出口のない海
講談社   横山秀夫著


 

序章

太平洋戦争の火蓋が切られた1941年12月8日。
それは、並木が魔球を投げると宣言した日でもあった。

日本は石油や鉄鉱石などの資源を確保すべく、東南アジアへの南進政策を進めている。
その一方でドイツ、イタリアと三国同盟を結び、アジアでの権益拡大を目論むアメリカやイギリスの動きを牽制していた。6月には政府が「アジア民族による大東亜共栄圏を建設する」との生命を発表し、フランス領のインドシナ北部に駐留していた陸軍第五師団を南部へ進軍させた。アメリカも過敏に反応した。日本に対する石油輸出をストップさせたうえ、日本軍は中国全土から前面撤退せよ、と一方的な和解条件を突き付けてきた。
日米交渉は暗礁に乗り上げ、ピリピリとした空気の中でこの師走を迎えていたのである。

昭和16年は「鬼畜英米を撃て!」の大合唱とともに瞬く間に暮れ、明くる17年は勇ましい軍艦マーチと抜刀隊の歌で明けた。新聞とラジオは連日、陸・海軍部による戦果報告を伝えていた。
《大本営発表!現在までに判明せる戦果、以下の通り!》
陸軍第14軍、マニラを占領---海軍陸戦隊、セレベス島に落下傘降下---
ラバウルを占領---ジャワ島上陸---東部ニューギニア上陸開始---。
まさしく破竹の勢いだった。

日本軍の快進撃は束の間だった。
開戦から半年後の昭和17年6月、日本海軍の誇る航空艦隊が、米海軍の機動部隊にミッドウェー海域で大敗を喫した。わずか二日間の戦闘で虎の子の主力航空母艦六隻のうち「加賀」「赤城」「蒼龍」「飛龍」の四隻を失い、航空機322機と熟練した優秀なパイロットの大半を海に散らした。
この「ミッドウェー海戦」を境に戦局は逆転した。

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昭和18年2月、日本軍は半年に及んだガナルカナル島の激戦に破れ、撤退を開始した。
文部省が大学リーグの解散を通達したのは、その二ヶ月後だった。

剛原は一つ息を吐き出し、みんなの顔を見渡した。
「俺な、学生って身分が、なんだか重たくなっちまったんだ」
大学生や高等専門学校生らは二十歳を過ぎても徴兵が猶予されている。卒業するまで戦争に行かなくても済む。卒業の時期は一昨年から早められ、学生の修業年限は短縮されてはいたが、ともかく、在学中は軍隊とも戦地とも無関係でいられた。それを特権と詰る人もいる。学生でない同年代の若者は「赤紙」とも呼ばれる召集令状一枚で呼び出され、次々と戦地へ送り込まれていたからだ。
剛原は両手でテーブルを激しく打ち、席を立った。
「俺は行く---一死をもって悠久の大義に生きる」

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戦局は悪化の一途を辿った。
5月にアリュウシャン列島のアッツ島守備隊が玉砕。南方の島々でもことごとく苦戦を強いられ、日を追って日本兵の屍が、陸に海に増え続けた。大波のように押し寄せる米軍に対抗するため一人でも多くの兵士が必要となれた。「国民総戦闘配置」の方針が固まり、軍部の目は学生に向いた。
学生は高い学力を身に付けている。ならば戦地で倒れた職業軍人の士官の補充に最適だ。

9月21日。法文系の大学生、予備学生、高校・高等専門学校生徒に対する徴兵猶予の全面停止が閣議決定された。「学徒出陣」。二十歳を越えた学生、生徒たちは、学業半ばにして軍隊に送り込まれることになった。

並木は腹を括った。
軍隊や戦争への恐れがないと言えば嘘になる。だが一方で安堵の思いもある。
これで剛原や北や中学時代の友人に引け目を感じなくても済む。みんながみんな行くのだ。諦めと心強さもある。
そして何より、切羽詰った戦局が自分たちを呼んだのだという確かな実感がある。

もう戦争が良いとか悪いとかでなく、自分の生まれ育った国が危ないのだと言われて、聞かぬふりを決め込むことなどできなかった。

10月21日。秋雨。文部省主催の「出陣学徒壮行会」が、明治神宮外苑陸上競技場で挙行された。
降りしきる雨の中、「分列前へ!」の号令が掛かり、銃を担いだ学生たちはぬかるみを踏みしめて分列行進を行った。
東条首相は「諸君が敵米英学徒と戦場に相対し、彼らを圧倒することを信じて疑わぬ」と激励した。

