|
黒船来航の背景産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大に急いでいたが、後にそれは熾烈な植民地獲得競争となる。インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は、西欧との競争のためには、太平洋航路の確立が必要であった。 産業革命によって捕鯨が盛んに行われるようになっていた。これは、夜間も稼動を続ける工場やオフィスのランプの灯火として、鯨油を使用していたからで、太平洋で盛んに捕鯨を操業していたアメリカは、太平洋での航海・捕鯨の拠点(薪、水、食料の補給点)の必要に駆られていた。 ペリー提督の来航やハリス総領事の着任後、アメリカでは南北戦争が勃発し、アジアへの影響力が消えて行く。それに代わって英国がシンガポールや香港を植民地にして支配的な地位を築く。日本では、英国の支援を受けた薩摩、長州などが中心勢力になって江戸幕府が倒され明治政府が生まれる。 |
鎖国体制は、秀忠の時代に始まり家光の時代、寛永年間に完成した。 フランシスコ・ザビエルの来航以来、スペインやポルトガルの宣教師の熱心な布教によって、大名や藩主の中にもキリスト教を信奉する者が現れたため、江戸幕府は家康の積極外交から鎖国に方針転換した。(家光が単に外国嫌いであったという説もある) 幕府が鎖国に踏み切った直接の原因は、寛永14年(1637年)に起こった島原の乱である。この乱によりキリスト教は幕藩体制を揺るがす元凶と考え、新たな布教活動が今後一切おこなわれることのないようスペイン・ポルトガル勢力を排除した。 なお、布教を一切しないことを約束したオランダのみが、出島使用料に応じ唯一交易を許されたが、それは当時布教が熱心だったのはキリスト教のなかでもカトリックであり、プロテスタント国であったオランダにはその必要がなかったという側面もあった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1846年2月13日〜1866年12月25日在位 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1853年 嘉永6年 12代将軍 徳川家慶(いえよし) ペリー来航し将軍家慶ただ呆然。寝込んでしまいすぐ死亡。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1853年3月6日 ジョゼッペ・ヴェルディ、歌劇「椿姫」(ラ・トラヴィアータ)初演(ヴェネツィア、フェニーチェ劇場) |
|||||||||||||||||||||||||||||
嘉永6年、1853年7月8日に浦賀沖で日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。 7月12日:老中、阿部正弘はフィルモア大統領国書の受け取りを決断。 7月14日10時:浦賀奉行所近くの久里浜海岸に米艦隊の兵士300名が楽隊演奏と共に上陸。 「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も眠れず」という狂歌が読まれた。ちなみに<上喜撰>とは当時の玉露茶の商品名。濃いお茶であったため、たった四隻(杯)の外国蒸気船で国中が蜂の巣をつついたような騒ぎとなり夜も眠れないでいる…と揶揄している訳である。 7月17日:上陸から3日後、ペリーは江戸を離れ、香港に帰った。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
ペリーに遅れること1ヵ月半後、プチャーチン、ロシア極東艦隊を率いて長崎に来航 |
|||||||||||||||||||||||||||||
病床に付していて外交交渉も出来ない徳川家慶は、ペリーが再来を約束して去った僅か10日後に逝去(60歳)。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1854年 嘉永7年=安政元年(地震、黒船来航などの災異のため改元) 13代将軍 徳川家定(いえさだ) 黒船再来に将軍家定腰抜かし、ペリーに屈して日米和親条約。篤姫との出会いで心安らぐも命続かず。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||
前年浦賀へ初めて来航した時同様、ペリー提督は今回もサスケハナ号を旗艦として再来航した。しかし、このサスケハナ号はマカオに先発することとなったため、ペリー提督は新たに最新鋭艦、ポーハタン号(2415トン)を旗艦とし、日本との交渉を進めた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1854年3月31日、徳川幕府は、日米和親条約(神奈川条約)を結んで、下田と函館の開港を取り決め、下田港が直ちに開港された。 それは一発の砲弾も使用されることなく、徳川家光以来200年以上続いた鎖国の扉が世界に開かれた瞬間だった。日本開国の報せは全世界に伝えられた。
|
|||||||||||||||||||||||||||||
ポーハタン号を旗艦とするペリー艦隊は日米和親条約によって開港された下田港へ入った。
|
|||||||||||||||||||||||||||||
