パリ憂国忌  竹本忠雄著



 

講演にご感想をお寄せいただき、大変嬉しく存じました。
日本では忙しく、一昨日パリに戻って漸くご返事する次第です。
多くのお知り合いとの繋がりのなかで御聴講いただいたことを
貴重に受け取らせていただきました。
旧「軍人会館」では小学生だった軍国少年の自分も慰霊祭に出席し、
その凛裂の空気は未だに思い出しても身が締まるほどです。
 
 身はたとい異土にあるとも日本のため、日本のためだけに生きております。
 今後とも、
皆々様の一層の御発展を心よりお祈り申しあげます。

武蔵とともに「兵法、逝去して絶えず」と信ずるパリ異端児、竹本忠雄拝

 

初版序言

かくのごとく、人は死に方を学ぶべきであろう。
そして、かかる死者によって
生者の誓いが祝福されぬかぎり、
世に祝祭があるべきではあるまい。

ニーチェ『ツァラトゥストーラかく語りき』

人々は一つの真実をさとった。われわれが希望よりも恐怖をもって生きつつある現代文明は、けっして新時代ではない。「進歩」を信仰した18世紀以後300年間の西欧文明の、むしろそれは決算期である、と。
そしてこの憧憬、垂直上昇性の復活がなかったら、西紀1970年11月25日、極東の一島国の空に昇った閃光が、紫電となってかくも迅く世界を駆けめぐりはしなかったであろう。

フランスの戦慄

1 予兆

P12
ド・ゴール将軍の葬儀の日だった。
パリのノートルダム大聖堂では世界各国の代表が威儀を正して国葬に参列し、同時に、将軍の埋葬されるコロンベーの村に向けて、フランスの津々浦々から参集する人々の車が、いつ尽きるともしれない長蛇の列をつくりあげていた。

P13
テレビが、切々たる響きで、葬儀の光景を流していた。
やがて、町々の教会が、いっせいに弔鐘を鳴らしはじめた。
時に1970年11月12日だった。

P14
唐突に投げられた「切腹」の一語は、あたかも真紅の一輪の薔薇が不意に眼前の虚空に現れて砕け散ったかのように、なんらの現実性をも持たず、空転してみえたのである。

P16
ただ、私は知らなかったのだ。この運命の糸のいかなるかをさぐる使命のうちに、そのとき自分が置かれつつあったということを。そして、おそらくはそのために、自分自身の人生が根本的に影響をうけるさだめにあったことを。

5 「祖国解放のヒーロー」

P29
人類史における文明間の接触は、数千年間というもの、「コーランか剣か」の二者択一によって行われてきたそれなのである。聖書が鉄砲とともに伝来したのは、歴史の一挿話ではなく、本質そのものと言ってさしつかえない。食うか食われるかの、文明間の力学関係から文化がまぬがれていると思いこむのは、文化が宗教の座を占めようとする現代に特有の、交通安全的な整理整頓の感覚にすぎないので、かつては一個の信仰を受けいれるにさいして、「しからずんば死」を決定しなければならなかったこと、あえてここにいうまでもあるまい。

6 「ハラキリ」より「セップク」へ

P34
「日本人は自己の宗教的感情を祖国の観念に転化する国民であり、現人神=天皇こそはかかる観念のシンボルにほかならない・・・・」(フィリップ・ラブロ)

8 ポーランド地下抵抗者たちの感動

P43
<三島由紀夫の抜いた、あの刃が、もし彼自身に向けられず、他者に向けられていたとしたら、どうであったか?>
いっさいは、おそらくいっさいは変わっていたであろう。
もしそうであったなら、キリスト教文明の中心動脈を流れる殉教精神、中世黄金伝説が語りつたえる聖人聖女たちの狂おしいばかりの自己犠牲の熱情、そしてこれと重なりあって築かれてきた他民族の侵略と圧制にたいする抵抗精神が、これらの素朴にして敬神的な人々の胸に呼びさまされるということはありえなかったであろう。ぜったいに!
思えば、自衛隊への斬りこみにあたって、われわれの悲劇的ヒーローが銃器を選ばず日本刀を選んだことは、実に深き慮(おもんばか)りある行為というべきだった。他者の殺害ではなく自害によって結着するその行為が、いかに西欧のもっとも高貴なる魂を振起し、その魂の屈折をとおしていかに深く日本の名誉をあながわんとしたものであるか、この夜、このうえなくはっきりと、私はその明証を見たのだった。

