幕末に都を護った男
松平容保

江戸時代最後の天皇との絆

2022年1月19日放送
「京都ぶらり歴史探訪」


 

松平容保とその時代

 米国ではペリー提督が旗艦ミシシッピー号に乗って一路アジアに向け出発(1852年11月24日)していた。ヴェネツィアではジョゼッペ・ヴェルディが歌劇「椿姫」を初演(1853年2月13日)した。

 そんな時代、養子として会津へ赴いた美貌の少年松平容保(かたもり)は養父を継ぎ会津藩主・肥後守(1852年2月10日)となった。

 1月19日放送の「京都ぶらり歴史探訪」では江戸時代最後の天皇となった孝明天皇と松平容保の深い絆が紹介された。


 

1846年 孝明天皇即位

1846年2月13日〜1866年12月25日在位

1852年(嘉永5年) 松平容保、第9代会津藩主になる 

1853年(嘉永6年)  ペリーの黒船来航でしまいすぐ死亡。 

1854年 日米和親条約締結

1854年3月31日、徳川幕府は、日米和親条約(神奈川条約)を結んで、下田と函館の開港を取り決め、下田港が直ちに開港された。

それは一発の砲弾も使用されることなく、徳川家光以来200年以上続いた鎖国の扉が世界に開かれた瞬間だった。日本開国の報せは全世界に伝えられた。

1862年(文久2年) 容保、京都守護職就任(28歳)

江戸幕府においては京都所司代・京都町奉行が治安維持の任についていた。幕末の頃になると尊皇攘夷を叫び、幕府に反対する勤王・倒幕の志士による騒乱が横行しだした。所司代のみでは防ぎきれずと判断した幕府は京都守護職を新たに設け、幕府の威信、治安の回復をはかった。京都守護職に会津藩主、松平容保(かたもり)就任。

容保は初め一橋慶喜・松平春嶽からの再三の就任要請を断っていた。藩財政は既に浦賀、蝦夷地の警備の任にあったことで窮乏状態にあり、また、家臣も就任反対で意見が一致していた。しかし、春嶽が会津藩祖・保科正之の「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、遂に承諾した。任を受けた君臣は会津藩江戸藩邸にあって「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したという。

過大な財政負担を懸念しての慟哭であったろうが、後に、京都守護職の任務によって尊皇派の恨みを買った会津藩は戊辰戦争で最後まで抵抗せざるを得なくなり、藩都・会津若松で壊滅し、現実のものとなってしまった。

28歳の松平容保は家訓に忠実たらんと、周囲の反対を押し切り「必就有徳」の決意を持って治安・政情が乱れる京都の守護職に就任した。

会津藩一行は都を護るため都が一望できる金戒光明寺(愛称、くろ谷さん)に居を構えた。
寺というよりは城郭ともいえる頑丈な石垣で守られている

新選組誕生

江戸で将軍上洛の際の警護役として200人余りの浪士が集められ上洛。(浪士組)
そのうち京に残った13人が京都守護職支配下におかれ新選組となった。

 

1863年(文久年)12月容保、金戒光明寺から清浄華院へ

 

清浄華院は御所の直ぐ隣。
孝明天皇は容保に「御所の傍に居て欲しい」と懇願した。

清浄華院執事長 稲岡正純さん

清浄華院、禁裏内道場

孝明天皇から容保に当てた礼状

1866年 慶応2年

慶喜、第15代将軍に

将軍家茂が大坂城で急死すると、あとを継げるものは、もう慶喜以外にはなかった。
再三固辞した慶喜だが、ついに15代将軍に就任した。

孝明天皇崩御

同じ年、在位21年の孝明天皇も、義弟、家茂の後を追うようにして崩御。享年35歳。

1867年 慶応3年 

大政奉還 倒幕の密勅下る

坂本龍馬の船中八策を基本にした大政奉還案を土佐藩が採用。幕府に建白書を提出した。
一方、徳川家が力を温存したままの大政奉還に反対する武力倒幕派の薩摩藩の大久保らは、倒幕の密勅を得るよう画策。
結果、10月14日、徳川慶喜は大政を奉還した。奇しくも同じ日、倒幕の密勅が出されていた。

