tabi-taro's Art Museum

 

ここtabi-taro美術館では
私のお気に入りの名画を
画家の年代順に展示しています。

絵画に寄せた解説につきましては、
マリさんのページ
より
転載させていただきました。

国立西洋美術館に於ける
「ウルビーノのヴィーナス」展の鑑賞を記念して
2008年3月30日
tabi-taro


 

小鳥への説教

ジョット

サン・フランチェスコ聖堂 アッシジ、イタリア

 「小鳥への説教」は、全28場面ある「聖フランチェスコ伝」の一場面です。聖堂入り口から入ってすぐ、左背後に描かれています。堂内はステンド・グラス越しの光が明るくしています。高い天井と両壁に描かれた「聖フランチェスコの生涯」28枚。そして、天井に向かっては旧約聖書と新約聖書の「キリスト伝」が描かれています。

 彼が説教を始めると、木の枝にとまっていた小鳥たちは飛び下り、彼の周りに群れ、その衣にも触れたが、じっと動かなかった……。
 フランシスコは小烏たちに話した。
 『わたしの兄弟である小鳥たちよ!お前たちは神に感謝せねばならず、いつどこでも神をほめたたえねばならない。というのは、お前たちはどこへでも飛んでゆけ、二、三枚の服、色もきれいな服装、働かなくともえられる餌、創造主のたまものである美しい歌声に、恵まれているのだから。お前たちは種をまかず、刈り入れもしないが、神はお前たちを養い、水を飲むための河や泉、身を隠すべき山や丘、岩や絶壁、巣をつくる高い木を与え、お前たちはつむがず、織らないが、神はお前たちや子鳥たちに必要な服を与える。創造主がお前たちをたいせつにされたのは、お前たちを愛している証拠である。だから、わたしの兄弟である小鳥たちよ、恩を忘れずに、いつも熱心に神をたたえなさい!」』
 小鳥たちはみんなくちばしをあけ、はばたき、首をのばし、小さい頭をうやうやしく下げて、さえずり体を動かしながら、フランシスコのことばを喜んでいることを示した。フランシスコはそれを見て心満たされて喜び、小鳥の数がおびただしいこと、美しさ、様々の種類があること、親しみ深さに驚嘆した。
 それから彼は、鳥たちとともに創造主(神)を熱心に讃美した。そしてフランシスコは、小鳥たちに創造主をたたえるように、やさしく勧めた。さて、それがすむと、彼は小鳥たちの上に十字を切って祝福した。すると、小鳥は驚くべきことに歌を歌いながら飛び去っていった。………


 

夢のなかでヨアキムにアンナの受胎を知らせる天使

ジョット

スクロヴェーニ礼拝堂 パドヴァ、イタリア

 この清らかで静かな作品は、ジョットがフランチェスコ会の修道士に招かれて、パドヴァに滞在中、エンリーコ・デ・スクロヴェーニのために制作した、同家の礼拝堂の壁画の一つです。
 イスラエルの民、ナザレのヨアキムとその妻アンナは聖母マリアの両親ですが、長い間子供に恵まれませんでした。そのため、ヨアキムはエルサレムの神殿に生け贄の羊を捧げに行きますが、子なき者は供犠を行う資格がないとして、宮から追い出されてしまいます。絶望したヨアキムはみずからに苦行を課し、神の赦しを得ようと、あてどなくさまよいます。
 彼は40日40夜、荒野で神に祈りました。すると、神の使いである天使が夢のなかに現れ、「ヨアキム、ヨアキム、汝の願いは主に聴き届けられた。家に立ち戻れ」と呼びかけます。そして、妻が身篭るだろうと告げるのです。その聖なるお告げの一瞬前...ヨアキムはまだ悩みのなかで眠っています。木々が削り取られた山の稜線、ゴツゴツとした幻想的な形の岩山も画面のなかにつつましく存在し、すべてがヨアキムの深くつらい眠りを暗示しているようです。しかし、そんな彼に向かって、青く青く開かれた空から、天使が急降下して来ます。まっすぐに、良き音信(エヴァンゲリウム)のしるしである百合の花と神の言葉をたずさえて....。 
 それにしても、この天使の清冽な美しさには胸を打たれます。頬をばら色に紅潮させ、この嬉しいお告げを早く早く、ヨアキムに伝えなければ...と、彼女自身にも胸の高鳴るような想いなのに違いありません。本当に、画面を対角線に沿って大急ぎで降りて来る様子が、この静かな作品の中でただ一点、生き生きとした生気を放っているのです。
 ところで、ジョットはフランチェスコ会教会のための壁画制作に携わることが多かったのですが、これは彼が、アッシージの聖フランチェスコ(1182-1226)に深く傾倒していたためと言われています。キリストにならって己れの肉体を鞭打つかのような人生を送った聖フランチェスコは、その苦行の向こうに真の幸福を見ていたのではないでしょうか。そして、その幸福感に到達することをジョットも望みながら、自らの人体表現を完成させていったのに違いありません。


 

受胎告知と二聖人

シモーネ・マルティーニ

ウフィッツィ美術館 フィレンツェ、イタリア

 大天使ガブリエルの口から、今まさに発された声が、空中に金色の文字となって視覚化されています。数ある「受胎告知」の場面の中でも、この作品の聖母はとりわけ人間的な表情を見せているようで、どちらかと言えば、その仕草からは拒絶さえも感じられます。オリーブを手にした大天使ガブリエルのほうも、そぉっとマリアの表情をうかがいながら、聖なるお告げを注意深く伝えている様子で、二人の間にみなぎる緊張感が、金地によって創り出された光あふれる空間を、みごとなほど雅びに引き締めているようです。
 聖母の顔には下地に用いたとみられるくすんだ緑色が透けて見え、画家はその上に何度も筆を重ねて微妙な表情を繊細に作り上げています。そして、金箔を置いて光輪を表現した部分には、丹念な刻印や刻線を見てとることができるのです。これほどに優美な金地背景の祭壇画になると、絵画作品と言うより、やはり工芸品に近い丹精を感じずにはいれません。
 中世は、しばしば「暗黒の時代」などと表現されることもありました。しかし、ルネサンス以降の近代人たちがイメージとして抱いた「中世」がどのようなものであるにしろ、実際の中世は、ヨーロッパ世界が徐々に形成され、その独自な文化を練り上げるための重要な時期であったことに間違いありません。
 シモーネ・マルティーニは、14世紀シエナ派を代表する画家と言われています。華麗な色彩、装飾性が特徴で、その写実的な表現にはフランス・ゴシックの影響も強く感じられます。つまり、天上の人々をも地上の人間のように親しみやすく描き、より現実的な表現で人々の要求に応えたのです。アッシジのサン・フランチェスコ聖堂サン・マルティーノ礼拝堂の壁画制作を経て、教皇庁の宮廷画家としてアヴィニョンに招かれ、同地で活躍しました。彼の、豊かで優美な様式は、明らかにフランスがゴシック芸術の理想としていたものの完成であったと言われています。
 シモーネ・マルティーニの創り上げた、鋭角的な線と感傷的な渦巻きで形成された光の世界から、七世紀の時を超えて私たちは確かに、マリアの耳に届いたと同じ大天使の声を聴いているのです。 


 

ゲントの祭壇画

ファン・エイク

バーフ大聖堂 ゲント、ベルギー

 1432年、ファン・アイク兄弟によって制作された12枚の多翼開閉式祭壇画です。
 「我能うかぎり」の銘が作品に残されているごとく、技術のかぎりを尽くして描かれた画面の輝きは500年以上経てなお失われていません。およそ人間技とは思えないません。ある時は戦利品として一部パネルがフランス、ドイツへ。またある時は売却され、さらに盗難にあった一枚のパネルはいまだに行方しれずです。
 開閉式のこの多翼式祭壇画は、開いた状態の時、両脇に離ればなれのアダムとイヴは、翼パネルが閉じると内側で隣合わせに並び、結ばれるのです。歌う天使たち、楽器を奏でる天使たちは、本を手にしたマリアと洗礼者ヨハネと合わさり、見えない世界では音楽と文学が融合します。

 

 この祭壇画は、初期フランドル絵画最大のモニュメントと言われています。基本形はトリプティク...すなわち三枚続きの祭壇画で、中央部およびの二枚の翼部を中心に、全部で20枚の部分から成っています。
 まず開いた状態で見られる下段の5枚の板絵でヨハネの黙示録の第7章で示される「仔羊礼賛」の物語を表しています。キリストの犠牲の死を象徴する「神秘の仔羊」の胸からほとばしる血が聖杯に注がれ、仔羊は彼らを生命の泉へと導くという重要な場面です。上段の7枚のパネルの中央の3枚は聖母マリアバプテスマのヨハネを左右に置いて、まん中にキリストを表しています。
 翼部を閉じた状態にして、画面全体を見てみると、ここに現れる8枚の板絵は、明らかに首尾一貫した、一つのまとまりのある作品となっています。ここでは、一番大きな人物が下段に配されて、非常に安定した印象となっています。二人の聖ヨハネ像()は彫刻に見せかけるため、時が凝縮したような灰色で描かれ、その両側の寄進者その妻は、アダムとエヴァのパネルと同じように別々の板絵に描かれています。
 また、上段には、一目見てわかる、「聖告」()が描かれ、大天使ガブリエルが、本当に天井に届いてしまいそうな大きな存在として表現されています。神秘的でありながら、現実生活の室内で告知が行なわれるのも、いかにも神秘を非常にみじかなものとして描く北方らしい工夫ですが、これもおそらく、上にあって、それぞれに幅の異なる2対のパネルもすべてひっくるめて、一つの部屋で起こったことがらのように演出するためなのです。ヤンは、この中で、遠近法の工夫だけで満足することなく、聖母の部屋の床になんと、パネルの枠の影までも描いているのです。絵画でありながら現実でもあるような....この魅惑的なイリュージョンは非常に興味深く、フランドル写実主義の偉大な画家ヤン・ファン・エイクの天才的なセンスの良さ、深い思惑を感じさせてくれます。
 内側の12枚の絵の主題は、アダムとエヴァを除くと、まさしく「キリストの磔刑」です。しかし、全体を包む雰囲気は飽くまでも柔和で、明るく美しく、やさしいものです。悲しみや嘆きといったものは感じられません。光と大気に満ちた美しい風景の眺望に、私たちは新しい絵画様式の展開をすら感じることができます。この『ゲント祭壇画』は、驚くべきことに、風景画、静物画、肖像画などの近代絵画の諸特徴をすべて見ることのできるフランドル絵画の揺るぎない一大記念碑なのです。


 

宰相ロランの聖母

ファン・エイク

ルーヴル美術館 パリ、フランス

 ブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロランは、目の前に現れた聖母子に手を合わせています。同じ空間に存在するなどあり得ない図であり、ロランの幻視はあまりにも不遜なものにも思えます。本来ならば守護聖人を伴うところを、聖母に比肩する大きさで対等に描かれるよう望んだ注文主に、画家は単純ならざる思いを抱いていたように感じられるのです。
 ニコラ・ロランは、百年戦争を終結に導いた「アラスの和議」を取りまとめた傑物として知られています。しかし一方、その莫大な資産形成に関しては、さまざまな噂のつきまとった人物でもありました。彼は生まれ故郷のオータン大聖堂に、この誇らしい絵画を寄贈するため、ブルゴーニュ侯フィリップ善良公の宮廷画家であったファン・エイクに制作を依頼しています。

 室内にいる聖母子像という心温まる形式は、ヤンのつくり出したものでした。この作品の美しさも、慈愛に満ちた聖母と、丸々と太って健康そうな幼いイエスの可愛らしさが主役です。しかし、今まさに戴冠しようとする聖母の頭上の天使が、重そうに抱える宝冠の、なんと見事な美しさでしょう。手を伸ばせば、その冷たい輝きを放つ宝石や細工に触れることができそうな気がします。でも、これは、言うなれば「現実」を超えた「写実」なのです。ヤンが作り出す世界は決して人の立ち入れない、極上の洗練の極みなのです。
 さらに、私たちがここで驚かされるのが、高い位置から見下ろした、はるか彼方まで見渡せる風景描写です。この遠近法はイタリアの正確に計算された遠近法とは違っていましたが、それだけに、絵画的な現実感を伴います。
 アーチ型の列柱の向こうには二人の人物が立ち、眼下の川を見下ろしています。川には橋が架かり、たくさんの人が往来し、その向こうの小島には城が建ち、なんと窓の一つ一つまでが描き込まれています。さらに、対岸の家々にまでちゃんと窓が描かれ、緑の木々もきちんとそれと分かります。
 また、眼下の町並みも、なんという細密さでしょう。建物の壁の質感、聖堂の細やかな造り、そして、町なかを歩く人々の姿からは話し声や、一人一人の表情までも感じ取れるようです。
 ヤンの絵筆は、一体、どうなっているのでしょう。66×62pという決して大きくはない画面の中に、どうすればここまでの精緻な描写が可能なのでしょう。見つめれば見つめるほどに、あまりにも見事で完璧な絵画であり、私たちの目は画面の中にどんどん引き込まれ、やがて青みがかった山々の向こうに吸い込まれてしまうのです。
 ところで、城壁にたたずむ二人は、エイク兄弟だろうと言われています。赤いターバンの横顔の人物が、ヤン本人なのでしょう。署名がわりの楽しい工夫ですが、それ以上にこの二人は鑑賞者の心と作品を結ぶ、重要なポイントとなっているようです。 


 

受胎告知

フラ・アンジェリコ

サン・マルコ修道院付属美術館 フィレンツェ、イタリア

 「恵まれた者、喜びなさい。主はあなたとともにおられます。」神の御使い、大天使ガブリエルのこの言葉に、ルカによる福音書の伝えるところによると、「この言葉を聞いて、マリアは胸騒ぎがし、この挨拶はなんのことであろうかと思いまどった」のです。ここに、恐れるな、マリア・・・に始まる有名な天使の告知が行われるのですが、フラ・アンジェリコの描くマリアは、畏れながらも静かに顔を上げ、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、深く決意に満ちた受容で応えています。キリスト教はこの瞬間に、このマリアという一人の少女の受諾からその歴史の幕が開かれます。多くの画家たちが、それぞれの時代の神学的、美的解釈、また自らの内的発露から、さまざまな「受胎告知」を描いてきましたが、この作品はその中でも、その清らかさ、ひそやかさ、純粋さで、他とは一線を画した存在ではないでしょうか。
 柱廊玄関(ポティーコ)という当世風の舞台設定であるにもかかわらず、よけいな細部の描写がいっさい省かれ、大天使ガブリエルのみごとな美しい羽根と柔らかなピンクの衣装、そして、聖母になろうとするマリアの白と深い紺色の衣装が目にも爽やかで、この上なく清らかで無垢な印象を与える作品に仕上がっています。向かい合った二人の、真剣で純粋な顔も本当に美しくて、ああ、こんなふうに受胎告知はなされたのかも知れない・・・と深く納得してしまうのです。
 マリアの困惑、戸惑い、受容はもちろんですが、大天使ガブリエルにしてみても、神様からの大切な告知を携えての大きな仕事です、天使なりに内心はそうとう緊張していたのではないでしょうか。そんな二人の間に漂う張りつめた空気が、ピン・・と見る者にも伝わって、非常に清冽な大作となっていると思います。


 

聖母の戴冠

フラ・アンジェリコ

ルーヴル美術館 パリ、フランス

 どこかの国の女王様の戴冠式と見まがうばかりの華麗さ...。聖母マリアはまさにここで、天の女王として迎えられたのです。真夜中に天の軍勢を従えて来臨したキリストの腕に抱かれて、聖母の魂は天に昇りました。そして三日後、復活したマリアは魂に肉体をともなって昇天します。そして、聖母の物語もクライマックスを迎え、彼女は天で戴冠するのです。
 天の讃歌が彼女を迎えます。天使や聖人たちが群れをなし、旧約の中の族長たちがこぞって祝福するなか、キリストが聖母を傍らの玉座に招き、彼女に冠を授けるのです。キリストの前にひざまづいたマリアは、天の女王にふさわしい豪華な衣をまとい、「来たれ、わが選ばれし御方よ。われ汝をわが玉座につかせん」というキリストの言葉そのままを静かに受け入れるのです。

 フラ・アンジェリコは、生涯に少なくとも三回、この聖母戴冠をテーマに描いていますが、この作品は最も晩年のものです。その甘美な作風と高潔な人柄から「天使のような僧」と呼ばれ、キリストの磔刑図を描きながら涙を流したほどに信仰の篤い人物だったと伝えられています。そんなフラ・アンジェリコの描く戴冠図は、華麗な色づかいでまとめられながら、あくまでも夢見るように美しく、そして穏和でやさしい心地良さに輝いているのです。


 

二天使を伴う聖母子

フィリッポ・リッピ

ウフィッツィ美術館 フィレンツェ、イタリア

 まだ少女の面影を残す、本当に清らかな聖母マリア・・・そして、元気そうな天使たちにかつぎ上げられたかっこうの幼な児イエスも、よく肥って、まだ赤ちゃんでありながら、すでに威厳に充ちています。
 フィリッポ・リッピはフラ・アンジェリコと並んで、フィレンツェの修道僧画家として有名ですが、敬虔な宗教者だったフラ・アンジェリコとは反対に、尼僧と駆け落ちして修道院を脱走するような、なかなかのナマグサ修道僧だったようです。そのせいか、リッピの描く聖母は世俗的で官能的なまでの美しさで名高く、みどり児イエスも柔らかい肉体を持った、愛らしい幼児として表されていることが多いのです。ですから、この作品の聖母マリアも清純な可愛らしさにあふれていながら、そのヘアスタイルなど、イタリア風の華やかさを見せてくれています。

 彼女の髷の頂部に空の色をした青い石が輝いていますが、これはマリアの聖性の象徴だと思われます。そして、真珠かと思われますが、白い珠が頭部と胸元を飾っていて、その清らかさはマリアの清純さとともに、心をひたひたと満たしてくれるような美しさです。リッピの描く甘やかでどこか翳りのある美貌の聖母は、しかし、庶民的で、その合掌する姿はつつましく、街角の小さなおみ堂にひざまずいているようで、本当に胸を打たれます。
 窓の外に広がる田園風景も明るく神秘的で、ダ・ヴィンチにも見られますが、イタリア・ルネッサンスの一大特徴とも言えるもので、窓わくが絵画をかざる額縁のように描かれているのも、リッピらしい楽しい工夫のような気がします。 


 

ロレンツォ橋における十字架の奇跡

ジェンティーレ・ベッリーニ

アカデミア美術館 フィレンツェ、イタリア

 ここに描かれているのは中世から伝わる「聖十字架伝説」の中の一場面なのです。「聖十字架伝説」は、キリストの磔刑に使われた十字架が辿った数奇な運命の物語で、エデンの園に始まりヘラクリウス帝治下に及ぶ時の流れが示されています。
 楽園を追われたアダムは、ひそかに知恵の木の枝を持ち出していました。その枝は人々の手から手へと渡り、やがてモーセが青銅の蛇を立てたと伝えられる竿となります。その後、この材木はエルサレムに運ばれ、橋に使用されます。
 そして、この作品の場面となります。十字架の木は、エルサレムのベテスダという池に浮いていました。この池の水は病を治す霊的な力があると言われ、多くの病人や障害を抱えた人々がやって来ていました。材木は、ここからキリストの十字架を作るために持ち去られるのです。
 このように、十字架の木は、原罪から贖罪に至る過程に深くかかわってきますが、ここでは、運河に落ちた聖遺物が再び浮かび上がってきた瞬間が描かれています。船を出す人々、桟橋で祈りを捧げながらじっと見守る人々……と、数え切れないほどの人数が描き込まれていますが、その中でも、画面右端で川に飛び込もうとする黒人の男、泳ぎ回る僧侶たちの活気に満ちた描写は、この特殊なエピソードを生き生きとしたものにしているようです。

 ところで、作者のジェンティーレ・ベッリーニにとって、聖遺物の十字架や中世の伝説よりも、実は当時の美しい都市風景を写実的に描写することのほうが、ずっと興味深い仕事だったように思われます。実際、15世紀ヴェネツィア派の画家ジェンティーレは、カルパッチョから18世紀のカナレットにいたる街景画(ヴェドゥータ)の伝統を確立したという意味で、非常に重要な画家の一人でした。
 ジェンティーレは、栄華をきわめたヴェネツィアの生き生きとした景観を正確に観察し、画布に再現した最初の画家でした。ですから、こうした説話表現もまた、彼にとっては格好の都市肖像画の素材だったに違いありません。実際の肖像画家としても活躍しましたが、やはり、こうした都市の描写を用いた大型の油彩の連作は、彼を最も輝かせた主題だったような気がします。福音書記者聖ヨハネ同信会のためのこの連作もまた、ジェンティーレの代表作の一つでした。

