「孫娘からの質問状」

おじいちゃん戦争のことを教えて

(中條高徳)

このページは、アサヒビール名誉顧問、中條高徳氏の著作
「おじいちゃん戦争のことを教えて」(至知出版社)より、
転載させていただきました。

 

 

1.近現代史観

近代史観

近現代史を欠いた歴史は歴史とはいえない。近現代史にブリッジされて、はじめてそれ以前の歴史は文化や伝統となって現在に息づき、力を持つことができるのである。

太く力強い近現代史を持たない国は、歴史を、つまりは固有の文化や伝統を持たない国であり、そういう国は根無し草でしかない。

2.戦争への流れ

前提

明治維新によって近代国家に脱皮した日本にとって、白人国家である欧米列強の帝国主義、なかでもソ連の南下政策は常に脅威であった。

明治から大正、昭和にかけての日本の政策、国家としての行動の核となったものは、すべてこのことであった。朝鮮併合も満州国独立も、この文脈の中で理解されなければならない。

しかしながら、日本にはソ連に備える意識はあっても、アメリカと対立し、まして戦争するといった事態は、予想もしていなかった。これは近代日本伝統的意識といっていいものだ。

1840年

阿片戦争(清国とイギリスの戦い)→香港の割譲(1997年返還)
大国、清国の敗戦は日本に欧米列強の帝国主義に対する危機感を芽生えさせた。

1853年

ペリー提督、黒船を率いて浦賀に来航。
危機の具体化による大きな危機感はやがて大きな維新の波のうねりとなる。

明治維新後

帝政ロシアは、不凍港を求めて南下政策をとった。
日本はその脅威を少しでも小さくするため李王朝の朝鮮(清朝が支配)に働きかけたが、朝鮮は清朝に従属的であった。

1894年

日清戦争
勝利→遼東半島を日本に割譲。ロシアの南下政策に備える橋頭堡

1895年

三国干渉(仏独露)
日清戦争勝利で割譲された遼東半島を放棄  仏独露、中国への権益拡大
日清戦争後、清朝の勢力が退き朝鮮半島に空白が生ずる。
そこに影響力を強めてきたロシアと衝突することになる。

1898年 米、ハワイを併合→日本の国力増大に対する警戒感
1904年

日露戦争
ロシア革命によって誕生したソ連の南下政策は一層露骨になっていた。
当時、世界一の陸軍力を持つロシアに勝利したことで、日本人は大きな自信を持つ一方、朝鮮(季王朝)を併合し、満州国を独立させる。
ロシアの進出を抑えにかかる日本の行動は、中国大陸に権益を拡大しようとするイギリスにとっては好都合だった。だから、日露戦争ではイギリスは日本を援助して資金や軍備の調達に力を貸し、日英同盟を結んでいる。

1923年

関東大震災
震災手形発行→復興景気→震災手形整理法案
渡辺銀行、台湾銀行、鈴木商店破綻

1927年 日本経済金融不安
1929年 10月24日 世界恐慌 「大学は出たけれど」
1931年

満州事変→日本軍満州に進出
世界各国の非難を浴びた日本は、国際連盟 から脱退し、国際社会から孤立してゆく。
これが 太平洋戦争突入への直接のきっかけであった。

幻と消えた賢明な選択肢 =満鉄共同経営(米、鉄道王ハリマンの提案)  

爆破された満州列車

日英同盟の破棄

満州事変以後の中国大陸の状況の変化にともない、アメリカはイギリスに日英同盟の破棄を強力に働きかけた。
イギリスもまた、中国大陸に進出して影響力を強める日本が邪魔になり、アメリカの意を受けて日英同盟を破棄することになる。

1937年

支那(慮溝橋)事変
当時の日本政府には不拡大方針をとる考えが有力だった。にもかかわらず現地では戦線を拡大させて戦争に突入していった。これが日本の岐路だった。拡大方針は日本の国益に反することだったからだ。

慮溝橋事件から第二次大戦が日本の敗戦によって終結するまでの八年間、日本は戦争状態から抜け出せなくなり、もがき苦しんで多くの悲劇や悲惨を生み出し、すべてを失ってしまうことになる。

ABCDライン

日本の中国大陸への戦線拡大が、アメリカに明確な日本に対する敵視政策をとらせることになった。アメリカはABCDラインという包囲網を構築し、日本に圧力を加えてきたのだ。

