ、聖霊よ。汝を信ずる者の心を満たしたまえ。彼らのうちに汝を愛する火を燃やしたまえ」

6.サン・ポル館

 いわゆる、税金が産声を上げていた。従来は王といえども、基本的には領地経営、平たくいえば年貢で糧を得ていた。なのに今では税金が、決まって王の国庫に入るのだ。
 戦争には金がかかる。フランス王国の財政改革こそが、計画の根幹をなすものだった。
 タイユ(人頭税)、エード(消費税)、ガベル(塩税)といった、後の絶対王政を支える財政の三本柱を、シャルル5世は一代で軌道に乗せようとしていた。前衛的な課税徴税システムは、これを四百年後の大革命が廃するまで、フランスに君臨することになる。後世の歴史家たちは、シャルル5世を「税金の父」と呼んでいる。

 

第五章 フランス

2.モンティエル

 幕舎の小窓に青い月が覗いていた。角張った影は丘陵の城郭だった。広漠たるラ・マンチャの平原に、石の古城は忽然と現れて、物淋しげに佇んでいた。

5.モン・サン・ミシェル

 なんだか窮屈な参道だった。食堂、旅篭、土産物屋と店舗がひしめき、色も形も様々な看板が、すぐ頭の上で連なっている。大天使ミカエルの本山に巡礼する客をあてにして、大修道院から免状を貰った住人は、その日も商売に精を出していた。
 わけても大潮の季節は客が増えた。潮の満ち引きで孤島になったり干潟になったり、モン・サン・ミシェルは神秘的な景勝地でもあった。天空に浮かぶ神の国も、かくあるものかと自問しながら、巡礼客は感動に胸震わせる。
 参道の頂を見上げると、大修道院の尖塔に金色の像が雄々しく翼を広げていた。祀られる大天使ミカエルは、騎士の守護天使だった。

6.最後の日

 −−卑怯なり。
 チャンドスは罵倒の言葉の宿命として、そら恐ろしい虚しさに襲われていた。そんなに口汚く罵ったところで、わしは死んでしまうだろう。生き長らえるのは、デュ・ゲクランのほうなのだ。なんとなれば、あやつは強く、わしは弱い。
 鉄人と呼ばれた男が、闘争を睨み続けた最後の目を閉じたのは、年が明けて1370年、1月1日の夜だった。

12.百合の花に飾られたる

 パリ東部サン・ポル館の広間を埋め尽くして、1370年10月2日、人々はベルトラン・デュ・ゲクランの入場を、今や遅しと待ち受けていた。
 この国では金を抱く最高の色は、昔から鮮やかな青と決まっていた。
 晴れの式典は、フランス大元帥の就任式だった。いうまでもなく、フランス軍の最高職である。かくも枢要な位に、デュ・ゲクランは今しも任じられようとしていた。

 まさに革命児、そのものである。ところが歴史を紐解いたとき、革命児が勝利を全うした例はない。古代ローマのカサエルでさえ、志半ばでブルータスの凶刃に倒れている。

 

第六章 ブルターニュ

1.軍神

 北風が泣いていた。1372年12月4日、聖バルバラの日。しんしんと降る雪に打たれながら、リモージュの界隈は閑散として静かだった。

 聖書から飛び出して、このフランスに「救世主」が降臨していた。絶望の底にデュ・ゲクラン大元帥は、突如現れたようにみえたのである。
 フランスでは十番目の軍神を創る動きが高まっていた。ユダヤ教の三軍神、すなわち、カナンの地を征服したヨシュア、大王となったダヴィデ、シリアを撃退したユダ・マカペオ。多神教の三軍神、すなわち、マケドニアのアレクサンダー大王、トロイヤの勇者ヘクトール、ローマの英雄カサエル。キリスト教の三軍神、すなわち、キャメロットのアーサー王、大帝シャルルマーニュ、十字軍の旗頭ゴドフロワ・ドゥ・ブイヨン。これら古来の九軍神に加え、フランスは大元帥を擁して、自国の軍神を創り上げようとしていた。その不朽の名をベルトラン・デュ・ゲクランという。

