幕末の歴史早分かり

ペリーの黒船来航から明治維新までを一般に「幕末」と呼ぶ


オープニング動画


黒船祭りに駆けつけた米第七艦隊の巡洋艦と
下田湾を巡る観光船「サスケハナ号」


フクちゃんのマチエール 貿易記念日〜開国・開港への道
下田市観光協会 下田開港の歴史
四季折々 乾杯の語源 〜下田奉行の機転
MIYAさんの写真展示室 質素な写真展示室
幕末維新大辞典 維新の志士たち


 

黒船来航の背景

 産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大に急いでいたが、後にそれは熾烈な植民地獲得競争となる。インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は、西欧との競争のためには、太平洋航路の確立が必要であった

 産業革命によって捕鯨が盛んに行われるようになっていた。これは、夜間も稼動を続ける工場やオフィスのランプの灯火として、鯨油を使用していたからで、太平洋で盛んに捕鯨を操業していたアメリカは、太平洋での航海・捕鯨の拠点(薪、水、食料の補給点)の必要に駆られていた

 ペリー提督の来航やハリス総領事の着任後、アメリカでは南北戦争が勃発し、アジアへの影響力が消えて行く。それに代わって英国がシンガポールや香港を植民地にして支配的な地位を築く。日本では、英国の支援を受けた薩摩、長州などが中心勢力になって江戸幕府が倒され明治政府が生まれる。


 

鎖国

鎖国体制は、秀忠の時代に始まり家光の時代、寛永年間に完成した。

フランシスコ・ザビエルの来航以来、スペインやポルトガルの宣教師の熱心な布教によって、大名や藩主の中にもキリスト教を信奉する者が現れたため、江戸幕府は家康の積極外交から鎖国に方針転換した。(家光が単に外国嫌いであったという説もある)

幕府が鎖国に踏み切った直接の原因は、寛永14年(1637年)に起こった島原の乱である。この乱によりキリスト教は幕藩体制を揺るがす元凶と考え、新たな布教活動が今後一切おこなわれることのないようスペイン・ポルトガル勢力を排除した。

なお、布教を一切しないことを約束したオランダのみが、出島使用料に応じ唯一交易を許されたが、それは当時布教が熱心だったのはキリスト教のなかでもカトリックであり、プロテスタント国であったオランダにはその必要がなかったという側面もあった。

孝明天皇即位

1846年2月13日〜1866年12月25日在位

1853年 嘉永6年 

12代将軍 徳川家慶(いえよし) ペリー来航し将軍家慶ただ呆然。寝込んでしまいすぐ死亡。 

1853年3月6日 ジョゼッペ・ヴェルディ、歌劇「椿姫」(ラ・トラヴィアータ)初演(ヴェネツィア、フェニーチェ劇場)

ペリーの「黒船来航」

1852年11月24日、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー提督旗艦ミシシッピー号に乗り、一路アジアへ向け、ヴァージニア州ノーフォーク港を出港した。ペリー58歳の時のことである。艦隊は1853年1月10日にセントヘレナ島へも寄港している。ロードアイランド州、ニューポート市生まれのペリーは1837年にアメリカ海軍最初の蒸気船フルトン号の建造にも係わったことから、蒸気船海軍の父と讃えられる。

1853年(嘉永6年)アメリカの提督ペリーが黒塗りの軍艦(世に言う”黒船”)4隻=@旗艦サスケハナ号(2450トン)、Aミシシッピ号(1692トン)の2隻が蒸気軍艦、Bサラトガ号(882トン)、Cプリマス号(989トン)=を率いて江戸湾の入り口浦賀沖に現れ、修好通商を求める米フィルモア大統領の親書を浦賀奉行に手渡した。

一口メモ:サスケハナの船名はペンシルヴァニア州を流れるSusquehanna川からとられた。

ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号

嘉永6年、1853年7月8日に浦賀沖で日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。

7月12日:老中、阿部正弘はフィルモア大統領国書の受け取りを決断。

7月14日10時:浦賀奉行所近くの久里浜海岸に米艦隊の兵士300名が楽隊演奏と共に上陸。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も眠れず」という狂歌が読まれた。ちなみに<上喜撰>とは当時の玉露茶の商品名。濃いお茶であったため、たった四隻(杯)の外国蒸気船で国中が蜂の巣をつついたような騒ぎとなり夜も眠れないでいる…と揶揄している訳である。

7月17日:上陸から3日後、ペリーは江戸を離れ、香港に帰った。

プチャーチン来航

ペリーに遅れること1ヵ月半後、プチャーチン、ロシア極東艦隊を率いて長崎に来航

12代将軍徳川家慶病死

病床に付していて外交交渉も出来ない徳川家慶は、ペリーが再来を約束して去った僅か10日後に逝去(60歳)。
その後を継いだ13代将軍=徳川家定も病弱であった。(11月23日就任)

1854年 嘉永7年=安政元年(地震、黒船来航などの災異のため改元)

13代将軍 徳川家定(いえさだ) 黒船再来に将軍家定腰抜かし、ペリーに屈して日米和親条約。篤姫との出会いで心安らぐも命続かず。

ペリー艦隊、再来航

1854年(嘉永7年/安政元年)、香港で時を待っていたペリーが、再び来日した。
ペリーは旗艦@「サスケハナ号」以下9隻の艦船=A輸送艦「サザンプトン」(帆船)、B「ミシシッピー」、C最新鋭の蒸気艦船「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)、D「マセドニアン」、E「ヴァンダリア」、F「レキシントン」(以上、帆船)=を率いて江戸湾(東京湾)に終結。遅れてG「サラトガ」、H「サプライ」(いずれも帆船)が合流した。