 温かい描写で描き出された美しい建築物は魅力的な背景となり、人物のやや硬い身振りや、人形のように立ちつくす同じポーズの繰り返しという違和感を和らげているようです。そして、前景の右側に控えて手を合わせている人々は画家自身の家族、ベッリーニ一族であると言われています。


 

キリストの洗礼

ヴェロッキオ

ウフィッツィ美術館 フィレンツェ、イタリア

 洗礼者ヨハネはヨルダン川の傍らに立ち、跪く人々の頭に杯で水を注いでいました。説教師であった彼は、荒野で禁欲的生活を送りながら、彼のもとにやって来る人々すべてに、ヨルダン川の水でバプテスマ(洗礼)を施していたのです。彼は、天使の導きによって荒野で隠遁生活を送りながら、イエスを待っていました。
 「マタイ福音書」3:13−17、「マルコ福音書」1:9−11、「ルカ福音書」3:21−22、「ヨハネ福音書」1:29−34には、「民衆がみな洗礼を受けたとき、キリストもまた洗礼を受けた」という記述があります。キリストがバプテスマを受ける為に現れたとき、ヨハネは、「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきですのに」とイエスの足元にひれ伏したといいます。
 キリストは腰布をまとい、くるぶしまで川の水に浸かって立っており、洗礼者ヨハネは救世主の頭に水を振りかけています。そして反対側の岸には、構図の均衡を保つかのように二人の天使が衣を手にして洗礼の様子を見つめています。キリストの頭上では天が裂け、聖霊の鳩が舞い降り、さらに上方には父なる神の両手が現れ、祝福を与えます。そして、「あなたは私の愛する子、わたしの心にかなう者である」との声が聞こえるです。罪なき者として清めの儀式を受けるキリストは、静かに目を閉じ、神の声を受け止めています。
 聖書の中でも特に有名なこの場面は、多くの画家によって描かれてきました。しかし、もしかすると、最も私たちに馴染みの深い「キリストの洗礼」は、この作品かも知れません。それは、この作品に、弟子のレオナルド・ダ・ヴィンチの手が入っているからなのです。ヴェロッキオ(1435頃−88年)は、レオナルドやロレンツォ・ディ・クレディなど、非常に弟子に恵まれた芸術家でした。
 この『キリストの洗礼』は、主要部分はすべてテンペラで仕上げられています。そして、左側に座っている天使だけは、ダ・ヴィンチが油彩を用いて描いているのです。これがレオナルドの油彩第一作だと言われていますが、それを見た師ヴェロッキオは、あまりの優雅さ、完成度の高さに、これを限りに絵筆を折ってしまったと伝えられています。もちろん、それはきっと、ダ・ヴィンチの偉大さを示す一つの伝説のようなものでしょう。しかし確かに、ヴェロッキオの真筆とされる絵は極めて数が少ないのも事実です。そして、写実表現に有利な油彩技法の、本格的な台頭を実感させる逸話のような気がします。


 

ラ・プリマヴェーラ

ボッティチェッリ

ウフィッツィ美術館 フィレンツェ、イタリア

 フィレンツェのウフィッツィ美術館の人気者の「春」は、ピエルフランチェスコ・デ・メディチ兄弟が購入したカステルロの別荘のために描かれたもので、詩人ポリツィアーノの詩「ラ・ジョストラ」から画想を得たものだと言われています。「ラ・ジョストラ」は、1475年、騎芸競技会(ジョストラ)で優勝したロレンツォの末弟・ジュリアーノの武勇と美しいシモネッタの恋を祝福した作品で、ボッティチェリはこの詩の世界に相当心惹かれていたようです。しかし、この翌年、シモネッタは病に倒れ、その後ジュリアーノも策謀によって夭折してしまうのです。「春」には、そうした背景による憂愁がただよい、また、この時代の影の部分も描き込まれているようです。
 画面中央に立つヴィーナスの左手で優雅に踊っている三美神は、左から「愛」「貞節」「美」を象徴しているとされていますが、このうちの一人が死んだシモネッタの再来の姿であると言われているそうです。そのせいでしょうか。春のそよ風に薄い衣をひるがえして優雅に踊る三人は、どこか憂いを含んだ表情をしています。
 また、画面の向かって右側では、西風のゼフュロスが、大地の精クロリスをつかまえようとしています。クロリスは逃げようとしているのですが、春の風である西風のゼフュロスに触られると、口から花がこぼれ落ちてしまい、徐々にフローラに変身してしまいます。そのクロリスの化身した姿が、そのまた左側で花をいっぱい抱えている女神フローラです。
 つまり、右から2番目のクロリスと3番目のフローラは同一人物(女神?)で、同じ画面上にいっしょに存在してしまっているのです。画面の右側に、「春」におけるもっとも劇的で印象の強い場面が集約されたということになるでしょうか。まさに、優美な一大叙事詩が展開されているのです。そして、ボッティチェリの作品を見ていつも思うのは、女性たちのヘアスタイルの美しさです。一人として同じ髪形の女性はいなくて、本当によく工夫されていますし、どうやったらこのようなヘアスタイルにできるのだろう・・・と、思わず見入ってしまいます。ボッティチェリの鋭い感性と創造力は、こんなところにも充分に生かされていて、嬉しくなってしまうのです。


 

ヴィーナスの誕生

ボッティチェッリ

ウフィッツィ美術館 フィレンツェ、イタリア

 西風の神ゼフュロスとニンフのクロリスが息を吹きかけると、巨大なホタテ貝は水面を滑り、女神ヴィーナス愛の島シテーレ島へと運びます。ヴィーナスの周りには薔薇の花が降り注ぎ、海岸にはオレンジの木々が立ち並びます。岸辺に待つ春の女神はヴィーナスの到着を歓迎し、色とりどりの花のマントで彼女を包み込もうと待ちかまえているのです。

 ギリシャ神話における「ヴィーナスの誕生」は、実際は残酷なお話です。天空神ウラノスと対決し、勝利した息子のクロノスは父親の手足を切り取り、去勢して、海に投げ捨てたといいます。それが水に触れた瞬間、白い泡があふれ出し、ヴィーナスが生まれたのです。愛の女神ヴィーナスは、世界に美をもたらす存在です。美は神聖であり、美を愛する人々は崇高で天上的な価値を愛する人々である。そんな考え方が流行した時代だからこそ、この作品は生まれたと言えるのかもしれません。古代の理想とキリスト教の理想が一致した、ルネサンスならではの幻想的で詩的な世界なのです。
 神話を題材にした絵を描いたのは、ボッティチェリが最初でした。そして、楽園を追放されるイヴ以外の裸の女性を描いたのも、ボッティチェリが初めてだったのです。画家は、昔のギリシャ彫刻にならってヴィーナスを描きました。それは、「ウェヌス・プディカ」(貞淑のヴィーナス)と呼ばれるポーズで、長い髪と手で自らの裸体を隠すというものです。ボッティチェリは、大昔の美と調和の模範に従って、このヴィーナスを描いたのです。
 ところで、当時もやはり、美の基準はきっちりと寸法で決められていました。といっても、今で言うスリーサイズといったものではなく、「乳頭間の距離=乳房とへその距離=脚とへその距離」といった、不思議で複雑な計算のもとに成り立っていました。その集大成として、このヴィーナスが描かれたわけですが、彼女はどこか作り物のようであり、しかも悲しげです。首はまるで人形のような長さであり、両肩も極端に下がり、左手の下がり方など、普通ではあり得ない印象です。
 ルネサンス時代の人々は、ギリシャ・ローマ時代の美のセオリーを研究し、忠実に採り入れました。この作品でも、昔の芸術家たちが評価した衣服の動きを効果的に採り入れ、画面全体がゼフュロスの息吹によって動いているように描かれています。薔薇の花びらや春の女神が持つマントだけでなく、ヴィーナスの長い髪も、「炎か蛇のように」描くとよい、というセオリーに従っています。このみごとな髪は、ルネサンスの幕開けのこの時期だからこそ実現した表現なのでしょう。イタリアのルネサンス時代、芸術家たちにとって中世は暗い時代とされ、忘れ去りたい過去でした。人々は壮麗なギリシャ・ローマ時代に戻ろうとしていたのです。


 

東方三博士の礼拝

ボッティチェッリ

ウフィッツィ美術館 フィレンツェ、イタリア

 この作品は、サンタ・マリア・ノヴェラ聖堂の祭壇画として描かれたもので、ボッティチェリのもっとも重要な作品とされています。中央で、幼な児イエスを抱いた若く美しいマリアにくらべ年をとり過ぎている感じの聖ヨセフが居眠りをし、左手には聖母子の前にひざまづく博士の一人が描かれています。マリアの膝でたわむれるイエスを、うやうやしくその手でささえようとする博士の周りでは、たくさんの人々がそれぞれの表情で見守り、なかなかにぎやかな「東方三博士の礼拝」です。この、礼拝の場面を囲んでいる人々は、当時のメディチ家の人々をはじめとして、実際にその周辺にいた人文学者たちが描きこまれていると言われています。
 フィレンツェきっての教養人でもあったロレンツォ・デ・メディチの手厚い庇護を受けたボッティチェリは、その恩に報いるため、メディチ家のために最善を尽くしたと言われています。ですから、こうした肖像を作品の中にとり入れるということも、何度か試みているようです。また、右端で正面を見ている人物は、ボッティチェリの自画像と言われています。ルネッサンスの頃まで、作品に作者の署名を入れないことが多かったためか、作者自身を群像の中に描くことは割とめずらしくないことだったようです。
 まだ30代になったばかりのボッティチェリですが、あの美しいヴィーナスを描いたボッティチェリはどんな人?・・・という興味は、ここで満足されることになります。


 

天国の鍵の授与

ピエトロ・ペルジーノ

システィーナ礼拝堂 ヴァチカン

 「あなたはペテロ(岩の意味)である。そして、わたしは岩の上にわたしの教会を建てよう。……わたしはあなたに天国の鍵を授ける」(マタイ福音書16:18-19)。キリストの言葉にペテロはひざまずき、鍵を受け取ります。この比喩的な場面は、ルネサンスの多くの芸術家によって繰り返し描かれました。交差した鍵は教会の権威の象徴とされ、紋章として頻繁に用いられていました。金と銀の鍵はそれぞれ天国と地獄の門を象徴し、赦免と破門を行う権限を象徴するとも言われます。
 キリストの「第一の使徒」と称されるペテロはガリラヤの漁師でした。そして、使徒の中で最も老齢で、十二使徒の統率者であり、キリストに最も親しい者の一人でもあったのです。キリストの死後は最初のキリスト教団を設立し、64年に皇帝ネロの命で磔刑に処されるまで、人間としての苦悩を抱えつつ、自らがキリストの第一の弟子であり続けることを生きる糧とした、まさにペテロ(岩)のような聖人であったのです。
 ところで、この美しいフレスコ画の作者ペルジーノは、その優雅な様式においてではなく、現代では、盛期ルネサンスの理想を集約したとさえうたわれるラファエロの師であったという点で、より有名な画家なのかもしれません。ペルジーノは確かに当時、最も多くの注文を受けた画家でしたし、実際、優美で感傷的な宗教画を数多く残しています。そして、彼の名声を確立したのがこの大作でした。
 遠近法の効果を強めるために、格子状に仕切られた教会広場の広角的な眺望は驚くほど厳粛でありながら、そこに集う人々の自由で生き生きとした動きは本当に対照的です。どんな大作を描かせても、そこにほっとするような空気を感じさせるのがペルジーノだったような気がします。
 ところで、キリストが最初の教皇たるペテロにその地位を渡して祝福し、自分の代理人としての権威を認める場面の描かれたこの礼拝堂は、まさにコンクラーヴェ(教皇選挙会議)が行われる場所なのです。ペルジーノは1481〜82年ころから、当時の代表的なフィレンツェ画家ボッティチェリやギルランダイオらとともに同礼拝堂の装飾に携わりました。教皇シクストゥス4世からの依頼を、画家はどれほどの喜びをもって受けたことでしょうか。しかし、この作品からは、そうした画家の高揚した気分をひたすら抑えた、厳粛で計算され尽くした知性がすみずみにまで感じられるのです。


 

快楽の園

ボス・ヒエロニムス

プラド美術館 マドリード、スペイン

 

 16世紀のスペインはフェリペ2世の統治下における「太陽の沈まぬ帝国」でした。無敵艦隊(アルマダInvincible Armada)を有し、イスパニア・ナポリ王国・ミラノ公領・ネーデルラント・アメリカをも含む大領土を支配した時代です。この絶対君主フェリペ2世の王宮エル・エスコリアルに、ティツィアーノと同様に飾られていたのが、ヒエロニムス・ボスの作品でした。

 宗教画では、マリアの慈愛やキリストの苦難を描き、そこから魂の救済を求め得る作品が多いのですが、ボスの視線は実に皮肉的で、人間の愚かさを、高みから冷ややかに見つめるように、世界を表現しています。(右側の絵の中央でシニカルな薄い笑みを見せて振り返るたまごおじさんはボス自身の肖像だと言われております)

 権力への欲望は、本来罪を購うべき場所であった教会機構さえも、権謀と術数の一手段とし、そこでは多くの血が流されました。熱心なカトリック擁護者であったフェリペ2世は、ボスの作品の前に立つ時、自分自身の中に有る「矛盾」を、いわば自虐的に感じさえしながら絵を見つめていたのではないのでしょうか。比類無き、偉大なる帝王ではなく、無力な一人の人間として。


 

最後の晩餐

レオナルド・ダ・ヴィンチ

サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院 ミラノ、イタリア

 救世主キリストは、宿命的な一言「汝らのうちの一人われを売らん」と告げ、弟子たちはいっせいに動揺し、「主よ、われなるか」と、各々の表情で語りかけます。
 彼はこの作品を描く際、それまでの多くの画家がそうしたように、まず建物があって、その中に人物を描く...という方法をとりませんでした。ダ・ヴィンチはまず、人物の群像の構成から始めたのです。そうすることによって、圧迫感のない、はるかな奥行きとゆとりを感じさせる空間を作り上げたのです。この均斉のとれた安定感は、彼以外のどんな画家にも達成することのできないものでした。
 そして、室内を見渡す私たちが中心と感じるのはキリストの頭の後ろ、中央の消失点です。それは正確に画面の中心にあり、中央の窓の上に突き出たペディメントは、ちょうど建築を借りた光輪の働きをし、ここに座するキリストを象徴的に示しています。この空間の効果がいかに生きたものであるかは、画面の上部三分の一を覆ってみると明らかになります。上部三分の一を失ったとき、画面の中の聖なるキリストの姿は印象の薄いものとなり、使徒たちの劇的な動きも単にバラバラと統一感、明確さを欠くものとなってしまうでしょう。静穏なキリストの三角形の姿を、肉体と精神の焦点として完成させるには、この深い構図、奥行きがぜひとも必要だったのです。

 『最後の晩餐』は、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会の修道院の食堂に描かれました。ダ・ヴィンチは、1495−98年の三年間をこの仕事に費やしました。昔からの壁画の手法はフレスコが普通でしたが、彼はこの伝統的な技法に拘束されることを嫌いました。そのため、もっと融通のきく、普通は木のパネルに使う絵の具を使用したのです。しかし、この方法は不安定でした。絵はすぐに壁から剥がれ落ち出したのです。彼の生存中から傷み出していましたが、ダ・ヴィンチが死んでおよそ50年後にヴァザーリは、「あまりに保存状態が悪かったため、ただ壊滅的な斑だけしか見ることができない」と表現したほどでした。その後、数知れぬほど多くの修復や保存が試みられましたが、その試みは逆に絵を傷めることもありました。そして、ときには切手ほどの大きさの部分に一日を費やし、5世紀にわたる汚れ、かび、そして上塗りをきれいに取り去る作業は1999年5月に終了したのです。しかし、やはりダ・ヴィンチの手による絵の具は非常に薄く、ほとんど残っていないといってもよいほどだったのです。
 ところで、修道院長は、描きかけの絵を前にして、半日も物思いにふけって過ごすダ・ヴィンチに戸惑っていました。しかし、彼がそのことを咎めようとすると、ダ・ヴィンチは、「天才というものは、ときには全然働いていないときに、最も多くのことを成し遂げるものだ。というのも、そのときに素晴らしい思いつきが浮かび、それを自らの手で表現する完璧な案を頭の中に形づくっているのだから」と言ったといいます。ダ・ヴィンチの作品が未完であることが多いのも、頭のなかですでに完成させてしまったものを、わざわざもう一度やり直すことに興味が向かなかったからなのかも知れません。


 

白貂を抱く貴婦人

レオナルド・ダ・ヴィンチ

チャルトリスキ美術館 クラクフ、ポーランド

 ポーランドの首都がワルシャワに移された1596年以前はクラクフがポーランド王国の首都であった。クラクフは第二次世界大戦中、奇跡的に戦災を免れたため、中世の面影をそのまま残した美しい町である。この絵はダ・ヴィンチがイル・モーロの愛人チェチリア・ガッレラーニをモデルに描いたもの。白貂は「純潔」「貞節」を表すとともに白貂を意味するギリシャ語「ガレー」はガッレラーニを暗示している。

 ダ・ヴィンチの生涯を通じて、肖像画は宗教画に匹敵する中心的主題でした。
 この「白テンを抱く婦人像」のモデルは、ルドヴィコ・スフォルツァの愛人チェチリア・ガレラーニであると言われています。白テンがルドヴィコの紋章の一つであったこと、また動物を表すギリシャ語の「ガレン」がチェチリアの姓と音が同じであったことも、その証明であると言われています。
 まだ少女っぽさが残るチェチリアの、まっすぐで利発そうな視線の先には何があるのでしょうか。口を引き結んで注意深く見つめている様子が、非常に清潔な印象です。
 そして、その腕に抱かれている白テンは、いかにも肉食獣・・・という感じで、チェチリアの清冽さに比べ、やけに獰猛で生々しい存在として描かれています。この、いかにも頭の良さそうな少女は、果たして幸せだったのか・・と、なぜかとても気になります。この白テンのように自由に、心のままに自然の中を飛び回りたい・・・。そう思っているのではないかと、ひどく気になる作品なのです。そんな彼女の心の動きをも、もしかするとダ・ヴィンチは描いてしまったのかも知れません。
 ダ・ヴィンチにとって絵画の技術は、手先を使うのと同じくらい思索によって磨かれるものでした。肖像画家として、まだ途上にあった彼の心に、チェチリアはまっすぐな問いかけをしてきたのかも知れません。


 

岩窟の聖母

レオナルド・ダ・ヴィンチ

ルーヴル美術館 パリ、フランス

 ダ・ヴィンチの絵には、どれも現実とはかけ離れた神秘的な雰囲気が漂っていますが、この作品は特にその傾向が強いように思います。岩に囲まれた洞窟は、生命の誕生をつかさどる母の胎内を暗示していると思われ、神の力が働くサンクチュアリとして描かれているのではないでしょうか。
 おさな児イエスと聖ヨハネを、マリアが大きく手を広げて護り、祝福しています。二人は幼いながらもすでに自らの役割を自覚しているらしく、賢い表情でポーズをとっています。でも、この絵の中でとりわけ目をひくのが、その三人をうっとりと眺めている天使の姿です。清純で、少し冷たい感じのする彼女の、ちょっと斜めに傾いた顔はこの上なく美しく、神秘的です。巨匠と言われる人の描く女性たちを、どれもこれも「美しい」の一言で表現してしまうのは情けない限りなのですが、やはりどうも、その表現しか見つかりません。光を受けた天使の額が、知性的に輝いています。
 この作品は、ロンドンのナショナル・ギャラリーとパリの ルーヴル美術館の2箇所で見ることができます。完成品の少ないダ・ヴィンチが、なぜ同じ絵を描いたのかは謎です。いつも新しい興味に向かって走ってしまう彼にしては、異例中の異例と言っていいでしょう。レオナルドはきっと我が道を往く人だったでしょうから、気のすすまない仕事を二回やるとは思えません。単純に考えれば、彼にとって、非常に興味をひかれるテーマだったということでしょうか。