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「浩二さん、すぐには敵地へ行かないんでしょ?」
「うん、最初は海兵団に入団して、二等水兵になるんだ。そこで軍人の基礎を学んでね、予備士官の試験にパスしたら、今度はまた専門の術科学校へ行くらしいよ」
「予備士官って?」
「学生あがりの士官をそう呼ぶんだ。予備・・・・だからスペアってことかな。
職業軍人のスペアって意味だと思うよ」

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昭和18年12月9日---。並木は高円寺の実家の前で木箱の台の上に立った。学生服に学帽。
日の丸を襷がけにして、近所の人たちの盛んな激励を受けた。「祝出征 並木浩二君」と大きく書かれた幟があがる。晴れ姿なのだ。父と母が感慨深そうに息子を見つめている。

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そうしている間に昭和19年が明けていた。軍隊にも日本にも正月などなかった。

1月下旬、並木は兵科予備学生の試験に合格した。
文学部出身の並木には理解不能な講義が終日組まれていた。
さらに耐え難いものがあった。軍紀---軍隊の規律と風紀である。良いも悪いもなく、上官の命令には絶対服従を強いられる。号令一つで機械のごとく動く人間に改造されていく。
話し方や歩き方、物事の考え方まで、何もかも海軍流に変えられ、型に嵌め込まれていく。それがたまらなく嫌だった。

---このままでは負けちまう。俺はこんなところで何をしている? 殴られるために軍隊へ来たのか。

2月26日、海軍軍務局は呉海軍工廠魚雷実験部に対し、「○六」の暗号名で人間魚雷の試作を命じた。

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小畑の漏らした言葉が胸に込み上げていた。
早く戦地に行って死んじまいたいよ。

戦局が切羽詰っているのは死っている。7月にサイパン島の日本軍守備隊が玉砕し、8月にはテニアン島も玉砕した。どちらも日米双方にとって極めて重要な戦略地点だった。
二つの島の飛行場から米軍の爆撃機が飛び立てば、日本本土を楽々と火の海にできるからだ。

負ける。日本はこの戦いに敗れる。並木は、日本という国の危機を現実のものとして感じていた。
もういい。早く戦地へやってくれ。その心の声は届いたようだった。翌日運命の召集がかかった。

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「総員直ちに講堂へ集合!」 対潜学校の学生五百人が一気に動いた。
「本日、諸子を集合させたのは他でもない。日本は今、危急存亡のときである」
「そして今、この窮状に応えて敵撃滅の特殊兵器が考案された。
「この特殊兵器は、挺身肉薄一撃必殺を期するものであり、その性能上、特に危険を伴うものである。ゆえに、諸子のごとき元気溌剌、かつ攻撃的精神旺盛な者を必要としている」
「この特殊兵器に乗って戦闘に参加したければ、名前と二重マルを書け」

並木は自らを鼓舞した。ここで退いたら男ではない。特殊兵器の実像はぼやけているが、なんの構うものか。この非常時にのんびり学校で勉強をしていられるほど、自分は呑気でも腰抜けでもない。
特に危険を伴う?結構ではないか。戦地に危険のない場所などあるものか。

---頭を冷やせ。よく考えろ。戦地に行きたい。それは本心か。
特殊兵器が何かもわからずに志願するのか。並木は虚空を睨んだ。金縛りにあったように動けなくなった。
並木は真っ白な頭で二重マルを書き込んだ。刹那、背筋に悪寒が走った。自分が書いた二重マルを見つめた。不思議なものを見ているきがした。

特攻兵器・・・・。それだ。挺身肉薄一撃必殺。そういうことだったのか。
特攻兵器だ。自分の命と引き換えに敵を倒す兵器だ。並木は特攻兵器の搭乗員に志願した。
視界が歪んだ。壁が、窓が、外の景色が、色をなくした。灰色の世界に全てが没した。

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この光基地に来る前、並木と佐久間は長崎ににいた。久里浜の対潜学校で特殊兵器搭乗を志願した者の中から40名が選抜され、長崎県の川棚臨時魚雷艇訓練所に送られたのだ。
その訓練所内に仮設された「回天隊」に配属となり、特殊兵器の呼称が「回天」なのだと知った。

歓迎は手荒かった。
隊門を入っても駆け足の命令は解かれず、営庭を何周も走らされ、その間も容赦なく殴られた。
二等水兵が少尉になろうが、何も変わらないのだと思い知らされた。