ポーハタン号の雄姿 横浜開港資料館蔵

旗艦変更

前年浦賀へ初めて来航した時同様、ペリー提督は今回もサスケハナ号を旗艦として再来航した。しかし、このサスケハナ号はマカオに先発することとなったため、ペリー提督は新たに最新鋭艦、ポーハタン号(2415トン)を旗艦とし、日本との交渉を進めた。
この事実から、下田湾の遊覧船の名前はサスケハナ号よりはポーハタン号の方がふさわしいと考えられる。

日米和親条約締結

1854年3月31日、徳川幕府は、日米和親条約(神奈川条約)を結んで、下田と函館の開港を取り決め、下田港が直ちに開港された。

それは一発の砲弾も使用されることなく、徳川家光以来200年以上続いた鎖国の扉が世界に開かれた瞬間だった。日本開国の報せは全世界に伝えられた。

乾杯の語源〜下田奉行、井上清直(いのうえきよなお)の機転

それから91年・・・時代は大きく進んだ1945年(昭和20年)9月2日、東京湾沖に停泊した戦艦ミズーリ号の甲板で日本の降伏文書調印式が行われた。その時、戦艦ミズーリのマストに高々と翻っていた旗は、その昔、ペリー提督の旗艦「ポーハタン」号が浦賀来航の際掲げていた星条旗そのものであった。アメリカは日本の敗戦こそが第二の開国だということなのだろうか。当時、降伏式を見下ろしてはためいていたのがペリー提督の軍艦旗であると気がついた日本人は居なかったという。

ペリー艦隊下田へ移動

ポーハタン号を旗艦とするペリー艦隊は日米和親条約によって開港された下田港へ入った。

下田湾に於けるペリー艦隊の配置図

 

 下田市は日米和親条約が締結された新暦 3月31日を「下田開港記念の日」としている。

 外洋と接し、安全かつ容易に出入りが出来る下田湾を、当時ペリーは「天然にしてこれほどの良港は望めない」と絶賛した。

 

吉田松陰、密航未遂

吉田松蔭(25歳)と弟子の金子重輔は再来航した黒船に乗り密航するために初めは浦賀に行ったが、黒船に乗り込むチャンスのないまま黒船が下田に行ってしまったため、松蔭たちも黒船を追って下田に来た。

松陰は下田沖に停泊する7隻の艦影をめがけて漕ぎだし、暗夜の海の上、いるはずのないサスケハナ号を探して疲労困憊し、挙げ句にポーハタン号にもたどり着けず、船も刀も失ってようやくたどり着いた船でも相手にされず、仕方なく密航を断念、自首した。吉田松陰萬寄所

松陰が密航に失敗して、江戸に送られる途中、赤穂四十七士が葬られた泉岳寺に立ち寄った際、彼は一首の歌を詠み、自らの行動を赤穂浪士になぞらえた。
「かくすれば かくなるものとは しりながら やむにやまれぬ 大和魂」

柿崎の吉田松陰像は
今も遠く米国を見つめている

江戸送り後、郷里の萩の獄舎に監禁される。一時軟禁となり、松下村塾で教えたが、1859年江戸伝馬町の獄で処刑、30歳であった。しかし、門下からは、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋ら明治維新に活躍した人物を輩出、その思想的影響は後世に伝わった。

日米約定(下田条約)締結

横浜で締結した日米和親条約の細部を補填するため、下田に上陸したペリーは、早速、日本側と交渉を開始。その場所となったのが了仙寺である。協議の結果、嘉永7年5月22日、日米下田条約(日米和親条約付則13ヶ条)が結ばれた。この中で、アメリカ人は下田の街中を自由に歩く権利、すなわち「遊歩権」を与えられた。

 

了仙寺本堂正面に掲示される
 『安政元年(1854)ペリー提督黒船陸戦隊調練の図』

黒船のアメリカ人と下田の町民たちはそこここで異文化の交流を体験した。了仙寺境内で一般人を対象にした日本初の「洋楽コンサートの夕べ」も開催された。

下田は日本で初めて外国人が自由に町を歩けるところとなった。最初は夜を徹しての警戒網がしかれたが、やがて黒船は攻めてこないことが分かるや、黒船見物ツアーなるものが大ブーム。これがパックツアーの始まり?となった。ここから日米交流が始まることとなった。

日本人が、一度文明世界の過去および現在の技能を所有したならば、強力なライバルとして近代工業の成功をめざす競争に加わるであろう。
日本人は順応的であり、素直な人々である。彼らの国は、まもなく最も恵まれたる国々の水準まで達するであろう。

ペリー 日本遠征記

6月26日:ペリー艦隊下田を去る。

安政の東海大地震

1854年(安政元年)11月4日午前、マグニチュード8.4の巨大な地震が東海地方を襲った。
⇒ディアナ号大破 

11月27日、安政に改元

1855年 安政2年

長崎海軍伝習所開設

安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎県長崎市に設立した教育機関。

幕臣や雄藩藩士から選抜して、オランダ人教師によって西洋技術・航海術・蘭学・諸科学などを学ばせた。

勝海舟、榎本武揚、五代友厚らがオランダ人教官に海軍の基礎知識を学んだ。、

1856年 安政3年

将軍継嗣問題

島津斉彬は幕府の弱腰外交に対し、国防の充実が第一の急務である、この国難に対しては諸大名の意見をまとめられるリーダーが必要であるとし、水戸家出身で一橋家の当主であった一橋慶喜に白羽の矢を立てた。