A=America,B=Britain,C=China,D=Dutch この四国が同盟を結び、日本に経済制裁を加えた。

1941年

11月26日、ハル・ノート=アメリカの対日要求通告
日米開戦までの経緯をたどると、アメリカは最初から日本と戦争するつもりだったのだ、と私には思えてならない。 アメリカの意図がどうだったにしろ、結果として日本を戦争以外には選択の余地がないところに追い込んだのは、アメリカの過ちである。

1945年

9月2日、ポツダム宣言受諾
日本は連合国側が発したポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。

8月28日には占領軍第一陣としてアメリカ軍が上陸、30日には連合軍最高司令長官マッカーサーが厚木基地に到着、9月2日には東京湾に浮かぶアメリカ戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書に調印が行われ、日本は完全にアメリカをはじめとする連合国側の占領下に入った。つまり、このときから日本は独立した主権国家ではなくなったのだ。この状態は1951年9月8日にサンフランシスコで対日講和条約が調印され、それが発効する1952年4月28日まで、約七年間続くことになる。

戦後の七年間、日本には主権はなかったということ、つまり主権がないということは、日本という国が存在しなかったということだ。

1947年

5月3日、日本国憲法制定
これは実に奇妙なことではないか。憲法はいうまでもなく法治国家の基本である。国が国であるための土台中の土台だ。主権を持たず独立していない国が制定できるものではない。それを主権のない占領下で制定したというのは、ほかでもない、その憲法は形の上では国会決議を経てはいても、国民の総意を結集して日本が日本人の意思でつくったものではなく、アメリカの意思に基づいていることは自明である。

1948年

東京裁判結審
東京裁判は全員有罪、うち七人は死刑 という判決を下して結審した。 そして、結審から約一ヶ月後の12月23日、
東条英機ら七人の死刑が執行された。

1950年

朝鮮戦争勃発
6月25日、北朝鮮軍が突如韓国に侵攻し、戦端が開かれた。朝鮮戦争はその後一進一退を続けながら、1953年7月27日に休戦協定が調印されるまで、三年間にわたって激しく戦われた。

日本はこの戦争で、好むと好まざるとにかかわらず、後方の物資補給基地としての役割を果たすことになった。

これは第二次大戦でほとんど壊滅状態になっていた日本産業のカンフル剤になった。東西対立という世界の不幸はまさに日本の経済に利したのだ。

巣鴨拘置所から市ヶ谷の東京裁判に向かう東条英機 (二列目左)

3.歴史に学ぶ
近代的学校制度

1872年、明治政府の太政官発布
「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」

義務教育普及のスピードは世界的にみても群を抜くもの。

戦後教育

だれもが同じ教育を受けるのが平等であるという考え方に基づいたいまの単線的な学制が、個性を無視した偏差値教育となり、不必要に加熱した受験戦争となって、教育のあり方をゆがめている根本原因であろう。

さまざまな個性と能力を持つ人間を一律にとらえることこそ、人間の可能性を押しつぶす不平等だと思う。

国民性

日本は資源に乏しく、国土が狭い。だが、四季がめぐる豊かな自然がある。  
こういう国土では勤勉に働けば実りを手にし、豊かに暮らすことができる。

この風土が勤勉という日本人の国民性を培った根本だ。

国民性に培われた教養

江戸時代、寺小屋で学んだ生活の知恵とは、いわゆる「読み、書き、ソロバン」であり、礼儀をわきまえ、年長者を尊敬し、きちんとした常識のある生活習慣を身につけること、すなわち「しつけ」だった。

近代化以前の世界で、識字率の高さは日本がトップクラス。文字を使いこなし、ソロバンで基礎的な計数の知識を備え、しつけを身につけ、人間としての徳目を心得ている。

こういう教養の広い基盤があったから、鎖国で世界からは閉ざされていたとはいえ、江戸時代には日本独自の文化が豊かに花開くことにもなったのだ。

風土に根ざした勤勉という国民性、そこから培われた教養への意欲、これは日本人として誇りにしていいことだと思う。

教育勅語

 

1890年10月、明治天皇、教育勅語発布

私は私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。

そして、国民は忠孝両全の道を完うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。  

口語訳

国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じあい、そして自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心をささげて、国の平和と、安全に奉仕しなければなりません。

そして、これらのことは、善良な国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、更にいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、このおしえは、昔も今も変らぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国に行っても、まちがいのない道でありますから、私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