「天を回らし、戦局の逆転を図る。名付けて回天である。弾頭に搭載する1.6トンの炸薬は、いかなる戦艦、空母といえども一撃で轟沈可能だ」

大量の爆薬・・・・潜望鏡・・・・。並木は全てを悟った。
---そういうことだ。俺たちは魚雷の目になって敵艦に突っ込むんだ。

長い説明が終わった。
馬場大尉はみんなの心を見透かしていたようだった。最後にこう付け加えた。
「回天に脱出装置はない」
並木は声をなくした。佐久間も他のみんなも沈黙した。
耳をつんざく騒音の中で、その一角だけ、死人が並べられたような静けさがあった。

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川崎の魚雷艇訓練所にいた頃、「震洋」という特攻兵器を見た。そのまま自爆してしまうのではなく、敵艦に接近したところで搭乗員は海に飛び込んで逃げる。気休めには違いない。敵艦に接近してから海に飛び込んでも、爆発の威力から逃れることは難しい。だが、気休めとはいえ、ともかく建前は自爆兵器ではない。
死を覚悟して行く「決死隊」ではあっても、必ず死ぬ「必死隊」ではない。同じようでいて、二つの間には天と地ほどの開きがある。

---あれに乗る・・・。あの鉄の塊に乗って死ぬ・・・。木端微塵に体が吹き飛び、死ぬ。
並木は寝返りを打った。誰一人眠っている者はいない。
海が近い。波の音が聞こえる。
---
なぜ、俺はこんなところにいるんだろう。

人生は長いものだと思っていた。その途中には様々な寄り道や回り道があるのだろうと考えていた。しかし今日、一つの道が示された。道草も立ち止まることも許されない、たった一つの道。真っ直ぐな道。死への道。
死など意識したことはなかった。軍隊へ、そして戦地へ。そこには死がごろごろ転がっているのだろうと想像はした。だが、想像でしかなかった。死は遠い存在だった。いつかは訪れるが、そのいつかは霧の向こうだった。

霧は消えた。死は突然そばにやってきた。回天という具体的な形で眼前に姿を現した。

戦局を見ろ。フィリピンのレイテ沖海戦で日本海軍の艦隊は惨敗し、大和とならぶ大艦武蔵まで失った。もう後がない。だから神風特攻隊も出撃した。当たり前の作戦ではどうしても勝てないから特攻隊が生まれたのだ。南方は全滅だ。本土もやられている。B29爆撃機はいよいよ首都東京を襲い始めた。
わかっている。
俺たちがやるしかない。体を張って日本を守るしかない。家族を、美奈子を、俺が命を捨てて守るしかない。

24

昭和20年が明けた。米軍は1月にフィリピン・ルソン島のリンガエン湾に上陸。2月には硫黄島に攻め込み、沖縄へ手が届くところまで迫ってきていた。

「沖田・・・・お前、早く出撃したいか」真顔が向いた。
「もちろんです。明日行けと言われれば喜んで行きます」
「明日・・・・」
「ええ。早ければ早いほうがいいです。このままじゃ、姉たちだって殺されてしまいますしね」
「ん。そうだな・・・・」
死ぬのは怖くないか。喉まで出かかった質問を並木は飲み込んだ。
どれほど打ち解けても、それだけは言えない。たった一つ存在する特攻隊基地のタブーだ。

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夜になって小雨が落ちた。兵舎では、近く出撃する回天搭乗員の送別会が開かれていた。

息をのんだ。信じがたかった。
彼らの表情の、なんと清々しいことか。みな微かな笑みを浮かべ、静かに酒を酌み交わしている。
踊り叫ぶ後輩たちに優しい視線を投げかけている。それはまるで、悟りを啓いたような・・・。
苦しみも死の恐怖さえ乗り越えてしまったような・・・・。もはや、この世の人間ではないような・・・。

どんちゃん騒ぎの只中にありながら、そこだけ、ふわっと柔らかで高貴な光に覆われているかのようだった。

---人間はああまでなれるものか・・・・。

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特攻で死ぬための訓練・・・・その訓練でさえ、死と隣り合わせなのだと思い知った。

「並木---貴様、特攻が怖くて自殺でもする気になったか」
「いや・・・違う・・・・」
「ならば芝居を打ったのか」
「・・・・芝居?」
北は顔を近づけて言った。
「わかっているはずだ---
回天隊は操縦が上達した順に出撃していく

それまで考えたこともなかった。だから並木を打ちのめしたのは、北の言葉ではなかった。その言葉に一瞬、「生」の希望を見てしまった己の心に打ちのめされていた。
操縦が下手くそなら出撃は後回しにされる。死ぬのが延びる。いや、ひょっとして最後まで出撃せずに済むかもしれない
---。
そこまで考えてしまった自分が情けなかった。情けなくて情けなくてたまらなかった。