P.S.
 この作品が2枚あることの理由について、1996年12月1日に大場 紀裕さんよりメールをいただきました。
「オリジナルの『岩窟の聖母』を 教会が評価した価格が安すぎて、作品の価値を見下していると考えたレオナルドは売り渡しを拒否した。そして、苦心したオリジナルは絶対に安売りはできないので、コピー絵としてもう一枚描き、それを安値で売った。そのために2枚存在する。また、オリジナルはルーヴル美術館に収蔵されているほうであると思われる。」
「図説 レオナルド・ダ・ヴィンチ 万能の天才を訪ねて」 河出書房新社(ISBN4-309-72559-7)より  ・・・との情報をいただきました。どうもありがとうございました。


 

受胎告知L

レオナルド・ダ・ヴィンチ

ウフィッツィ美術館 フィレンツェ、イタリア

 百合の花を携えた大天使ガブリエルは、まっすぐに聖母の前に進み出て神のお告げを伝えます。「あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい」
 この余りにも有名な場面を、どれだけ多くの画家が描いてきたことでしょうか。しかし、ここに描かれた受胎告知には、他の作品とは明らかに違う、とてつもない緊張感がみなぎっています。
 右手をかざし、じっとマリアを見つめる大天使、そして、すでに光輪を持ち、微動だにしない仏像のような姿で、射るようなガブリエルの視線を受けとめるマリアの間には、尋常ならざる雰囲気が漂います。まさにマリアは、大天使の言葉を受けて立ったのです。マリアの堂々と威厳に満ちた態度は、すでに市井の慎ましい乙女のものではなく、二人の間にピンと張った緊張の糸は、絶妙の間隔を保って完結しているのです。
 この作品は、レオナルドのごく初期の、しかし貴重な一作です。身振りの優美さや衣装の繊細なひだ、そして確かな構図に師ヴェロッキオの影響が色濃く読み取れることからも、それは明らかと思われます。当時のフィレンツェでは、ボッティチェリの人気が高かったため、レオナルドとしてもフィレンツェ美術の主流を十分に意識する必要があったかもしれません。
 しかし、遠景中央部に目をやると、そこには「モナ・リザ」の背景を彷彿とさせる、霧がかかったような、どこか異世界的な情景を見ることができます。それに気づくと、私たちの目はテーマを離れ、遠くの、どこか知らない土地、レオナルド・ワールドへ引き寄せられてしまいます。
 ところが、ふと誰もが不思議に思うのが、ほとんど遠近法を無視して描かれたとしか思えない書見台、そしてポライウォーロが好んで描いたような樹木の姿かもしれません。そこには、15世紀における理想的な庭園風景の表現があり、レオナルドが古い様式に彼なりの愛着を持っていたことがうかがえるのです。
 さらに、息をのむのは、みごとな花のカーペットでしょう。生きとし生けるものすべてに興味を持ち、愛情を注いだレオナルドの描く花は、細部にまで細やかなこだわりが表現され、画家の手が一つ一つを愛でるように描いているのが感じられます。そして、大天使の翼は、まさに鳥の羽そのものであり、大空を飛翔するにふさわしく造形されているのです。当時20歳を少し過ぎたばかりのレオナルドの、みずみずしい夢や希望がここに確かに凝縮されていると思えてなりません。
 余りにもたくさんの要素を抱え込んだこの作品は、若き日のレオナルドのあふれるような情熱までも内包して、美しく端然と、そして侵しがたい緊張感とともに今もなお、私たちを魅了し続けているのです。


 

リッタのマドンナ

レオナルド・ダ・ヴィンチ

エルミタージュ美術館 サンクト・ペテルブルク、ロシア

 画面のすみずみにまで「調和」が感じられ、一言で言って「素晴らしい」としか表現しようのない作品です。まったくスキのない、完成の極致・・と言えるのではないでしょうか。
レオナルド・ダ・ヴィンチといえば、まず「モナ・リザ」でしょうが、この聖母子像の完璧な美しさを知らずに過ごしてしまうなんて勿体ない気がします。いかにも満足げなイエスと、そのイエスに母乳を与える至福の表情のマリア。こんなに美しいお母さんの顔を見て幼児期を過ごしたら、人生の最初に見る映像が私たちとは全然違うわけですから、どう考えても神の子になっちゃうしかないな・・・と、変に納得してしまいます。
 マリアはわが子が全幅の信頼をもって自分を見つめているのを知っています。だから、この子を守るのは自分なんだ・・・という自信と勇気に輝いて、このような満ち足りた表情をしているのだろうと思います。母親というのは、わが子との、このひとときの信頼関係を大切な思い出として、一生の心の支えにしていけるのかも知れません。
 それにしても、この抱き方はあまりにも不自然で、これではイエスが落っこちてしまいそうだと感じる人も多いと思います。ところが、この抱き方には、宗教的な顕示があるのです。マリアはわが子を慈しみつつも自分一人のものとして独占せず、人類の救い主として、人々に差し出す姿勢をすでにとっているのだそうです。覚悟を決めたマリアだからこそこのように穏やかで、気品と威厳に満ちているのかも知れません


 

ジョルジョーネ

アカデミア美術館 フィレンツェ、イタリア

 『嵐』と表記するよりも、もしかすると『テンペスタ』と言ったほうが耳に馴染み深い作品かも知れません。嵐は古来、神の荒々しい顕現や神々の意志を伝えるシンボルとされてきました。そして、キリスト教圏において稲妻は、最後の審判を象徴するものでもあったのです。
 それにしても、彼らは何者なのでしょう。向かって左端に立つ若い男性は兵士のようです。そして右側に座る裸身の女性は、生まれて間もない赤ちゃんに乳を含ませています。二人は同じ空間に存在しながら、互いに目を合わすことはありません。永遠にそれぞれの思いを抱いて、まったく違う方向を見つめ続けているのです。この絵は三人の関係も、また、この光景が意味するところも、何一つ説明してはくれません。ただただ遠く雷鳴だけが響き、緑豊かな美しく繊細な風景が、このうえなく瑞々しく広がるばかりです。

 謎めいて、それでいて親密な82×73pの作品は、ヴェネツィア派絵画の巨匠と言われながら夭折したために作品数も少なく、しかも署名することすらめったになかった伝説の画家ジョルジョーネらしい趣に満ちていると言っていいかも知れません。
 この幻想的な作品は、主題が明らかでないばかりに、ずっと議論の絶えることがありませんでした。古代神話の中のパリスと羊飼いの妻であるとか、ユピテルとイオであるとか、旧約聖書のアダムとエヴァであるとか、また慈愛の寓意であるとか、今でも20以上の解釈がなされています。ですから、ここでもちろん、答えが出るわけではありません。
 ただ17世紀オーストリアのホーベルク男爵は『預言者ダビデ王の遊歩薬草園』の中で、次のような詩を書いています。
「雷鳴がとどろき嵐が迫ると/小鳩は岩穴に身を隠す。/敬けんな人々もまたそれに似て、/よし災いに襲われるとも/キリストの傷の中に隠れて安全なり」。
 これから自分たちを呑み込もうとする嵐を予感しながら、超然とした態度を崩さない二人と幼な子の姿は、もしかすると詩情の画家ジョルジョーネの描く、新しい聖家族の姿なのかも知れません。彼らは、揺るぎない信仰と安らぎのなか、画面のなかからこちらに向かって無言の語りかけを続けているのかも知れないのです。

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アテネの学堂

ラファエロ・サンティ

ヴァチカン宮殿 ヴァチカン

  

 1503年に即位した教皇ユリウス2世は、自分の居間に、人類の知と徳のすべてを描かせようと考え、哲学的な探究の主題をラファエロに与えました。古今の哲学者が一堂に会するという、壮大すぎてちょっと気が遠くなりそうな作品ですが、よく見ると、主人公は空間構成そのものであることがわかります。
 一般的に、主役と思われている中央のプラトンアリストテレスは私たちから一番遠い位置に立っていて、階段を降りるにつれて人物たちが次第に大きく、人々のざわめきもだんだんはっきり聞き取れるようになってくるのです。このように、人物と空間の遠近法は完璧に処理されていながら、視覚的にははるか遠くの深いところに吸い寄せられる、という相反する現象が起こっているのです。
 ラファエロは決してダ・ヴィンチミケランジェロに見られるような天才ではありませんでした。しかし、彼には、生き生きとした空間表現...空間構成の才覚があったのです。ダ・ヴィンチのように空間のあいまいさと暗さを感じることができなかった代わりに、ラファエロには凡庸だからこその広々とした空間、神の秩序と宇宙の整合性と歴史的時間の感覚を同時に統合するちからが備わっていたのです。
 この作品では、学問の多方面にわたる成果を示すため、個々の人物の動作、それを取り巻く群衆の反応が描かれています。階段に身を横たえ、教会の物乞いさながらの姿なのはキュニコス派のディオゲネス、階段下ではユークリッドがコンパスを使って幾何学的な形を計っていますし、その背後にはゾロアスターの姿も見えます。
 また、面白いのは、中央のプラトンはダ・ヴィンチ、ヘラクレイトスおよびアリストテレスはミケランジェロ、ユークリッドはブラマンテの肖像であるらしいことです。また、右端にいる若者がこの作品の共同制作者だったソドマ、そして黒いベレーをかぶってこちらを見つめているのは、お約束...と言ってもよいラファエロ自身なのです。中央の中心人物にルネサンスの二大巨匠、自分自身を「幾何学」のグループに配したこのフレスコの大作は、あまりにもルネサンス的な世界図と言えます。
 「歴史の詩人」と言われたラファエロは、古典主義のすべての知識を使い尽くし、またその不可避の危機のなかに37歳の若さで燃え尽きていった芸術家です。ラファエロの死とともにルネサンスも死んだと言われていますが、古典主義の絶頂とその危機の中に、使い古されたルネサンスをしっかりと体験していったラファエロの人生は、偉大なように見えて、実はやはり歴史を決定的に動かし得るものではなかったのかも知れません。


 

キリストの変容

ラファエロ・サンティ

ヴァチカン美術館 ヴァチカン

 1517年ナルポンヌ大聖堂の祭壇に掲げるべく、ナルポンヌ司教の枢機卿ジュリオ・デ・メディチより依頼され、制作された祭壇画『キリストの変容』。しかし完成後、実際に置かれたのはローマのサン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂であった。主題はキリストが天から声を聞き、自分が神であることを示す場面≪キリストの変容≫で、本作は主題に添った上部の場面と、下部の悪魔に取り憑かれた少年の治癒物語の場面の2場面構成となっているが、下部の民衆がキリストを指し示すことによって、この奇蹟の場面を一枚の画面に結び付けている。

 またラファエロの死により、本作が画家の遺作となった。弟子を率いてガリヤラのタボール山に登り、キリストが丘の上に立ったとき、身体が輝きを発し上空に浮かび、両脇からモーセとエリヤ(旧約聖書に出てくる人物)が現れ、天から「これは我が子(神の子)なり」と告げられた。新約聖書に記されるその劇的な一場面を、画家は鮮やかな色彩と巧みな構図で描いた。そしてその下では己が神であることを示したキリストを目の当たりにし、地上にひれ伏す弟子(聖ペテロ、聖ヤコブ、聖ヨハネの三人)が描かれている。また悪魔に取り憑かれた少年を表す画面下部は、ラファエロの死後、弟子であったジュリオ・ロマーノの手により描かれ完成されたと考えられていたが、本作の修復をおこなう過程で、ほぼラファエロの直筆であったことが判明した。


 

美しき女庭師
(聖母子と幼き洗礼者ヨハネ)

ラファエロ・サンティ

ルーヴル美術館 パリ、フランス

 おさな児イエスは母の手に支えられながら、あんよを始めようとしています。そのイエスに手を添えながら「はい、がんばって」と声をかけているようなマリアは、まだごく若いお母さん・・・という感じで、頬がふっくらした様子も、まだ十代の女の子のようです。聖書の中のマリアも若いわけですから、これで本当だとは思うのですが、「聖母」というと、どうしても理想的で完璧なおとなの女性を思い浮かべてしまう習慣がついているのか、こんなにはつらつとした聖母を見ると新鮮な感動をおぼえます。そのせいか、この作品からは受難の共感や苦悩といったものは感じられず、あくまでも元気で美しい母親とちょっと頭の良さそうな男の子が描かれている・・・というイメージなのです。
 ラファエロは、ダ・ヴィンチミケランジェロといった巨匠たちが、その生涯を費やして探求した結果をいとも易々と吸収し、みごとに自らの才能の発現として作品にしてしまいます。夭折の画家ラファエロは、そういう意味の、受け入れる力を惜しまない天才であったような気がしてなりません。ラファエロの描くマドンナが、いつも澄明で甘美で決してこちらを裏切ることなく美しいのは、そんな彼の翳りのない心から生まれてきているからではないのでしょうか。
 この作品の中でマリアとイエスは、その信頼関係を表すように見つめ合っています。考えてみると、これほどまっすぐ見つめ合っている聖母子像は、なかなか他には見当たらない気がします。この率直さが「庭師の聖母」の変わらぬ人気の秘密なのだと思います。


 

東方三賢王の礼拝

デューラー

ウフィッツィ美術館 フィレンツェ、イタリア

 「マタイ伝」2章の、東方三賢人の物語を描いた作品です。東方からベツレヘムまで、星に導かれてキリストの誕生を祝うためにやって来た三賢人。タイトルの「マギ」はペルシアの僧侶階級のことで、ここでは賢者にして王のことを言っているのだそうです。
 1494-95年にかけてのイタリア旅行の成果として生まれた作品で、旅行によって身につけたイタリア・ルネッサンス的なもの−たとえば、遠近法にもとづく三次元的な空間構成や生き生きとした色彩−がみごとに生かされています。前景から後景へかけての奥行きの深さといい、マギたちの衣装の鮮やかさといい、それはたしかに充分に生き生きとした大作だと思います。
 しかし、そのイタリア・ルネッサンスを吸収し過ぎたデューラーは、明晰・調和の合理主義に傾いてしまい、ドイツ的な無器用さ、劇的な内面性、独特の不思議な暗さのようなものをなくしてしまったのだという指摘があります。得るものが大きければ、失うものもまた大きい・・・ということでしょうか。ともあれ、イタリア・ルネッサンスの洗礼を受けたデューラーは、この後、伸び伸びと制作してゆくことになります。
 また、この作品の中で注目してしまうのは、マギたちの差し出す豪華で精巧な贈り物です。これは、デューラーの父親がニュルンベルクの金工であったこと、もともと故郷のニュルンベルクは、ゴシックの輝かしい金工芸術の一大中心地であったことが大きく影響していると思います。ニュルンベルクのすぐれた金工芸術の伝統が、そのまま三賢人の手からキリストへ贈られる様子を描くことに、デューラーは無上の歓びを感じていたのではないでしょうか。


 

アダムとイブ

デューラー

プラド美術館 マドリード、スペイン

 デューラーの制作した作品中、最も著名な作品のひとつ『アダムとエヴァ』。デューラーは、本作の3年前となる1504年にも同主題の版画を制作しているが、当時は男女を問わず単一的な人間美を表現しているにとどまった作品であったが、本作は二度目のヴェネツィア留学で学んだ、人体比例の研究で得た男女の違いに合った調和的な様式美理論の成果がよく表現されているのと同時に、それはデューラーが独自に築き上げたの理想美を描いたものでもあった。

 版画は画家の古典的比例研究の頂点を、絵画は画家の創造力と探求心によって生み出した理想的比例研究の頂点を示す作品として、画家を考察する上でも特に重要な作品となった。本作の主題は天地創造の六日目に、神が自らの姿に似せ、地上の塵から最初の男性≪アダム≫を創造し、≪アダム≫の肋骨から最初の女性≪エヴァ≫を創造した、神によって創造された最初の男女で、ヘブライ語で人間を意味している。またアダムとエヴァが手にしているのは禁断の木の実である≪知恵の実≫で、旧約聖書では(本作中)エヴァの横に描かれる禁断の木に這う蛇の誘惑によってアダムとエヴァが知恵の実を口にし、父なる神の怒りに触れ、楽園を追放させられたとされている。


 

ヴィーナスとアモル

クラナッハ

エルミタージュ美術館 サンクト・ペテルブルク、ロシア

 ルーカス・クラナッハ(1472〜1553)はデューラー、ホルバインとともにドイツ16世紀絵画を代表する三大画家の一人です。
ルーカス・クラナッハ。1472年ドイツ生まれ。宗教改革で有名なマルティン・ルターと同郷、同時代の人である。実際、ルターとは親交もあって、肖像画も何枚か描いている。

痩身で胸が小さく、腹部がポッコリと出て長めの胴を微妙にくねらせた肢体がクラナッハの特徴だ。細身で胸の小さなプロポーションはデューラーなど同時代の北方の画家にも見られるが、クラナッハのものはそれが徹底していて、独特だ。


 

「最後の審判」「天地創造」

ミケランジェロ

システィーナ礼拝堂 ヴァティカン

 ヴァティカン宮殿内の、教皇専属の礼拝堂として構想されたシスティーナ礼拝堂は、15世紀後半の教皇シクストゥス4世によって建造されました。そして内部の装飾はシクストゥス4世以後、ユリウス2世パウルス3世らによって進められ、旧約・新約聖書にわたるキリスト教美術を代表する大壁画群となっていったのです。天井画には旧約の「創世記」を中心として周囲に預言者や巫女が配され、さらに三角弧壁面にイスラエルの民の救済物語、半円区画にはキリストの祖先たちが描かれています。その下の側壁には旧約のモーセと新約のキリストの物語、そしてこの力強い「最後の審判」で完結に至ります。
 「神のごとき人」という形容を与えられたミケランジェロは、1508年から4年かけて、天井に「創世記」を描いています。足場の上でひたすら天井を見上げ、落ちてくる絵の具を顔面で受けながらの制作は、30代のミケランジェロをすっかり老人にしてしまったと言います。ですから、「最後の審判」の依頼を受けたときは60歳過ぎ....彫刻作品に専念したい意向もあって、最初は辞退しています。しかし、結果的に引き受けざるを得なくなり、それが彼の最高傑作と謳われることとなるのです。
 ミケランジェロ自身の好みもあったと思いますが、中央のキリストは、それまで多くの画家が描いてきたキリストとはかけ離れた、若々しく逞しい風貌と肉体を持った、非常に動的な人物として表現されています。そのキリストを起点として、向かって右側の地獄に墜ちる人々と左側の天国に昇る人々とが、ダイナミックで宇宙的な円環を描いています。
 最後の審判が下される日、キリストの再臨とともに死者たちもこぞって蘇生し、生きている者たちと最終的な審判を受け、天国と地獄に容赦なく振り分けられるのです。マタイ福音書には「人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えてくるとき、彼はその栄光の座につくであろう。そしてすべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊を振り分けるように彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置くであろう」とあり、まさに今ここに、キリストの言葉が実現されているというわけなのです。
 ところで、聖母を除くかなりの人物が、描かれた当初、一糸まとわぬ全裸で描かれていました。しかし、これを神を汚すものだと批判する声に配慮した16世紀の教皇パウルス4世は、時代の趨勢もあり、腰布を描き加えるようにと命じたのです。それはミケランジェロの死の直前でもありました。「修正」を命じられたのは、当時の一流画家だったダニエーレ・ダボルテッラであり、キリスト、ペテロ、洗礼者ヨハネなどの局部に腰布が加筆されました。このあと、17、18世紀にも次々と描き加えられていき、原画では裸体だった人物たちが皆、衣服や腰布を着けることになってしまったのです。最終的には、その数が200人にもおよんだと言われています。


 