島津斉彬一口メモ
松平慶永(福井藩主)、山内容堂(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称された。
アメリカから帰国したジョン万次郎を保護し、西洋式軍艦・昇平丸を建造し徳川幕府に献上した。
日の丸を日本船章にすべきだと献策し、同年に幕府に正規に採用された。以後、日の丸は日本の国旗となってゆく。

ハリス下田に到着

アメリカ初代総領事としてタウンゼント・ハリスが下田に到着。

■タウゼント・ハリス略歴
1804年 ニューヨーク州サンデーヒルに生まれる。
1846年 ニューヨーク市教育局長
1847年 ニューヨーク市立大学前身フリーアカデミー創設
1854年 清国寧波領事任命
1855年 日本駐箚総領事館に任命される。
1856年 玉泉寺に米国領事館を開設
1857年 江戸城にて13代将軍家定に謁見(えっけん)
1858年 日米修好通商条約14ヶ条を締結
1859年 公使に昇任
1862年 帰国
1878年 ニューヨークにて死去74才 
ニューヨーク、ブルックリンにあるグリーンウッド墓地に永眠する。

タウンゼント・ハリス総領事は通訳官ヒュースケンを伴い、米艦サンジャシント号で下田に着任した。玉泉寺には日本最初の米国総領事館が開設され、庭前に星条旗が掲揚された。 

玉泉寺は、日本で初めて牛乳が飲まれた地としても知られている。

唐人お吉秘話

1857年 安政4年

吉田松陰、松下村塾を主宰

松下村塾では時代を動かす数多くの人物を輩出した。高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一は松下村塾の四天王といわれた。なかでも高杉と久坂は村塾の双璧といわれる。ほかにも伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎らが松下村塾で学んだ。

1858年 安政5年

井伊直弼大老に就任

日米修好通商条約調印

重要文化財 日米修好通商条約

老中首座であった堀田正睦は下田奉行井上清直及び目付岩瀬忠震を全権委員に任命。駐日総領事タウンゼント・ハリスとの間で神奈川沖のポーハタン号上で調印した。
しかし、多くの大名が本条約の調印にあたって天皇の勅許を得るべきとの意見を表したため、勅許を求めたが失敗し、その間に大老に就任した井伊直弼は、未勅許のまま安政5年6月19日、調印を断行した。幕末の混乱期から明治初頭にかけ、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。 

本条約の主要点は、アメリカ公使の江戸駐在、江戸・大坂の開市、神奈川ほか4港の開港、自由貿易、片務的領事裁判の承認(治外法権)、日本の関税についても条約で定める(「関税自主権の喪失」)等であった。幕府はアメリカに続き、イギリス、フランス、ロシア、オランダの諸国とも同様の条約を結んだ(安政の五ケ国条約)。

将軍家定逝去

13代将軍、徳川家定(34)が逝去

島津斉彬病死

天保山の軍事視察を視察の後、島津斉彬急逝

安政の大獄始まる

大老井伊直弼の独裁政治に対するクーデター運動を力で弾圧したのが「安政の大獄」

井伊直弼が尊攘派に対しておこなった弾圧事件。公武合体の密勅が直接水戸藩に下り、幕府は、朝廷と水戸藩が組んで幕府に反逆を企んでいると解釈。この時から安政の大獄が始まった。

死刑・獄死

  • 吉田松陰………長州毛利大膳家臣

  • 橋本左内………越前松平慶永家臣

  • 頼三樹三郎……京都町儒者

  • 安島帶刀………水戸藩家老

  • 鵜飼吉左衛門…水戸藩家臣

  • 鵜飼幸吉………水戸藩家臣

  • 茅根伊豫之介…水戸藩士

  • 梅田雲濱………小浜藩士、獄死

  • 飯泉喜内………元土浦藩士・三条家家来

 

 

隠居・謹慎

  • 一橋慶喜………一橋徳川家当主

  • 徳川慶篤………水戸藩主

  • 徳川慶勝………尾張藩主

  • 松平春嶽………福井藩主

  • 伊達宗城………宇和島藩主

  • 山内容堂………土佐藩主

  • 堀田正睦………佐倉藩主

  • 太田資始………掛川藩主

  • 川路聖謨………江戸城西丸留守居

  • 大久保忠寛……江戸城西丸留守居

  • 中山信宝………水戸藩家老

  • 松平忠固………上田藩主

家茂第14代将軍に

将軍継嗣問題の結果、徳川御三家(紀州、尾張、水戸)の一つ紀州藩主徳川家茂が第14代将軍に。

一口メモ:紀尾井町とは当地に紀州家、尾張家、伊井家の中屋敷があったことから名付けられた。

1859年 安政6年 

14代将軍 徳川家茂(いえもち) 和宮を妻に迎えた家茂は、尊皇攘夷の嵐の中で粉骨砕身、哀れ21才で大坂城で頓死。

横浜港開港

最初に調印された日米修好通商条約では、神奈川・長崎・函館を1859年(安政6年)7月4日に開港することになっていた。この日はアメリカの独立記念日にあたる。次の日蘭条約もこれを踏襲したが、続く日露条約で7月1日とされ、日英条約もそれに従った。 
日仏条約では8月15日になっているが、これは当時のフランス皇帝、ナポレオン3世の誕生日にあたる。 結局、最恵国条款により、5か国すべてに対して、7月1日(陰暦の6月2日)に開港されることになったのである。