苛烈なる啓示

1 予言者、故郷に入れられず

P79
かつて、1958年、ド・ゴール大統領のもとにフランス第五共和国が成立したとき、フランスはアンドレ・マルローを特使として日本に派遣し、国交を樹立したことがあった。その時、偉大なる使者は、満堂の聴衆を集めた講演席上において次のように提唱した。
「西欧全体にたいしてフランスは日本の精髄の<受託者>たらんとするものであります」と。

P80
日本の皇室の代表と、時の総理大臣以下の、満場立錐の余地なき各界代表をまえにして、フランスの名においてマルローはこう言ったのだ。
この日本の精髄について全世界が甚だしい無知のなかにいるということを、どうか、しっかりと肝に銘じていただきたい。 =中略= 
「日本は中国の一遺産ではない。なぜなら日本は、愛の感情、勇気の感情、死の感情において中国とは切り離されているから。騎士道の民であるわれわれフランス人は、この武士道の民のなかに、多くの似かよった点を認めるようにつとむべきであろう。かつ、真の日本とは、世界最高の列のなかにあるこの国の12世紀の偉大な画家たちであり、隆信(藤原)であり、この国の音楽であって、談じてその版画に属するものではない」と。
「鉄の琴に合わせて歌われたその歌は、死者の歌、英雄の歌、深淵なるアジアのもっとも深淵なる象徴の一つにほかならない!」と。

P83
ルーヴル博物館の入口、真正面に置かれた聖なる一大傑作は、首なくしてしかも大空に向かって羽ばたく『サモトラケの勝利女神像』である。しかも、偶然ではあるまい、そこからシャンゼリゼーを通って2`メートル離れた地点に真向かって立つものは凱旋門であり、その下には、「無名戦士の墓」の小さな炎が永遠に燃えつづけてやまないのだ・・・・

2 知られざるフランスの靖国神社

P83
「これこそフランスの生んだもっとも美しいものであると思います」

兵士の一隊は、一軒の家の門口の前に立ちどまり、その扉に、掲げもってきた花輪を恭しく掛けた。そして一斉に捧げ銃の礼をささげたのである。

「毎年、命日がくると、ああして政府はそれぞれの遺家族に畏敬を表しているのです・・・」

「ああ、かくてこそ、この国の人々は祖国のために安心して死ねるのだ!」

3 武士道と騎士道の対話?

P88
ド・ゴール大統領と「対話」した日本の啓示かにしても皆無である。エリゼー宮で大統領と話しを交えた池田勇人首相にしても、むなしく空いてから「トランジスター商人」との寸評を得たにすぎない。
日本人にとって「平和憲法」の名で正当化されるものは、フランスの目にとって隷属の条件にほかならなかったからである。
日本人が商人の言葉で語るとき、フランスは騎士の言葉で語っていたのだ。

政界を引退したアンドレ・マルローが、「あなたにとって《平和》とはなにを意味しますか?」と尋ねる私に向かって答えた言葉は、「それは、つねになにものかと闘うことによって勝ちうるものである」ということだった。ところで、日本では、「闘う」ということ、「勝ちとる」ということ、こうした言葉自体が---たとえ「平和」のためであっても---すでにタブーだったのである。

パリ・ローマの論争

2 手繰られた「市ヶ谷」の因縁

P97
「東京裁判」は、実際には、何人かの被告を見せしめに裁き、全員、愛国心のゆえに有罪なりと宣言したにすぎない。 =中略= 連合国側こそ、「経済制裁」に名をかりて、宣戦布告もなく日本を窒息死せしめんとしていた事実を忘れてはならない・・・・