聖家族

ミケランジェロ

ウフィッツィ美術館 フィレンツェ、イタリア

 ミケランジェロといえば、まず思い出すのが何と言ってもシスティーナ礼拝堂天井画の「アダム創造」なのですが、この作品のマリアは、そのアダムにひけをとらないほどのたくましい女性です。筋骨隆々のマリアなんて、え、うそ・・・という感じですが・・・。この時代のマドンナといえば、長い青のマントで身を包み、そっとつつましやかにたたずんでいるのが一般的なのに、このマリアはまさしく陽気なイタリア女!・・・というイメージです。
 一応、衣装はそれらしくしていますが、まるでボディビルのコンテストに出る前みたいに袖を肩までたくし上げ、後ろから肩越しに幼いイエスを受け取ろうとしています。イエスも従順な幼な児ではなく、まるでそれに逆らうようにマリアの頭を両手で押さえつけていて、なかなかきかん坊そうです。一人だけ、やけに年とったヨセフがちょっと困惑しながらイエスをマリアに渡そうとしているのも面白い光景だと思います。
 後ろにいる若者たちがギリシャ彫刻を思わせるところから、ここは旧約聖書の世界なのではなく、ルネッサンス第3段階の、自由意志の発露が形となった世界で、それがこうした「聖家族」となったのかも知れません。どちらにしろ、健康で生活感のある聖母子もいいものです。


 

アレクサンドロス大王の戦い

アルトドルファー

アルテ・ピナコテーク ミュンヘン、ドイツ

 この作品を見たとき、誰もが同じ感想を抱くのではないでしょうか。本当にこれは、一人の画家が描いたものだろうか....と。紀元前4世紀後半ころになると、大国ペルシアも次第に弱体化し、その一方、マケドニアが強大なちからを持つようになります。そのマケドニアのアレクサンドロス大王は、333年にペルシアのダレイオス三世を撃破し、その後ペルセポリスを陥落させてペルシア帝国を滅ぼし、古代オリエントの時代は幕をおろします。
 そのイッソスの戦いを描いたのがこの『アレクサンドロス大王の戦い』です。アレクサンドロス大王は東征し、シリアのイソス河のあたりでペルシアの大軍と衝突しますが、やがて配色濃いペルシア軍は徐々に敗走を始めます。画面のなかに、これでもかと渦巻く大軍は、見ているうちにクラクラしてきそうですが、なおも目をこらすと、両軍の兵士たちの一人一人、馬の一頭一頭が実に緻密に、細やかに、かつ整然と描きこまれているのがわかります。その中央を、三頭立ての馬車に乗って逃げるダレイオス三世と槍を持って追走するアレクサンドロスの姿も見えて、いかにも物語的で、優雅と言ってもいいような歴史画となっています。
 そして、目を徐々に遠方にうつしたとき、そこに広がる空間表現、風景表現の展開に、再び新たなめまいを感じてしまうのです。壮大とか幻想的とか、さまざまな言い方で賞賛されるのですが、これはそれを超えている気がします。言うなれば、これは宇宙の始まり...すべての混沌が少しずつ形を成そうとする、その過程のときではないかと思ってしまうのです。
 アルトドルファーは、16世紀にドナウ河沿岸に展開したドナウ派最大の画家であり、人物と自然の風景を融合させて、それを劇的に表現した風景画の開拓者とも言える人物です。ドナウ河畔の深い針葉樹の森を細密に幻想的に描く彼の自然観に支えられた空は、森も建物も人も、また闘争さえも、すべて呑み込んでしまうほどに果てしなく広大で、限りなく宇宙的なのです。


 

天上の愛と地上の愛

ティツィアーノ

ボルゲーゼ美術館 ローマ、イタリア

 左に着衣の美女、右に裸の美女、そして真ん中にアモル(キューピッド)が配された不思議な作品です。そのため、古くから「天真の美と装いの美」、「三つの愛」、「神聖な女と俗なる女」など、さまざまに呼ばれており、「聖愛と俗愛」の呼称は18世紀末に定着したと言われています。主題についてもさまざまな解釈があるのですが、一般的に、左の着衣の女性が世俗のヴィーナス、右の裸の女性が天上のヴィーナスとみなされます。
 二人のヴィーナスが二種類の愛を表わすという思想は、15世紀フィレンツェの人文主義者たちによるものでした。「世俗のヴィーナス」は物質界に見出される美、および生殖力の根源を意味し、「天上のヴィーナス」は、神聖で永遠なるものから生ずる愛を象徴すると考えられたのです。しかし、突き詰めるところ、二人のヴィーナスはどちらも美徳を表わしたもので、「世俗のヴィーナス」は「天上のヴィーナス」へと向上していく、その過程の段階にある存在とされています。ですから、「天上のヴィーナス」は裸体で、聖なる愛の炎の燃える壺を持ち、愛の情熱を示唆する深紅の衣を身にまとっているのです。ちなみに、ルネサンスの人々にとって、裸体は清純、潔白を意味するものでした。
 ところで、この作品は、ヴェネツィアの貴族ニッコロ・アウレリオの注文で制作されたものです。画面中央の石棺と、その上の銀製の鉢に表わされた紋章がニッコロ・アウレリオのものであることから、彼と花嫁のラウラ・バガロットの結婚記念画であることが、近年、確実視されるようになりました。おそらく、左の女性がラウラなのでしょう。「貞潔」を意味する白い服を身に付け、手袋をはめた左手を貞潔のシンボルである「閉ざされた器」にかけ、しかも右手には結婚の象徴とされるミルテの花を携えているのですから、間違いありません。敢えてこちらを向いているあたりも、これが肖像画であることが十分にうかがえます。
 この作品は、ティツィアーノの初期の代表的な傑作と言われています。アルプス山麓の小村に生まれ、9歳のときにヴェネツィアのモザイク画家に師事して以来、ジョヴァンニ・ベッリーニ、ジョルジョーネらの工房で活躍し、やがてフェラーラ、マントヴァ、ウルビーノの宮廷と関係を結び、さらに1530年以降は神聖ローマ皇帝カール5世の愛顧を受けて、画家は活躍の場を広げていきます。そんな揺るぎないヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノの、まだ25歳の頃のみずみずしく鮮やかな、光と色彩と喜びに満ちた寓話の世界です。


 

ウルビーノのヴィーナス

ティツィアーノ

ウフィッツィ美術館 フィレンツェ、イタリア

 寝室のベッドに横たわり、画面の中から誘惑するような視線を投げかける美女は、のちのウルビーノ公、グイドバルド・デラ・ローヴェレの妻ではないかと言われています。そして、この作品の注文主も、もちろんグイドバルド本人であると思われます。
 しかし、この作品は、それ自体がすでに謎めいています。ヴィーナスの周りに描き込まれたものたちには、どんな関連性があるのでしょうか。ヴィーナスの足元で丸くなってうずくまる子犬は、忠誠の象徴とされています。そして、窓辺には、日本名を銀梅花(ぎんばいか)というミルテの鉢が置かれています。この花は花嫁のブーケに添えられるなど、結婚の象徴とされているのです。さらに部屋の奥では、二人の侍女が衣装を長びつにしまっている様子を見てとることができます。そのあたりから、この作品が結婚の記念画であることがわかります。当時、ヴィーナスは、結婚の守護神とされていました。そのため、ヴィーナスの右手からは、愛の象徴である赤い薔薇があふれているのです。

 ところで、ヴィーナスのポーズのイメージは、その25年前に描かれたジョルジョーネ「眠れるヴィーナス」がもととなっているのです。ティツィアーノは若いころ、ヴェネツィア絵画の巨匠ジョルジョーネの工房で修業をした経験をもち、師の協力者として制作していたため、ジョルジョーネの死後、「眠れるヴィーナス」にも加筆して完成させていました。
 ただ、ジョルジョーネ作品と大きく違うのが、ヴィーナスの官能性です。「眠れるヴィーナス」の瞑想的で静かな雰囲気は、ヴェネツィア貴族の贅沢な寝室、挑発的な視線によって、全く趣きの違うものにとって変わっています。ほぼ同じポーズながら、ティツィアーノは、現実的で魅力あふれる生身のヴィーナスを描いたのです。
 ヴェネツィア派最大の画家とうたわれ、生涯、画家としての進化を続けたティツィアーノは、当初、ジョルジョーネ風であった様式から、がらりと方向を変えて、その作風を展開するようになります。それは、ティツィアーノの肖像画などに見られた強い生命力に通じるものだったかもしれません。このころ、妻の死をきっかけに、色彩はだいぶ沈んだものになっていましたが、その分、作品には現実感と日常性が増していったように思われます。


 

ヴィーナスとオルガン奏者とキューピット

ティツィアーノ

プラド美術館 マドリード、スペイン

 ティツィアーノ制作によるヴィーナスを主題とした代表的な作品のひとつ『ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド』。伝統的にアウクスブルグでスペイン国王カール5世のために手がけられたとされる本作に描かれるのは、巨匠ジョルジョーネの傑作『眠れるヴィーナス』から始まり、本作同様ティツィアーノ随一の代表作『ウルビーノのヴィーナス』に続いた、所謂≪横たわる天上のヴィーナス像≫を主題とした作品の一例であるが、その解釈には様々な説が唱えられている。純粋に官能を追求した快楽的作品であると解釈する研究者も少なくないものの、その一方では新プラトン主義に基づく高度な寓意が示されるとの説を唱える研究者も多く、その説によればカール5世と解釈される音楽を奏でるオルガン奏者は、愛の神キューピッドを見つめる美の女神ヴィーナスとの間の絆を感じつつ、決して交わることなくプラトニックな関係を保っている。これは当時の人文学書『愛の本質の書』中「崇高なる天上の愛はプラトニックであり音楽によって愛撫される」に基づいていると考えられてる。また背景の抱擁し合う男女や牡鹿、牝鹿、孔雀などは至高の美と高ぶる愛と性を表現しているとされ、世俗と天上の愛の本質の差異と、そこに起こる葛藤をティツィアーノの類稀な表現によって画面内に示したと考えられる。なおベルリン美術館やメトロポリタン美術館などに『ヴィーナスとオルガン奏者(又はリュート奏者)』のヴァリアントが所蔵される他、本作の少し後に描かれた同系の作品『音楽にくつろぐヴィーナス』が同プラド美術館に所蔵されている。


 

悔悛するマグダラのマリア

ティツィアーノ

エルミタージュ美術館 サンクト・ペテルブルク、ロシア

 


 

使徒の足を洗うキリスト

ティントレット

プラド美術館 マドリード、スペイン

 戸惑う弟子たちに、「もし、わたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何の関わり合いもなくなる」と言ってイエスが使徒の足を洗ったあとで、最後の晩餐へとつながるこの作品の舞台は、奥に流れる水路から見て、エルサレムではなくヴェネツィアなのだとわかります。
 テーブルの上にはパンが一つ、そして杯が一つ置かれています。最後の晩餐は、まだ始まっていません。そして、ちょっと眼につきにくいのですが、右の奥の階段の向こうには別室が見えます。そこでは、テーブルに向かったイエスが使徒たちを祝福しているようです。画家は、最後の晩餐の場面をここに描いているわけです。

 この作品のテーマである「使徒の足を洗うキリスト」は、意外なことに、画面の右端に寄せて描かれています。イエスがペテロの足を洗っている場面ですが、当時の人々もこの構成にはちょっと驚いたようです。弟子の一人が水差しを差し出しています。ペテロは手を上げてイエスを見つめ、腕まくりをしたイエスはひざまずき、足を置くべき場所を示しています。
 反対側では、別の使徒が履き物を脱ごうとしています。おそらく、ペテロの次に儀式を受ける弟子なのでしょう。この人物たちとイエスが、作品の枠となっています。そして、中央に座った犬は、一見、関係のない存在のように見えますが、作品をより自然に見せるために描かれたのだろうと言われています。そして、やや右奥には、すでに儀式を終えた別の弟子が靴を履き直す様子が描かれています。
 ちょっと見たところ、テーブルについた弟子たちは、ばらばらに配置されているように見えます。しかし、彼らの視線と行動は周囲と結びつき、自然な流れを示しています。腰掛けた弟子は靴を履く弟子を見つめ、その向こうの二人は会話を交わしています。靴を脱ぐのを手伝っている様子を興味深そうに眺めている弟子もいれば、左の柱の前で祈りを捧げる者もいます。
 ティントレットは、鑑賞者自身が人物たちの動きを次々に目で追っていけるように工夫しているようです。さらに、その奥の柱の陰には12人目の弟子が隠れるように立っています。晩餐の後に、イエスを裏切ってその場を去っていったユダなのです。

 ところで、奥行きを際立たせるために、画家は直線的な遠近法だけでなく、色と輪郭をぼかす空間的な遠近法も用いています。この色遣いによって、テーブルの下に見られるような特別な効果が得られるのです。また、作品の中には、三つの光が使われています。一つは、イエスを横から照らす光。もう一つは、天井からテーブルを照らす光。そして、町を冷たく照らす光です。この光によって、町は全く別の空間のように演出されるのです。
 ところで、画面右側にイエスを配した理由は、この絵がもともと置かれていたサン・マルクオーラ聖堂の内部の構成が大きく関係していたのです。鑑賞者は、右側から絵を見る格好になったようです。画家は、それを利用しようと考えたのかもしれません。右から見ることによって、絵の中の人物と人物の間隔がぐっと狭まり、見る者に舞台上の出来事のような臨場感を与えるという効果が生まれたのです。作品の斜め右から、もう一度、この偉大な絵画を見つめ直してみてください。ティントレットの細やかな意図が実感できるのではないでしょうか。


 

バベルの塔

ピーテル・ブリューゲル

美術史美術館 ウィーン、オーストリー

 大洪水で、ノアとその子らがアララト山にたどり着いた後、人間たちは繁栄の時期を迎えました。東方から移動してきた人々は、そこで天まで届く巨大な塔の建設を夢見て大工事を始めたのです。それは、一つの言葉でつながった一つの民が各地に散り散りになってしまうことを恐れたためでした。
 ところが、いよいよ完成に近づいたとき、神が天から降りてきて、呟きます。「彼らが一つの民で、一つの言葉を話しているから、このようなことを企てたのだ。直ちに彼らの話す言葉を混乱させ、互いの言っていることが聞き分けられないようにしてしまおう」。そのため、人間たちは突然意思の疎通ができなくなって混乱をきたし、やがて散り散りばらばらに全世界に散ってしまったのです。こうして、巨大な都市の建設は放棄され、あとに残ったのはバベル(混乱)と呼ばれる建設途上の塔だけでした。

 この作品の中には、工事に使用される大掛かりな道具類、足場を渡して作業する人々などが非常に克明に、生き生きと描かれているのですが、そのインスピレーションのもととなっているのが、1552年から55年ごろまでの長期にわたるイタリア旅行ではないかと言われています。ローマで見たコロッセウムは、聖ルカ組合に登録され、親方になったばかりのブリューゲルのみずみずしい感性に大きな衝撃を与え、この完成不可能と思わせる巨大建造物を描かせたのかもしれません。
 また、ここで注目したいのは、非常に絶望的で教訓的な主題を描きながら、画面が不思議にカラッと明るく、小さく描き込まれた人々がユーモラスでさえあるという点です。彼らはそれぞれに一生懸命生きており、王の意向や、もしかしたら神様の意向すら意に介していないかもしれません。ブリューゲルは、しばしば友人と連れ立って農村に出かけ、縁日や結婚式に紛れ込み、自らも十分に楽しみながら、人々の様子を観察することも多かったと伝えられています。そんな彼の庶民への温かい眼差しが、どんな境遇の中でも生き抜く強さと明るさを持った名もない人々を描く源泉となっており、重々しいはずの伝統的な宗教主題までも、庶民のパワーあふれる、何やら明るい画面に変えてしまっているのかもしれません。 

 ところで、この塔は架空のものではなく、古代メソポタミア文明の中心地、ユーフラテス河畔に建設されたバビロンの町を指していると言われています。画面左下で白いマントを羽織り、労働者たちに命令をしているのは、伝説的なバビロンの征服者であり、塔の建設を監督したニムロデ王なのでしょう。その背後の巨大で不安定な塔は、随所に矛盾と倒壊の危険を抱え微妙な傾きをもって、永遠に完成することのない運命とともに、そびえ立っているのです。


 

雪中の狩人

ピーテル・ブリューゲル

美術史美術館 ウィーン、オーストリー

 雪の中での猟を終えた猟師たちが、いま猟犬を連れて家路に着こうとしています。ピン・・・と張った空気、静かな雪景色の中で、空を舞う一羽の鳥がその澄明な雰囲気を象徴しているようです。ザクザクと猟師たちが雪を踏む音と犬たちの鳴き声だけが聞こえて、あとは雪の硬質な白さが胸に迫ります。
 くっきりと黒い木の輪郭が美しく、その向こうには生活の火が燃えています。冬の農民たちの生活が、この閉ざされた雪の世界でも、きちんと営まれているのです。
遠景には荷車を引く人や忙しげに働く人々、また、遊び回る子供たちも見られ、冷たい雪の白さとは対照的に、人々の存在が暖かく、幸せな気持ちにしてくれます。こんなところに画家のやさしい眼差しがあふれているような気がします。
ところで、ピーテル・ブリューゲルは、16世紀フランドル絵画を代表する画家です。
幻想的な作品が多く、「イカロスの堕落のある風景」「バベルの塔」などが知られていますが、後年は農民の生活を題材にしたものを多く描いています。
農民たちの日常の風俗、四季の自然をきびしく、またユーモアを交えて詩情豊かに表現したものが多いのですが、この作品もまた、きびしい自然とその中でたくましく生きる人々の姿が、張りつめた空気の中に共存する美しい秀作です。


 

カナの婚礼

ヴェロネーゼ

ルーヴル美術館 パリ、フランス

 聖書には、ガリラヤのカナの村で行われた婚礼に、イエスと聖母マリア、そして何人かの使徒たちが招かれたと記されています。ところが宴の途中、ぶどう酒が足りなくなってしまいます。これは、新郎にとって恥ずかしいことです。それに気づいたマリアがそっとイエスに伝えると、イエスは六つの大きな石がめに水を入れて宴会の世話役のところへ持っていくように、と召使いに指示しました。世話役が、何も知らずにそれを飲むと、水はいつの間にか上等なぶどう酒に変わっていたのです。彼は思わず感嘆の声を上げました。「だれでも一番よいぶどう酒を最初に出すものだが、ここでは最後に出されたものが一番素晴らしい」。これはイエスによる最初の奇跡であり、この出来事によって、使徒たちは本当にイエスを信じるようになるのです。

 ヴェロネーゼはこの奇跡の物語を借りて、当時のヴェネツィアの街の裕福さを伝えようとしているようです。16世紀のヴェネツィアは、地中海貿易を通じて巨大な富を蓄積した、商業と航海の非常に盛んな街でした。中世後期には、イタリアで最も強力な国家になっていたのです。テーブルの上に並ぶ豪華な食事からも、その裕福さは伝わってきます。当時のヴェネツィアは、ヨーロッパで最先端の文化を誇っていたのです。ヴェネツィアングラスに金銀の皿と高価な食器が並ぶなか、向かって左奥の婦人は、なんと金のツマヨウジを使っているようです。婚礼の舞台は、まさに当時のヴェネツィア社会が夢見た理想世界です。伝統的な美しい宮殿、そして鐘楼とバルコニー、その向こうには晴れ晴れとした青い空、そして白い雲が続いているのです。

 作品の中には、画面向かって左端には国王フランソワ1世ヴィットリア・コロンナカール5世など、当時の実在の著名人が描き込まれているのです。さらに興味深いのは、前景中央で音楽を奏でる楽士たちにはティツィアーノティントレットなど、ルネサンスの偉大な画家たちを当てていることです。中でも、テノールビオラを演奏する白い服の人物は画家自身だと言われています。このように画家を音楽家として描くことで、ヴェロネーゼは絵画を音楽と同格に表そうとしたと思われます。ルネサンスの時代、音楽は数学に近い学問として高く評価されていたからなのです。このように高いプライドを持ったパオロ・ヴェロネーゼは、ティントレットと並んでティツィアーノ以後の美術界を支配したヴェネツィア・ルネサンス最大の画家の一人でした。


 

オルガス伯爵の埋葬

エル・グレコ

サント・トメ聖堂 トレド、スペイン

 天にも地にも人々が満ちて、息苦しいほどです。ちょっと見たとき、厳粛な埋葬の場面とはわからないかもしれません。これはエル・グレコ最大、460×360pの、非常にモニュメンタルな大作です。
 絵の下半分には地上の世界、上半分には天上の世界が広がっています。美しい金髪の天使が真ん中に描かれ、二つの世界をつなぐ役目をしています。抱えられているのは、生まれたばかりの赤ん坊の姿をした死者の魂です。当時は、天国へ向かう死者の魂が、このように導かれると考えられていたようです。