横浜市は6月2日を「横浜開港記念日」とし、横浜市立の小学校から高校までお休み。
函館市は新暦にあたる7月1日を「函館開港記念日」としている。長崎市は、6月2日を「長崎港記念日」としている。

下田領事館閉館

1859年(安政6年)5月、日米修好通商条約規定による横浜・神戸・新潟・長崎・函館の5港が開港されると、ハリスも江戸善福寺に移り、玉泉寺の総領事館は閉鎖された。

そして同年12月、日本の開国に大きな役割を果たした下田は閉港となり、元の静かな港町へと戻って行った。江戸に遠く、険しい天城山をひかえた下田が開港の港として栄えたのは僅か5年間のことであった。

吉田松陰 安政の大獄により「刑死」

松陰が江戸に送られた理由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜(小浜藩士・京で活躍した尊皇攘夷の志士。安政の大獄で逮捕者第一号となった人物)が萩で松陰に会った事を話したためだった。

江戸の評定所が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜と話した内容と、京の御所に文書を置いたのではないかという2点であったが、松陰の主張は受け入れられた。そこで、松陰は幕府に自分の意見を言う絶好の機会だと捉え、「間部詮勝要撃計画」をも告白してしまう。人間を絶対的に信用し、必ず自分の思いは届くはずだと考えた松陰ゆえの告白であったが、幕府評定所の役人は予想もしなかった老中暗殺計画に驚愕した。この時、松陰の命運は決まった。

安政6年10月27日、評定所から「死罪」が言い渡され、即日処刑が行なわれた。吉田松陰、30歳という若さであった。維新の先駆者となり、その死を持って門下生達へと強烈に引き継がれた松陰の想い、志は、後の世で大きく花開くこととなる。

私は今、国の為に死ぬ。
死すとも、藩主への忠義、父母への孝行を
尽くして、道に反することはない。
天地は永遠で果てしなく広い。
神様よ、私の行いの正しいことをご覧下さい。

著名な門下生には久坂玄瑞、高杉晋作(幕末の風雲児)、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文(初代総理大臣)、山県有朋(元帥陸軍大将)、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義(日本大学の学祖)、野村靖、飯田俊徳、天野清三郎、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎などがいる。

1860年 万延元年 

江戸城火災や桜田門外の変などの災異のため孝明天皇の強い意向で改元

咸臨丸アメリカに出発

長い間鎖国政策をとってきた徳川幕府は、海軍創設の必要性を痛感し、オランダ政府に軍艦を注文した。オランダ、キンデルダイクで建造された咸臨丸(長さ約49m、砲12門、3本マスト)は、安政4(1857)年、オランダを出港し、同年8月に長崎に到着した。そこで練習艦として使用され、勝海舟や榎本武揚など、わが国の近代化の礎を築いた俊英が育った。

安政5(1858)年に締結された日米修好通商条約の批准書交換のため、安政7年、米軍艦ポーハタン号に乗り日本の使節団が渡米した。このとき咸臨丸はその随伴艦として、軍艦奉行木村摂津守(せっつのかみ)を指揮官として派遣され、その中には、勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎などが乗り組んだ。図:咸臨丸難航図(木村家所蔵・横浜開港資料館保管)

安政7年1月浦賀港を出港した咸臨丸は、37日間の航海の後、サンフランシスコの湾頭に最初の日の丸をひるがえした。「咸臨丸出港の碑」は、咸臨丸がわが国の軍艦として初めて太平洋を横断した壮挙をたたえ、昭和35(1960)年に日米修好通商100年記念行事として建立されたもので、太平洋を隔てたサンフランシスコ市には、「咸臨丸入港の碑」が建立されている。

桜田門外の変

大老井伊直弼が水戸藩浪士らにより暗殺された。この事件により幕府は衰退していく。

3月18日 万延に改元

ヒュースケン殺害

アムステルダム生まれの米通訳官ヒュースケンが殺害された。
敬謙なクリスチャンだったハリスとは異なり、ヒュースケンは社交的で、下田滞在中には平滑川沿いの遊郭(現在のペリーロード)にも、時折姿を現したと伝えられている。

ヒュースケンは乗馬好きで、よく江戸城の周りを乗馬している姿が見られていたことから開国反対派の浪士たちの怒りに触れ、、善福寺への帰り道に、浪士たちの襲撃に遇い翌日死亡した。享年28歳、誕生日を目前にした非業の死だった。

1861年 文久元年 

辛酉(かのととえい)革命の年に当たるための改元
アメリカで南北戦争が勃発すると「サスケハナ号」はアメリカに戻り、大西洋封鎖艦隊に配属された。

武知半平太による「土佐勤王党結成」

文久元年(1861年)、一藩勤皇を掲げて坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成、2年後には192名が連判に参加。