江戸送り後、郷里の萩の獄舎に監禁される。一時軟禁となり、松下村塾で教えたが、1859年江戸伝馬町の獄で処刑、30歳であった。しかし、門下からは、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋ら明治維新に活躍した人物を輩出、その思想的影響は後世に伝わった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
黒船のアメリカ人と下田の町民たちはそこここで異文化の交流を体験した。了仙寺境内で一般人を対象にした日本初の「洋楽コンサートの夕べ」も開催された。 下田は日本で初めて外国人が自由に町を歩けるところとなった。最初は夜を徹しての警戒網がしかれたが、やがて黒船は攻めてこないことが分かるや、黒船見物ツアーなるものが大ブーム。これがパックツアーの始まり?となった。ここから日米交流が始まることとなった。
6月26日:ペリー艦隊下田を去る。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1854年(安政元年)11月4日午前、マグニチュード8.4の巨大な地震が東海地方を襲った。 11月27日、安政に改元 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1855年 安政2年 |
|||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||
1856年 安政3年 |
|||||||||||||||||||||||||||||
島津斉彬は幕府の弱腰外交に対し、国防の充実が第一の急務である、この国難に対しては諸大名の意見をまとめられるリーダーが必要であるとし、水戸家出身で一橋家の当主であった一橋慶喜に白羽の矢を立てた。
|
|||||||||||||||||||||||||||||
アメリカ初代総領事としてタウンゼント・ハリスが下田に到着。
|
|||||||||||||||||||||||||||||
1857年 安政4年 |
|||||||||||||||||||||||||||||
松下村塾では時代を動かす数多くの人物を輩出した。高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一は松下村塾の四天王といわれた。なかでも高杉と久坂は村塾の双璧といわれる。ほかにも伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎らが松下村塾で学んだ。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1858年 安政5年 |
|||||||||||||||||||||||||||||
本条約の主要点は、アメリカ公使の江戸駐在、江戸・大坂の開市、神奈川ほか4港の開港、自由貿易、片務的領事裁判の承認(治外法権)、日本の関税についても条約で定める(「関税自主権の喪失」)等であった。幕府はアメリカに続き、イギリス、フランス、ロシア、オランダの諸国とも同様の条約を結んだ(安政の五ケ国条約)。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
13代将軍、徳川家定(34)が逝去 |
|||||||||||||||||||||||||||||
天保山の軍事視察を視察の後、島津斉彬急逝 |
|||||||||||||||||||||||||||||
安政の大獄始まる
大老井伊直弼の独裁政治に対するクーデター運動を力で弾圧したのが「安政の大獄」 井伊直弼が尊攘派に対しておこなった弾圧事件。公武合体の密勅が直接水戸藩に下り、幕府は、朝廷と水戸藩が組んで幕府に反逆を企んでいると解釈。この時から安政の大獄が始まった。
|
|||||||||||||||||||||||||||||
将軍継嗣問題の結果、徳川御三家(紀州、尾張、水戸)の一つ紀州藩主徳川家茂が第14代将軍に。 一口メモ:紀尾井町とは当地に紀州家、尾張家、伊井家の中屋敷があったことから名付けられた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1859年 安政6年 14代将軍 徳川家茂(いえもち) 和宮を妻に迎えた家茂は、尊皇攘夷の嵐の中で粉骨砕身、哀れ21才で大坂城で頓死。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
最初に調印された日米修好通商条約では、神奈川・長崎・函館を1859年(安政6年)7月4日に開港することになっていた。この日はアメリカの独立記念日にあたる。次の日蘭条約もこれを踏襲したが、続く日露条約で7月1日とされ、日英条約もそれに従った。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1859年(安政6年)5月、日米修好通商条約規定による横浜・神戸・新潟・長崎・函館の5港が開港されると、ハリスも江戸善福寺に移り、玉泉寺の総領事館は閉鎖された。 そして同年12月、日本の開国に大きな役割を果たした下田は閉港となり、元の静かな港町へと戻って行った。江戸に遠く、険しい天城山をひかえた下田が開港の港として栄えたのは僅か5年間のことであった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