大政奉還

1868年 慶応4年=明治元年 

鳥羽伏見の戦い (戊辰戦争始まる)

あくまでも倒幕を目指す薩摩藩の西郷隆盛の挑発に乗るような形で、幕府軍はついに大坂城を出て鳥羽・伏見に布陣。戦闘が始まった。この時、大久保、岩倉らが用意させた「錦旗」の登場で、幕府軍は朝敵となった。
朝敵となった幕府軍の士気は衰え総崩れとなり大坂城へ敗走。慶喜は兵を残したまま側近と江戸に帰ってしまった。

江戸城無血開城

江戸に帰った慶喜は、徳川家存続を第一に考え、恭順の姿勢を示した。それでも西郷は武力倒幕の為、江戸城総攻撃を決意していた。しかし、幕臣山岡鉄舟の尽力で、勝海舟と西郷隆盛の会談が実現。西郷は江戸城の無条件開城などの条件で総攻撃を中止した。勝の「公のために」という必死の説得に西郷も応じ、江戸が戦火に巻き込まれることは免れた。

江戸を東京と改称

上野寛永寺にこもった1500人余りの彰義隊に、兵力不足の為、新政府軍(官軍)西郷は手を出せなかった。代って大村益次郎が指揮をとり上野の山を囲み総攻撃、1日で彰義隊を壊滅させた。

明治と改元

明治天皇即位

会津藩降伏

戦いの舞台は東北へ移り、会津戦争では白虎隊の悲劇を生み、会津藩降伏、若松城を開城

松平容保の句
「去年の秋 露と消えにし武士の
なみだやけふの雨と降らん」
には
尊王を貫くも一夜にして「逆賊」となった
容保の無念が歌われている。


 

幕末以後の近代史

1887年(明治20年) 東京に初めて電灯が灯る
1888年 君が代を国家に制定
1889年 大日本帝国憲法の発布
1894年 日清戦争
1904年 日露戦争
1910年 韓国併合
1914年 第一次世界大戦
1918年 シベリア出兵
1923年 関東大震災
1925年 治安維持法公布
1931年 満州事変
1933年 国際連盟脱退
1934年 開港80周年を記念して
第一回黒船祭り開催
1937年 日華事変(盧溝橋事件)
1941年 真珠湾攻撃
1945年 ポツダム宣言受諾
1946年 極東国際裁判開始
1947年 日本国憲法施行(5月3日)
1961年 伊豆急行線開通
伊東下田間46キロの鉄道を完成

 

福井先生の「徳川15代物語」

棒暗記すると、すぐ忘れると思いますので、エピソードを付けて覚えておくといいと思います。例えば・・・・・・・

家康(初代) 家康に過ぎたるもの2つあり、唐の頭に本多平八

これは、「三成に過ぎたるもの2つあり 島の左近に 佐和山の城」のもじりで、インターネットにも出ています。石田光成のことを言っています。

秀忠(2代) 家康の命で向かった関が原。真田に手を焼く息子秀忠
家光(3代) 家光が発した鎖国令、ホントの理由は銀の流出。キリシタン禁令はついでの話
家綱(4代) 明暦の大火で江戸城本丸焼けぼっくい、慌てた家綱環境条例
綱吉(5代) 綱吉と柳沢で盛り上げた元禄文化、裏で泣いてる瑤泉院と赤穂義士
家宣(6代) 家宣は新井白石登用し江戸のお城は学問所、ところがどっこい大奥内部は華の舞
家継(7代) 家継の御世「絵島と生島のスキャンダル」、大奥女性のバトル凄まじ
吉宗(8代) リストラ断行暴れん坊将軍吉宗公、大奥から選り抜き美女らを解雇する
家重(9代) 将軍は過度の女色と酒浸り。白痴同然の家重を世人はAnpontan(アンポン丹)と呼ぶ
家治(10代) 老中田沼意次に権力集中し賄賂はびこる。将軍家治、書画骨董でのんき三昧
家斉(11代)