公に身をささげる使命感

公のために身を捧げる行為は平和を守るために尊ばれなければならない。 公に己を捧げる使命感こそが戦争という愚行を防ぐ力になるのだ。 戦争を否定するのはいいが、公に尽くす使命感までが否定されていないだろうか。
公に身を捧げる使命感。国民にその心が失われたとき、その国家が危うくなることは歴史が教えているとおりである。

出会い

人生には喜びに満ちて新しい生き方に自分を向かわせるような出会いが、だれにでも必ずあるものだ。自分の人生は自分ひとりでつくっていくものではない。そういう出会いをいくつも積み重ねることによって、人生は形成されていくのだ。

人間の一生にとって師と仰ぎ、心から尊敬できる人に巡り合うことは、とても大切なことだよ。

師の大きさについて考え、そこに少しでも近づこうと研鑽することで、人間は大きく成長し、人格を形成くていくものだ。

国益の視点

日本人が国益に比較的鈍感なのは、敗戦から終戦後の一時期を除いて、国家存亡の危機を痛切に経験したことがないからであろう。だが、国家によって安全と生命と財産を守られなくなった人々の悲惨さは、筆舌に尽くしがたいものがある。それは現在でも世界各地で起こっている地域紛争で発生する難民の姿を見れば、容易に解る。

国家とか国益とか言う前に、人類愛、ヒューマニズムのほうが重要だという議論があるが、それは理想的というよりも空想的である。

特に近現代史を学ぶときは、その国の国益という視点に立って事実を見てゆくことを忘れてはならない。

原爆碑

広島の平和記念公園に原爆碑がある。  

「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」

この銘文には主語がない。「私たち日本人」が「過ちは繰り返さない」と誓っている ように受け取れる。

しかし、これはおかしい。広島に原爆を投 下したのはアメリカなのだ。非戦闘員の一 般市民の殺傷を狙い、広島を全滅させよう と狙った原爆投下は、明らかな国際法違反である。過ちを犯したのはアメリカなのだ。

「過ちを繰り返さない」と誓うのは、アメリカでなくてはならない。だが、アメリカは原爆投下によって戦争が早く終結し、それだけ被害を少なくすることができた、と正当化している。

自分の過ちではないものを自分の過ちであるかのようにとらえる日本。正当化して過ちを認めないアメリカ。これでは歴史に学ぶことはできない。

事後法

裁判であるからには、裁くための法律が必要である。ところが、東京裁判の根拠となった法律、「平和に対する罪」は事後法なのである。事後法は近代法の精神が厳しく戒めるところのものだ。

東京裁判では連合国側から十一人の判事が出て審理に当たった。その一人に、ラダビノード・パール博士がいた。バール博士はインド人である。

パール博士は東京裁判を批判し、要約次のような意見を述べた。

「東京裁判は、裁判の名を借りた復讐であり、占領政策のプロパガンダにすぎない。真の平和と人道を確立する絶好の機会でありながら、それをなさず、法的根拠もないのに日本を侵略者と決め付け、多数の個人を処刑することは、20世紀文明の恥辱である。後世の歴史家は必ずこれを再審するであろう」

そして、パール博士は次のような予言的名句でその意見を結んでいる。

“時が熱狂と偏見を和らげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、その時こそ正義の女神は、その秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。”

マッカーサーの証言

マッカーサーは1951年の年頭声明で日本の自衛権を強調し、講和条約の締結を早め、独立した日本が再武装する必要性を説いている。

帰国したマッカーサーは、アメリカの上院議会で日本についてこう証言した。日本が中国大陸に進出したのは侵略戦争でははかった、自衛のための戦争だった、と。

これはどういうことか。日本を侵略戦争を行った悪者と決め付け、「平和に対する罪」で断罪した東京裁判は誤りだったと、日本占領の最高責任を担った当事者が認めたということである。

戦争の後遺症

第二次大戦の勝者となったソ連は、領土的野心をあらわにして振舞った。このソ連の領土的野心が東西対立を激化させ、冷戦構造を固定することになった。そしてドイツと朝鮮半島で分断国家という悲劇を生むことになった。しかし、それもベルリンの壁崩壊以後、次々と旧に復して解決していった。

だが、第二次大戦の結果戦勝国によって切り取られたままの領土がただ一つ、そのままになっているところがある。それは北方四島である。

アメリカとイギリスがソ連を対日戦に引き込んだのは、政治的にはまったく滅茶苦茶で無定見だったといわなければならない。そして、その状態がいままで放置されていることに、アメリカ、イギリスは責任を負わなければならない。