3.預言

 シャルル5世は遺言を書いていた。月並みな未練ではなく、それは政治的遺訓のことだった。希代の頭脳が練り上げた新生フランスの綱領を、王は成文化して残そうとしたのだ。
 後に1374年の大勅令と呼ばれる文書は、後の絶対王政に基本設計図となるものである。
 「フランス王の成人年齢は14歳と定める。予の親愛なる息子にして、王太子なるシャルルが、王位につきながら成人に達しない間は、予の親愛なる弟アンジュー公ルイが摂政の任につくべし」

7.難局

 1379年4月、パリ。北国の四大勢力が顧問会議に召集されていた。ブルターニュ公領を併合する、とフランス王は冒頭に宣言した。

 微妙な問題だった。フルターニュ人が自分をフランス人だと思う度合いは、今日のフランス人が自分をヨーロッパ人だと思う度合いと、さして変わるものではなかった。なにより先にブルターニュ人たるを自認すれば、故郷の大地は断じてフランス人の属領であってはならないのである。

 いうまでもなく、デュ・ゲクランはブルターニュ人である。シャルル5世は大きな矛盾を抱えていた。それはブルターニュの征服にフランス王家の最精鋭ブルターニュ軍を用いなければならないという、皮肉な必然性だった。

8.迷い

 戦うための理由は理解できずとも、戦った後の結果はみえていた。自分が鍵を握っている。次第によってはフランス全体がひっくり返る。

 実のところ、とうにデュ・ゲクランの心は傾いていた。ブルターニュ公の陣営に傾いて、九分通りまで気持ちができていたのである。でなければ、迷わない。
 経験してわかったが、迷うという行為は二つの選択肢の間を、行ったり来たりするものではなかった。問題は進もうとする意思を引き止める、漠然とした怯えのようなものを、克服できるかどうかである。

10.僧院

 それは大きな笑顔だった。この世でベルトラン・デュ・ゲクランほど、嬉しい顔をできる人間はいなかった。大きな目玉をくりくりさせ、まんまるい相好をあけすけに崩しながら、満面の笑みで幸福感を表現する。目にした刹那の満足感は、他のなににもかえられないものだった。

 そのとき、男の意識を閉ざし続けた蓋が開き、エマヌエルを未知の想像に導いた。母親が奪うように自分の子供を抱きしめるときも、こんな狂おしい思いに駆られているのかもしれない。じんわりと胸に広がる暖かさは、まさしく聖母の徳だった。そのとき、キリスト教徒は光に満ちた至福の瞬間を、体感していることになる。 

  −−これは我々の子供なのだ。
 と、エマヌエルは震える心で思った。そうだ。そうなのだ。今更無償の愛などと綺麗事を語るつもりははい。無償どころか、親は子から数え切れない宝物を貰っているのである。堅物の修道士と、夢みがちな女にとって、最後にして最大の希望こそは、ベルトラン・デュ・ゲクランという名の、永遠の子供であったのだ。

12.両替屋橋

 沈みゆく赤紫の太陽が、シャトレ塔の角張った影を長くしていた。

 思えば、あの男は、こんなに出世したかったのだろうか。フランス大元帥になど、本当になりたかったのだろうか。
 エマヌエルは従兄弟の意思を一度も聞いたことがなかった。驚きは直後に後悔に変わった。覚えているのは、たったひとつの望みだけである。
 あれはレンヌに暮らしていた頃だ。鼓笛隊に入りたいと、ベルトランが妙に頑張ったことがあった。