その夜遅く、並木は馬場大尉の部屋をノックした。
大尉、お願いです。明日も搭乗させてください。明後日も明々後日も回天に乗らせてください」

27

並木は訓練に没頭した。
感情が平板になった。死に対する感覚の麻痺とも呼べる状態だった。生きる死ぬは観念化して朧になり、目の前の厳しい訓練だけが、並木にとって唯一の現実となった。

28

昭和20年3月。
並木と佐久間は馬場大尉に呼ばれた。

出撃
---そう直感した。
二人で入室すると、馬場大尉は執務机で腕組みをしていた。
「いよいよ次回、行ってもらう」
いつになく静かな声だった。
「休暇をとって帰省するがいい。ただし、回天のことは家族にも話すな。
今生の別れを、それとなく匂わすだけにしておけ」

夕食の放送が流れた。だが一向に腹が減らない。佐久間も腰を上げない。
いつもなら誰よりも早く食堂へ駆け込む佐久間が。結局、二人して夕食を抜いた。
それから3時間もして、もう寝てしまおうかと思った時だった。
佐久間が突然口をきいた。「並木---がんばろうな」
並木はぎょっとした。
一体その声はどこから発したものだったろう。
か細く、か弱く、いじめっ子に人形を取り上げられた幼い少女のような声だった。
後は死ぬだけだ---。
体が硬直した。手も足も、全ての筋肉が張り詰めた。初めて回天を見た時と同じだった。
体も心も怯えていた。

佐久間はそれきり口を開かなかった。5時間も6時間もかけて、やっと言えたひと言だったに違いなかった。怖いと言ったのではない。死にたくないと言ったのでもなかった。佐久間は「がんばろうな」と言った。

並木も佐久間も回天隊という紛れもない現実の中にいる。怖い、と一言漏らしたら終わりなのだ。
死にたくないと人に縋ったら、もうこの現実の中にいられなくなってしまうのだ。この地球上にどれほど自由で愉快で希望に溢れた世界があるのだとしても、たった今、ここに回天隊は存在し、並木も佐久間もその只中にいる。男なら喜んで死ねという世界で、寝起きし、飯を食い、息をしている。
その現実の中で今日、選ばれた人間となった。父も母も知らない。美奈子も知らない。
誰も知らない世界で選ばれた人間となり、ひとり死んでいくことが決まった。

29

(ボレロの)マスターはふっと宙を見つめ、その目を並木に戻した。
「ひょっとすると北君は、並木君にとってトリックスターかもしれないね」
「トリックスターって?」
「ああ、破壊と創造を繰り返す気分屋さんのことさ。
よく民話なんかに悪戯坊主みないな役で出てくるんだ」
「人間の心の中には、もう一人の自分が住んでいるって考えるんだ」
マスターは不思議な話を始めた。もう一人の自分は、普段は表に出てこない影の存在なのだという。
ところが表の自分が困難にぶつかって精神的に追い詰められたりすると、ひょっこりもう一人の自分が顔を出す。夢に現れたりして、表の自分の心を掻き乱す
---。
「要するに、トリックスターは影さ。その影は、もう一人の自分ってこと」

投げられるのに投げないのか。あの台詞はまさしくそうだった。それだけではない。
魔球は完成したのか
---。
自棄になっているのは貴様のほうじゃないのか---。
操縦が上達した順に出撃していく---。
その台詞もそうだ。並木の中のもう一人の自分が、表の自分に対して発した言葉に思えてくる。

「小畑君が戦死したよ」
小畑は特攻を志願しなかった。僕は卑怯者だと自分を責めた。一番心を許していた並木とも笑顔で別れることができなかった。並木すまない、並木ごめんよ・・・・。そう呻いて泣き伏した小畑が先に死んだ。
特攻に志願した並木が、生きてその報せを聞いた。運命の皮肉としか言いようがなかった。

美奈子には会わないと決めていた。会いたいが会えないと思う。会って何を話せばいい。
回天のことは言えない。間もなく死ぬのだなどと口が裂けてもいえない。
だとすれば何を話す?回天抜きの軍隊の話か。二人の将来についてか。
そんなものは存在しないのだ。そっと消えたほうがいい。そのほうがいいに決まっている。