4.心の時代
傲慢

傲慢になると、情報を集め、それを分析し、どの選択肢をとるのかの冷静な判断ができなくなってしまう。そこに過ちが生じる。20世紀を通しての歴史のなかで、日本がもっとも反省し、学ばなければならないのは、この点だろう。もっとも、日本は最近も傲慢の過ちを犯したのではないだろうか。バブル経済とその崩壊がそれだ。

軍事面と経済面と、二つの分野で日本は20世紀に大きな過ちを犯し、塗炭の苦しみをなめた。それだけに学んだことも大きい。21世紀の日本はもっと賢明になるだろう。

日本の心

物質的に豊かになって、日本は抱えている本質的な弱点を露呈するようになった。物質的に豊かになるには代償をともなわずにはいなかったのだ。その代償とは心である。日本の心を失ったままになっている。

日本は豊かな自然に恵まれている。この自然を大切にし、自然の法則に従っていれば、幸せに生きていくことができる。そういう風土が長い年月の間に日本人の中に一つの心を培った。自然を敬い、恐れ、あがめる気持ちだ。それはあらゆるものにありがたさを感じ、身を慎んで謙虚に振る舞い、礼儀を正し、調和していこうとする心だ。そして、そういう心にさせるすべてのものに神を感じた。

だから、日本人が抱く神の概念は欧米とはまったく異なる。欧米の神は全知全能の絶対者である。だが、日本人にとっては身の回りにある自然をはじめとするすべてのものが、神なのである。神は八百万(やおよろず)なのだ。

ノンチックさんの詩

マレーシア元上院議員ラジャー・ダト・ノンチックさんの詩  

天皇

天皇には姓がない。あるのはお名前だけだ。外国の王朝は何度も交代している。だから、王朝を識別するために姓が必要になる。

しかし、日本の皇室は一度も交代していない。日本の皇室は連綿として続き、現在に至っている。だから他の王朝と識別する必要がない。姓は日本の天皇には必要ないということだ。

天皇は日本の規範、礼節、道徳といったものを担い、その一身に体現し続ける存在であって欲しいと思う。生活を質素に、慎み深く、和やかな姿を示し続けてほしいと思う。そういう天皇である限り、日本人の心の奥底にその心と一体になって、存在し、日本人を日本人たらしめる求心力となり続けるだろう。

しかし、逆にいえば、日本人から日本の心、日本の精神が失われたとき、天皇は存在し得なくなる。それは日本が滅びるときだ。日本人が地球上に存在しなくなるときだ。

現行憲法では、天皇を「国民統合の象徴」としている。いい得て妙である。

代々木練兵場で兵士を閲兵する昭和天皇

米艦船に体当たりする零戦

 

米軍の沖縄上陸作戦

日の丸君が代

 

アメリカで強烈な印象を与えたものがあった。それは星条旗に対する教育だ。保育室には星条旗が掲げられ、常に星条旗に敬虔に対応するしつけをしていたのである。アメリカは基本的に自由主義で、個人主義の国だ。だが、その自由も個人もしっかりした国家という存在があって保証されることを、星条旗を通じて幼いときから教えているのだ。

長い歴史と伝統と文化の積み重ねのなかで、自然に培ってきた日本人の肌身に染みている感性。それを養うことができれば、だれもが「日の丸」を誇りに満ちて仰ぎ見るようになる。「君が代」を心の底から歌うようになる。

特別な規定がなくとも、その国の人間はだれもが、国旗、国歌として認め、誇りにしている、そういう国は多い。法的な規定がなくても自然に存在する国旗・国歌こそ本物かもしれない。

歴史と伝統と、文化の裏打ちがなければ、法的規定なしに国旗・国歌と認められるものにはならないからだ。

真の国際化

これからの人間は、好むと好まざるとにかかわらず、国際化の大きなうねりのなかで生きてゆくことになる。そのとき、自分を自分たらしめるものの基盤は、国民性であり民族性である。それが明確であれば、お互いの違いを認識して認め合い、受け入れていくことができる。国際化とは国民性、民族性の明確化と同義語であることを知るべきである。

日本とアメリカもお互いの違いを明確にして認め合い、お互いを受け入れていく関係でなければならない。過去に敵として戦った過ちを共有する日本とアメリカだ。そこから学んだものも共有することによって、日米両国は真のパートナーシップを確立することができる。

そのためにも、急務は一人でも多くが日本人の心を養い、身に付けることである。
煎じ詰めれば、日本のこれからはその一点にかかっている。