P98
リチャード・ストリーがその著『近代日本史』のなかで記しているごとく、日露戦争時において、ロシア兵の捕虜ならびに支那の民間人にたいする日本人のふるまいは「世界中の尊敬と感嘆を勝ち得た」事実を思うがよい。でなくして、旅順開城ののち、露軍司令官ステッセルは、なぜ乃木将軍にその白馬を献じようと欲したであろうか?(ピエール・パスカル=「平和の発見」のフランス語版翻訳者)

P99
そう考えたところに、戦後の不幸なる「一億総懺悔」的欺瞞化があったとさえ言いたい。
「偽善」と三島由紀夫が呼んだ日本の構造は、そこにあったのである。

5 「イル・テンポ」紙の正論

P109
ここ数年間というもの、アメリカ人は、自分たちが精を出した毒草除去の作業が完全すちたという結果を、恐怖心をもって見つめてきた。欧亜二世界にわたるドイツと日本の軍国主義、および地中海でのイタリアの野心をあまりにも徹底して摘み取りすぎたために、これら蛇蝎のごとき三国が歴史のつんぼ桟敷においやられて商人国家へと変貌していくさまを、「アンクル・トム」はただ呆然と見守るほかはなかった・・・・
われわれヨーロッパ人が、自国侵略をロシア赤軍用のトラックを競争さわぎで製造しつつあるあいだに、もはやどこからも侵略の恐れなしと信じきった日本は、アジアの警備役はアメリカにまかせっぱなしで、日本株式会社は二度と軍事大国になるつもりはないと公言しつづけてきたのである。
なんとかして日本人にもう一度尚武の気概と世界政治の巨視感を持ってもらいたいと、アメリカ人の側で躍起になってきたのも、むべなるかなというべきである。

P110
かくて日本は、豪華けんらんとしてかつ陰鬱なるヴァカンスを享受しつづける結果となる。貧困から安楽へと兎跳びに跳びあがり、富裕にして怡悦(いえつ)なき一億の日本人は、熱狂の空虚を、国家的目標と集団的希望の欠如を、時とともにはっきりと認識するにいたった。

P111
東京の街中で人が見いだすものは、すべて西欧的擬装、カーニバルの仮面にすぎないのだ。

6 賛歌・・・ユキオ・ミシマの墓(ピエール・パスカル)

P114
「高度経済成長」の奇蹟として世界中の人々を驚かせてきた日本は、じつは「両手を絶ち切られた国」(アンドアレ・マルロー)であったと、自刃によって切裂かれたヴェール越しに人々はその実像を初めて直視したのである。

丸腰の紳商国家日本は錆びた一剣をまだ蔵していたと気づかれたのある。幾とせ耐えて鞘鳴りつづける「益荒男」の太刀を。
この太刀に研ぎを入れるかどうか?
これはわれわれの問題であるとともに現代史の問題そのものであることを、イル・テンポ紙の記事は喚起している。

P116
根本的な違いは、三島由紀夫がまさにそう望んだように、そしてヨーロッパにあってはアンドレ・マルローのような人間が深くそれに応えたように、「終り」を見定めることから生きはじめるか、終りなき人生を望むかの違いにある。

別の文明に向かって

3 「内翻足の男」と「マダム・エドワルダ」

P127
「皇祖皇宗の神霊」こそは日本人のアイデンティティーの持続を保証する超越軸であった。
しかるに天皇がみずからその神性を否定し、「人間宣言」を行ったとしたら、どうなるか?
日本人の<超越>への根拠、その結晶軸は絶たれるのである。
そこから生ずる魂の漂泊のドラマは、かりにキリストがみずから「神の子」たるの資格を日年した場合と、おそらく本質的にはなんの径庭もありえなかったはずである。