布団に入ったのは午前零時近かった。懐かしいはずの部屋と寝具に違和感があった。
様々な思いが一緒くたになって頭の中を巡っていた。

死にたくない。
家族と別れたくない。
美奈子と会いたい。もう一度だけ会って話がしたい。
どうせ死ぬんだ、どうにでもなれ。
敵を道連れに見事に死んでやる。
死など大したことではない。東京を焼け野原にした仕返しをしてやる。
小畑の敵をとってやる。敵艦を轟沈して、米兵に小畑と同じ苦しみを味合わせてやる。
早く小畑のところへ行ってやろう。よく頑張ったと肩を叩いてやろう。
家族を守るために死のう。美奈子を守るために死のう。
祖国のために死ぬのなら本望だ。
どれも真実だった。どれ一つとっても偽らざる並木の本心だった。

ふと思った。敵艦にも、小畑のようないい奴が乗っていたりするのだろうか。

午前5時半---。
並木には、母や幸代が起き出す前にやっておかねばならないことがあった。
布団を片付け、身支度を整えると、並木は畳に正座して時を待った。
並木は立ち上がり、父の書斎に向かった。

「こんなに早くどうした?」
「父さん、それと換えてください」
出征の時、父がくれた銀製の懐中時計を畳に押し出した。
幼い頃、迷った時や困ったときには父の目を探ったものだった。
だが今、その父が並木の目を探っている。

父はすべてを察したようだった。
「ゆくのか?」 「はい」
「いつだ」 「近いうちに」
父は懐中時計を押し戻した。
「これはいい。持って行きなさい」
「母さんには黙っていろ。あとで私から話しておく」 「はい」

出発の時間がきた。父は黙って頷いた。母も察しているのかもしれなかった。
息子の顔からいっときも目を離さず、その瞳を、口元を、鼻や耳の形を瞼に焼き付けているかのようだった。
だが母は
---軍国の母は、最後まで涙を見せずにいた。
「浩二さん、体に気をつけてね。お国のためにしっかり頑張るんですよ」
わっと、その懐に飛び込んでしまいたかった。昔のように、その安全な懐に隠れてしまいたかった。

もう会えない。今生の別れ---。
と、一歩前に歩み出たトシ坊が、軍人とも見紛う見事な挙手の礼をした。
「兄さん。お国のために立派に死んできてください」
息が止まった。

東京駅のホームは人でごった返していた。
深い息を吐いた。やはり美奈子に会わなくてよかったと思った。嘘を連ねずに済んだ。
卑怯かもしれないが、これでよかった・・・・。これで・・・・。でも・・・・・。
その微かな未練が空を翔けたのか。それとも夢か。並木は我が目を疑った。
美奈子がいた。ホームにいた。走っている。
一つ一つ車両の窓を覗き込みながら、美奈子が転げるように走っている。

「美奈ちゃん---」
思わず名前を呼んでいた。目が合った。
美奈子は驚くほどの速さで駆け寄ってきて、並木の首に抱きついた。
「・・・ひどい!」「どうして・・・・?ねえどうして黙って行ってしまうの?」
並木は答えに窮した。

列車がゆっくり動き始めた。美奈子は並木の手を握り締めて歩き出した。
少し安心したのかもしれない。美奈子は涙を拭いながら照れ臭そうに笑った。
「私もうてっきり神風特攻隊だと思って・・・・。二度と会えないのかと思って・・・・。
サッちゃんが知らせてくれたんで飛んできたんだから」
「ごめん」
美奈子は小走りになった。
「浩二さん、こんどはいつ帰れるの?」
答えを用意していなかった。
「ねえ、いつ?」
汽車よ速く走れ、頼むからもっと速く走ってくれ。並木は心の中で叫んでいた。
「約束して。今度帰るときは必ず知らせるって」
美奈子は懸命に走りながら言った。
並木は胸が張り裂けそうだった。繋いだ手は今にも離れそうだ。
「俺・・・俺は美奈ちゃんが好きだよ。だけどもう・・・・」
後の言葉を汽笛が掻き消した。
美奈子の細い指がすっと離れた。笑顔で遠ざかる美奈子の口が大きく動いた。私も大好き。
そう動いたように見えた。
列車は揺れた。車窓が流れる。
並木には手触りだけが残された。あかぎれでささくれた美奈子の手・・・・・。
その微かな感触を頬に当て歯を食いしばった。それでも嗚咽が唇を割った。
帰るんじゃなかった。こんなことなら帰るんじゃなかった・・・・。並木は向かいの席に座り直した。
二度と帰れぬ故郷に背を向け、独り忍び泣いた。