著名な門下生には久坂玄瑞、高杉晋作(幕末の風雲児)、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文(初代総理大臣)、山県有朋(元帥陸軍大将)、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義(日本大学の学祖)、野村靖、飯田俊徳、天野清三郎、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎などがいる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1860年 万延元年 江戸城火災や桜田門外の変などの災異のため孝明天皇の強い意向で改元 |
|||||||||||||||||||||||||||||
長い間鎖国政策をとってきた徳川幕府は、海軍創設の必要性を痛感し、オランダ政府に軍艦を注文した。オランダ、キンデルダイクで建造された咸臨丸(長さ約49m、砲12門、3本マスト)は、安政4(1857)年、オランダを出港し、同年8月に長崎に到着した。そこで練習艦として使用され、勝海舟や榎本武揚など、わが国の近代化の礎を築いた俊英が育った。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
大老井伊直弼が水戸藩浪士らにより暗殺された。この事件により幕府は衰退していく。 3月18日 万延に改元 |
|||||||||||||||||||||||||||||
ヒュースケン殺害
アムステルダム生まれの米通訳官ヒュースケンが殺害された。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1861年 文久元年 辛酉(かのととえい)革命の年に当たるための改元 |
|||||||||||||||||||||||||||||
文久元年(1861年)、一藩勤皇を掲げて坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成、2年後には192名が連判に参加。 文久2〜3年頃は武市半平太率いる土佐勤王党が、長州藩とともに京の政界をリードしていた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1862年 文久2年 |
|||||||||||||||||||||||||||||
坂下門外の変
老中 安藤信正、水戸浪士に襲われ負傷。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
皇女和宮 将軍家茂と結婚 岩倉具視ら公武合体派による「皇女和宮降嫁(こうじょかずのみやこうか)」⇒和宮は徳川家茂夫人となる。 孝明天皇は学問好きな性格で父の遺志を継いで公家の学問所である学習院を創立した。攘夷の遺志が強く、妹・和宮を14代将軍・徳川家茂に嫁がせるなど公武合体運動を推進し、あくまで鎖国を望んだ。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
寺田屋事件(1) 薩摩藩主の父、島津久光が千人の兵を率いての異例の上洛。これを真木和泉ら尊攘派志士たちは、倒幕の為と煽動。これに応えようと有馬新七らは寺田屋に集結するが、久光により弾圧された。当時寺田屋は薩摩藩の定宿であった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
会津藩 京都守護職就任 江戸幕府においては京都所司代・京都町奉行が治安維持の任についていた。幕末の頃になると尊皇攘夷を叫び、幕府に反対する勤王・倒幕の志士による騒乱が横行しだした。所司代のみでは防ぎきれずと判断した幕府は京都守護職を新たに設け、幕府の威信、治安の回復をはかった。京都守護職に会津藩主、松平容保(かたもり)就任。 容保は初め一橋慶喜・松平春嶽からの再三の就任要請を断っていた。藩財政は既に浦賀、蝦夷地の警備の任にあったことで窮乏状態にあり、また、家臣も就任反対で意見が一致していた。しかし、春嶽が会津藩祖・保科正之の「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、遂に承諾した。任を受けた君臣は会津藩江戸藩邸にあって「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したという。 過大な財政負担を懸念しての慟哭であったろうが、後に、京都守護職の任務によって尊皇派の恨みを買った会津藩は戊辰戦争で最後まで抵抗せざるを得なくなり、藩都・会津若松で壊滅し、現実のものとなってしまった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
生麦事件 (英国人殺傷事件)
英国側は4人が被害にあった場所 はイギリス人が遊歩することを許可された地区であったとして幕府と薩摩藩 に謝罪と犯人の引き渡し及び賠償金の支払いを要求した。これに対して幕 府は何とか穏便にと賠償金は支払ったものの、薩摩藩は犯人は不明であるとし て要求を拒否した。 このためイギリスは薩摩藩に報復すべく軍艦を派遣、翌年7月2日、薩摩湾で イギリス艦隊と薩摩藩船との激しい戦闘、「薩英戦争」が起こった。 ●生麦事件の詳細を読む ⇒ 地歴公民科「街道を歩く4」生麦事件 ●生麦事件参考館館長の講演を聞く ⇒浅海武夫館長の熱弁「生麦事件の歴史的意義」