 しつこいぞ、ベルトラン。鼓笛隊なんて、いつまでも馬鹿な寝言をいってるんじゃない。おまえはブルターニュ公家の将軍を目指すんじゃないか。しゅんとなってから40年、鼓笛隊の夢を諦めた男は、ブルターニュ公家の将軍どころか、フランス王家の将軍に、それも頂点を占める大元帥になっていた。

 エマヌエルは知っていた。人生の喜びとは、そんなもんじゃない。容易ならざる困難にぶつかり、それを乗り越えようと死物狂いで頑張り、血が滲むような努力奮闘が実を結んだ果てにこそ、本当の喜びとはあるものなのだ。

 −−双頭の鷲、か。
 結局、紋章が皮肉な象徴になっていた。大きな翼は誰でもない、ベルトラン・デュ・ゲクランのものである。が、その力に相乗りしながら、頭となって飛翔の行方を勝手に決めてしまったのは、修道士マヌエルと、あとは多分、ティファーヌ。ラグネルの二人だった。
 人生を奪ってしまった。どんなに苦労しても構わないから、ベルトランは自分の意思の赴くままに飛び、幾多の山を独りで越えるべきだったのだ。

13.ひとまち顔

 皆が自分の心の中に、自分だけのデュ・ゲクランを抱いていた。それぞれの胸に住みついた肖像は、不思議と純化されていて、失うことが耐えられないほど、なにか美しいものの象徴になっていた。それを「神の子」と呼ぶなら、あとは父なる神に縋るしかない。

 きっと家族が迎えにくる。わくわくしながら、子供は無邪気に信じていた。さっと扉が開かれて、この闇が眩い光に満ちてゆく瞬間を、ベルトラン・デュ・ゲクランは末期に及んで、今も待ち望んでいたのである。
 −−きっとくる。
 戦場に馬の蹄が近づいた。馬車の止め具が絞られる音に、ざわめきが生じていた。そのとき、薄緑の瞳が輝いた。幕舎の垂れ布が踊ったとき、デュ・ゲクランは闇の中に、ぽっかり浮かんだ光の魂をみつけていた。
 「ああ、やっと」
 聞き取りにくい最期の言葉を残しながら、ベルトラン・デュ・ゲクランは死んだ。あまねくフランス人に愛されて、世に「神の子」と呼ばれた男が昇天したのは、イエス・キリストが隠れられたと同じ、13日の金曜日のことだった。(1380年7月13日)

14.ボテ城

 その田園は、まるで美しい画布だった。なだらかな北フランスの平原に、折々の四季は繊細な筆致で腕を振るう。わけても秋の風情は、やわらかな暖色のモザイクを織りなして、静かな余生を楽しませるに、ふさわしい絶景だった。
 ボテ城はパリ東方マルヌ河畔に、シャルル5世が巨費を投じて建てた城である。ボテとは美をいう意味。

 最後まで勝った。死後にまで勝ち続けた。ここに軍神の伝説が完成していた。終(つい)の勝利に飾られながら、デュ・ゲクラン大元帥の葬送行列が始まった。
 それは前代未聞の葬送行列だった。大元帥の遺体は、行く先々で悲しみの民衆を引き連れながら、王都をめざして行脚を続けた。そのこと自体が、デュ・ゲクランが成しえた奇跡を雄弁に物語る現象だった。

 サンドニ大修道院付属の大聖堂は最古のゴシック建築といわれ、黒ずんだ尖塔を空に高く突き出している。そこはフランス王家の墓所だった。大聖堂の側廊には歴代の王と王妃が、死者彫像で飾られた柩の中で永遠の眠りについていた。

 荘厳に執り行われた葬儀により、ベルトラン・デュ・ゲクランはサン・ドニ大修道院に葬られた、王でない初めての男になった。
 王命により昼夜を問わず灯され続けるランプの火で、人々は今も不動の墓碑銘を読むことができる。