寛政の改革で老中松平定信が綱紀粛正図るも、家斉ちゃんはすっごい遊び人。
子供と奥さんの数は半端じゃないエロ親父

家慶(12代)

ペリー来航し将軍家慶ただ呆然。寝込んでしまいすぐ死んじゃった。
老中水野忠邦打つ手なし

家定(13代)

黒船再来に将軍家定腰抜かし、ペリーに屈して日米和親条約。
篤姫との出会いで心安らぐも命続かず

家茂(14代)

和宮を妻に迎えた家茂は、尊皇攘夷の嵐の中で粉骨砕身、哀れ21才で大坂城で頓死する

慶喜(15代) 慶喜はあっさりと政権を朝廷に返しはしたが、その賢明さ、政治力は家康並み

 

福井先生よりのメール

日米和親条約調印150周年に寄せて

2004年、日本では日米和親条約調印より150周年を迎えます。
1854年(嘉永7年※)は、日本が徳川幕府になって1639年以来およそ200年間続けた鎖国政策を放棄し、 開国した年です。
2004年は、いわば日本開国150年周年ということになります。
 (※嘉永7年の11月27日、安政に改元)

泰平のねむりをさますしょうきせんたった四はいで夜も寝られず
「しょうきせん」は正喜撰という高級なお茶で、蒸気船(黒いので黒船)とをかけたものです。
いいお茶を4杯飲んで目がさえて眠れない、というのと4隻の軍艦が来て心配で夜も寝られないという意味を含んでいます。
これは当時の川柳といわれますが、後世の作のようです。当時の人は眠っているとは思っていませんでした。

アメリカのペリー提督は当時最新の蒸気船の軍艦4隻を従えて、横須賀の浦賀に来航し、開国を迫りました。
(捕鯨船の寄港地、また中国航路への補給基地としたかったようです)
翌年春、再び7隻の軍艦で来航したペリーに、幕府はもう逆らえませんでした。
もし拒んでいたら、イラクみたいに江戸城までアメリカ軍に制圧されていたかもしれません。

この和親条約にもとづき伊豆の下田港を開港し、下田にハリス領事が乗り込むことになります。
下田の黒船祭は、2004年5月に開港150年祭を行います。ちなみに江川太郎左衛門英龍(坦庵)が、伊豆の韮山に反射炉の築造をはじめたのも150年前の嘉永7年です。
ところがこの和親条約が京都の天皇の許しを得ていないというので、 尊王攘夷(天皇を尊び、外国を撃て)の志士が怒りました。
江戸時代の当時、国学という日本の国柄を研究する学問が起きていました。
「日本は天皇を中心とするべき国だ」と、徳川の御三家のひとつの水戸藩までが言い出したわけです。

そうした考えを拠点として、志士の幕府攻撃が始まりました。
結局幕末の騒動があって、徳川幕府は天皇に政権を返上し(大政奉還)、天皇を担いだ薩長土肥の連合軍が明治政府をつくりました。
日米和親条約からは日本激動の20年。 条約の10年後には、独断で外国船に砲撃を加えた長州藩(山口県・志士の本拠地のひとつ)が、 英仏蘭米の四国連合艦隊に攻撃され降伏するという事態も起きました。

日本開国150年、これをどう見るか。150年前の開国を第1の開国、太平洋戦争(大東亜戦争)以後を日本の第2の開国とする見方もあります。
サンフランシスコ講和条約が発効し、日本の主権が回復した1952年4月28日を第2の開国とすると、今年は52年となります。