|
|||||||||||||||||||||||||||||
高杉晋作 英国公使館焼き討ち
このころ、長州藩士の長井雅楽(ながいうた)が「航海遠略策」といわれる意見書を提出した。「航海遠略策」は、幕府と朝廷が一緒になって(公武合体)、開国を進め、海外に目を向けようという提案だった。ところが高杉たちが進めていた尊皇攘夷は、その反対で、天皇を尊敬し、外国、外敵を撃退しようという思想で長井らと激しく対立していた。 おだやかな解決を望んでいた仲間の桂小五郎たちは、晋作の行動に不安を感じ、晋作をいったん国外に出すことを思いつき、ちょうどそのころ幕府が募集していた上海視察へ、晋作を藩の代表として参加させることにした。 文久2年(1862年)5月から約2ヶ月間、高杉晋作は上海に滞在した。上海では、アヘン戦争に負けた影響で、欧米の植民地のようになってしまった悲惨な中国の姿があった。晋作は、このままでは、日本は中国と同じ運命をたどってしまうとの思いにかりたてられた。そして、この上海視察により、高杉晋作が将来進むべき道を決定付けることになった。 上海から帰ると、長州藩の方針は、「公武合体」から「即今攘夷」に転換されていた。即今攘夷(そっこんじょうい)とは、ただちに外国を撃退しようという思想。 晋作は、長州藩だけの尊皇攘夷運動組織を立ち上げた。当時、品川に建設中だった英国公使館に火を放ち、これをきっかけに長州藩対幕府の戦争を勃発させるという計画だった。この焼き討ちは成功し、英国公使館は炎上したが、このことを幕府がそれほど大きく取り上げなかったため、本来の目的である、「長州藩対幕府の戦争勃発」は、実現しなかった。結局、この計画は失敗に終わってしまった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1863年 文久3年 |
|||||||||||||||||||||||||||||
江戸で将軍上洛の際の警護役として200人余りの浪士が集められ上洛。(浪士組) |
|||||||||||||||||||||||||||||
将軍家茂は公武合体推進のため、三代将軍家光以来229年ぶりに上洛。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
幕府が指定した攘夷期限5月10日を受け、長州の久坂玄瑞らは馬関(下関)で外国船を無差別砲撃した。 しかし欧米艦隊により報復攻撃が始まる。壇ノ浦砲台、前田砲台は破壊された |
|||||||||||||||||||||||||||||
高杉晋作 奇兵隊結成 この敗報により毛利藩主は高杉晋作に善後策を命じ、憂国の志があればだれでも参加できる奇兵隊が結成された。後に、奇兵隊は維新回転の原動力となっていく。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
生麦事件の報復として行なわれた薩英戦争。この戦争ではイギリス軍も薩摩の船を拿捕するが、薩摩軍もイギリス軍の旗艦ユリアラス号に多大の被害を与え、艦長を死亡させた。結局大勢としては イギリス側の勝利ではあったものの、死者の数はイギリス63名に対して薩摩はわずか17名だった。 この結果イギリスも「薩摩は良くやる」と敵を評価し、両者は急速に接近、維新への流れが加速。列強の軍事力を体験した薩摩藩は、これまでの攘夷論から開国論へと路線を転換していく。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
孝明天皇(明治天皇の父)自らが倒幕のため大和行幸するとの計画にあわせ、倒幕を目的とした天誅組が大和五条に挙兵。しかし8月18日の政変により大和行幸は延期、挙兵は失敗に終わった。薩摩・会津・公武合体派公卿たちは8月18日、尊攘倒幕派の長州藩、長州派公卿を京から一掃した。三条実美を始めとする公家・公卿の「七卿落ち」 開国か攘夷か・・・いや倒幕だ! |
|||||||||||||||||||||||||||||
1864年 元治元年 |
|||||||||||||||||||||||||||||
幕末、明治維新の4年前、遣欧使節団は、黒船(フランス等の外国船)を乗り継ぎ、上海−アデンを経由して1864年3月26日、エジプトに着いた。遣欧使節の一行27人のサムライ達はヨーロッパ各国に交渉に向かう途中、エジプトに立ち寄った。一行はスフィンクスまでロバで行ったという。
|
|||||||||||||||||||||||||||||
勝海舟は、弟子の坂本龍馬を塾頭に神戸海軍操練所を開設。広く人材を募った。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
京都三条木屋町の旅館池田屋で京都守護職=会津藩配下の新撰組が、潜伏していた長州藩の尊王攘夷派を襲撃した事件。池田屋事件をきっかけに長州藩はついに武力上洛を決定した。しかし、薩摩藩を中心とした連合軍に撃破され、朝敵の汚名を着る事となる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
蛤御門の変