 オルガス伯はトレドにあるサント・トメ聖堂の保護者であり、熱心な信者でした。タイトルには「伯爵」とされていますが、彼が伯爵となったのは実は後のことで、当時の彼はオルガスの町長であり、名前はゴンサロ・ルイスといいました。今まさに埋葬されようとするオルガス伯は、武器づくりが盛んなトレドの町で作られた鎧を身にまとっています。
 1323年、伯爵の葬儀が行われたとき、聖アウグスティヌスと聖ステファヌスが出現するという奇蹟が起こったと言われています。遺体を支える二人が、まさに聖人の幻視なのです。聖アウグスティヌスは偉大な神学者です。司教の冠を被った見事な髭の老人であることから、それとわかります。そして、聖ステファヌスは、ミサの手助けをする助祭の姿で足のほうを支えています。外衣の裾に刺繍された絵が、彼が投石の刑で虐殺された最初の殉教者であることを示しています。
 ところで、指を差して二人を紹介する不思議な少年は、グレコの息子、ホルヘ・マヌエルと言われています。彼のポケットからのぞくハンカチには「ドメニコ・テオトコプーロス」とグレコの本名がサインされ、息子の生まれた年「1578年」の文字も刻まれています。

 この作品の依頼主は、サント・トメ教会の司祭、アンドレス・ヌニュスでした。典礼を読んでいるのが彼ではないかと思われます。司祭の横では、助手である聖職者が両手を広げ、天を見上げています。もう一人の助手の持つ、長い杖の先の磔刑像が、金髪の天使とともに天と地をつなぐ役割を果たしているのです。
 天上では、聖母マリアと洗礼者ヨハネ、そしてキリストが三角形を形づくっています。聖母はその目を地上に、聖ヨハネは上を見上げています。聖母は罪深い人々をも天上へととりなす、慈愛の存在なのです。聖ヨハネの右側には聖パウロフェリペ2世聖トマスの姿があります。当時のスペイン国王が聖人とともに坐しているのには、わけがあります。グレコは宮廷画家にこそなりませんでしたが、国王への感謝と深い尊敬の念を忘れることはなかったのです。フェリペ2世はプロテスタントに対抗するため、キリスト教徒の結束に力を注いだ人物でした。
 聖母の横には、天国の鍵を手にした聖ペテロが姿を見せ、その下の雲の上には旧約聖書の登場人物たちが描かれています。天上の音楽家としてハープを弾くのはダヴィデ十戒の石板を手にするのはモーゼ、そして箱船に手を掛けているのはノアのようです。なんと豪華な顔ぶれでしょう。彼らは、後年のグレコの顕著な特徴である、長く引き伸ばされた姿でキリストとマリアを見つめているのです。
 ここで地上に目を移すと、実はここがオルガス伯が亡くなってから200年後の世界であることに気づきます。つまり、画家が生きた時代の16世紀の人々が参列者たちなのです。例えば、ホルヘ・マヌエルの後方に立つ修道士はフランシスコ会の僧、胸に赤い十字架をつけた三人はサンティアゴ修道会の騎士たちです。白い髭をたくわえているのは、グレコの親友であった人道主義の司祭、アントニオ・デ・コバルピアス、そしてなんと、後列左から6人目に、グレコ本人も顔を見せているのです。画中からこちらを見つめているのは、画家とその息子ホルヘだけです。その視線は時を超えて、鑑賞者にまっすぐに向けられ続けています。
 トレドで成功を収めたグレコは、終生、敬虔なカトリック教徒でした。自らを受け容れてくれたトレドにおける、天上の栄光と地上の信仰を、中世の奇蹟の物語を借りてモニュメンタルに描き残したかったに違いありません。この絵は現在に至るまで、サント・トメ聖堂にあるオルガス伯の本物のお墓の上に掲げられています。絵の中のオルガス伯の遺体は、そのまま実際の墓の中に埋葬されていくように見えます。まるで、絵画から現実へと導く、画家のイリュージョンのようです。


 

聖三位一体

エル・グレコ

プラド美術館 マドリード、スペイン

 この作品は、トレドの由緒あるシトー会女子修道院の付属聖堂にある祭壇画の9点からなる作品群のうちの1点です。この聖堂は、ポルトガル皇女イサベルの元女官で尼僧マリア・デ・シルバの霊を祀るために、彼女の遺産で建造された墓廟礼拝堂なのです。そのため、9点の作品はすべて創造者の死にちなみ、「救済の道」を示す主題が選ばれています。その中の1点である「聖三位一体」は、本当にめずらしいことに、神様のお顔をじっくりと拝見することができるのです。
 十字架上で人類の罪を償い、永遠のもとにもどった神の子イエスの傷つき、力尽きた身体を、その父なる神が膝の上に抱きかかえています。悲しそうな、また心を痛めた表情は聖母のような慈愛に満ちて、わが子を苦しめてしまった自らを責めてでもいるかのように見えます。そして周囲は黄金色にパーッと輝いて光に包まれる中、精霊の鳩の下のたくさんの天使たちが左右から寄り添い、悲しみの表情を浮かべています。「わが子よ、もう安らかになった」と声をかけている様子の神様がすっかりオトーサンしてしまっているのも驚きですが、この作品の色彩の美しさにも目を奪われてしまいます。
 この作品でグレコは、ヴェネツェア派の豊潤な寒色系の色彩を採用していると言われています。父なる神の黄色とブルーの衣装、またその左右の天使たちの赤に近いピンクやグリーン、紫の衣装のみずみずしさは、他のグレコの作品にもなかなか見当たりません。神様の頭上の不思議な形をした冠の淡いピンク色も美しく、これは本当に悲痛なシーンであるにもかかわらず、鮮やかな明るさにあふれているのです。イエスがすでに雲の上に引き上げられているのは、「最後の審判」により悪しき人々は地上から一掃され、善き人々が天上に召し上げられることの暗示であると思われます。
 このように美しいグレコの代表作は、しかし、薄暗い聖堂や修道院の祭壇の奥深くに飾られていたこともあって、長く人々の記憶から忘れ去られていました。でも、今こうしてその色彩の美しさを再認識させられると、そして、この鮮やかさが長い間闇に封印されていたことを思うと、何やら秘密めいたときめきさえ感じてしまうのです。

マリさんのページより転載


 

トレド風景

エル・グレコ

メトロポリタン美術館 ニューヨーク、アメリカ

 グレコは、ギリシャのクレタ島に生まれ、その後、ヴェネツィアでティントレット、ローマでミケランジェロの影響を受け、スペインのトレドで活躍した画家でした。
 タホ河のめぐる岩山に造られたトレドはイスラム以来の古都であり、グレコにとって、その画業のほとんどを過ごした地でもあったわけです。画面中央やや左寄りに見えるアーチ型の橋が、タホ河を渡るアルカンタラ橋、ほかに城壁、大聖堂、アルカサール宮も見えます。
 しかし、彼にとって大切なトレドの風景でありながら、この作品はなんて恐ろしい風景画なのでしょうか。暗い空にただならぬ雲が立ち、遠くでひっきりなしに雷鳴がとどろいている・・・そんな雰囲気です。そして、建物には異常な光が反射して、その輪郭が気味悪く浮かび上がっています。おそらく、人々はおののき、これから何が起こるのだろう・・・と息をひそめて、ただ空を見上げているのではないでしょうか。
 もちろんグレコの絵は、人物の極端な長身化や様式化、非現実的空間表現等のマニエリスム的特徴が色濃いわけですが、それを風景画にも大胆な筆触で行なってしまっています。風景を引き伸ばし、ほとんど引き裂いてしまったようなこの作品は、絵自体が悲鳴を上げているような、鬼気迫るものがあります。今にも画面全体がグニャグニャと動き出し、何か全然違うものに変質してしまいそうです。
 グレコが、スペイン・キリスト教の神秘主義や安定した古典の全盛期を脱して変化しようとするこの時代の、最もすぐれた体現者であったと言われるのは、こうした表現力のせいだったのかも知れません。

マリさんのページより転載


 

聖母の死

カラヴァッジオ

ルーヴル美術館 パリ、フランス

 カラヴァッジョ作『聖母の死』。この画家の全作品において特に白眉の完成度を見せる本作の主題は、大天使ミカエルから自身の臨終を聖告され、今一度、息子イエスの弟子達に会いたいと願い、皆が雲に乗って集まった中、三日後にその時を迎えた場面≪聖母の死≫を描いたものであるが、本作では、それまでこの主題で描かれてきた象徴的な死を描いたものではなく、極めて現実的な死の場面をまざまざと描き、著しく品性に欠けるとして依頼主であるローマのサンタ・マリア・デラ・スカーラ聖堂から受け取りを拒否された逸話が残されている。

 臨終に服した聖母の身体は浮腫み血色は色褪せ、素足を晒している。現代では、この主題≪聖母の死≫の圧巻の迫力と劇的な描写や表現は数々の研究者より賞賛されているものの、このあまりにも現実を感じさせる死の表現は、当時の人々の感情と恐怖を煽り批難と嫌悪を募らせた。また受け取りを拒否された後、本作の隠された高尚な性格を見抜いたルーベンスの仲介によって、マントヴァのゴンザーガ家によって購入された来歴が残されている。


 

聖母被昇天

ルーベンス

アントワープ大聖堂 アントウェルペン、ベルギー

 

 聖母の被昇天(せいぼのひしょうてん)とはカトリック用語で、聖母マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという信仰、あるいはその出来事を記念する祝い日(8月15日)のこと。1950年、当時のローマ教皇ピウス12世によって正式に教義として宣言された。

 

 「フランダースの犬」のストーリーの中にはルーベンスの絵が紹介されています。
小説のあらすじです。

 『教会には、まだ見たことがないルーベンスの絵が2枚もあります。しかし、絵を見るには銀貨が必要なのだといいます。それをおじいさんに話すことは出来ません...。ネロはカーテンの前にただ立ち尽くすのみでした。そんなある日、荷物を町まで運んだ帰り、いつか雪道で助けてくれた婦人と出会います。婦人はネロが絵を描くのが好きだと知って、一緒に教会の絵を見ようと誘ってくれました。うれしさに震えるネロでしたが、約束の朝、おじいさんが突然の病に倒れてしまいます』 =中略=

 『今日はクリスマス。特別にルーベンスの二枚の絵が公開されていました。ネロはずっと見たかったルーベンスの絵を見た後、マリア様の絵の前で倒れてしまいます。そこにパトラッシュもやって来ます。やっと絵を見ることができた最高の幸福感を感じながら、ネロはその瞼を閉じます。そこにひとすじの光が差し込み、天(そら)から天使が舞い降りて来て、ネロとパトラッシュをジェハンじいさんやお母さんのいる遠いお国へといざなってくれるのでした… 大聖堂の鐘が鳴り響いていました…』

 舞台になっているゴシック様式教会ですが、1352年に建築が始まり、完成するまでに、169年の歳月を費やしているというから、気の遠くなる歳月です。その後も火事で増築が続けられたそうですが、資金難で最終的には南塔は完成しなかったと言われています。

 真っ先にネロ少年があれほど見たがったルーベンスの大作があるノートルダム教会へ行き、「十字架に架けられるキリスト」、「キリストの降架」、「聖母被昇天」、「キリストの復活」をじっくり見てきました。なかでも見る者に迫る人物描写の「キリストの降架」と明るくカラフルな「聖母被昇天」はいつまで見ていても飽きることがありません。感激です。100年前までは幕が掛けられていてこの絵を見たい人は特別に料金を支払わねばならなかったそうで、物語では貧しかったネロ少年は死の直前にこのルーベンスの絵を稲妻の光の中でやっと見ることができるのです。

 ベルギー最大のゴシック様式のこのノートルダム教会 (CATHEDRAL OF OUR LADY) の塔にはカリヨンがあって、美しい鐘の音色を聞かせてくれます。物語で絵のコンクールの発表−ネロ少年の絵は落選するのですが−が行なわれた市庁舎はこの教会のすぐ傍にあります。

 「フランダースの犬」は日本ではテレビアニメにもなったほどで、たいていの人はこどもの頃に読んだり紙芝居で見たりしたことがあるはずです。ところが、日本ではよく親しまれているこの児童文学が地元のアントワープではつい最近まで全く知られておらず、たまたま観光局を訪れた日本人旅行者の話がきっかけで地元の人々に知られるようになったというのは面白いです。市の観光案内のパンフレットには次の様に書かれています。

 ネロとパトラッシュの住んでいたホーボーケン村には市電で行けます。今では家の立ち並ぶ町になっていますが、ネロとパトラッシュの像、2人が遊んだ公園など観光コースができており、作家のマリールイーズの後を辿ることができます。


 

マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸

ルーベンス

ルーヴル美術館 パリ、フランス

 リューベンスのダイナミックで劇的な画法は、おもに教会や宮殿を飾りましたが、そのなかでもおそらく最も有名なものが、フィレンツェ生まれの皇太后マリー・ド・メディシスの生涯をたたえる一連の作品であると思われます。1612年の年末、リューベンスは前年、パリに完成したリュクサンブール宮殿に、ルイ13世の母である皇太后の生涯を壁画にしてほしいとの注文を受けるのです。全部で21図から成る大壁画は1625年2月までに全て引き渡されましたが、この作品はその一挿話、年若い王妃のマルセイユ上陸を描いたものです。
 実際には、特別に劇的な場面ではなかったはずです。それなのに、リューベンスの独創的才能のすべてが注ぎ込まれたようなこの作品のドラマチックな効果といったら...。天も海も大地も、光と色彩に輝き、王妃の無事な到着を祝っています。名声の女神ファーマは天高く舞い上がり、ニ本のラッパを吹き鳴らします。そして海神ポセイドンとその人魚たちも、海面にまで姿を現し、王妃に謁見すべく集まっています。

 ここは、あらゆるものが合流し、運動と感情、天と地それぞれが一体となった世界なのです。リューベンスの手から放たれたエネルギーは形から形へと飛び回り、烈風のごとく画面を吹き過ぎて、渦巻く動きの中に結集されてゆきます。そして、この作品を鑑賞する私たちは、この偉大な絵に出逢えてしまったことを本当に幸運だと感じるのです。ここには、夫アンリ4世が狂信的カトリック僧によって暗殺された後、息子のルイ13世の摂政となり、リュクサンブール宮殿を造営して、夫とは違う王権のイメージを生み出したみごとな王妃マリー・ド・メディシスの姿が威厳に満ち、美しく表現されているのです。
 リューベンスは、画家であり、デザイナーであり、学者であり、もちろん外交官でもあり、英国王チャールズ1世にナイトの称号を与えられた、人生においてまったく翳りのない、他に類を見ないほどに成功をおさめた人物です。初期の修行時代にはイタリアのマントヴァのゴンザーガ家に仕え、ミケランジェロとカラヴァッジオを研究し、ティツィアーノやヴェロネーゼからはヴェネツィア派の豊かな色彩を学び、当時の、おそらく最高の画家たちの影響を受けつつ、北ヨーロッパ随一の画家となっていきます。
 しかし一方、当時、各国の王室や貴族たちとの接触の多かったリューベンスの立場は、当代きっての画家ということもあり、秘密裡の交渉には非常に都合の良いものでもありました。そこで大公妃イサベラは彼を信頼し、外交上の重大な任務をしばしば任せることがありました。祖国を愛し、敬虔なカトリック信者だったリューベンスは、人々の幸福と平穏な生活を望み、喜んで和平工作に尽力していきました。そんな気概に燃える彼だからこそ、こうした高揚感に満ちた大作はもっとも得意とするところだったに違いありません。

マリさんのページより転載


 

アルカディアの羊飼いたち

ニコラ・プッサン

ルーヴル美術館 パリ、フランス

 羊飼いたちが墓碑の前で銘文を読み解こうとしています。そこには、ラテン語で「ET IN ARCADIA EGO(われアルカディアにもありき)」と刻まれています。「われ」とは即ち「死」のことであり、死がアルカディアにもあるということは、現実逃避の牧歌的な理想郷アルカディアも、死からの避難所ではないことを暗示しているのです。つまり、幸福のはかなさの表現というわけです。
 しかし、やがて「われ」を墓の中の死者と読み替えることで、「われも、かつてはアルカディアにあった」と解釈し、美しい昔を懐かしむ銘文だとする説が登場します。実際、18世紀になると、大勢はその解釈を継承し、この絵の主題は結局、失われた黄金時代や過ぎ去った若き日の恋など、永遠に取り戻せなくなったものたちへの懐旧の念だけとなってしまいました。ただ、この解釈は、もとのラテン語の文法からいけば、やや強引であると眉をひそめる向きもあったようです。

 17世紀、絶対王政の確立途上にあったフランスでは、積極的な文化政策と芸術庇護が推し進められていました。その中から生まれたのが厳正・明晰なフランス古典主義であり、ニコラ・プッサンは、まさにその精神を体現した画家だったと言えます。
 ノルマンディー地方の小村、レ・ザンドリーの名家に生まれ、その後、ローマに渡ってティツィアーノラファエロの影響を受けたプッサンは、1640年にルイ13世の国王主席画家として母国に招聘されました。そして、その簡潔、典雅で洗練された様式によって、フランス絵画界に全く新しい息吹をもたらしたのです。「絵は詩のごとく」の美学を持ったプッサンは明快でわかりやすい絵画を目指し、幾何学、光学、透視図法などの研究から、理性に基づいた制作によって人々の心をつかんだのです。そして、それは、当時のフランスの文化政策にも合致するものでした。
 プッサンは、広がりのある空間の中に、物語に即した態度や感情を示す人物を効果的に配する明晰な画面を得意としました。しかし、ここにも見られるように、彼の絵画にはいつも美しい自然が両手を広げて全てを包み込むように存在しています。厳格である分、後方に広がる緑豊かな風景が画面にみずみずしい情趣を添えていることに、私たちはいつも救われた気持ちになるのです。

 ところで、フランス国王に呼び戻されながら、画家は2年足らずのパリ滞在ののち、またすぐにローマへ戻ってしまいます。深い思想的背景を持つ歴史画、宗教画の多いプッサンは、人間に関する「思索」を絵に託すべく精進した知的な人格者でした。だからこそ、パリ画壇の保守派からの敵視や人間関係の煩雑さには失望を感じたのかもしれません。その後はずっとローマで暮らし、二度と故国フランスの土を踏むことはありませんでした。プッサンにとってのアルカディアこそローマだった、ということでしょうか。

マリさんのページより転載


 

十字架上のキリスト

スルバラン

エルミタージュ美術館 サンクト・ペテルブルク、ロシア

 その日、早朝からの霧雨はやがて雨に変わっていました。ゴルゴタに続く道を、重い十字架を背負って歩いたイエスは、痛み止めのぶどう酒を拒み、釘を打ちつける音と焼けつくような痛みに耐えました。十字架の上には「I.N.R.I.」(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)と書かれた銘板が取り付けられていました。
 磔刑は、徐々に体力を失わせますが、命が尽きるまでには時間を要する残酷な刑です。昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続きました。3時にイエスは大声で叫びました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味です。そこに居合わせた者の一人がすぐに走り寄り、海綿にぶどう酒をふくませて葦の棒に付け、「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとしました。しかし、その瞬間、空はすっかり黒い雲に覆われ、激しい嵐がやって来ました。突き刺すような風の中でイエスは、「父よ、あなたは私を見捨てられたのか」ともう一度悲痛な叫びを上げ、息絶えたのです。その後にやって来た、深く静かな沈黙の時です。まるで底のない暗い湖に、そのまま引き込まれて行くようなイエスの姿に、見る者は心も言葉も奪われます。息絶えたキリストは、やや右に頭部を傾け、茨の冠の痛々しさも今は静けさの中に輝く光輪のようでさえあります。

 ルネサンス以降の美術家たちは、十字架上で息絶えたキリストをよく表現するようになりました。それ以前、西ヨーロッパでは、何世紀にもわたってビザンティンの影響のもと、目を見開き、王冠を被った勝利の救世主としてのキリスト像が描かれていました。しかし11世紀に入ってからは、このようにやつれた姿のキリストが新しい表現形式として登場し、西欧芸術の主流となっていくのです。
 この作品は、スルバランがちょうどセビーリャを離れ、マドリードに滞在していたと思われる時期の静謐な磔刑図です。同年、彼はセビーリャを襲ったペストによって、息子で助手のフアンを喪っています。おそらく、失意のどん底だったことでしょう。強烈な明暗法と透徹した写実描写によってセビーリャ美術界の第一人者として頂上を誇ったスルバランの、寂しい晩年の始まりでもありました。だから、この作品.....などとお座なりなことを言うつもりはありません。それでもやはり、このキリストの姿は、その当時のスルバランの心そのもの、という気がしてならないのです。

