唐人お吉秘話


下田市河内 お吉が淵


 

黒船来航の背景

 産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大に急いでいたが、後にそれは熾烈な植民地獲得競争となる。インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は、西欧との競争のためには、太平洋航路の確立が必要であった

 産業革命によって捕鯨が盛んに行われるようになっていた。これは、夜間も稼動を続ける工場やオフィスのランプの灯火として、鯨油を使用していたからで、太平洋で盛んに捕鯨を操業していたアメリカは、太平洋での航海・捕鯨の拠点(薪、水、食料の補給点)の必要に駆られていた

 ペリー提督の来航やハリス総領事の着任後、アメリカでは南北戦争が勃発し、アジアへの影響力が消えて行く。それに代わって英国がシンガポールや香港を植民地にして支配的な地位を築く。日本では、英国の支援を受けた薩摩、長州などが中心勢力になって江戸幕府が倒され明治政府が生まれる。

 

お吉が淵のお吉地蔵

百日紅(サルスベリ)の木とお吉地蔵 ⇒ 立て札

立て札の文章全文

 このお吉地藏は故新渡戸稲造博士の篤志によって昭和8年8月に建立されたものです。博士は幕末開港の陰に一輪の花と咲いた薄命の佳人「唐人お吉」の大の同情者の一人でありました。

 たまたま昭和8年7月16日このお吉ヶ淵に詣でお吉の霊を懇ろに慰めるとともに「お吉地蔵」の建立を思いたったのでした。地蔵尊の背面には博士の母堂の命日にあたる昭和8年7月17日とだけ刻まれてありましたが、今では摩滅して定かではありません。

 博士はこの地蔵尊の姿を見ないまま第5回太平洋問題会議に日本側の理事長として出席中、昭和8年10月15日にカナダで病に倒れ、71歳の生涯を閉じました。

    から艸(くさ)の浮名の下に枯れはてし
    
君が心は大和撫子

お吉思いのこの歌は博士の奥ゆかしい心情が偲ばれます。

下田市・下田市観光協会