31

明日はいよいよ出撃という夜、北が並木を浜辺に誘った。
「故郷はどうだった?」
正直なところ、並木は回天隊に戻って気持ちが落ち着いた。故郷では自分だけが異質だった。
約束された死が際立つばかりで身の置き所がなかった。
だがここは違う。みんなが明日にも死んでやるという世界だ。死は特別なことでもなんでもない。

並木にとって心の平静を保てる場所は、もうここより他にないのかもしれなかった。

兵舎裏へ回ると、壁際に沖田がしゃがみ込んでいた。帰省から戻った沖田には辛い出来事が重なった。予科練時代からの友人と、沖田をことのほか可愛がってくれていた出撃鯛の隊長が訓練中の事故で相次いで死んだ。
「しょげるな沖田。二人の分まで頑張ればいい」
「ええ・・・」
「先に行ってるからな」
「俺もすぐに行きます。靖国神社の鳥居はくぐらずに待っていてください」

「沖田」
「はい?」
「最近思うんだ」
「何をです?」
「俺たちがやってるのは、己の戦争なんじゃないか、ってな」
「俺はこの戦争が始まってから、敵兵も一度も見たことがない」
「あ・・・」
「そりゃそうだよな。回天の特攻隊員は敵艦を特眼鏡で見たときが死ぬ時だ」
「敵艦も見たことがないので、けど俺たち、ずっと戦争してきたって気分だろ?」
「え、ええ・・・」
「だから己の戦争なんだよ。自分の心の中の戦争なんだ」

32

出撃の朝は明けた。微風。快晴。
周防灘のさざ波は、桜のほころぶ島々にきらきらと優しい光を投げかけていた。
並木は真新しい搭乗服に身を包み、白い手袋をはめ、搭乗靴を履いた。
不思議と心は静かだった。心の中が真空状態になっている。そんな感覚だった。

奈美子がくれた千人針は行季の中に残した。
弾に当たらぬお守りは必要ない。自分自身がその弾なのだ。

午前11時。厳粛な雰囲気の中で出陣式が挙行された。
整備長が並木の額に「七生報国」と墨書きされた鉢巻を結ぶ。七たび生まれ変わって国のために尽くす。決死、決意の鉢巻である。
真空だった心に、濃密で張り詰めたものが吹き込まれていく。

別れの水盃を受け、第六艦隊司令長官から短刀を渡された。左手に握った短刀を目の高さに捧げ、出撃者全員が敬礼をする。司令長官は「成功を祈る」と発し、一人一人の目を見て答礼した。

並木らがボートに乗り込み伊号潜水艦へ向かうと、見送る基地隊員は岸壁に鈴なりだ。
「帽ふれ!」の合図で一斉に何百もの帽子が打ち振られる。潜水艦に「非理法権天」と書かれた幟がするすると上がった。非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず。
最も強きもの、それは回天
---。
岸壁、島、山、追いかけてくるボート。全て、人、人、人で埋め尽くされている。

出港ラッパが海面に木霊する。

海はまた静まり返った。心もだ。たった今まで胸にあた興奮が嘘のように冷え切っていた。
いっときの幻だったのだろうか。

並木は甲板に立ち尽くした。頬に風を感じていた。身を切るような孤独感が襲ってきた。

---最後は一人になるんだな・・・。
野球部の仲間と別れ、家族や美奈子と別れ、とうとう沖田や隊のみんなとも別れた。
そして最後はたった一人回天に乗る。一人で死ぬ。
波は静かだった。
伊号潜水艦は浮上したまま進んでいた。
新緑まばゆい周防灘の島々を置いてきぼりにして、四国と九州の間を抜ける豊後水道に差し掛かった。途端に、ぱあっと虹色の水平線が開けた。
並木はその美しさに見とれた。
---ああ、きれいだなあ・・・・
美しい海。母なる海。だがそれは、二度と陸地を踏むことを許さない、出口のない海でもあった。

34

本土では「国民総武装」の決定がなされ、女性も子供も竹槍で敵を突き刺す訓練を始めているという。「いざ本土決戦」のスローガンは、今や「一億玉砕」にエスカレートし、日本という国そのものが、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれていた。沖縄では既に血が流されている。
それは戦うすべを知らない島民を巻き込んだ凄惨な戦いだった。

伊号潜水艦は沖縄の東方海上に向かっていた。

「なあ、北」 「ん?」
「行く前に一つ聞かせろ」
「なぜ軍人になった?」

東京五輪は中止になった。夢を繋いだロンドンも夢のまま消えた。

「やっぱり自棄になったってことか」

北は拳を握り締めていた。
「特攻は最高の名誉だ。神になれる」
「息子が特攻で死ぬ。その事実をおやじとおふくろに突きつけてやる。
神になって村中の人間を土下座させてやる」

