前提 |
明治維新によって近代国家に脱皮した日本にとって、白人国家である欧米列強の帝国主義、なかでもソ連の南下政策は常に脅威であった。
明治から大正、昭和にかけての日本の政策、国家としての行動の核となったものは、すべてこのことであった。朝鮮併合も満州国独立も、この文脈の中で理解されなければならない。
しかしながら、日本にはソ連に備える意識はあっても、アメリカと対立し、まして戦争するといった事態は、予想もしていなかった。これは近代日本伝統的意識といっていいものだ。
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1840年 |
阿片戦争(清国とイギリスの戦い)→香港の割譲(1997年返還)
大国、清国の敗戦は日本に欧米列強の帝国主義に対する危機感を芽生えさせた。 |
1853年
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ペリー提督、黒船を率いて浦賀に来航。
危機の具体化による大きな危機感はやがて大きな維新の波のうねりとなる。 |
明治維新後 |
帝政ロシアは、不凍港を求めて南下政策をとった。
日本はその脅威を少しでも小さくするため李王朝の朝鮮(清朝が支配)に働きかけたが、朝鮮は清朝に従属的であった。
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1894年 |
日清戦争
勝利→遼東半島を日本に割譲。ロシアの南下政策に備える橋頭堡 |
1895年 |
三国干渉(仏独露)
日清戦争勝利で割譲された遼東半島を放棄 仏独露、中国への権益拡大
日清戦争後、清朝の勢力が退き朝鮮半島に空白が生ずる。
そこに影響力を強めてきたロシアと衝突することになる。
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1898年 |
米、ハワイを併合→日本の国力増大に対する警戒感
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1904年 |
日露戦争
ロシア革命によって誕生したソ連の南下政策は一層露骨になっていた。
当時、世界一の陸軍力を持つロシアに勝利したことで、日本人は大きな自信を持つ一方、朝鮮(季王朝)を併合し、満州国を独立させる。
ロシアの進出を抑えにかかる日本の行動は、中国大陸に権益を拡大しようとするイギリスにとっては好都合だった。だから、日露戦争ではイギリスは日本を援助して資金や軍備の調達に力を貸し、日英同盟を結んでいる。 |
1923年 |
関東大震災
震災手形発行→復興景気→震災手形整理法案
渡辺銀行、台湾銀行、鈴木商店破綻 |
1927年 |
日本経済金融不安 |
1929年 |
10月24日 世界恐慌 「大学は出たけれど」
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1931年 |
満州事変→日本軍満州に進出
世界各国の非難を浴びた日本は、国際連盟
から脱退し、国際社会から孤立してゆく。
これが
太平洋戦争突入への直接のきっかけであった。
幻と消えた賢明な選択肢
=満鉄共同経営(米、鉄道王ハリマンの提案)
爆破された満州列車 |
日英同盟の破棄
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満州事変以後の中国大陸の状況の変化にともない、アメリカはイギリスに日英同盟の破棄を強力に働きかけた。
イギリスもまた、中国大陸に進出して影響力を強める日本が邪魔になり、アメリカの意を受けて日英同盟を破棄することになる。 |
1937年 |
支那(慮溝橋)事変
当時の日本政府には不拡大方針をとる考えが有力だった。にもかかわらず現地では戦線を拡大させて戦争に突入していった。これが日本の岐路だった。拡大方針は日本の国益に反することだったからだ。
慮溝橋事件から第二次大戦が日本の敗戦によって終結するまでの八年間、日本は戦争状態から抜け出せなくなり、もがき苦しんで多くの悲劇や悲惨を生み出し、すべてを失ってしまうことになる。
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ABCDライン |
日本の中国大陸への戦線拡大が、アメリカに明確な日本に対する敵視政策をとらせることになった。アメリカはABCDラインという包囲網を構築し、日本に圧力を加えてきたのだ。
A=America,B=Britain,C=China,D=Dutch
この四国が同盟を結び、日本に経済制裁を加えた。 |
1941年 |
11月26日、ハル・ノート=アメリカの対日要求通告
日米開戦までの経緯をたどると、アメリカは最初から日本と戦争するつもりだったのだ、と私には思えてならない。
アメリカの意図がどうだったにしろ、結果として日本を戦争以外には選択の余地がないところに追い込んだのは、アメリカの過ちである。
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1945年 |
9月2日、ポツダム宣言受諾
日本は連合国側が発したポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。
8月28日には占領軍第一陣としてアメリカ軍が上陸、30日には連合軍最高司令長官マッカーサーが厚木基地に到着、9月2日には東京湾に浮かぶアメリカ戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書に調印が行われ、日本は完全にアメリカをはじめとする連合国側の占領下に入った。つまり、このときから日本は独立した主権国家ではなくなったのだ。この状態は1951年9月8日にサンフランシスコで対日講和条約が調印され、それが発効する1952年4月28日まで、約七年間続くことになる。
戦後の七年間、日本には主権はなかったということ、つまり主権がないということは、日本という国が存在しなかったということだ。
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1947年 |
5月3日、日本国憲法制定
これは実に奇妙なことではないか。憲法はいうまでもなく法治国家の基本である。国が国であるための土台中の土台だ。主権を持たず独立していない国が制定できるものではない。それを主権のない占領下で制定したというのは、ほかでもない、その憲法は形の上では国会決議を経てはいても、国民の総意を結集して日本が日本人の意思でつくったものではなく、アメリカの意思に基づいていることは自明である。
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