京都御苑の周囲にある9門の一つ、天明の大火(1788年)の際に初めて開門されたことから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と呼ばれている。元治元年、長州藩は尊王攘夷派の勢力を取り戻そうと、兵を率いて京都に向かい、御所の近くの蛤御門付近で戦いになった。 禁門を守る一橋慶喜(徳川慶喜)は退兵を呼びかけるが、長州藩兵が、会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と衝突、尊皇攘夷を唱える長州勢は壊滅、来島又兵衛、久坂玄瑞(松下村塾)、寺島忠三郎らは戦死した。当時、京都守護職であった会津藩主・松平容保は薩摩藩と連携して、長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えていたのである。 禁門の変に於いて長州藩兵が御所へ向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行う。 戦闘の後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。この二箇所から上がった火で京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
四国連合艦隊 下関を砲撃 前年からの、下関海峡での外国船砲撃の報復として、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四ヶ国の連合艦隊は馬関を砲撃。長州は完敗した。これにより長州藩の攘夷方針は完全に挫折した。 寄せ集めの四ヶ国連合艦隊に完膚なきまでに打ちのめされた長州は、以後政策を180度転換して欧米から新知識や技術を積極的に導入し、軍備を近代化してゆく。そして、前年に薩英戦争で英国に完敗して同じような近代化路線に転換した薩摩藩とともに、統幕への道を一気に進むことになる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
幕府は勅命により、長州征伐を宣言。西郷隆盛の指揮する15万の兵士が長州国境に迫ったが、長州藩は毛利父子の謝罪、禁門の変の責任者を切腹、処刑するなどして降伏。戦わずして第一次長州征伐は終了した。 長州藩内は急進派(正義派)から保守派(俗論党)に握られることになった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
長州藩、幕府に謝罪 | |||||||||||||||||||||||||||||
謝罪恭順の弱腰長州藩上層部(俗論党)に業を煮やした晋作は12月、下関の功山寺で挙兵。馬関奉行所を占拠、続いて三田尻の海軍局を襲い三隻の藩船を奪った。 翌1月、絵堂・大田の戦闘で勝利し、俗論党を一掃、藩の実権を握った。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1865年 慶応元年 禁門の変や社会不安などの災異のための改元 |
|||||||||||||||||||||||||||||
坂本龍馬は神戸海軍操練所時代の仲間を核として、亀山社中を結成。我が国初のカンパニーが誕生した。 平時は海運・貿易業、有事は海軍として活動するもの。薩摩、越前などが出資した。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
5月11日、武市が切腹した同じ日に、岡田以蔵斬首。その首は雁切り河原にさらされた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1866年 慶応2年 |
|||||||||||||||||||||||||||||
薩長同盟成立
坂本龍馬、中岡慎太郎の活躍により西郷、桂会談が実現。軍事同盟である薩長同盟が成立した。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
寺田屋事件(2)
薩長同盟の設立を仲立ちした坂本龍馬を捕らえようと伏見奉行所の林肥後守忠交の捕り方が寺田を襲った事件。いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま龍馬に危機を知らせた。捕り方に踏み込まれた龍馬と三吉慎蔵は拳銃や手槍で応戦したが、龍馬は左右の親指を負傷。辛くも脱出して材木屋に逃れた。急を聞いた薩摩藩は川船を出し龍馬を救出。龍馬は九死に一生を得た。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
幕府は諸藩に第二次長州征伐を発令、10万余りの兵が長州の四つの国境に配置され攻撃した。しかし、長州軍は大村益次郎、高杉晋作の活躍により幕府軍に大勝した。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
将軍家茂死去 | |||||||||||||||||||||||||||||
将軍家茂が大坂城で急死すると、あとを継げるものは、もう慶喜以外にはなかった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
同じ年、在位21年の孝明天皇も、義弟、家茂の後を追うようにして崩御。享年35歳。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1867年 慶応3年 14代将軍 徳川慶喜(よしのぶ)はあっさりと政権を朝廷に返しはしたが、その賢明さ、政治力は家康並み。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