肩ぶとん---。そうに違いなかった。軍事訓練は厳しかろう。重たい銃が辛かろう。
そんな思いを込めて母親が縫いつける肩ぶとん。北はおやじもおふくろも反吐が出ると罵った。
特攻の事実を着きつけてやるのだとも言った。
だが、母の作った肩ぶとんのシャツを身に着けていた。
そのシャツを回天特攻の死に装束に選んだ---。

米駆逐艦の攻撃回避

不思議な光景だった。死にに来た人間たちが、生き延びられたと無邪気に喜んでいた。

36

《総員配置につけ!》
《水上艦船、右10度、感二!》
《回天戦用意!搭乗員、乗艇!》
来た、ついにきた。

ラッタルを駆け上がった並木は、体を捻って下を見た。
戦闘配置のはずが、大勢の乗組員の見送りになっている。
「色々とお世話になりました。行って参ります!」
言葉は返ってこなかった。みんな顔を強張らせ、無言で並木を見つめている。
死んだ友人の棺桶を覗き込む目だった。
並木は生きて自分の葬式を目撃した。

下部ハッチの下から声がした。身を乗り出して暗い交通筒を覗き込むと、整備員の伊藤の顔が下からこちらを見上げていた。口がへの字だ。今にも泣き出しそうな顔だ。
「ハッチ閉めます。ご成功を祈ってます!」
「伊藤、これまでありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました! し、閉めます・・・・!」

《各艇、発進用意!》
《敵艦は一隻》
---一隻・・・・。誰が行く?
《敵艦は一隻。方位角右70度、距離5千、敵速14ノット、敵針260度・・・・一号艇を出す!》
北だ。後甲板の北が行く。
《一号艇発進始め!》
《一号艇故障!・・・・二号艇を出す!》
並木は目を見開いた。北の艇が発動できず山根に回った。
《二号艇故障!》
ならば前甲板に回る。並木か佐久間か---。
俺を出せ。だが声にはならなかった。
《六号艇発進始め!》
佐久間だ。思った直後、左側から地鳴りのような音が聞こえた。点火したのだ。佐久間の艇が。
《火柱確認》

《各艇、用具収め---艦内に戻れ
並木は動けなかった。硬く冷たい座席の背もたれに、しばらく身を預けていた。

37

北の一号艇は気筒爆破。山根の二号艇は燃料パイプの破損。いずれも致命的な故障で海上での修理は不可能だった。一基が出撃し、四基が故障。
並木は今、伊号潜水艦の中でただ一人、死を約束された人間となっていた。

ドアが勢いよく開いた。北が入ってきた。

「並木、頼みがある」
「貴様の艇を俺に譲ってくれ」

「勝手なことを言うな。そんなに死にたいのなら、次回に華々しく死ねばいい」
「手遅れになりかねん」
「手遅れ・・・?どういう意味だ」
逡巡の後、北は吐き出すように言った。

「日本が負ければ次の出撃はなくなる」
「戦争が終わってしませば、隊長の俺は生き恥を晒すことになる。
一生涯、隊にも部下にも顔向けができん。故郷にも・・・だ」

38

《回天戦用意! 搭乗員乗艇!》
それは、たった一人並木に対して発せられた命令だった、

「敵厳戒の中、ここまで連れてきていただき感謝の言葉もありません。
艦長以下、乗員一同の武運長久をお祈りします」

《方位角右90度、距離4千》
近づいた。いよいよだ。
発進したら、写真の中のみんなの名を一人一人呼ぼう。呼びながら敵艦に突っ込もう。そう決めていた。ありがとう。さようなら。みんなに、そう言いながら突っ込もう。
俺は一人じゃなかった。俺はいつだって素晴らしい人たちに囲まれていた

《五号艇、発進用意!》
号令が脳を突き抜けた。並木は体を捩り、発動桿を握った。この瞬間、一体どんなことを思うのか。
ずっと想像していた。祖国愛か。死の恐怖か。単なる義務感か。どれも違った。