マリさんのページより転載


 

ラス・メニーナス

ベラスケス

プラド美術館 マドリード、スペイン

 画面に漂う絶妙な調和と均衡、すぐれた色彩のバランスと黄金分割による構成、空気遠近法を十分に生かした重厚な空間・・・。あらゆる意味で完璧な、スペインの巨匠ベラスケスの最高傑作です。「ラス・メニーナス」・・・この絵を見たことのない人でも、この呼び名はけっこう知っているかも知れません。ベラスケスの手によって「絵画の神学」にまで昇華されたこの「ラス・メニーナス」はまた、ベラスケス自身の生涯をも象徴する作品となっているように思います。
 1632年、24歳の若さで宮廷画家となったベラスケスは、しかし、画家である以前に宮廷役人であり、公的職務に邁進する、芸術家らしからぬ常識人でもありました。ルネッサンス以降、芸術を人生の問題としてとらえ、苦悩と悲劇の中で生きるのが一般的な芸術家のイメージであったとき、ベラスケスは芸術家とは言い難いほどの勤勉な役人であったのです。
 しかし、だからこそ彼は、生涯を通じて経済上の問題からはまったく解放され、そのため、絵画の道も何一つ問題なく歩み続けることができたのです。宮廷職という不自由さの中で自由を保証されたベラスケスは、絵画に関して全く制限を加えられることはなく、自ら望むとおりの実験的作品を制作し続けることができた、ある意味で非常に稀有な画家でもありました。
 この作品は、当時のフェリーペ4世一家が画家のアトリエを訪れた場面であると言われています。前景中央に、可愛らしいマルガリータ王女と育ちの良さそうな二人の侍女、その右に二人の矮人といかめしい顔の犬、左側には非常に大きなキャンバスに向かって制作中の画家本人が明確な筆致で描かれています。中景右端には女官と召使い、後景の戸口には執事が立って、何やらものものしい国王一家の訪問風景となっています。
 ところで、その国王夫妻ですが、黒縁の鏡の中に半身像となって映っています。これは非常に不思議な光景で、実際の彼らの姿は見当たらないのです。しかし、よくよく見ているうちにハッとさせられるのは、国王夫妻の立っている位置は、実は私たち自身の位置なのです。そして、さらに驚きを感じることは、絵の中の人物たちが、みなほとんどこちらに視線を投げていることであり、ちょうど鑑賞者である私たちと視線を交わすかたちになっていることなのです。
 この不思議な体験、時間を超えた異空間の人びととの接触は、私たちをドギマギさせます。そしていつの間にか、人々の声が遠く聞こえる見えざる中心部に誘い込まれそうな感覚に、めまいと陶酔をおぼえずにはいられないのです。

マリさんのページより転載


 

ブレダの開城

ヴェラスケス

プラド美術館 マドリード、スペイン

さわやかな空の青が美しい、ベラスケス中期の大作です。
この作品が飾られた「諸王国の間」(現在の軍事博物館)はオリバーレス公の発意で建設されたもので、この大広間にはスペイン王家の威光と歴代国王の栄光を讃える大画面の大作が並んでいます。
 そんな中で、この作品は一般に「槍(ラス・ランサス)」という愛称で親しまれています。
たしかに、たくさんの槍が林立している印象的な作品ですが、これは1625年、スペイン軍がオランダの要塞ブレダで勝利した10周年を記念した作品なのです。
 中央に、城門の鍵を手渡すオランダの総督ナッソーと、それを温かく受け取るスペインの将軍スピーノラ・・・その左右に両軍を配した空間は壮大で、しばらく時を忘れてしまうほどです。
私たちの視線は左端の人物から右手前の後ろ向きの馬へ、そして人物群を沿って楕円形を描きながら左背景へと、ごく自然に流れていきます。
両軍を左右にきちんと配した画面全体の統一感、光と色彩のすがすがしい調和、前景から後景へと深まっていくブルーの美しさなど、どれをとっても言葉が出ないほどの、17世紀オランダ風景画を思わせる壮大な画面です。
 ベラスケスが生きた17世紀は、俗にバロック時代と呼ばれています。バロック美術の特徴は光と自然の動的構図・・・また、情熱、誇張、ダイナミズムなども重要な要素です。
しかし、ベラスケスの画面は彼自身の解釈によって、それらはごく自然に消化吸収されてしまっているようです。そこには、ベラスケスらしい、どこかデカルト的な「厳粛な平衡ある精神」が反映されているようで、バロック美術という大きな流れまでも彼流に昇華してしまった偉大さを思うと、あらためてベラスケスという人物の透徹した精神性を見る思いがします。  

マリさんのページより転載


 

タルスに上陸するクレオパトラのいる風景

クロード・ロラン

ルーヴル美術館 パリ、フランス

 厳格な透視図法で描かれた壮麗な建物、豪華な船が画面に威厳を与え、画家の興味がこの壮大な海景にこそあったことを感じさせます。しかし、この作品の主題は飽くまでも、エジプトのプトレマイオス王朝最後の女王クレオパトラが、古代ローマの将軍アントニウスに会うために小アジア(現在のトルコ)のタルコス港に上陸した場面を描いたものなのです。
 前景やや右側には6人の女性に囲まれ、将校デリウスを従えたエジプトの独裁者クレオパトラの姿が見え、さらにその右、宮殿の前に立って彼女を迎えているのはアントニウスです。クレオパトラはこの後、権力への欲望からこのローマの将軍を誘惑し、7年後に二人は結婚することとなります。紀元前41年に実際に起こった、歴史の中に位置する重要な場面でありながら、このように英雄的で壮大な風景の中に描き込まれると、人はなんと小さな存在となってしまうのでしょう。太陽を浴びて輝く雲の美しさ、まぶしさが、時間も歴史もすべてを呑み込んでいってしまいそうで、鑑賞する私たちはその感覚にいつの間にか酔いしれてしまうのです。
 風景画の中でも特に「理想風景」と呼ばれる、こうした古典的風景画のジャンルを完成させたのがニコラ・プッサンとクロード・ロランでした。プッサンが風景画のなかに知的で厳粛な要素を加えて英雄的様式と言われたのに対し、クロードは自然そのものを入念に観察し、みごとに模倣し得た画家と言えます。非常に初期のころから、太陽そのものをカンヴァスに表し、画面の中から輝きを放つといった効果を試みるなど、クロードの光に対する追究はとどまることがありませんでした。
 やがて、プッサンに触発され、古代ローマを思わせる勇壮な建築物の描き込まれた壮大な風景も描くようになりますが、クロードの真のテーマは光.....そして色彩によって詩的に風景を表現することにあったのです。詩の高さにまで達した彼の光は形態の表面で微妙な変化を見せながら、樹木や建物、廃墟、柱廊などに照り映え、ますます精妙で鋭敏に表現され続けました。
 クロードの作品は、18世紀から19世紀のイギリスで、特に好まれました。この時代のイギリス庭園のなかにはクロードの絵を参考に構想されたものも数多いといいます。そして、熱心な蒐集家によって愛されただけでなく、ウィルソンやターナーが強い影響を受けたことも知られています。
 画面中央の輝く雲は、クロードの光そのものでした。失われた時代の晴朗な感覚を喚起するように、クロードの内側からまさに放たれた光そのものだったのです。

マリさんのページより転載


 

シバの女王の上陸

クロード・ロラン

ナショナル・ギャラリー ロンドン、イギリス

フランス古典主義における風景画の巨匠クロード・ロランの代表作『上陸するシバの女王のいる風景』。カミッロ・パンフィーリ枢機卿のために制作された本作に描かれるのは、旧約聖書列王記上10章に記される、師士ソロモン王の名声を耳にしたシバの女王が、己が抱える難題をソロモンに問う為に(又はその知恵を試そうと)香料や金などの財宝を積み、師士ソロモンの住まうエルサレムへ訪れた場面≪上陸するシバの女王≫で、夜明けの陽光が射し込む海上の表現や、朝靄が醸し出す大気感、堅質な古代風の建築物など画家の得意とした海景図の典型的な特徴が示されている。一般的に≪ソロモン王とシバの女王(シェバの女王)≫を主題とした絵画であれば、イコノグラフィー(図像学)としてシバの女王が玉座の間でソロモン王と対峙する場面が描かれるものであり、画家が本作で描いたエルサレムへの上陸場面は珍しい図像展開である。なお本作はロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する『イサクとリベカの結婚(踊る人物のいる風景)』と対画であることが知られている。


 

ダナエ

レンブラント

エルミタージュ美術館 サンクト・ペテルブルク、ロシア

巨匠レンブラントを代表する神話画作品のひとつ『ダナエ』。本作は、オウィディウスの≪転生神話≫を典拠とした、アルゴス王アクリシオスの娘ダナエと、ダナエに恋をし黄金の雨に姿を変えダナエの下へ降り立ったユピテルの愛の交わり≪ダナエ≫を描いた作品である。ルネサンス期よりティツィアーノを始めとした幾多の巨匠たちも描いてきた有名な主題であり、通例では純潔の象徴として描かれてきた≪ダナエ≫の姿をレンブラントは、ユピテルの到来を恐れず、むしろ喜びに満ちた表情と仕草で表現しており、レンブラントのイタリア絵画への鋭い考察と、裸婦像の官能性の追及が示されている。また近年におこなわれた本作の調査によって、ニスが塗られた後、レンブラントが修正をおこなっていることや、18世紀中頃までに画面がトリミング(切り取り)されていることが判明しているほか、1985年に所蔵先のエルミタージュ美術館(サンクト・ペテルブルク)で硫酸がかけられるという事件が起こり、その際、裸婦の頭部や両手、両脚に修復不可能なほどの損傷を受け、残念ながら今日では原図の輝きや筆致を観ることは叶わない。


 

夜警

レンブラント

アムステルダム国立美術館 アムステルダム、オランダ

 17世紀のオランダは、貿易を背景にした市民社会のめざましい発展の中にあって、アムステルダムは市民たち自身による警備隊で護られていたのです。これは、そのうちの一つ、フランス・バニング・コックを隊長とする一団が市庁舎を出発しようとする様子です。
 バロック時代のオランダでは、大人数を描いた集団肖像画が好まれました。たいてい、メンバーの集会場を飾るために発注されるのですが、ここで大切なルールが二つあります。それは、現実に忠実に描くこと、そして、社会的地位の優劣をはっきりと描くことでした。
 「夜警」では、この基本的なルールはしっかり守られています。ただ当時、こういった作品は、テーブルの周りにメンバーを配置したり、皆でわかりやすく立ち並んで描かれることが暗黙の了解でした。そういう意味で「夜警」は、それぞれの個性を際立たせた画期的な集団肖像画だったのです。
 レンブラントは、この火縄銃手組合の市警団の警備隊員たちを、巨大な門を出て行進を始めようとする市民兵の集団として描きました。彼らの主な活動といっても、実は、町を巡回する程度の些細なものでしたが、画家は、まるで彼らがこれから戦いに挑もうとする英雄たちであるかのように描いたのです。

 彼らには制服がなかったため、各自が思い思いの格好で登場しています。光を浴びて輝く黄色の衣装に身を包んだ副官ウィレム・ファン・ライデンブルフには、注目を独り占めにしようとする意図が感じられます。彼は、なかなかの洒落者だったのでしょう。その逆に、全身を黒で固めたコック隊長からは思慮深さが伝わります。ここでは、地位の優劣をはっきりさせるため、副官は隊長よりも前に出ないように描かれています。
 さらに、隊長が真正面を向いているのに対し、副官は隊長を見て、彼の命令を待っているようです。そして、副官のジャケットに隊長の手の影が映っていることも、彼の威厳を示しているように見えます。
 ところで、市警団全体の肖像画であるにも拘わらず、レンブラントが全員を平等に描かなかったとして、隊員から抗議を受けたと言われています。しかし、不満を持つ者ばかりではなかったはずです。
 画面向かって右端で手を伸ばして指を差しているのは、当時の社会を支えたカルバン主義の助祭、ロンバート・ケンプです。彼はおそらく、この斬新な肖像画の中の自分の描写を気に入ったに違いありません。反対、左端のデジニア・エンゲレンは、昔の騎士の兜を被り、鉾槍を手に、精一杯目立とうとしていて、それなりに成功していますし、愛国心に満ちた表情で旗を持つアルペレス・ビシェは、自らの堂々とした姿を誇りに思ったことでしょう。
 この中には、ドラムを叩く男を除いて、総勢18人が描かれていると言われています。それは、門の上のほうに掛かった盾形のカルトーシュに18人の名前が書かれていることからわかります。お金を払った団員だけが描かれているのです。

 ただし、この絵の中には、団員でない二人の人物が紛れ込んでいます。まず目につくのは、何と言っても、光を浴びて金色に輝く、大人の女性の顔を持った少女でしょう。彼女はまるで、星のように非現実的な存在です。そしてなぜか、鶏を一羽、腰からぶら下げています。爪まで詳細に描かれた鶏の脚のすぐそばには銃が描かれています。火縄銃手(klovenier)は、聞きようによっては「にわとりの爪」(klauw)のようにも聞こえるので、語呂合わせなのでしょう。少女はやはり象徴的に描き込まれたもので、現実の存在ではないのかもしれません。
 そして、もう一人、画面の奥のほうに、こちらを見つめる目が一つ、ベレー帽を被った男が、ほんの少し顔を見せています。これは、もしかすると、「夜警」を描き終えてホッと一息ついた画家自身の姿なのかもしれません。あまりの大作なので、ちょっと顔を出してみたくなったのでしょうか。

 この作品は、今では「夜警」というタイトルで知られていますが、本当は「隊長フランス・バニング・コックと副官ウィレム・ファン・ライテンブルフの市警団」といいます。昼間の警備であるにもかかわらず、レンブラントの劇的な光と闇の対比が、見る者に夜を連想させてしまったのでしょうか。しかし、実は、そうではありません。時の流れが、この作品に悪影響を与えたのです。ニスが褐色化するなど、画面が少しずつ暗くなり、夜の場面だと思われるようになったというのが本当のところです。
 1975年にその層も除去され、今ではみごとに修復されたのですが、人々は親しみを込めて、「夜警」と呼び続けているのです。

マリさんのページより転載


 

放蕩息子の帰還

レンブラント

エルミタージュ美術館 サンクト・ペテルブルク、ロシア

オランダ絵画黄金期最大の巨匠レンブラント・ファン・レイン晩年の代表的な宗教画作品のひとつ『放蕩息子の帰還』。本作に描かれるのは、新約聖書ルカ福音書のみに記される≪放蕩息子≫の逸話から、父から財産を等分に与えられた兄弟のうち、弟は家を出て放蕩し財産を消費した後、豚の世話役となり、その餌で餓えを凌いでいたが、最後には実家へと戻るものの、父は息子の帰還を喜び祝福を与えるという、信仰と慈悲と希望を説いた≪放蕩息子の帰還≫の場面で、登場人物の精神性深い感情表現や、放蕩息子と父親を重ねて捉え親子の繋がりを示した場面構成は、画家が生涯で手がけた宗教画の中でも特に秀逸の出来栄えを見せている。本作で放蕩の末に父の下へと帰還した息子の姿は、若くして成功しながらも妻サスキアの死やオランダの急速な景気降下を境に没落していった画家の人生を否が応にも彷彿とさせる。また本作はレンブラントが63歳頃に描いたと推測されているが、この頃、生存していた最後の息子ティトゥスが急死しており、本作で放蕩息子を抱く父親の姿もレンブラント自身の姿と解釈できる。技巧的にも筆跡を感じさせるやや大ぶり気味な筆使いによる顔面を中心に光を当てるかのような描写や、静謐な雰囲気で支配される人物の精神的内面を重要視した場面表現など、本作には宗教画におけるレンブラント晩年の手法が明確に示されている。

息子の帰還を喜ぶ父親。本作に描かれるのは、新約聖書ルカ福音書のみに記される≪放蕩息子≫の逸話から、家を出て放蕩し財産を消費した後、最後には実家へと戻った息子を、父は喜び祝福を与えるという、信仰と慈悲と希望を説いた≪放蕩息子の帰還≫の場面である。

父に抱かれる放蕩息子。本作で放蕩の末に父の下へと帰還した息子の姿は、若くして成功しながらも妻サスキアの死やオランダの急速な景気降下を境に没落していった画家の人生を否が応にも彷彿とさせるほか、この頃、生存していた最後の息子ティトゥスが急死しており、本作で放蕩息子を抱く父親の姿もレンブラント自身の姿と解釈できる。


 

レオポルド・ウィルヘルム大公の絵画収集室

テニールス

ウィーン美術史美術館 ウィーン、オーストリア

 なんて贅沢な部屋でしょう。ここにラファエロ、ここにはティツィアーノ......と、絵画好きにとっては、まさに夢のお部屋ではないでしょうか。これだけのコレクションを眺めながら暮らせるとしたら、たいていの喜びは捨ててしまってもいい、と考える方もいるかも知れません。
 ルネサンス以降、ヨーロッパ各国の王侯貴族は、絵画や彫刻などの美術品や、珍しい植物、貝殻、鉱物などを好んで収集していたといいます。そしてそうした収集熱は、富裕な市民階層にも広がっていきました。殊に16世紀、国際都市として繁栄したアントウェルペン(ベルギー)において、市民たちは競って美術品を収集し、数多くの大規模な個人コレクションが存在したのです。そして画家たちもまたパトロンに敬意をはらい、1600年以降の同市の画家組合には、コレクターたちまで組合員として迎えられたほどでした。そうしたコレクターの活動を讃える社会背景から、「ギャラリー画」が生まれました。ギャラリー画とはまさに、絵画や彫刻の収集室を描いた絵画なのです。
 この『レオポルト・ヴィルヘルム大公の収集室』もまた、そうしたギャラリー画の代表的な作品の一つです。作者のダーフィット・テニールス(1610−90年)は、アントウェルペンの画家組合長になった直後、ブリュッセルに招聘され、そこで当時ネーデルラントを治めていたオーストリア大公レオポルト・ヴィルヘルムの宮廷画家となりました。そしてそれと同時に、彼は大公の美術コレクションの管理官となり、大公所蔵の作品のみごとなカタログを編纂しています。そして、作品の模写をしたり、こうしたギャラリー画も多く描いたのです。テニールスは、ルネサンス期のヴェネツィア派の絵画を多く模写していますが、そうした経験が彼のその後の作品にも大きな影響を与えたことは言うまでもありません。その繊細で洗練された画風は、17−18世紀の貴族たちには特に好まれたのです。
 ところで、この絵画群の中には、現存する作品も多く描き込まれています。例えば、向かって右の最上段の一番左から、ジョルジョーネの『三人の哲学者』、ヴェロネーゼの『東方三博士の礼拝』、パルマ・イル・ヴェッキオの『聖母のエリサベツ訪問』を見てとることができます。そして、その下の段の左から二番目の絵画はヴェロネーゼの『ナインのやもめの息子の蘇生』ですし、三段目の左から二番目がドッソ・ドッシの『聖ヒエロニムス』、四段目の一番左がサラチェーニの『ユディトとホロフェルネス』、一つおいて左から三番目がティツィアーノの『さくらんぼの聖母』です。さらに、床に斜めに立てかけられた作品のうち一番右の大きなものがヴェロネーゼの『アハシュエロス王の前のエステル』で、その隣がラファエロの『アンティオキアの聖女マルガリタ』、一つおいた作品がアンニーバレ・カラッチの 『キリスト哀悼』です。さらに、向かって左側のタンスのような家具に架けられた絵画のうち、上段の右側はティツィアーノの『ヤコポ・ストラーダの肖像』、二段目に架けられているのはグイド・レーニの『カインによるアベルの殺害』なのです。
 なんと豪華な収集室風景でしょうか。ヴィルヘルム大公は1646年にネーデルラント総督に就任してから、在任中の10年間に多数の絵画をコレクションしたと言われていますが、中央でヴェネツィアの画家ヴィンチェンツォ・カテーナの『本を持つ男の肖像』を指差しているのが大公その人なのです。
 しかし、この作品群はあまりにも出来過ぎていますし、壁に掛けた様子もきちんと整い過ぎているように感じます。実は、これは実際のコレクションというわけではありません。美術品のコレクションの理想形を、テニールスは描いているのです。絵のサイズや収集室の構成にも、だいぶ画家の工夫とアレンジが施されているようです。しかし、それは決してテニールスが嘘を描こうという意図をもってのことではなく、それが当時の通例であったことと、自分を宮廷画家として重用してくれた大公への敬愛と崇敬の念が描かせた大作と言えるのでしょう。そして何より、画家の絵画への熱い想いが反映された画面なのだと思うのです。