 シャルル5世が倒れていた。1380年9月16日。
 シャルル5世は危篤の床で最後の勅令を発布した。
 「予、神の恩寵によりフランス王たるシャルルは、この文面を目にする皆に敬意を表す。予はかの人頭税を廃止し、今後、課すことをしない。予は、かの税が余の王国において二度と課されないことを良きことと考え、この文面によって望み勅令する」 シャルル5世が民衆に屈していた。

 デュ・ゲクラン大元帥の死から僅か二ヶ月、数奇な運命で結ばれ、最強のデュオとして偉業をなしえた主従は、その死まで足並みを揃えるかのようだった。

 「シャルル・・・・」
 死なないで、死なないで。悲鳴に似た呼びかけが、がらんとしたボテ城に響き渡った。
 撫でるように吹き流れて、女の痛みを慰めながら、王は黄昏の秋風になっていた。

 

エピローグ エルサレム

2.聖地

 時間は無情にすぎていた。高く昇った太陽が、回廊の石畳に柱の影を濃く引きながら、ベンチに座った男たちを、暗がりに呑みこもうとしていた。

 ゲクランの遺言を執行したのも二人だった。遺体が王家の墓所に運ばれると知ったとき、男たちは言葉少なに広い胸板を凝視していた。モーニは短剣で分厚い筋肉の束を裂いた。そこから手を差し入れながら、エマヌエルは筋張った指で、巨大な心臓をつかみ出した。革袋に詰めると、二人は葬送行列を離れ、人目を避けるように、このディナンに直行したのである。

 ああ、肉体はサン・ドニに運ぶがよい。あの男の長い腕は確かにフランスを救ったのだ。しかし、心は苦しんだ。ベルトラン・デュ・ゲクランの苦悩が詰まった、この大きな大きな心臓だけは、母なる故郷の大地に抱かれなければならないのだ。

 修道士は「神の子」の賭けていた。満たされない魂は、きっと生まれ変わるに違いない。そのときは暖かな母の胸に抱かれていますよう。

 それは母性に縋る祈りだった。なんとなれば、母なくして子供はない。まして男が立って歩けるわけがない。まして女を愛してやれるはずがない。
 修道士は石のベンチを立ち上がった。サンダルに柔らかな土の感触を確かめながら、しかりとした足取りで緑の中庭に進んでいる。両手を広げ、いっぱいに太陽の温度を浴びながら、もう涙を零すしたくなくて、エマヌエルは初夏の蒼穹を仰ぎみた。
 天から印が届いたのは、そのときだった。くるりと優雅に回る影で、悪戯のように修道士の頬を撫でながら、大きな鷲が北国の空を舞っていた。力強く風を切ると、猛禽は迷うことなく、東に向かったようだった。

(完)

 

あとがき

 ベルトラン・デュ・ゲクランなど名前も初耳だったと、そういう読者が大半ではないかと思う。ヨーロッパの歴史が好きだという向きでも、さすがに知らずにきたという感じだろうか。そう思わざるをえないのは、百年戦争フランスの英雄というと、日本人の常識では救国の乙女ジャンヌ・ダルクというのが、どうも相場のようだからである。が、百年戦争の歴史は世紀を跨いで続き、読んで字のごとくに長い。ジャンヌ・ダルクは確かに15世紀、その後半戦の英雄であるが、14世紀前半戦の英雄として、デュ・ゲクランの活躍も正真正銘の史実である。なのに、どうしてジャンヌ・ダルクばかりが注目されてしまうのか。

 同時代の評価でいえば、断然デュ・ゲクランのほうが高い。というより、ジャンヌ・ダルクは比較の対象にもならない。デュ・ゲクランは連戦連勝を続けて、文字通りにイングランド軍を放逐した名将である。その功績で王室墓所サン・ドニに埋葬されるなど、すでに存命中から国民的英雄の地位を確立する。他方、ジャンヌ・ダルクが追放したのは、実はオルレアンを囲んでいたイングランド軍だけだった。酷ないい方をすれば、偶発的な歴史の幕間劇でしかない。実際のところ、女救世主の物語は長いこと、故郷の村とオルレアンだけで細々と語り継がれるような、いわば地域限定の昔話にすぎなかった。フランスを代表するヒロインとなり、カトリック教会が認める聖女となり、また勇猛果敢な女性の代名詞として、世界中で知られるようになるのは後世の話であり、そうした経緯には、また多分に人為的な要素が働いている。