P132
一読三嘆の念をつねに禁じえない。

5 欠如している《不条理》の感覚

P136
そもそも日本の武芸百般において、武術を「道」として高めたものの極意がすべて、ある意味において敵味方の一体化を説いている特異性に、あらためて私は一驚させられるほどである。
剣道家のあいだに秘伝として伝えられてきた最古の『兵法虎之巻』なるものを見ても、「来レバ則チ迎へ、去レバ則チ送リ、対スレバ、則チ和ス、五五ノ十、二八ノ十、一九ノ十、是ヲ以テ和スベシ」とあって、秘伝の内容というのはこれだけの話しである。
そして、この『兵法虎之巻』が、「和をもって貴しとなし、忤ふることなきを宗とせよ」という聖徳太子の憲法17条制定と同時期に書かれたと言いつたえられてきた点に、かぎりない夢想を私は抱かされるのである。

P137
いっぽう、三島由紀夫はいうのだ。
奈須の与一が扇の的を射た瞬間は、無名の一武人が歴史の表面に浮かびでてきてそれとかかわりを持った稀なる瞬間であった、と。

6 敗北は日本文化の宿命

P139
「私にはふと、第二次大戦における敗戦は、日本文化の受容的特質の宿命でもあり、また自ら選んだ運命ではないか、と思はれることがある。なぜなら、敗北は受容的なものである。しかし勝利は、理念であり、統一的法則でなければならぬ。日本文化は、このやうな勝利の、理念的責務に耐え得たかどうかは疑はしい」
大東亜戦争にたいして文化論のうえから下された、これ以上に深い洞察を、私は聞いたことがない。

「西欧の芸術はすべてなんらかの意味で対立を描いたものばかりだが、日本の芸術にのみは対立がない」と言ったアンドレ・マルローの言葉が思いだされてくる。

ド・ゴール、憂国の先駆者

2 反時代的たること

P157
『自刃』と『太陽と鉄』を読み比べて強く感じさせられることは、彼らが何にたいして諾というために何にたいして否と言ったか、その点が実にはっきりしているということである。

P160
つとに戦車を中心とした機甲師団の未来性に着目し、国難の再来を救うべく、あるいは時の政府閣僚に当り、あるいは出版、講演をかさねて、国軍再建の新戦略を説いてまわったが、ついに誰からも聞き入れられるところとならなかった。たったひとり、ひそかにこの卓抜な理論を研究し、信じ、かつ採用した一人物=恐るべき転載があった。なんと、それがヒットラーだったのだ。動く牙城、ライヒ装甲師団はこうして生まれ、それは、1940年5月、一気にマジノ線を突破してしまった。
ドイツ式重戦車の攻撃の何たるかを知らない指揮官たちのもとで、哀れなフランス兵が、25年前とまったく同様の塹壕掘りで守備できると信じて固めた、独仏国境の神話的要塞を、である。

3 レジスタンスから生まれた祖国

P162
かくて、「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へと落ち込んでゆくのを見た」と、あの最後の檄文において、「楯の会隊長」三島由紀夫が自衛隊将士に投げかけた断腸の叫びに結びついていくこととなる。

P163
「日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくしてなんの軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ・・・・」

死を賭してまでその復活を振起しなければならなかったこの「日本」、幻視者・三島の心中にあってはすでに死に絶えていた「祖国」は、逆にフランスにあっては、いまや最も理解されうる一概念である点に思いをいたさなければならないであろう。
「バビロンの幽囚」を知った国なればこその理解である。
つまり、彼らにはドイツ第三帝国への隷属の体験があり、アウシュヴィッツがあり、「レジスタンス」があった。この煉獄の体験が、世界税所に「人権宣言」を発した国であることを誇りとする「自由・平等・博愛」の民フランス人の胸に、熱烈に「祖国」の概念を甦えらしめたのである。

