オオキンケイギク(特攻花)

第二次世界大戦中、アメリカ艦隊に向け特攻出撃する若い隊員たちが、鹿児島の空軍基地から次々と飛び立っていきました。見送る人から贈られる花を、滑走路脇にそっと置いて。この花だけは散らすまい・・・。

その花の種が風に舞い・・・60年たった今も毎年、滑走路周辺に花を咲かせます。
この花を、地元の人たちは「特攻花」と呼び、平和を願う花として大切にしています。

 

 

私は、その花の名さえ知らず、鮮やかな黄色で彩られた土手を、ただ「きれいだなー」そんな感情で見ていたように思います。あの新聞記事を読むまでは。

6月7日の伊豆新聞の記事で、私はその花の名が『オオキンケイギク』という名の花であることを知りました。そしてまたの名を‘特攻花’という事も。

今年、私が土手に咲き乱れるオオキンケイギクを見る目は、今までとは大分違っていました。今までの「きれいだなー」に加えて、平和に暮らせる事への有り難さや、悲哀の感情等、色々な感情が、車で土手を通過する際に、こみ上げて来ました。

その新聞記事には、

『この花は、河内の山下さんが五年前に豊橋市の今は亡き戦友から譲り受けた苗を、土手沿いの田んぼわきなどに植え、周辺の手入れをしながら育ててきた。

山下さんは昭和18年12月、20歳の時に海軍に入隊。特攻隊員として姫路、串良基地から出撃予定だったが、21歳で終戦を迎えた。

沖縄決選の特攻が激しかったころ、九州南方の飛行場周辺に黄色く咲き乱れていたのがオオキンケイギク。誰言うとはとはなしに‘特攻花’と呼ばれていた。‘特攻花’は飛び立つ者の願い、見送る者の祈りを静かに見守った。(略)』

毎年6月頃、河内の土手を黄色に彩るあの花に、このような秘話があろうとは、想像もしていませんでした。

後日の伊豆新聞の記者のコラムを読み、私はまた、考えさせられました。山下さんの言葉を読んで。

『「今は命がけで人を助けることもない。地域のためにという気持ちが失われている。感謝の気持ち、謙虚さも」何の落ち度もない小学生が命を奪われる事件が多発。法を犯してまでも金もうけに走るゆがんだ現代の日本社会。「そんな国をつくるために(仲間が)死んでいったのかと思うと申し訳ない」』

私も時々、今の日本ははたして平和といえるのだろうか?と思うことがあります。自ら命を絶つ人が年間3万人以上いる現実。人々が生きやすい国だったら、そんな事は起こらないと思うのですが。

下田に移住して4年、河内に住み始めて3年が経ちました。

時々私は、この地に自分が居る不思議を思わされますが、風光明媚なこの地に育まれた人々の温かさに触れる度に、この地に来た意味を感じています。

私が依然住んでいた仙台市は、開発がどんどん進んでいます。帰る度に、こんなお店ができたんだ。こんなに家が建ったんだ。整備されると同時に消えてゆく自然に、私は、多少不便であっても自然が沢山あった方が、幸せであると感じます。

風はすっかり秋の風と感じるこの頃です。賑わっていた海も、静けさを取り戻しつつあります。私はこの地に来てから、秋や冬の海も好きになりました。むしろ、浜辺からパラソルが消え去った、静かな海の方が好きかも知れません。海が日常にある幸せを、私はこの地へ来て初めて味わいました。

車窓から海が見える。それだけでも心のモヤモヤが晴れることもあります。

自然は素晴らしい。それが私の信念です。河内の土手が彼岸花で彩られる季節になりました。彼岸花に彩られる光景を初めて見た時も、私は感動しました。そして彼岸花の本当の名前が、曼珠沙華であることを知ったのも、この地へ来てからの事です。

これから毎年、オオキンケイギクに彩られた河内の土手を見る度に、戦争が二度と起きないようにと祈りたいと思います。そして、戦争の犠牲になった方々が報われるような国になることを願いながら、生活していくたいと思わされています。

湯原 佐生綾子(さしょう りょうこ)