波乱万丈の生涯 エディット・ピアフ


 

水に流して(私は後悔しない)

過去は永遠に清算した。私はまたゼロから出発する。

 

エディット・ピアフの生涯は、誕生の瞬間から他の人たちとは違っていた。

 

19151219日、彼女の母(歌手)は彼女を自宅前の路上で出産した。

陣痛に見舞われ病院に行く途中だったと言われている。

3歳の時に白内障にかかり失明、視力を取り戻したのは6歳の時だった。

7歳頃から父親(大道芸人)について街頭に出て歌うようになる。

17歳でマルセルという娘を出産

1935年、自分が出演するクラブの経営者が、店で射殺される。

1941年からのナチス・ドイツ占領下では、捕虜となったフランス兵たちを慰問して歌い、レジスタンス活動にも手を貸した。

1944年、ムーランルージュに出演してイヴ・モンタンと知り合い映画にも出演、 モンタンを育て、売り出しに力を注いだ。

1947年、ボクサーのマルセル・セルダンと知り合い激しい恋に落ちる。

彼は1948921日、ミドル級の世界チャンピオンになる。

19491028日、ニューヨークにいるピアフのもとへ向かうセルダンの乗った飛行機が、アゾレス諸島に墜落。彼は帰らぬ人となった。

同夜、ピアフはニューヨークのクラブ、ヴェルサイユで彼のために歌うが、 途中で倒れてしまう。「愛の賛歌」は彼の生前に書かれた曲だが以後、彼女にとっては消しえぬ悲劇の象徴となった。

1952年、彼女はジャック・ピルスとニューヨークで結婚、 立会人はマレーネ・ディートリヒだった。

1955年、カーネギーホール及びパリの名門、オランピア劇場に初出演。

1958年、オランピア劇場出演中、ジョルジュ・ムスタキと出会うが、 彼の運転する自動車で事故に逢い、重症を負う。

1960年、シャルル・ヂュモンがピアフ邸を訪ねた。「水に流して」を携えていた。

1962109日、美容師だったテオ・サラボと結婚。

1963318日のリール市での公演が彼女のラスト・ステージとなる。

同年、1010日、カンヌのはずれ、ブラスカシェ村の別荘にて永眠。

生前親交のあったジャン・コクトーはこんな文章を残している。

「マダム・エディット・ピアフは天賦の才がある。真似はできない。

彼女の以前にエディット・ピアフはなく、今後も決していないだろう。