意外な思いが込み上げてきた。
---ああ、ボレロを聴きたいなぁ・・・・。

《五号艇、発進よし!》
《五号艇発進!》
並木は発動桿を力任せに押した。
だが
---。

「馬鹿な!」
「ふざけるな!}

並木は喘ぐように天を仰ぎ、固く目を閉じた。
---こいつは・・・・この回天って奴は、人の生死を弄んでいるのか・・・・。

交通筒の海水が抜かれ、下部ハッチが開いた。
並木の顔は蝋のように白かった。髪が逆立ち、目は虚ろに宙を彷徨っている。
死線を越えてしまった人間の顔・・・・・。

39

並木の五号艇は燃料パイプが断裂していた。

同じ頃、戦艦大和は豊後水道を出て沖縄に向かっていた。
「天一号作戦」と名付けられた水上特攻部隊の最後の姿だった。
大和は出撃後まもなく沈んだ。米軍空母から飛び立った艦載機の一斉攻撃を受け、火だるまになりながら佐多岬の南西90キロに没した。
それは、日本という国の落日を見るような光景だった。

40

並木は陸地を踏んだ。二度と踏むことはないと思っていた大地を両足で踏みしめた。

陸地に並木のいる場所はなかった。心の中には、見渡す限り荒涼とした海が広がっていた。

41

昭和20年5月7日、ドイツは連合国に無条件降伏した。
イタリアは既に敗れ、三国同盟の中で戦っているのは日本だけとなっていた。

再出撃を三日後に控えた並木と沖田は、連れ立って街に出た。

「沖田---日本はこの戦争に負けるな」
「日本は負ける。俺は太平洋のど真ん中でそう思った。爆雷でぺしゃんこになった回天を見て負けを確信した。その俺たちの上をB29の大編隊が飛んで行き、東京や大阪や、日本の隅々まで火の海にしていく」

「日本は負けたほうがいい。降伏すべきだ」

「回天」で突っ込む俺たちはいい。それで特攻の任務は果たせる。神にもなれる。だが残された国民はどうなる?皆殺しになるまで戦うのか?俺の家族もお前の家族もみんな死んでしまうのか? 
ならば俺たちが何本突っ込んだところで、俺たちが守りたいものは何もなくなってしまうじゃないか」

「でも一つだけ聞かせてください。祖国防衛ではなく、ならば並木少尉はなんのために死ぬのですか」

「俺はな、回天を伝えるために死のうと思う」
「勝とうが負けようが、いずれ戦争は終わる。平和な時がきっとくる。その時になって回天を知ったら、みんなどう思うだろう。なんと非人間的な兵器だといきり立つか。祖国のために魚雷に乗り込んだ俺たちの心情を憐れむか。馬鹿馬鹿しいと笑うか・それはわからないが、俺は人間魚雷という兵器がこの世に存在したことを伝えたい。俺たちの死は、人間が兵器の一部になったことの動かしがたい事実として残る。それでいい。俺はそのために死ぬ」

42

ボールは大きく左に揺れ、そして、ふわっと浮き上がった---。

43

翌日、出撃前の総仕上げとして連合訓練が行われた。

潜水艦から発進した並木の訓練艇が行方不明になった。

44

並木は沈黙を続けた。
北と沖田が出撃しても。
二人が特攻を果たせず帰投しても。
暑い夏がきても。
日本国民にとって、運命の報が流れたその日でさえも。

45

昭和20年8月15日。日本は連合国に無条件降伏した。
軍部は最後まで「一億総玉砕」を叫んだが、既に国内は疲弊しきっていた。沖縄は血みどろの敗北を喫し、街という街は連日連夜の空襲で焼け野原となり、広島、長崎は原爆で壊滅させられていた。
遅きに失した降伏だった。

国民は廃墟の中から立ち上がろうとしていた。もう誰も戦争を振り返ろうとはしなかった。生きることに食べることに懸命で、だから大きな戦争の片隅で、人知れず作戦を遂行した回天隊に目を向ける人もいなかった。回天は海に消え、すべての記録と記憶が永久に葬られる。そうなる運命に思えた。だが---。

回天が波間に浮かんでいた。あの日消息を絶った、並木の訓練艇に違いなかった。
数日前、台風が瀬戸内を襲った。猛威を揮ったその枕崎台風は、海底の土砂をも洗い、揺さぶった。並木の艇は土砂から解き放たれ、ゆっくりゆっくり浮上して、ぽっかりその姿を海面に現したのだ。

俺は回天を伝えるために死ぬ。人間魚雷という特攻兵器がこの世に存在したという事実を伝えたいんだ---。
それを実行した。そのために並木は海底から浮上した。沖田にはそう思えてならなかった。

浮上した回天は、その日のうちに回収された。
座席に変わり果てた並木の亡骸があった。足元にボールが落ちていた。その寄せ書きのボールには、黒々とこう書かれていた。
魔球完成
---。