 他でもない、ナポレオンである。19世紀フランスの英雄は1803年、いよいよ皇帝の位に登ろうとする前年にジャンヌ・ダルクを発掘して、『モニトゥール』という雑誌を用いながら大々的に宣伝した。人々の愛国心を鼓舞しながら、かつてのフランスの救世主を自分の姿と重ね合わせ、もって地位を確固たるものにしようという、一種の大衆操作である。悲劇のヒロインという、わかりやすいドラマ性も手伝い、ジャンヌ・ダルクの人気は一気に爆発した。他方でデュ・ゲクランが無視されたのは、フランス皇帝ともあろう男の嫉妬心の仕業ではなかったかと、私は想像を逞しくしている。擁するに、デュ・ゲクランほど「イギリス人」に勝ったフランス人はいない。仇敵ネルソン提督ならぬ、伝説の黒太子エドワードを迎えて、それはジャンヌ・ダルクの時代に勝る興奮の逆転劇なのである。周知の逸話ながら、イギリスのネルソン提督とは、ナポレオンが唯一勝てなかった相手である。

<中略>

 先の年代記の一節を読んだとき、なぜだか私が連想したのは、ジェームズ・バリの『ピーター・パン』だった。この不朽の名作の次のような一節をたまたま覚えていたからである。妖精と遊んでいたピーターは、ふと思いついて、あるとき自分の家に帰ろうとする。
 「早くお母さんに抱かれたくてしようがなくて、いつもピーターを待ってあいている窓へ、今度はまっすぐに飛んでゆきました。ところが、窓は閉まっていました。そして、窓には鉄の格子がはまっていました。中をのぞいてみると、お母さんは別の子を抱いて静かに眠っていました。ピーターは、『お母さん、お母さん』と呼びましたが、その声はお母さんには聞こえませんでした。小さい手で鉄格子を叩いてもむだでした。ピーターは啜り泣きをしながら公園に帰らなければなりませんでした。そして、二度と、なつかしいお母さんに会いませんでした。お母さんに、とてもいい子になってあげるつもりでいたのに」(新潮文庫、本多顕彰訳)

 こうしてピーター・パンは永遠にネバー・ランドの住人になる。家族から叩き出されたベルトランも、この不思議な少年のように空を飛べたのかもしれないと、そのとき私は閃いた。決して大人になれないかわりに、自由自在に空を飛んで、羨ましげに天を見上げる大人たちを馬鹿にすることができる。ああ、デュ・ゲクランはピーター・パンだ。その姿に憧れるティファーヌはウェンディだろう。歯がみするチャンドスはフック船長が嵌り役だ。してみると、片目の海賊を震え上がらせる鰐こそは、シャルル5世ということになろうか。お伽話に重ね合わせて、しばし楽しく筆を走らせるも、それをリアルな小説という形で表現するとき、やはり私はベルトラン・デュ・ゲクランの人生を、悲劇の物語としてしか書くことができなかった。

 なるほど、ジェームズ・バリは続けている。
 「ああ、ピーターよ、私たちが、最初の機会に、大きな間違いをしでかしてしまった場合には、つぎに来る機会のときには思ってもみない別の行いをすることになるものです。それにつけても、ソロモンの言葉は正しいのです。ーー『私たちたいていのものには、好機は二度と来るものではない』窓のところに着いたときには、締め出しの時間なのです。鉄の格子が下りていて、一生涯あきはしません」

2001年3月12日 佐藤賢一