土佐藩の後藤象二郎は薩長に後れを取っていることに焦り、坂本龍馬に望みを託した。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
坂本龍馬の船中八策を基本にした大政奉還案を土佐藩が採用。幕府に建白書を提出した。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
坂本龍馬暗殺
11月15日、京都の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎は暗殺された。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
西郷、大久保に後藤象二郎、岩倉具視ら倒幕勢は御所を兵で固め、クーデターを決行。 王政復古の大号令が発せられた。ここに徳川慶喜を政治からはずした、新しい政権が誕生した。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1868年 慶応4年=明治元年 |
|||||||||||||||||||||||||||||
鳥羽伏見の戦い (戊辰戦争始まる) あくまでも倒幕を目指す薩摩藩の西郷隆盛の挑発に乗るような形で、幕府軍はついに大坂城を出て鳥羽・伏見に布陣。戦闘が始まった。この時、大久保、岩倉らが用意させた「錦旗」の登場で、幕府軍は朝敵となった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
五箇条の御誓文
明治天皇(15歳)が京都御所で維新政権の基本方針「五箇条の御誓文」を発表した。 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ |
|||||||||||||||||||||||||||||
江戸に帰った慶喜は、徳川家存続を第一に考え、恭順の姿勢を示した。それでも西郷は武力倒幕の為、江戸城総攻撃を決意していた。しかし、幕臣山岡鉄舟の尽力で、勝海舟と西郷隆盛の会談が実現。西郷は江戸城の無条件開城などの条件で総攻撃を中止した。勝の「公のために」という必死の説得に西郷も応じ、江戸が戦火に巻き込まれることは免れた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
上野寛永寺にこもった1500人余りの彰義隊に、兵力不足の為、新政府軍(官軍)西郷は手を出せなかった。 代って大村益次郎が指揮をとり上野の山を囲み総攻撃、1日で彰義隊を壊滅させた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
明治と改元
明治天皇の即位による代始改元。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
先頭の舞台は東北へ移り、会津戦争では白虎隊の悲劇を生み、会津藩降伏、若松城を開城 |
|||||||||||||||||||||||||||||
榎本武揚は旧幕府艦隊を率いて蝦夷を目指した。新政府とは別の新しい独立国を建設するのが目的だった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
1869年 明治2年 |
|||||||||||||||||||||||||||||
4月、官軍が上陸、戦闘を開始した。榎本海軍は制圧され五稜郭に篭城、抗戦を続けた。 このとき土方歳三らは、敵陣に斬り込んで壮絶な最後をとげる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
弁天崎砲台が陥落すると徹底抗戦は不可能になった。 |
1887年(明治20年) | 東京に初めて電灯が灯る |
1888年 | 君が代を国家に制定 |
1889年 | 大日本帝国憲法の発布 |
1894年 | 日清戦争 |
1904年 | 日露戦争 |
1910年 | 韓国併合 |
1914年 | 第一次世界大戦 |
1918年 | シベリア出兵 |
1923年 | 関東大震災 |
1925年 | 治安維持法公布 |
1931年 | 満州事変 |
1933年 | 国際連盟脱退 |
1934年 |
開港80周年を記念して 第一回黒船祭り開催 |
1937年 | 日華事変(盧溝橋事件) |
1941年 | 真珠湾攻撃 |
1945年 | ポツダム宣言受諾 |
1946年 | 極東国際裁判開始 |
1947年 | 日本国憲法施行(5月3日) |
1961年 | 伊東下田間46キロの鉄道を完成 |
福井先生の「徳川15代物語」棒暗記すると、すぐ忘れると思いますので、エピソードを付けて覚えておくといいと思います。例えば・・・・・・・
|
福井先生よりのメール日米和親条約調印150周年に寄せて2004年、日本では日米和親条約調印より150周年を迎えます。 泰平のねむりをさますしょうきせんたった四はいで夜も寝られず アメリカのペリー提督は当時最新の蒸気船の軍艦4隻を従えて、横須賀の浦賀に来航し、開国を迫りました。 この和親条約にもとづき伊豆の下田港を開港し、下田にハリス領事が乗り込むことになります。 そうした考えを拠点として、志士の幕府攻撃が始まりました。 日本開国150年、これをどう見るか。150年前の開国を第1の開国、太平洋戦争(大東亜戦争)以後を日本の第2の開国とする見方もあります。 |