マリさんのページより転載


 

無原罪のお宿り/エル・エスコリアル

ムリーリョ

プラド美術館 マドリード、スペイン

スペインの美の殿堂プラド美術館に所蔵されるセビーリャ派の画家ムリーリョの代表作『無原罪の御宿り』。エル・エスコリアールの「ラ・タシータ(親王の館)」が旧蔵していたことから『エル・エスコリアール』と呼ばれた本作の主題は、神の子イエスの母である聖母マリアが、マリアの母(イエスの祖母)アンナの胎内に宿った瞬間、神の恩寵により原罪から免れたとする、最初は東方で唱えられ神学者の間で盛んに議論された後、1854年に公認された教理≪無原罪の御宿り≫で、17世紀スペインにおいて最も一般的に描かれた主題のひとつであった。聖三位の一位であるイエス、その聖器のマリア、マリアを生んだアンナそれぞれの関係性の議論により当時は公認されていなかったこの複雑な図解的規定を、学の無い者でもわかりやすいようムリーリョは簡略化し表現しており、それによってムリーリョはセビーリャの地を中心に圧倒的な人気を得ることになった。それを示すよう、画家は生涯において十数点、同主題の作品を描いている。


 

善き羊飼い

ムリーリョ

プラド美術館 マドリード、スペイン

バルトロメ・エステバン・ムリーリョの柔らかく繊細で豊かな叙情的描写が見事な、画家屈指の代表作『善き牧者としての幼児キリスト』。制作の詳細は不明であるが、1746年、国王フェリペ5世の王妃イザベル・デ・ファルネシオがセビーリャ滞在の際に買い上げ、その後1794年、アランフェス宮の国王夫妻の寝室に飾られていたことが来歴に残る本作は、悔悛し正道に戻る罪人を受け入れる神の姿を、迷える1匹の子羊を見つけることができ喜ぶ羊飼いの姿として表した教義≪善き羊飼い≫を主題とし描かれており、理想的な田園風景の中にある、愛らしくも神の子としての威厳を兼ね備える幼子イエスの神々しい描写が、ムリーリョの極めて独特で高い表現力を示している。


 

デルフトの眺望

フェルメール

マウリッツハイス美術館 デン・ハーグ、オランダ

 マルセル・プルーストが「世界で最も美しい絵画」と称え、その著書『失われた時を求めて』第5篇の中で、瀕死の文学者ベルゴットに「黄色い小さな壁」と語らせた、あまりにも有名な風景画です。
 暗い雲と明るい雲が層となった小都市デルフトの河沿いを描いたこの作品は、フェルメール絵画の中では98×137.5cmと極めて大きく、水平方向に広がる景観が穏やかに描き出されています。

 これは、美しく遙かな空とゆらめく水の間に静かに佇む、画家が生きた街デルフトの肖像画と言っていいのだと思います。夏の早朝、家々の屋根にも川面にも、陽の光がキラキラと輝き始め、街は目を覚まし、活動を始めようとしています。でも、その少し前の一瞬、まるで聖母の微笑みのような時間があることに、どれほどの人が気づいているでしょうか。画家として順調に歩み始めたフェルメールは、そんな素晴らしい一瞬を、350年前、この同じ場所で目撃していたのです。
 スヒー川越しに眺めたデルフトの南側には、スヒーダム門とロッテルダム門の二つの市門が、運河の入り口を挟んで立っています。後方には赤い屋根が連なり、向かって右側に新教会、左側奥に旧教会の塔も見えます。さらに、その新教会の塔の右側でひときわ明るく輝くのが、『失われた時を求めて』の中で絶賛された「黄色い壁」であろうと言われています。そして、近くに停泊する船には無数の光の粒が踊り、その効果は刻々と変わる太陽の動きを実感させてくれているようです。
 計算された筆触がそこここに残され、細部まで緻密に描かれたあたりは画家フェルメールの力量であり、カメラを思わせる眼差しとともに、ここには現実の瞬間が描かれています。しかし、この作品に、心をシン.....とさせるような「永遠」を感じてしまうのは何故なのでしょうか。それは、極端なアクセントのない、不思議に水平方向に引き延ばされた画面のせいかもしれません。私たちの視線は絵の中のあらゆる箇所に同等に惹きつけられ、そこに流れる同じ時間を感じ取ります。この穏やかなリズムが、見る者に共通した懐かしさを与えているような気がします。そして、それが画家フェルメールによる、愛するデルフトへのオマージュにほかならない形なのかもしれません。

 ところで、物語画から風俗画家として人物を主体に描いてきたフェルメールが、なぜこの時期、「小路」とこの「デルフト眺望」という二つの風景画を続けて描いたのかについては、流行し始めた「都市景観画」への興味が挙げらています。確かに、探求心旺盛なフェルメールだからこそ、それは十分に納得できます。
 しかし一方、1652年にアムステルダムの旧市庁舎が焼け落ち、54年には火薬庫の大爆発という事故が重なり、古きよきデルフトの風景が一挙に失われてしまったという事情もありました。まだまだ、そのひととなりには謎も多いフェルメールですが、もしかすると、その喪失感を埋めるように、故郷を抱きしめるような思いで、この「世界で最も美しい」風景画を描かずにはいられなかったのかもしれません。岸辺に点々とたたずむ人々が画面に動きと温かさを与え、単なる風景画を超えた画家のメッセージまで伝わってくるようです。

マリさんのページより転載


 

レースを編む女

フェルメール

ルーヴル美術館 パリ、フランス

 ピン・・・と張りつめた空気の漂う作品です。
一人の女性が仕事台に身をかがめ、小さなピンを型紙の上に刺しながら、小さな糸巻を操っています。彼女の神経は二筋の糸の先端に集中し、そしてこの作品を鑑賞する人々の視線もまた、そこに引きつけられていきます。向かって右手にあると思われる窓からの光も彼女の手元に一直線に集中しているようで、この緊張し、凝縮された空間には他者の入り込む隙は与えられていないようです。
 レース編みは、当時のオランダの女性たちの特技で、このモデルの姿は、どこの窓にも戸口にも見られるものでした。ですから、日常のごく何気ない光景なわけなのですが、それがこれだけの緊迫感と象徴性を感じさせてしまうのは、やはりフェルメールの創り上げた光の小宇宙・・・とでも言うべき空間のなせるわざなのではないでしょうか。モデル自身のみならず、画家の眼も心も、すべてが画面の中に投げ入れられているようで、何気ない生活空間から絵画空間が断ち切られている...そんな静謐な想いにとらわれます。
 画面の前面に分厚い布やテーブルクロスを置くのはフェルメールの好むところですが、この作品では、その上に真っ赤なレース糸がこぼれて、とても鮮やかです。決して派手な色使いをせず、同じ赤でも突出した使い方をしないフェルメールですが、めずらしく鮮明な赤が美しく、この静かな世界に花を添えてくれているようです。 

 マリさんのページより転載


 

絵画芸術の寓意

フェルメール

美術史美術館 ウィーン、オーストリー

 画家のアトリエの様子が、重そうなカーテンの向こうに描かれています。カーテンの端を鑑賞者自身が押さえて、そっと中を覗いているような視点です。ちょっとうしろめたい気持ちになるのは、画家のねらい通り・・・というところでしょうか。
 この視点から地図のかかる壁に至るまでの空間の、椅子やテーブルやシャンデリア、また画家自身やモデルの姿に、本当に豊かな色彩と光とそして影が宿っています。ともすればゴチャゴチャしてしまいそうな光景を、清澄で静謐な空間に仕上げてしまうフェルメールは、ほんの何気ない日常も、輝かしい永遠の場に変えてしまう魔法の絵筆を持っていたのではないでしょうか。 それにしても、歴史を司るミューズ  クレイオーの衣装を身につけたモデルを描きながら、画家は完璧に背中を向けています。手元の絵も、こちらに見せないように背中で隠していますが、その姿に象徴されるように、フェルメールは謎の画家です。彼の生涯をたどる確実な資料は非常に乏しく、絵画という空間の中でのみ純粋に生を営む静謐な画家・・・というイメージしか浮かんできません。
 ところが意外なことに、彼は聖ルカ組合という画家・工芸家のギルドに加入して活躍し、31歳のときにはその会長に選出されて、現実の世界でもきちんとした仕事をしているのです。けっして、生活無能力者の芸術家ではなかったのです。また、家庭においては11人の子持ちであり、良き父親、家長でもありました。その日常生活と、あの隔絶された室内での光に満ちた作品たち・・・。まるでフェルメール1号と2号がいるみたいに、その印象は違います。
 二つの顔がどうしても結びつきにくいフェルメールという人物は、この作品の画家と同じで、やはり本当の顔が見えない謎の画家なのです。


 

シテール島への巡礼

ヴァトー

ルーヴル美術館 パリ、フランス

 典雅な装いをこらした八組の男女が、右端に立つヴィーナスの像の下から左に繋留された船へと、ゆるやかな動きで展開されています。
 この雅びで美しく夢のような作品は、ヴァトーが1717年に王立美術院へ提出した、「雅やかな宴」を主題とした名作です。ティッツィアーノの豊麗さ、リューベンスのみごとな色彩を、ヴァトーは彼独自の世界観のなかで上手にとりこんでいるようです。
 「この絵は船出ではなく、離島である」というマイケル・リヴィの新説どおり、ヴィーナスの島へ巡礼に来た男女は皆、すでに伴侶を得て幸せそうです。
 しかし、ロダンは、これは一組の男女を八回に描き分け、右から左へとしだいに二人の愛が高まっていく様子が描かれているのだと分析しています。たしかに見ようによっては異時同図的な表現とも見え、当時流行のテーマをここに映像化させていると言えるのかも知れません。ヴィーナス像、舟と漕ぎ手、高い山々とキューピッドという神話的枠組みの中に繰り広げられる、流れるようなリズムのなかでさまざまなポーズをとる八組の恋人たちの光景は、この時代の恋愛への想像力の最も美しい表現方法ではないでしょうか。
 この作品の真のテーマは、実はそうした愛の高まりを統べる時間そのものであり、人生のもっとも美しい時間もやがて過ぎ去ってしまうことへの郷愁めいた感情だったかも知れません。
 今日、ヴァトーが18世紀を代表する、もっともフランス的なやさしい魅力、詩情に富む画家と目されるのも、こうした「雅やかな宴」の主題を扱った名作が多いためだと思われます。宗教上の祭り、公共的な祝祭は今までにもいくらでもありましたが、ヴァトーの描く「宴」は宗教的でも公共的でもなく、演劇的で、そして私的です。そのあたりが、決定的に人々の心を魅了してやまないのではないでしょうか。
 また、ヴァトーの「宴」には、愛を歌い語るような独特の甘い雰囲気があります。いかにも王朝的で貴族的な恋愛...それは上流階級の一種の遊戯を思わせるもので、そういう意味でも「雅やかな」宴の形容詞がぴったりくるのです。
 今日、ヴァトーはフランスを代表する画家として押しも押されもせぬ存在ですが、18世紀の存命中には決してそのようには見なされていませんでした。むしろ、世間一般の評価も必ずしも高くなく、明らかにその芸術を軽蔑していた人たちも多かったようです。18世紀を代表する偉大な画家としての評価が定まるのは死後100年以上も経ってからであり、サン・サテュルナン教会の中庭に彼の胸像が立てられたのは1865年になってからだったのです。

マリさんのページより転載


 

サン・マルコ湾からの眺め

カナレット

ルーヴル美術館 パリ、フランス

作品の生彩は水面に映える光と海から眺めた街の観察に存している。船は画面の四分の一の高さを占めている岸沿いに整列している。船の中には統領の船であるブチントーロ号の姿も認められる。二艘のゴンドラと釣り人を乗せた小舟が画面前景の水面をさざめかしている。
ヴェネツィアの監獄が右側にその形を見せている。背景にはサン・マルコ大聖堂と時計塔が納まっている。左側には図書館と造幣局があるのがわかる。建造物群は作品全体を浸している柔らかい光によって照らし出されている。紺碧の空は、17世紀のフランドル画家らによる海景画におけると同様、画面の四分の三を占めており、そこに立ちこめる灰色の靄(もや)が、画面を浸す光を和らげているのである。

この絵画はカナレットの円熟期の作品の一つに数え上げられる。作品はおそらく、大半がイギリス人であった、ヨーロッパ中を回って「大旅行」していた顧客らによる無数の注文の一つに応じて制作されたものと思われる。カナレットは、画面全体を青色で覆い尽くす独自の手法を用い、その後に光学法則に基づいて建築物を配するのであった。画家は実際の光景を綿密に捉えるために「暗箱」を使うことで、正確な図案と遠近法画像を得ていたのである。
多大な成功を収めたその作品においてカナレットが古典的であったとすれば、彼のライバルであるグアルディはより幻想的でバロック的であったと言える。しかし、その厳密さは、画家が詩的表現を伝えることを妨げるものではなかった。


 

ヴェネチアにおけるフランス大使のレセプション

カナレット

エルミタージュ美術館 サンクト・ペテルブルク、ロシア

 

 

内緒の接吻

フラゴナール

エルミタージュ美術館 サンクト・ペテルブルク、ロシア

 

 

カルロス4世の家族

ゴヤ

プラド美術館 マドリード、スペイン

なんて意地悪な作品でしょうか。こんなに醜く、ぶざまな国王を描くなんて、ゴヤは国王一家に悪意でもあったのではないかと思うほどです。
軽薄そうなカルロス三世、まるで生気の感じられない新国王夫妻、思わず笑ってしまいそうになるほど哀しく滑稽な、操り人形のような貴族たち。しかし、この作品はこれで、完成までに一年もかけた大作だったのです。
制作に当たって、ベラスケスの「ラス・メニーナス」を参考にしたのだそうですが、一見すると似ていても、この画面には奥行きがなく、息苦しいくらい狭い空間に人物が詰め込まれている感じです。
しかも、王妃マリア・ルイサを中心とした13人は、不思議な直立姿勢でこちらを見つめており、何やら不気味でさえあります。
ただし、画面を彩る光と色彩の美しさはさすがゴヤ・・・という感じで、彼は顔料を惜しみなく使い、貴族たちの華麗な衣装を自在なタッチで描いていて、みごとです。
しかし、その華麗さも、ここに描かれた人々の腐敗した雰囲気を救ってはくれません。ここには、放蕩と肉欲と倦怠と堕落が渦巻いており、彼ら王侯貴族たちが惰眠をむさぼる間にも、ナポレオンがピレネー越えの機会を着々と狙っていたわけで、スペインは引き返すことのできない混沌の時代へ突入しようとしていたのです。
見えにくいのですが、左奥の闇に身を隠すようにしながらこちらに視線を送る、ゴヤの冷めた表情は印象的です。

マリさんのページより転載


 

1808年5月3日
プリンシペ・ピオの丘での銃殺

ゴヤ

プラド美術館 マドリード、スペイン

近代絵画の創始者フランシスコ・デ・ゴヤが制作した、西洋絵画史上、最も有名な戦争画のひとつ『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』。本作は『1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘』後、1808年5月2日夜間から翌5月3日未明にかけてマドリッド市民の暴動を鎮圧したミュラ将軍率いるフランス軍銃殺執行隊によって400人以上の逮捕された反乱者が銃殺刑に処された場面を描いたものである。処刑は市内の幾つかの場所で行われたが、本場面は女性や子供を含む43名が処刑されたプリンシペ・ピオの丘での銃殺を描いたもので、真贋定かではないが丘での処刑を「聾者の家」で目撃したゴヤが憤怒し、処刑現場へ向かい、ランタンの灯りで地面に転がる死体の山を素描したとの逸話も残されている。銃を構える銃殺執行隊は後ろ向きの姿で描かれ、その表情は見えない。それとは対照的に今まさに刑が執行されようとしている逮捕者(反乱者)たちは恐怖や怒り、絶望など様々な人間的感情を浮かべている。特に(本場面の中でも印象深い)光が最も当たる白い衣服の男は、跪きながら両手を広げ、眼を見開き、執行隊と対峙している。この男の手のひらには聖痕が刻まれており、観る者に反教会的行為に抵抗する殉教者の姿や、磔刑に処される主イエスの姿を連想させ、反乱者の正当性を示しているのである。また画面奥から恐怖に慄く銃殺刑を待つ人々の列の≪生≫、銃を向けられる男たちの≪生と死の境界線≫、血を流し大地に倒れ込む男らの死体の≪死≫と、絵画内に描かれる≪生≫と≪死≫の強烈な時間軸は観る者の眼を奪い、強く心を打つ。ゴヤは本作を含む対仏反乱戦争を画題とした油彩画を4作品制作したと考えられている(4点中2点『王宮前の愛国者たちの蜂起』『砲廠の防衛』は現在も所在が不明)ほか、版画集≪戦争の惨禍≫の中で本場面を画題とした版画も制作された。なお本作は印象派の巨匠エドゥアール・マネが『皇帝マクシミリアンの処刑』手がける際に強いインスピレーションと影響を与えたことが知られている。


 

ナポレオンの戴冠式

ダヴィット

ルーヴル美術館 パリ、フランス

フランス新古典主義時代最大のダヴィッドの傑作『皇帝ナポレオン一世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式』。629×926cmとルーヴル美術館でも最大級の大きさとなる本作は、1804年12月2日に行なわれたナポレオンの戴冠式を描いたもの。ヴェルサイユ宮王立美術館にレプリカがある。本場面は実際の式の様子より脚色され描かれている。当初の構図では皇帝ナポレオンが自身で戴冠する姿で描かれる予定であったが、ダヴィッドが皇帝は自身にではなく妻ジョゼフィーヌに戴冠する姿に、半ば強制的に出席させられた教皇は、両手を膝の上に置くのではなく、皇帝の正当性、ローマ教皇が祝福し賛同していることを表現する為に、聖母マリアの受胎を祝福する天使のポーズと同じ手の仕草に変更された。これによって皇帝ナポレオンが、皇帝より権威のある教皇に背を向け、妻ジョゼフィーヌに戴冠することで、画家は絵の中の主人公が誰であるかを明確した。このように実際より、さらに劇的に変更され描かれた本作の出来の素晴らしさを皇帝ナポレオンは賞賛したと伝えられている。なお本来ならばもう少し年配であったジョゼフィーヌは、美しさと初々しさを演出するために、ダヴィッドの娘をモデルにし描かれたとされている。


 

アレコレ橋上のボナパルト

グロ

エルミタージュ美術館 サンクト・ペテルブルク、ロシア

 

 

メデューズ号の筏

ジェリコー

ルーヴル美術館 パリ、フランス

 叫び声とうめき声と、絶えることのない狂ったような波のうねりと....目も耳も覆いたくなるような光景です。これは、19世紀のフランスで実際に起こった、フランス海軍フリゲート艦の難破事故を扱った作品です。
 1819年、テオドール・ジェリコーは、大作「メデューズ号の筏」によって、フランス・ロマン主義絵画の始まりを高らかに告げたのです。

 メデューズ号がセネガルの海域で座礁したのは、1816年の夏のことでした。150人を越す乗組員を残して、船長と何人かの将校だけが数少ない救命ボートに乗り込んで脱出をはかったのです。見捨てられた乗組員たちは、破損したメデューズ号の用材で筏をつくり、13日間も漂流したといいます。悪天候にさらされ、ついには死んだ仲間の人肉を食べてしのぐうち、生存者はたった15人になっていました。
 生き残った者たちは、今まさに生と死の間をさまよっています。画面の手前に描かれているのは、すでに死んでいるか、生きる気力を失ってしまった人たちであり、絵の中央で必死に腕を伸ばしているのは、生にしがみつこうとする人たちです。彼らは、はるか遠く、波間から見える船にすべての希望を託しているのです。