文久2〜3年頃は武市半平太率いる土佐勤王党が、長州藩とともに京の政界をリードしていた。

1862年 文久2年

坂下門外の変

老中 安藤信正、水戸浪士に襲われ負傷。

皇女和宮  将軍家茂と結婚

岩倉具視ら公武合体派による「皇女和宮降嫁(こうじょかずのみやこうか)」⇒和宮は徳川家茂夫人となる。

孝明天皇は学問好きな性格で父の遺志を継いで公家の学問所である学習院を創立した。攘夷の遺志が強く、妹・和宮を14代将軍・徳川家茂に嫁がせるなど公武合体運動を推進し、あくまで鎖国を望んだ。

寺田屋事件(1)

薩摩藩主の父、島津久光が千人の兵を率いての異例の上洛。これを真木和泉ら尊攘派志士たちは、倒幕の為と煽動。これに応えようと有馬新七らは寺田屋に集結するが、久光により弾圧された。当時寺田屋は薩摩藩の定宿であった。

会津藩  京都守護職就任

江戸幕府においては京都所司代・京都町奉行が治安維持の任についていた。幕末の頃になると尊皇攘夷を叫び、幕府に反対する勤王・倒幕の志士による騒乱が横行しだした。所司代のみでは防ぎきれずと判断した幕府は京都守護職を新たに設け、幕府の威信、治安の回復をはかった。京都守護職に会津藩主、松平容保(かたもり)就任。

容保は初め一橋慶喜・松平春嶽からの再三の就任要請を断っていた。藩財政は既に浦賀、蝦夷地の警備の任にあったことで窮乏状態にあり、また、家臣も就任反対で意見が一致していた。しかし、春嶽が会津藩祖・保科正之の「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、遂に承諾した。任を受けた君臣は会津藩江戸藩邸にあって「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したという。

過大な財政負担を懸念しての慟哭であったろうが、後に、京都守護職の任務によって尊皇派の恨みを買った会津藩は戊辰戦争で最後まで抵抗せざるを得なくなり、藩都・会津若松で壊滅し、現実のものとなってしまった。

生麦事件  (英国人殺傷事件)

生麦事件之跡

京を後にした島津久光は兵を率いて江戸へ入り、幕府の人事介入をする。一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政治総裁職にすることに成功した。目的を達成し京へ引き返す途中、生麦村でイギリス人を殺傷する事件を起こした。

島津久光の大名行列が生麦村に差し掛かった際、横浜在住のイギリス人4人が乗馬のまま横切ったことを無礼とされ、斬られた事件。

英国側は4人が被害にあった場所 はイギリス人が遊歩することを許可された地区であったとして幕府と薩摩藩 に謝罪と犯人の引き渡し及び賠償金の支払いを要求した。これに対して幕 府は何とか穏便にと賠償金は支払ったものの、薩摩藩は犯人は不明であるとし て要求を拒否した。 このためイギリスは薩摩藩に報復すべく軍艦を派遣、翌年7月2日、薩摩湾で イギリス艦隊と薩摩藩船との激しい戦闘、「薩英戦争」が起こった。

●生麦事件の詳細を読む ⇒ 地歴公民科「街道を歩く4」生麦事件

●生麦事件参考館館長の講演を聞く ⇒浅海武夫館長の熱弁「生麦事件の歴史的意義」

 

高杉晋作 英国公使館焼き討ち

このころ、長州藩士の長井雅楽(ながいうた)が「航海遠略策」といわれる意見書を提出した。「航海遠略策」は、幕府と朝廷が一緒になって(公武合体)、開国を進め、海外に目を向けようという提案だった。ところが高杉たちが進めていた尊皇攘夷は、その反対で、天皇を尊敬し、外国、外敵を撃退しようという思想で長井らと激しく対立していた。

おだやかな解決を望んでいた仲間の桂小五郎たちは、晋作の行動に不安を感じ、晋作をいったん国外に出すことを思いつき、ちょうどそのころ幕府が募集していた上海視察へ、晋作を藩の代表として参加させることにした。

文久2年(1862年)5月から約2ヶ月間、高杉晋作は上海に滞在した。上海では、アヘン戦争に負けた影響で、欧米の植民地のようになってしまった悲惨な中国の姿があった。晋作は、このままでは、日本は中国と同じ運命をたどってしまうとの思いにかりたてられた。そして、この上海視察により、高杉晋作が将来進むべき道を決定付けることになった。

上海から帰ると、長州藩の方針は、「公武合体」から「即今攘夷」に転換されていた。即今攘夷(そっこんじょうい)とは、ただちに外国を撃退しようという思想。

晋作は、長州藩だけの尊皇攘夷運動組織を立ち上げた。当時、品川に建設中だった英国公使館に火を放ち、これをきっかけに長州藩対幕府の戦争を勃発させるという計画だった。この焼き討ちは成功し、英国公使館は炎上したが、このことを幕府がそれほど大きく取り上げなかったため、本来の目的である、「長州藩対幕府の戦争勃発」は、実現しなかった。結局、この計画は失敗に終わってしまった。