6 永遠に歩みつづける「共和暦二年の軍隊」

P177
「フランスの歴史は、五百年間にわたるローマ帝国の支配から、その文物のすべてを学びつつ独立するということから始まりました・・・・。
われわれの先祖ガリア民族の首長、ヴェルサンジェトリックスが、シーザーの軍に抵抗して破れた姿に、遠い最初の独立意志を見ることができます。以後、西ローマ帝国の滅亡とともにクロヴィス一世が巨斧を振るってフランク王国を建設し、中世の不毛の砂漠に合戦の血が幾度となく流されたのちに、強大な政権と武力が合してフランスの国家がつくられるにいたりました。
つまり、戦士の勇気は政治の力あって初めて建国にいたるとはいうものの、フランスの王領をまず截(き)りとったものは、剣の一閃、二閃、また三閃であったということです。フランスの国家統一のしるし、百合の花は、三叉の槍のイメージにほかなりません・・・

ド・ゴールの「ゴール」とは「ガリア」の意味で、ド・ゴール将軍を仰ぎ見るフランス国民すべてにとって、この名がいかに魔術的作用をおよぼすかを、いくたびとなく私はみてきているからだ。
「ガリア」とは、われわれの「大和」と同じく、フランスの《まほろば》なのだ。

7 文武両道の二国はわれわれのみ・・・

P180
『一個の民族にとって、嵐のなかで最も確かな星とはみずからの使命にたいする忠誠である』
日本には、日本でなくしては果たしえない使命というものがあるはずです。それは日本民族がその建国の始めよりして連綿と培ってきたなにものかであるはずです。これに飽くまで忠実であろうとする民族意思のうえに国の統一と再建がなされねばなりません。

P184
フランスの紋章、百合=三叉の槍=菊と刀

世にあまたの国ありといえども、このような意味で文武両道をこれほどの高みにおいて意地してきた国は、フランスと日本を置いて他にありますまい。われわれは、おたがいに、みずから文明の最高のフォルムを、剣にうったえてでも護りとおす立場を貫いてきたのです。

「あなたがたの聖ミカエルも、またわれわれの聖ミカエルであるスサノオノミコトも、悪の化身であるドラゴンを退治する点では変わりありません・・・・
しかし、あなたがたの騎士の剣は、つねに敵を刺さんとして直立しています。
いっぽう、みずからを切り裂く脇差を用意していない日本の武士はいないのです!」

天皇、歴史の主題となる

3 《開悟の文明》と《啓示の文明》

P222
日本の神剣は、スサノオノミコトが退治した大蛇の尾よりそれを引き抜き、かつその血をもって浄めたことによって神宝たるの資格を獲得している。
しかし、西欧にとっては神剣は、エデンの園で大天使がそれを振りかざして以来、永遠に、「原罪」に打ち勝ちつづけるためのものなのだ。

インドより日本へ

3 もし武士道なかりせば・・・

P264
ここから、『ギータ』のインドをもはるかに越え、武士道の日本への回帰が行われるのだ。
世界に戦士の理想は無数にありといえども、自己のいのちを断つための小刀をもつねに腰にたばさむことをもって《武士道》とした唯一の国---日本へ。

エピローグ---滝の下の出会い

P272
「・・・・私は思った---これはアマテラスだ、と。日本の女神にして、水と、杉の列柱と、日輪との神霊。そしてそこから天帝が降臨してくる。この垂直の水は、二百メートルの高さから落下しつつ、しかも不動なのだ」

P274
「日本の原点」からどこかでわれわれが逸脱してしまったことこそは真の敗因である。
日本の原点---赫奕(かくやく)たる太陽と出会うことを、われわれの文明は、起源以来、永遠に運命づけられてきたのである。

P277
伊勢・熊野の旅から東京にもどるや、マルローはフランス大使公邸で行われた在日外国人記者団との会見にのぞみ、こう高らかに宣言したのだった。
「日本の歴史には、《聖なるもの》が洞窟より顕れでる瞬間というものがある!」と。

日本の神が顕れるときの、この「瞬間」なるものが、ダマスコスへの道で聖パウロを盲(めしい)させた超自然的光芒におとらず、いかに凄じいものであるかを、この短い一言は語ってあまりあるものだった。
マルローと名乗るこの不思議な、もう一人の予言者は、世界の目と耳に向かって、そのときこう言っていたのだ---
《見よ、日本の夜明けは来る。きっとやってくる》と。

写本 平成15年3月1日