 そのすさまじい光景は、ジェリコーの手で、くっきりとした明暗法に仕上げられ、圧倒されるばかりの迫力です。画面は水平線によって上半分の明るい部分と下半分の暗い部分に分けられ、筏はほとんどその暗い部分に描かれているのです。後方からの、地獄からとしか思えないような暗い光が筏の上の肉塊と化した死体を白く浮き上がらせ、その凄惨さをいっそう際立たせている一方では、生き残った者がこの地獄から逃れるため、シャツを振って必死に合図を送っているのです。この明と暗、生と死の対比が、無駄なものをそぎ落として、クッキリと見る者に迫ってくるのです。
 完全な絶望から、わずかな希望へとグラデーションをなす三角形は、希望のピラミッドと呼ばれています。筏の右側の樽を基点にして三角形は完璧な形となりますが、この樽は画家の創作ではなく、生存者の証言をもとに正確に描かれているのです。印象的で巧妙な構図は、飽くまでも事実にこだわった画家の強い思いの賜物だったのです。
 この人間ドラマを描くために、ジェリコーは、生き残った乗組員に会って当時の状況をつぶさに取材し、制作には1年余を費やしたといいます。画面にリアリティーをもたせるため、近くの病院に通って瀕死の病人の肌を観察したり、処刑された犯罪者の首や手足をアトリエに運び込んでスケッチしたといいますから、ただごとではありません。さらに、より際立つ黒を求めた画家は、物陰の人物を靴墨を使って描いています。ただ、これは時とともに作品に大きなダメージを与える結果となり、結局、画面をいっそう暗く陰惨なイメージにしてしまったようです。

 ところで、漂流者たちは、まるでジムで鍛え上げたような身体をしています。しかし、当時のフランス海兵隊の食生活を考えたとき、体格に関してだけは事実に忠実ではないらしいことがわかります。それは、やせ細った哀れな身体で見る者の同情を買うのではなく、どんな状況下でも生き抜こうとする人間たちの闘いのドラマを描こうとした画家の強い意志だったに違いありません。だからこそ、画面は動かし難い荘厳さに支配されているのです。
 ナポレオンが退位したのち、自国フランスは低迷の一途をたどっていました。ナポレオンがフランス皇帝の座についていた1804年から14年の帝政期にもてはやされた新古典主義の厳格な様式は、もはや時代の好みに合わないものになっていたのです。画家たちが新しいテーマと表現方法を模索し始めていた時期、いち早くジェリコーによって、ロマン主義という人間ドラマへの道が切り開かれたのです。


 

民衆を導く自由の女神

ドラクロア

ルーヴル美術館 パリ、フランス

 これは、政治的関心の薄いドラクロワにしては珍しい、七月革命の現場をテーマにした作品です。
 ドラクロワ自身がこの動乱をじかに見たわけではないのでしょうが、一応、現実の光景を描いているという意味で、特筆すべき作品です。
 1830年7月28日、七月革命は市街戦となって3日間続きました。この動乱で、国民の自由はやや解放されたと実感したドラクロワはこの作品を描いたようで、女神の左側でシルクハットをかぶり銃を手にした青年はドラクロワ自身であるという説もあります。真偽のほどはわかりませんが、ドラクロワがボナパルティストとしてこの革命に共感し、自らの姿を描き加えたのだという説は有力です。
 しかし、ここで自由の女神が三色旗を掲げて市民の先頭に立っている姿は寓意的で、いかにもドラクロワらしいところではないでしょうか。革命そのものよりも、激しい動勢を背景にして高揚する人間の感情そのものを主題にしているのがよくわかります。
 ドラクロワは、「われわれが描くべきものは事物それ自身ではなく、その事物のごときものである。眼のためでなく心のために作り出すのである」と言っています。劇的な躍動感がドラクロワ芸術の根源であり、生き生きとした人間群像と確かな描写力がこれを支えています。


 

馬上の貴婦人

ブリューロフ

トレチャコフ美術館 モスクワ、ロシア

カール・ブリューロフ(Karl Bryullov 1799〜1852) ロシアの画家。サンクトペテルブルグ、モスクワ、ローマで制作活動をして、国際的観点から活躍したロシア人最初の画家。ロシア絵画を新古典主義からロマン主義へ導いた。代表作「ポンペイ最後の日」(サンクトペテルブルグ・ロシア美術館蔵)、「馬上の貴婦人」 (モスクワ・トレチャコフ美術館)など。


 

民衆の前に現れたキリスト

アレクサンダー・イワノフ

トレチャコフ美術館 モスクワ、ロシア

イワノフはイタリアへ留学し、そこで芸術創造に打ち込んだ。作家のゴーゴリとも親交があり、ゴーゴリとは男色関係にあったとも言われている。この絵はアレクサンダー・イワノフが全精力を傾けた大作である。540cmX750cmのこの大作はトレチャコフ美術館の中でも圧倒的な存在感を示している。

 この絵の中で民衆の前に出現するキリストは皇帝の威厳を損ねるものだとして、ロマノフ王朝はイワノフの存在を危険視した。しかしこの絵によって目覚めた体制への批判的レアリズムはその後の画家たちによって確実に受け継がれていった。


 

落ち穂拾い

ミレー

オルセー美術館 パリ、フランス

 1850年前後に、オノレ・ドーミエ、ギュスターブ・クールベ、そしてフランソワ・ミレーの写実主義絵画を代表する3人の画家が相次いで登場しました。その中でもミレーは、労働する農民の姿を、聖書や古代文学に語られる人間の労働の根源的な意味と重ね合わせて描いた画家です。
 ミレーは日本でもとても人気があって、特にこの「落ち穂拾い」と「晩鐘」は、小さいときから教科書で目にしたり、また、家の居間などにそっと飾ってあったりしたので、私たちにとって、とても身近な作品なのではないでしょうか。下を向いた女性たちの顔の表情までは読み取れないのですが、夕日を背に受けて、腰をかがめて落ち穂を拾う彼女たちの姿はとてもなじみ深く、また、とても尊い印象を受けるものです。働く姿を題材にしているのに心がなごんでしまうのは、本当はいけないことのようにも思うのですが、ミレーは何よりも親しみやすい画面の中に、労働する人々の神々しさを描ける画家だったのだと思います。
 ミレーの時代、農村では、この落ち穂拾いはよく見られた光景でした。刈り入れのあと、貧しい人々や寡婦たちには落ち穂拾いの権利が認められていたのです。そのため、農夫たちは、しばしば全部をきれいに持って行かず、わざと落ち穂を残して、そうした人たちが困らないように配慮したといいます。
 ミレーは、このような農村の労働や祈りの様子を、愛情をこめて描き続けました。彼の作品からは、いつも労働の悲惨さではなく、尊さ、美しさが伝わり、私たちを素直に感動させてくれます。色彩も落ち着いて、そして控えめで、決して声高ではないのに、こちらの心はどんどん洗われていきます。
 ミレー自身がフランス・グレヴィル近郊の貧しい農村の生まれであるために、「落ち穂拾い」に見られるような題材をごく自然に見出したのかも知れませんが、決して幸福とは言えない農婦たちの姿を、こうまで詩情豊かに見せてしまうのはすごいことだと思います。画家の眼差しの優しさを感じます。

農民の生活を見て、それを描き続けたミレーはこんな言葉を残しています。
「私は、農夫の中の農夫である


 

羊飼いの少女

ミレー

オルセー美術館 パリ、フランス

 夕闇のなか、顔の表情はいまひとつ定かではありませんが、羊飼いの少女が静かに、大地に根を張った一本の樹木のように立ち尽くしています。すでに手元は暗くなり始めているのでしょうが、一心に編み物をしている少女の無心な、愛らしい姿は、今でも観賞する人々の心を温かくとらえます。詩人リルケはミレーの描く農民を見て、「彼らはいついかなる時でも大地に単刀直入できる」と語ったそうですが、まさしく彼女はリルケの言葉そのままに「一本の樹のようにバルビゾンの広野のただなかでただ一つ直立して」いるのです。美しく壮麗な水平の広がりと垂直の形体は、みごとに自然を描きながらも、ミレーが試みた雄大な虚構といえるのかも知れません。
 彼の描く地平線は、いつも中央のあたりがかすかに盛り上がっていて、この盛り上がりに向かって画面はすうっと収斂されています。そして私たちの心は、彼の描く地平のかなたに存在するに違いない神の光をごくあたりまえに受け入れてしまえるのです。また、人物の頭部はきまって地平線スレスレのところに置かれることが多いのですが、ここには人間と自然との交感が無理なく表現されていて、たそがれの一瞬の平和の中にいる少女の心情が、やさしく美しく表現されているのです。
 ゴッホは羊の群れを描く難しさを「白波が立つような」という言葉で表現しているそうですが、ミレーは光の反映のなかの羊たちを、それは鋭く、かつまた自然に、ある種幻想的に描き切っているのです。羊の習性を熟知した彼ならではの表現ではないでしょうか。
 ミレーは、「汝の額に汗して、汝の生計を立てよ」という信念を地でいった人間でした。彼にとって、運命は不変であり、描くことは労働であったのです。そんなミレーは、人生のリアリティがいかに重要であったかを知っていたのだと思います。貧しさに耐え、わずかな旅費が工面できないために母親の死に目にも会えなかったミレーは、しかし、そんな自分の境遇を呪うことなく、ありのままに受け入れて、ひたすら農民の生活を描き続けたといいます。
「栄華のさなかのソロモンでさえ、この色のひとつほどにも着飾っていなかった」とキリストが言った小さな花々を、まったくそのようなものとして見ているのです....と述べたミレーの慎ましさ、清らかさは、そのまま彼の作品となって、私たちの心をいつまでもいつまでも安らぎのなかに満たし続けてくれているのです。


 

草上の昼食

マネ

オルセー美術館 パリ、フランス

 印象派の先駆的画家エドゥアール・マネの名を一躍有名にした問題作『草上の昼食』。本作はルネサンス三大巨匠のひとりラファエロが残したデッサンに基づいて後世の画家マルカントーニオ・ライモンディが制作した銅版画『パリスの審判拡大図)』や、ルーヴル美術館が所蔵する巨匠ティツィアーノ(原筆はジョルジョーネ)の代表作『田園の奏楽』に(構図的)着想や典拠を得て、神話的主題を、そして古典的名画をマネが当時、民衆の間で流行していたセーヌ河畔で過ごす休暇風景に準って現代化し、『水浴(Le bain)』の名で1863年のサロンに出典された作品である。本作はサロンから拒絶され落選し、落選作品が展示される会場(落選展)で民衆に公開されると、批評家、記者を始めとした来場者の殆どが「堕落した恥ずべき作品」、「批評家をからかい、混乱させるために描いた稚拙で厚かましい作品」と猛烈な批難を浴びせたが、このスキャンダラスな事件はエドゥアール・マネの名を一気にパリ中へ浸透させ、前衛的で伝統に批判的だった若い画家らがマネを先駆者として慕い集うきっかけとなった。

 裸体で草上に座り観る者と視線を交わす女はヴィクトリーヌ・ムーランという女性をモデルに、正装するふたりの男は画家の弟であったギュスターヴと後に義弟となるフェルディナン・レーンホフをモデルに描いた本作で、最も重要なのは、『田園の奏楽』など伝統的な作品に示されるような、非日常的場面でありながら文学的で芸術性を感じさせる神話的裸体表現の意図とは決定的に異なる、現実の中に描かれる現実の裸体表現にある。こちらを見つめる裸体の女は、観る者に否が応にも現実世界であることを感じさせ、(当時の者にとっては)強い嫌悪感を抱かせる。このような挑発的で伝統への挑戦的な行為はマネ芸術の根幹であり、それは後の印象派らの画家たちと通ずる思想や表現でもあった。なお本作はマネの個展が1867年に開かれた際、現名称である『草上の昼食』と画家自身が変更した。


 

サント・ヴィクトワール山

セザンヌ

エルミタージュ美術館 サンクト・ペテルブルク、ロシア

生まれ故郷のすぐ近くにそびえるサント・ヴィクトワール山は、セザンヌにとって、非常に重要な感性の山だったようです。ごつごつとした輪郭線を持つこの山を、セザンヌは60点以上も描き続けています。1878年には、親友のゾラへの手紙で、「すばらしいモチーフだ」と絶賛しています。
以後30年間にわたって、彼はサント・ヴィクトワール山を偏執的に描き続けるわけですが、その作品群を見ながら、何が彼をこんなにこの山に惹きつけたのか、私にはちょっと理解しがたいものがあります。石灰岩だらけの、ただごつごつした巨大な山のどこに、セザンヌの感性が呼応し続けたのでしょうか。
ただ、セザンヌには「ここ」という場所がどうしても必要だったのかも知れない、と思います。
妻子とも離れて、孤独な晩年を過ごすセザンヌは、その孤独の中で不満を抱きながらも前進し続けていました。筆使いはのびやかになり、この「サント・ヴィクトワール山」など、ほとんど抽象画のようで、「色のモザイク」と言ってもいいものです。そこには、ごつごつした岩山ではなく、空と一体化しそうな、やさしい稜線がうかがえます。
「私には約束の地が見え始めた」と、彼は書いています。とにかく、確かで永続的な境地が、どうしても重要で、それが約束の地であり、サント・ヴィクトワール山に象徴されるものだったのかも知れません。セザンヌはこう書いています。「私には約束の地が見え始めた。でも、なんだってこんなに遅く、こんなにも苦労して?」。
彼は嵐に打たれたことがもとで肺炎になり、1906年10月、孤独のうちに亡くなります。最後に「約束の地」に手が届いたのかどうか・・・。そうあってほしいと思います。


 

女優ジャンヌ・マリーの肖像

ルノワール

エルミタージュ美術館 サンクト・ペテルブルク、ロシア

 

 

印象 日の出

モネ

マルモッタン美術館 パリ、フランス

 朝もやの中、一日の始まりを告げる太陽が徐々に昇り始めています。すべてが茫洋と輪郭がぼやけ、かろうじてそれとわかるのはオレンジ色の太陽と、小舟で沖へ出ようとしている人物たちのシルエットでしょうか。空と海の境も定かではなく、ここで画家にとって重要なのが、まさしく「印象」なのだということがわかります。モネは、大胆なタッチで光をとらえることに専心しています。水面に映る太陽の光の揺らめきが、画家の筆の速さと一瞬をとらえる優れた眼を実感させます。

 1874年4月5日、第一回印象派展がパリで開催されました。場所はオペラ座近くのカピュシーヌ通り35番地で、当時の正式名称は「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第一回展」という、何とも愛想のないものでした。ルノワール、ドガ、セザンヌ、ピサロ、シスレー、そしてモネらは、サロンに対抗して自分たちの会社組織によるグループ展を開き、作品の販売をしていこうと「共同出資会社」を設立していたのです。しかし、それがいつの間にか「印象派展」に変わってしまったのは、実は、この作品がきっかけだったのです。
 この展覧会に、モネはル・アーヴルで制作した「印象、日の出」を出品したわけですが、批評家たちの評価は辛辣なものでした。サロンの、筆触を感じさせない滑らかな絵画を見慣れた人々には、スケッチ風の大まかな絵の具の塗り方はまるで未完成作品のように見えたのでしょう。
 批評家ルイ・ルロワは諷刺新聞「シャリヴァリ」紙上で「印象・日の出」を取り上げた際、「印象――そうだと思っていました。私もまさにそう言おうと思いました。私がこの絵から印象を受けたのですから、この絵のなかには印象があるはずです。……そして何と自由に、何と気軽に描かれていることでしょう! まだ描きかけの壁紙でも、この海景画よりはもっと仕上がっていますよ!」と、感情的とも思えるほどに揶揄したのです。
 ところが、この記事が発端となって、グループ名自体が「印象派」と呼ばれるようになり、後にこのグループ展は「第一回印象派展」と称されるようになったのです。若い画家たちは逆境を逆手にとって、風景画や風俗画のような「わかりやすい絵画」を好む裕福な市民階級にアピールしたということでしょうか。

 モネの後の説明によると、彼は、「カタログ用に題名をつけるよう言われたのですが、『ル・アーヴルの風景』では余りにも単調だったので、『印象』と付け加えるように言ったのです」と述懐しています。画家の作品への思い入れが伺われるようです。
 具体的な事物の描写ではなく、大胆なタッチで光をとらえたモネの、当時の常識では考えられないほど斬新な作品は、ル・アーヴル港の日の出だけではなく、作品発表の場を求めた若手画家たちの新たな価値観の船出を印象づける記念碑的作品となったのです。


 

ルーアン大聖堂

モネ

オルセー美術館 パリ、フランス

 光によって面をとらえたような、現実の建築物でありながら今にも崩れゆく夢の城のような、画家の苦闘の跡を感じさせる大聖堂です。

 モネの関心はただひたすら、自然がもたらす色彩と光の妙に向けられていました。しかし、それらは絶え間なく変化し、モネを苦しめます。自然は一時も止まることがないのです。静止した画面にその変化を描き出すことは困難で、それが何よりも画家の苦悩となりました。
 そんなモネの脳裏にひらめいたのが「連作」の構想です。時間や天候によって刻々と変化する光や色彩も、連作にすることで確かにとらえることができると考えたのです。二人目の妻アリスや娘シュザンヌにも恵まれ、経済的にも安定した1890年ごろから、モネは意識的に連作に取り組むようになります。それは、終の住処となるジヴェルニーの家の周辺で見つけた「積みわら」「ポプラ並木」、そして晩年の「睡蓮」連作へと発展していくわけですが、この「ルーアン大聖堂」も重要な連作の一つでした。
 1892年から93年の晩冬から早春にかけて、モネはフランス北西部の古都ルーアンに滞在し、約30点にのぼる大聖堂を描いています。ルーアンは、今でこそ学生の町として有名ですが、中世からの古市であり、百年戦争で捕虜となったジャンヌ・ダルクが火刑に処せられたのもこの町でした。歴史的建築物の多いルーアンでも、ひときわ高い尖塔を誇るルーアン大聖堂はゴシック建築の代表として知られ、その威風堂々たる姿はモネをいたく感動させたようです。
 画家は、大聖堂向かいの建物の2階に部屋を借り、夜明け直後から日没直後までのさまざまな時間帯、天気のよい日も悪い日も、魅入られたように描き続けたのです。古来、画家が同じ構図の作品を複数描くのは決して珍しいことではありませんでしたが、これほどに一つのモチーフを追求した画家は少ないかもしれません。
 ところが、理想のモチーフに出会いながら、モネは苦闘し続けたようです。青やバラ色、黄色の大聖堂が自分の上に崩れ落ちてくる悪夢にうなされたり、日々新しい発見をしながら、絵に手を加えることで何かを失ってしまう思いに苦しめられました。大聖堂は画家の心も知らず刻々と表情を変え続け、それを追う画家の手によって、瞬間の集積のごとくバラ色に、褐色に、青にと、絵の具は厚みを帯びていきました。

 この作品はその中の一点で、曇りの日の大聖堂を描いたものです。連作の中でも比較的しっかりとした形でとらえられていますが、光を浴びて、ほとんど大気に溶け入ってしまいそうな作品もあります。しかし、モネは光の変化を追い求めながら、ルーアン大聖堂そのものを描くことにも喜びを見出していたに違いありません。だからこそ、形態は曖昧であっても、それが中世のゴシック聖堂であることを見る者にはっきりと印象づけています。
 95年5月、デュラン=リュエル画廊において、20点の大聖堂の連作で構成された展覧会を開いています。


 

ノートルダム

ユトリロ

オランジュリー美術館 パリ、フランス

モーリス・ユトリロ。 1883年パリ生まれ。
モンマルトル一の美女として、モンマルトルを拠点とした画家たちのモデルを数多く務めたシュザンヌ・ヴァラドンの息子。

彼の父親ははっきりと分かっておらず、シュザンヌいわく「ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの作品か、ルノワールの作品かわからない」とか。
「その立派な画家たちの作品に、僕のサインをさせてもらおう」と、かつてシュザンヌと同棲していたミゲル・ユトリロ・イ・モルリウスが認知を行いユトリロ姓を得たようです。 ちなみに、モルリウスは姓を与えただけで養育は一切感知せず。

ユトリロ自身は絵画に全く興味がなかったものの、アルコール依存症で入院した際に母から与えられた絵具一式がきっかけで住み慣れた街の風景を数多く描き、モンマルトルの画家と呼ばれるように。
彼のサインはモーリス・ユトリロ・V。 Vは母:ヴァラドンの頭文字
オランジュリーでは9点ほどの作品を収蔵しているようです。