1863年 文久3年

新選組誕生

江戸で将軍上洛の際の警護役として200人余りの浪士が集められ上洛。(浪士組)
そのうち京に残った13人が京都守護職支配下におかれ新選組となった。

将軍家茂、上洛

将軍家茂は公武合体推進のため、三代将軍家光以来229年ぶりに上洛。
孝明天皇の加茂神社への行幸(攘夷祈願)に護衛役として.従うなどした。

長州藩、外国船を砲撃

幕府が指定した攘夷期限5月10日を受け、長州の久坂玄瑞らは馬関(下関)で外国船を無差別砲撃した。

しかし欧米艦隊により報復攻撃が始まる。壇ノ浦砲台、前田砲台は破壊された

高杉晋作  奇兵隊結成

この敗報により毛利藩主は高杉晋作に善後策を命じ、憂国の志があればだれでも参加できる奇兵隊が結成された。後に、奇兵隊は維新回転の原動力となっていく。

薩英戦争

生麦事件の報復として行なわれた薩英戦争。この戦争ではイギリス軍も薩摩の船を拿捕するが、薩摩軍もイギリス軍の旗艦ユリアラス号に多大の被害を与え、艦長を死亡させた。結局大勢としては イギリス側の勝利ではあったものの、死者の数はイギリス63名に対して薩摩はわずか17名だった。

この結果イギリスも「薩摩は良くやる」と敵を評価し、両者は急速に接近、維新への流れが加速。列強の軍事力を体験した薩摩藩は、これまでの攘夷論から開国論へと路線を転換していく。

8月18日の政変

孝明天皇(明治天皇の父)自らが倒幕のため大和行幸するとの計画にあわせ、倒幕を目的とした天誅組が大和五条に挙兵。しかし8月18日の政変により大和行幸は延期、挙兵は失敗に終わった。薩摩・会津・公武合体派公卿たちは8月18日、尊攘倒幕派の長州藩、長州派公卿を京から一掃した。三条実美を始めとする公家・公卿の「七卿落ち」

開国か攘夷か・・・いや倒幕だ!

1864年 元治元年

幕末の遣欧使節団、ピラミッド訪問

幕末、明治維新の4年前、遣欧使節団は、黒船(フランス等の外国船)を乗り継ぎ、上海−アデンを経由して1864年3月26日、エジプトに着いた。遣欧使節の一行27人のサムライ達はヨーロッパ各国に交渉に向かう途中、エジプトに立ち寄った。一行はスフィンクスまでロバで行ったという。

その交渉とは「横浜鎖港」。その「鎖港交渉」のために使節団が結成された。その正使(団長)に選ばれたのが、外国奉行で岡山井原領主の池田長発(ながおき)だった。

エジプトのスフインクスを背景にしたサムライたち。⇒

神戸海軍操練所設立

勝海舟は、弟子の坂本龍馬を塾頭に神戸海軍操練所を開設。広く人材を募った。

池田屋事件

京都三条木屋町の旅館池田屋で京都守護職=会津藩配下の新撰組が、潜伏していた長州藩の尊王攘夷派を襲撃した事件。池田屋事件をきっかけに長州藩はついに武力上洛を決定した。しかし、薩摩藩を中心とした連合軍に撃破され、朝敵の汚名を着る事となる。

蛤御門の変

京都御苑の周囲にある9門の一つ、天明の大火(1788年)の際に初めて開門されたことから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と呼ばれている。元治元年、長州藩は尊王攘夷派の勢力を取り戻そうと、兵を率いて京都に向かい、御所の近くの蛤御門付近で戦いになった。

禁門を守る一橋慶喜(徳川慶喜)は退兵を呼びかけるが、長州藩兵が、会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と衝突、尊皇攘夷を唱える長州勢は壊滅、来島又兵衛、久坂玄瑞(松下村塾)、寺島忠三郎らは戦死した。当時、京都守護職であった会津藩主・松平容保は薩摩藩と連携して、長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えていたのである。

禁門の変に於いて長州藩兵が御所へ向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行う。

戦闘の後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。この二箇所から上がった火で京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。

四国連合艦隊  下関を砲撃

前年からの、下関海峡での外国船砲撃の報復として、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四ヶ国の連合艦隊は馬関を砲撃。長州は完敗した。これにより長州藩の攘夷方針は完全に挫折した。

寄せ集めの四ヶ国連合艦隊に完膚なきまでに打ちのめされた長州は、以後政策を180度転換して欧米から新知識や技術を積極的に導入し、軍備を近代化してゆく。そして、前年に薩英戦争で英国に完敗して同じような近代化路線に転換した薩摩藩とともに、統幕への道を一気に進むことになる。

第一次長州征伐

幕府は勅命により、長州征伐を宣言。西郷隆盛の指揮する15万の兵士が長州国境に迫ったが、長州藩は毛利父子の謝罪、禁門の変の責任者を切腹、処刑するなどして降伏。戦わずして第一次長州征伐は終了した。

長州藩内は急進派(正義派)から保守派(俗論党)に握られることになった。

長州藩、幕府に謝罪

高杉晋作、功山寺で挙兵、馬関を占拠

謝罪恭順の弱腰長州藩上層部(俗論党)に業を煮やした晋作は12月、下関の功山寺で挙兵。馬関奉行所を占拠、続いて三田尻の海軍局を襲い三隻の藩船を奪った。 翌1月、絵堂・大田の戦闘で勝利し、俗論党を一掃、藩の実権を握った。

1865年 慶応元年 禁門の変や社会不安などの災異のための改元

亀山社中結成

坂本龍馬は神戸海軍操練所時代の仲間を核として、亀山社中を結成。我が国初のカンパニーが誕生した。

平時は海運・貿易業、有事は海軍として活動するもの。薩摩、越前などが出資した。

岡田以蔵斬首

5月11日、武市が切腹した同じ日に、岡田以蔵斬首。その首は雁切り河原にさらされた。

1866年 慶応2年

薩長同盟成立

坂本龍馬、中岡慎太郎の活躍により西郷、桂会談が実現。軍事同盟である薩長同盟が成立した。

寺田屋事件(2)

薩長同盟の設立を仲立ちした坂本龍馬を捕らえようと伏見奉行所の林肥後守忠交の捕り方が寺田を襲った事件。いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま龍馬に危機を知らせた。捕り方に踏み込まれた龍馬と三吉慎蔵は拳銃や手槍で応戦したが、龍馬は左右の親指を負傷。辛くも脱出して材木屋に逃れた。急を聞いた薩摩藩は川船を出し龍馬を救出。龍馬は九死に一生を得た。

第二次長州征伐

幕府は諸藩に第二次長州征伐を発令、10万余りの兵が長州の四つの国境に配置され攻撃した。しかし、長州軍は大村益次郎、高杉晋作の活躍により幕府軍に大勝した。

将軍家茂死去

慶喜、第15代将軍に

将軍家茂が大坂城で急死すると、あとを継げるものは、もう慶喜以外にはなかった。
再三固辞した慶喜だが、ついに15代将軍に就任した。

孝明天皇崩御

同じ年、在位21年の孝明天皇も、義弟、家茂の後を追うようにして崩御。享年35歳。

1867年 慶応3年 

14代将軍 徳川慶喜(よしのぶ)はあっさりと政権を朝廷に返しはしたが、その賢明さ、政治力は家康並み。

海援隊発足

土佐藩の後藤象二郎は薩長に後れを取っていることに焦り、坂本龍馬に望みを託した。
龍馬は私怨を捨てて後藤と手を組み、亀山社中は正式に土佐藩に属する組織「海援隊」となった。

大政奉還 倒幕の密勅降る

坂本龍馬の船中八策を基本にした大政奉還案を土佐藩が採用。幕府に建白書を提出した。
一方、徳川家が力を温存したままの大政奉還に反対する武力倒幕派の薩摩藩の大久保らは、倒幕の密勅を得るよう画策。
結果、10月14日、徳川慶喜は大政を奉還した。奇しくも同じ日、倒幕の密勅が出されていた。

坂本龍馬暗殺

11月15日、京都の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎は暗殺された。

王政復古の大号令

西郷、大久保に後藤象二郎、岩倉具視ら倒幕勢は御所を兵で固め、クーデターを決行。

王政復古の大号令が発せられた。ここに徳川慶喜を政治からはずした、新しい政権が誕生した。

1868年 慶応4年=明治元年 

鳥羽伏見の戦い (戊辰戦争始まる)

あくまでも倒幕を目指す薩摩藩の西郷隆盛の挑発に乗るような形で、幕府軍はついに大坂城を出て鳥羽・伏見に布陣。戦闘が始まった。この時、大久保、岩倉らが用意させた「錦旗」の登場で、幕府軍は朝敵となった。
朝敵となった幕府軍の士気は衰え総崩れとなり大坂城へ敗走。慶喜は兵を残したまま側近と江戸に帰ってしまった。

五箇条の御誓文

明治天皇(15歳)が京都御所で維新政権の基本方針「五箇条の御誓文」を発表した。

広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

江戸城無血開城

江戸に帰った慶喜は、徳川家存続を第一に考え、恭順の姿勢を示した。それでも西郷は武力倒幕の為、江戸城総攻撃を決意していた。しかし、幕臣山岡鉄舟の尽力で、勝海舟と西郷隆盛の会談が実現。西郷は江戸城の無条件開城などの条件で総攻撃を中止した。勝の「公のために」という必死の説得に西郷も応じ、江戸が戦火に巻き込まれることは免れた。

江戸を東京と改称

上野寛永寺にこもった1500人余りの彰義隊に、兵力不足の為、新政府軍(官軍)西郷は手を出せなかった。

代って大村益次郎が指揮をとり上野の山を囲み総攻撃、1日で彰義隊を壊滅させた。

明治と改元

明治天皇の即位による代始改元。

会津藩降伏

先頭の舞台は東北へ移り、会津戦争では白虎隊の悲劇を生み、会津藩降伏、若松城を開城

榎本武揚蝦夷へ

榎本武揚は旧幕府艦隊を率いて蝦夷を目指した。新政府とは別の新しい独立国を建設するのが目的だった。
箱館に上陸し五稜郭を占拠、松前城をおとし北海道を掌握し共和国建設に着手した。

1869年 明治2年

東京遷都

4月、官軍が上陸、戦闘を開始した。榎本海軍は制圧され五稜郭に篭城、抗戦を続けた。

このとき土方歳三らは、敵陣に斬り込んで壮絶な最後をとげる。

戊辰戦争終結

弁天崎砲台が陥落すると徹底抗戦は不可能になった。
5月18日、榎本武揚は降伏勧告に応じ、ここに五稜郭の戦い、戊辰戦争が終結した。


 

幕末以後の近代史

1887年(明治20年) 東京に初めて電灯が灯る
1888年 君が代を国家に制定
1889年 大日本帝国憲法の発布
1894年 日清戦争
1904年 日露戦争
1910年 韓国併合
1914年 第一次世界大戦
1918年 シベリア出兵
1923年 関東大震災
1925年 治安維持法公布
1931年 満州事変
1933年 国際連盟脱退
1934年 開港80周年を記念して
第一回黒船祭り開催
1937年 日華事変(盧溝橋事件)
1941年 真珠湾攻撃
1945年 ポツダム宣言受諾
1946年 極東国際裁判開始
1947年 日本国憲法施行(5月3日)
1961年 伊東下田間46キロの鉄道を完成

 

福井先生の「徳川15代物語」

棒暗記すると、すぐ忘れると思いますので、エピソードを付けて覚えておくといいと思います。例えば・・・・・・・

家康(初代) 家康に過ぎたるもの2つあり、唐の頭に本多平八

これは、「三成に過ぎたるもの2つあり 島の左近に 佐和山の城」のもじりで、インターネットにも出ています。石田光成のことを言っています。

秀忠(2代) 家康の命で向かった関が原。真田に手を焼く息子秀忠
家光(3代) 家光が発した鎖国令、ホントの理由は銀の流出。キリシタン禁令はついでの話
家綱(4代) 明暦の大火で江戸城本丸焼けぼっくい、慌てた家綱環境条例
綱吉(5代) 綱吉と柳沢で盛り上げた元禄文化、裏で泣いてる瑤泉院と赤穂義士
家宣(6代) 家宣は新井白石登用し江戸のお城は学問所、ところがどっこい大奥内部は華の舞
家継(7代) 家継の御世「絵島と生島のスキャンダル」、大奥女性のバトル凄まじ
吉宗(8代) リストラ断行暴れん坊将軍吉宗公、大奥から選り抜き美女らを解雇する
家重(9代) 将軍は過度の女色と酒浸り。白痴同然の家重を世人はAnpontan(アンポン丹)と呼ぶ
家治(10代) 老中田沼意次に権力集中し賄賂はびこる。将軍家治、書画骨董でのんき三昧
家斉(11代)

寛政の改革で老中松平定信が綱紀粛正図るも、家斉ちゃんはすっごい遊び人。
子供と奥さんの数は半端じゃないエロ親父

家慶(12代)

ペリー来航し将軍家慶ただ呆然。寝込んでしまいすぐ死んじゃった。
老中水野忠邦打つ手なし

家定(13代)

黒船再来に将軍家定腰抜かし、ペリーに屈して日米和親条約。
篤姫との出会いで心安らぐも命続かず

家茂(14代)

和宮を妻に迎えた家茂は、尊皇攘夷の嵐の中で粉骨砕身、哀れ21才で大坂城で頓死する

慶喜(15代) 慶喜はあっさりと政権を朝廷に返しはしたが、その賢明さ、政治力は家康並み

 

福井先生よりのメール

日米和親条約調印150周年に寄せて

2004年、日本では日米和親条約調印より150周年を迎えます。
1854年(嘉永7年※)は、日本が徳川幕府になって1639年以来およそ200年間続けた鎖国政策を放棄し、 開国した年です。
2004年は、いわば日本開国150年周年ということになります。
 (※嘉永7年の11月27日、安政に改元)

泰平のねむりをさますしょうきせんたった四はいで夜も寝られず
「しょうきせん」は正喜撰という高級なお茶で、蒸気船(黒いので黒船)とをかけたものです。
いいお茶を4杯飲んで目がさえて眠れない、というのと4隻の軍艦が来て心配で夜も寝られないという意味を含んでいます。
これは当時の川柳といわれますが、後世の作のようです。当時の人は眠っているとは思っていませんでした。

アメリカのペリー提督は当時最新の蒸気船の軍艦4隻を従えて、横須賀の浦賀に来航し、開国を迫りました。
(捕鯨船の寄港地、また中国航路への補給基地としたかったようです)
翌年春、再び7隻の軍艦で来航したペリーに、幕府はもう逆らえませんでした。
もし拒んでいたら、イラクみたいに江戸城までアメリカ軍に制圧されていたかもしれません。

この和親条約にもとづき伊豆の下田港を開港し、下田にハリス領事が乗り込むことになります。
下田の黒船祭は、2004年5月に開港150年祭を行います。ちなみに江川太郎左衛門英龍(坦庵)が、伊豆の韮山に反射炉の築造をはじめたのも150年前の嘉永7年です。
ところがこの和親条約が京都の天皇の許しを得ていないというので、 尊王攘夷(天皇を尊び、外国を撃て)の志士が怒りました。
江戸時代の当時、国学という日本の国柄を研究する学問が起きていました。
「日本は天皇を中心とするべき国だ」と、徳川の御三家のひとつの水戸藩までが言い出したわけです。

そうした考えを拠点として、志士の幕府攻撃が始まりました。
結局幕末の騒動があって、徳川幕府は天皇に政権を返上し(大政奉還)、天皇を担いだ薩長土肥の連合軍が明治政府をつくりました。
日米和親条約からは日本激動の20年。 条約の10年後には、独断で外国船に砲撃を加えた長州藩(山口県・志士の本拠地のひとつ)が、 英仏蘭米の四国連合艦隊に攻撃され降伏するという事態も起きました。

日本開国150年、これをどう見るか。150年前の開国を第1の開国、太平洋戦争(大東亜戦争)以後を日本の第2の開国とする見方もあります。
サンフランシスコ講和条約が発効し、日本の主権が回復した1952年4月28日を第2の開国とすると、今年は52年となります。